西尾幹二のレビュー一覧
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読めば読むほどアメリカが嫌いになる。
アメリカ=強欲を良いこと言ってるようにいいかえて、ゴネて押し切ろうとする我が儘国家。第一次大戦の後すでに「国際警察」気取りの様子が見えていた。
アメリカと中国は、欲深な似た者同士で仲良し。中国は小国日本がいることが面白くない。(でも支那人は治安の良い満州国に流れ込んできたり租界に入りたがる。)アメリカは中国の市場に入りたいが日本が邪魔でひたすら反日、抗日を後押し。
日本とイギリスは一応同盟を結んでいたものの、アメリカが強くなってくると、イギリスにとって日英同盟は邪魔になった。ワシントン会議では英米シナで日本叩き。
もう読んでて辛くなる・・・。
今はきっと右寄りな本だと言われる内容かもしれないけど、こういう流れがあった事は一応知ったほうがいいと思う・・・。
アメリカと中国の力が弱くなれば、やっと独立できそう・・・。これから日本がホントの独立に向かう時なんだなと。アメリカと中国、早くドボンしてくれ、早く早く・・・。 -
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ちょっと!ちょっとまって!!怖すぎる!!
この本は2012年に出てて、今は2026年
国会議員にも帰化人、親中いっぱいいる!
日本危ない!(今更だけど・涙)
読んでいて、付箋だらけになってしまった。
アメリカとロシアと支那の侵略の仕方の違い
・皮を剥ぐアメリカ(資本による侵略)
・肉を食らうロシア(武力による侵略)
・骨の髄に喰い込む支那(民族移住的な侵略)
なるほど!アメリカはドルを基軸通貨にしたし(怪しくなってきたけど)、ロシアはウクライナでやってる。
支那は移住してきて、商売や土地購入し、現地の人と結婚する。
支那人の古来の発展は民族的で、国家に関係なく支那民族が発展する。
血縁・同郷で集まり町を作ってしまう。支那民族の発展は平和的だが極めて深刻。
中国人は世界のどこに行ってもいるって言うよね。海外に行って日本食が恋しくなったら、とりあえず中華屋を探すと「ハイパーハードボイルドグルメリポート」の上出遼平 さんが言ってた。
そして毛沢東は、もし中国に原爆が落とされて人口が半分になっても、何年後かにはまた元の人口数に戻ると言っていたとか。まるで白アリじゃあないか・・・
内田良平の「支那観」
1.平気で嘘をつく
2.平然と恩人を裏切る
3.歴史事実を故意に改変する
4.約束を守らない
5.身内。仲間は大事にするが「外部」騙す
6.敵を分断し陰謀を常に仕掛ける
7.自分本位に思考し、自己利益のみを追求する
8.社会構造が「聖人主義」であり、平等思想を認めない(支配する者とされる者の区別がはっきりしている)
9.その地位に就いたものは地位を利用して私腹を肥やす。
日本国民の対中認識また対中行動
1.中国問題で常に国論が二分する
2.一部で「孔子が出た国」として、外国(異文明国)と思えず、思い入れたっぷりの情緒的な中国観を持つものが出る
3.文学と現実(特に政治)を混同して「美しい誤解」をする。あるいは、「信じたがる」者が出る
4.裏切られても、騙されても、譲歩すれば中国も應分の譲歩をしてくれると信じている
日本 イタイなあ・・・。
GHQは大量の「支那」「北支」「日支」と「支」の入った図書を焚書にした。
邪魔な日本を排除して、中国市場を手に入れたかったのかも。
過去のシナのやり方を見習って、
日本に住み続ける不法な外国人には強制的な同化政策をしたほうが良いのでは。
従わない人には強制送還で。
でも一番悪いのは日本政府。
中国は、これからも反日・排日をやり続ける。
100年前にやってて、今もやってるんだからこれからも繰り返し続く。
中国とはそうゆう国。
隣国辞めたいけど、日本国ごと移動できないし。
これを機に、日本も常に危機感もって進んでいかなくちゃ。
日本が今後強固になるために嫌な隣国・中国があるのだと思えば良いのか?
政治家の必読にしてほしい。
これと一緒に「暗黒大陸・中国の真実(ラルフ・タウンゼント)」もセットで。 -
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2を読んだので3を
「一等兵戦死」は自分が初めて読んだ焚書だけと、なんでこの本が焚書になったのか分からない。日本人は残忍な奴だと嘘宣伝流布するのに邪魔だった?戦場に行った兵士達の日常が書かれてて、歴史的事実として知っただけでは感じない生身の人間がそこに行って実際に戦ったという事実を感じることが出来た気がする。もう亡くなった有名著者と本の中で会うような感じ。
「敗走千里」 当時の中国兵の実態の話。陳登元はなんで偽名で物語風に書いたんだろ。そこがなんか狡い。
日本はおせっかいな国だな・・・。
中国内は争いばかりだから租界に行きたいなんて、今やってることと同じじゃないか・・・。
菊池寛の「大衆明治史」
この焚書、読んでみたい。現代語訳出してくれないかな。教科書で知っただけの内容の中身を実感出来た感じ。
廃藩置県で侍たちはどう思ったか。
維新前は侍=特権階級=官軍であり他は平民あったが「四民平等」になったからには侍も農民も商人も「国民皆兵」となり国を守らなくてはならないことを意味していた。
不平等条約を撤廃してもらおうと交渉したが叶わなかった。(アメリカ、腹が立つな・・・)
とても勉強になった。 -
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1を読んだので2を。
読んでいて だんだん腹が立ってしまった。
西洋諸国の欲深な覇権争いにムカついてしまった。
ひたすら侵略しまくることしか考えてない。
侵略、征服、虐殺、略奪、奴隷・・・。
もう地球という劣等生の星は核戦争でも起きて日本人も含めて人類滅亡してしまえばよいと思ってしまった。
ユダヤ富豪も貧乏人も、みんな平等に死んでリセットしてしまえばいいような気がした・・・。
400年かけて、欧米諸国は太平洋の島々を征服。
スペインとポルトガルが地球を東西に分けようとしたところ、ユーラシア大陸を南北で取り合おうしたのがイギリスとロシア。四方向から狙われる日本。
林子平が欧米諸国の世界侵略構想に気が付き幕府に訴えても取り合ってもらえず、鎖国中の日本は平和ボケしていた。
またもや今の日本と同じじゃないか。
(先日の総裁選でちょっと方向が変わったかな)
アメリカの日本への横暴もムカついてしまった。
(今も続いてるけど・・・。)
日本の弱腰外交も腹が立つ。
フランスもアメリカも蒋介石援助してるし。
大東亜戦争で日本は敗戦したけども、
戦争しないで白旗を上げていたら、
今の日本は無かったのかもしれない。
欧米の植民地支配がずっと続いていたかもしれない。
自分は何で今頃、この本読んでるんだろう。
もっと早く出会いたかった。 -
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今まで歴史に興味が無くて、世界史すら取ってこなかったことを後悔・・・。
焚書の事を知ったのも数年前で、知りたくて読んでみました。
戦前・戦中の文章を見ると昔の人は頭が良いなと思っていたけれど、
焚書によってその頃の様子を学ぶことが出来てない今の日本人(私も)は浅はかなのかもしれないと思いました。
中国が南京大虐殺を大々的に宣伝してますが、紹介されている「征野千里」を見ると、中国兵が逃げるときに自国兵を殺して逃げたのであって日本が虐殺したのではないようです。
以前「一等兵戦死」を読んだけども、やっぱり同じような様子が書かれてました。しかも、自国民の妊婦さんすらひどい殺されかたをしていたと書かれてました。
中国は息するように嘘をつく人々なんだと今は分かりましたが、そのようなデマの宣伝戦を始めたのはイギリスで、第一次大戦の時イギリスがドイツ軍の蛮行を非難する写真をでっちあげて始めたそうです。それを信じたのは「雷同性に富んだアメリカ人」「どこの国にもある変質的インテリにより成る平和団体、婦人団体、宗教家、大学教授」たち。 今の日本と同じじゃないか・・・。
そういったことは、大東亜戦争中、そしてその後にもアメリカに不利になるような事実は伏せられ「日本は悪」という宣伝を広めたようです。
そしてイギリスのえげつないインド統治。インド独立を訴えた人達は、インドの人々から搾取した費用で制圧されるされるという・・・。(日本政府はワクチン製造のために製薬会社に補助金(支援金?)出してるけど、自分たちの税金で注射を作りその注射を推進して自国民を殺そうするという税金有効活用・・・。)
イギリスはアメリカに囚人を送っていたがアメリカが独立(自分の勉強不足でアメリカが最初流刑地から始まったということも知りませんでした)。アメリカ独立で迫害を受け行き場を失った王党派がオーストラリアへ。イギリスは囚人の送り先に困り、次は南アフリカに送っていたがオーストラリアに変更。イギリスって勝手な国ですね・・・。オーストラリアは自由移民と囚人と原住民から始まっていた。その後囚人はオーストラリアではなくタスマニアに送られるようになる。そしてオーストラリアとタスマニアでのホロコースト。オーストラリアでの白豪主義は日本の「人種平等案」をアメリカとともに潰す。
こういったことを義務教育内で少しでも触れることが出来ていたら、
今の日本も少しは違っていた?かもしれない・・・。 -
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ばりおもろい。
ニーチェの哲学的熱情を駆り立てたショーペンおじさんの主著であり、二十世紀の西洋思想を語る上で特に重要な一冊。
時間と空間の考察を読むあいだアインシュタインの相対性理論が脳内をチラチラしたが、案の定アインシュタインはショーペンハウアーを深く敬愛していたらしい。
科学的努力とは世界の仕組みを理解するのに欠かせないが、我々人間という意識主体を説明するのには不十分で、そこには「哲学」や「思想」が必要になる。
主観と客観は表象によって統合されていて、我々の無方向で盲目的な意志だけがあるのみ。
人の根源的な欲動性や力の偏在を認めるあたり、その後出てくるフロイトやニーチェの思想にも接近していく。
まさに二十世紀を生み出す礎石としてのドイツ哲学。
これからが楽しみ。 -
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最終巻となる本書には『意志と表象としての世界(正篇)』の第四巻「意志としての世界の第二考察」および序文が収められている(付録の『カント哲学の批判』は収録されていない)。
第四巻の冒頭でショーペンハウアー自身がおごそかに宣言しているとおり、『意志と表象としての世界(正篇)』のクライマックスである本書では、生(性)と死、善と悪、などといった倫理的な問題が集中的に論じられている。ショーペンハウアー哲学に対する「性と死の哲学」という形容は、この第四巻のためにあるといっていい。
世界は私の表象に過ぎず、知性は意志の奴隷に過ぎない。その知性が意志に対し謀反を起こし、芸術という形で脱却する可能性が第三巻において明らかにされた。だがそれは天才において、しかも一時的に発生する束の間の夢でしかない。知性が永続的に意志から解き放たれる可能性はないのだろうか。
意志の否定。それがショーペンハウアーの回答である。意志に翻弄され苦痛を味わい尽くし、最終的に意志を否定する境地にたどり着くこと。それが解脱であり、悟りへの道である。だがそれは自殺ではない。自殺とは意志の強烈な肯定でしかない。意志が否定された暁には、私は夢から覚め、世界は無に帰することであろう――。
預言的な内容を含む本書は、事実宗教と、とりわけ仏教(インド哲学)との親和性が高い。だがショーペンハウアーは預言者としての道は歩まない。哲学者は聖人である必要はないからである。本書を読んだニーチェがやがてツァラトゥストラとなり、意志の肯定を説くことになるのとは対照的である。
ダイナマイト・ニーチェの導火線に火を点けた本書を読まずして、ニーチェ哲学の理解は覚束ないであろう。これなくして哲学者ニーチェは生まれなかったであろう本書を、ニーチェ研究家の西尾による名訳で読めるわれわれ読者は幸せである。 -
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本書はショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界(正編)』の第三巻に相当する(第四巻の一部も含まれる)。「表象としての世界の第二考察」は芸術論であり、ショーペンハウアー哲学の最も個性的な側面といえよう。
世界は私の表象に過ぎず、その表象を認識させている知性は意志の奴隷に過ぎない。しかしこの知性が異常に発達した人間、すなわち天才においては、例外的に知性が意志の支配から脱却することがある。そのとき知性は世界を客観的に映す明澄な鏡となる。かかる過程を経て生産されたものが芸術作品であり、天才の業である。
ショーペンハウアーの芸術至上主義が遺憾なく発揮されている本書では、空間のみを形式とした建築、時間のみを形式とした音楽、その他ありとあらゆる芸術(彫刻、絵画、詩、等々)が俎上に載せられる。だがショーペンハウアーが最も高く評価するのは音楽である。音楽こそは、時間以外のあらゆる狭窄物を取り去った、生のままの意志に最も近い芸術様式であるという。
「意志」から解放された客観的な世界の認識にショーペンハウアーが肯定的な価値を付与するのは、やはりそこにプラトン的なイデアの把握を見て取っているためであろう。「意味」を剥奪された「物自体」の認識については、例えば漱石が「発狂」「自殺」「宗教」の三つの可能性しか認めなかったり、あるいはサルトルが『嘔吐』を書いたりといったように、むしろ否定的な解釈が多いことを考え合わせると興味深い。
ショーペンハウアー哲学がアカデミズムの世界よりもワーグナーやトルストイ、トーマス・マンなどといった芸術家たちによって高く評価されたのも、この芸術論があってこそであろう。第一巻・第二巻とは隔絶した明朗な哲学世界に、読者は魅了されるに違いない。 -
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ニーチェに影響を与えた実存主義哲学者として、ヘーゲルと犬猿の仲だった在野哲学者として、数々のアフォリズムを残した厭世哲学者として、間接的に名前だけは知られているショーペンハウアーを、直接読もうとする読者があまりにも少ないのが残念で仕方が無い。これほど分かりやすく、面白く、魅力的な哲学者は滅多にいないというのに。
ドイツ本国でさえ発売当時見向きもされなかった『意志と表象としての世界(正篇)』の難点は、ショーペンハウアー哲学の独創性が遺憾なく発揮されている第三巻と第四巻が、その前置きに過ぎない第一巻と第二巻の背後に隠れている点であろう。その第一巻と第二巻が収められた本書は、ショーペンハウアー哲学の理解にとって避けては通れない鬼門であるとは言える。
しかしながら内容は決して難解でも退屈でもない。「世界は私の表象である」の一文で幕を開ける第一巻「表象としての世界の第一考察」は、その名のとおりわれわれが認識している世界の哲学的分析に終始している。第二巻「意志としての世界の第一考察」で論じられる「意志」は、ショーペンハウアー哲学最大のキーワードであろう。それを神の言い換えに過ぎないと断ずる評者もいるようだが、時間・空間・因果性によってフォーマットされる以前の世界をあえて「意志」と名づけた辺りは、感情によって世界が形成される実存主義哲学の先駆ともいえ興味深い。
『意志と表象としての世界(正篇)』はショーペンハウアーの主著であり、邦訳はほかに白水社の全集版と理想社版があるが、入手のしやすさと分かりやすさでは西尾幹二訳の本書が群を抜いている。このまま忘れ去られてしまうのはあまりにも惜しい、特に若い読者に読んでもらいたい古典的名著であり名訳である。 -
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ネタバレ普通人にとって認識能力とは、自分の実生活上の道を照らしてくれる提灯であるが、天才にとってのそれは、世界を明らかにしてくれる太陽である。p46
「草木はこの世界の仕組みが目に見えて美しいかたちをなすよう、感覚に対しその多様な形態を提供して知覚に役立ててくれる。草木は自分では認識することができないから、いわば認識されることを欲しているようにみえる」(聖アウグスティヌス『神国論』)p91
純粋に後天的(アポステリオリ)には、つまり単なる経験だけからでは、いかなる美の認識も可能にならないであろう。つねに美の認識は、先天的(ア・プリオリ)である。それはわれわれにア・プリオリに知られている根拠の原理の形態とはまったく違った種類の認識ではあるが、少なくとも部分的には、美の認識はア・プリオリなのである。p123
人間の美とは、意志の認識可能性の最高の段階における意志の完全な客観化である。p126
真の詩人の叙情詩のうちには、人類全体の内心が写しとられ、過去、現在、未来に生存する幾百万の人間がいつの時代にもくりかえし出会っていた似たような境涯で感じたこと、またこれからも感じるであろうことは、真の詩人の抒情詩のなかに、適切な表現を得ているといえる。幾百万の人間が置かれてきた境涯は、またこれからも休みなく繰り返され、人類そのものと同じように恒常的な境涯としてありつづけ、つねに変わらぬ同じ感情をよび起こすものであるから、真の詩人の叙情的作品は、千万年を貫いて真実で、感化を与え、またつねに新鮮である。なんといっても詩人とはそもそも普遍的な人間のことだからである。いずれかの人の心を動かしたこと、いずれかの境涯で人間の本性から生じたようなこと、いずれかの場所で人の胸に棲みつきしだいに大きくふくらんでいったこと―これらはすべて詩人のテーマであり、詩人の素材である。p187
意志は個体のかたちで現象するが、個体の死後も意志は相変わらず生きつづけているのであって、別の個体のかたちをとって現象しつづけるのであり、ただ後の方の個体の意識が前の死んだ個体の意識となんらつながりをそなえていないだけである。p217
ヴェーダでは次のように表現されている。
人が死ぬと、その人の視力は太陽と一つになる。その人の嗅覚は大地と、味覚は水と、聴覚は大気と、言葉は火と一つになる。p275(脚注)
わたしの見解では意志こそ第一のもので、根源的なものであって、認識はあとから意志に単に付け加わったものにすぎないのであり、意志の現象にその道具として帰属しているものが認識である。それゆえいずれの人間も、そのあるがままの相は、意志からこれを得たのであって、意志の性格が根本であり、意欲はその本質の根底をなしているからである。これに認識が付け加わるにつれて、人間はだんだんに経験を重ねていくうちに、自分が何であるかをやがて知っていき、すなわち自分の性格をわきまえるようになっていくだろう。つまり人間は、意志の結果として、また意志の性能に応じて、自分を認識するのであって、古いものの見方にもあるように、認識する結果として、また認識に応じて、なにかを意志するというものではそもそもない。p290-291
→古い見方では、人間は認識したものを欲するというのであるが、わたしの見方では、人間は欲したものを認識するのである。
スコラ哲学者「究極原因はそれが実際に何であるかに応じてではなく、それがどう認識されているかに応じて作用する」(スアレス『形而上学論議』)p296
エピクテトス「人間の心を乱すのは事物ではなく、事物についての意見である」p306
意志はそれ自体としては、現象を離れたときには、自由であり、いな、ほとんど全能というべきであるが、認識によって光を照らされた意志の個々の現象、つまり人間や動物においては、意志は動機によって規定されているのであって、この動機に対し(人間や動物の)そのつど異なる性格が反応するが、反応の仕方はいつも同じで、合法則的であり、必然的であるということがこれまでの考察でわかったのである。p309
享楽であれ、名誉であれ、富であれ、学問であれ、芸術であれ、美徳であれ、それらのいずれかを求めようとする一定の努力は、われわれがその努力に関係のないあらゆる要求を捨てて、また他のあらゆるものを断念したあかつきにのみ、ほんとうに真剣に、そして上首尾に追求することができるものなのである。p316
[就活や、将来について、有益なアドバイス]p317
単に、やってみたいという意欲があるとか、やればできるという能力があるだけではまだ不十分であって、人間は自分が何をやってみたいかと欲しているかを知っていなければならないし、やれば何ができるかを知っていなくてはならないのだ。かくてはじめて彼は性格を示すことになろうし、そのあとでようやく彼はなにか正当なことを成し遂げることができるであろう。そこに到達するまでには、彼には経験的性格の自然な帰結がそなわっているとしても、まだ無性格である。で、彼は大体において自分に忠実な人で通し、自分の魔神(デーモン)に引かれつつ、おのが進路を一目散に走り抜ける人に相違ないとわかっていても、それでも彼は真一文字の線を描くことはなく、震えた不揃いな線を描き、動揺したり、横にそれたり、後戻りしたりして、後悔と苦痛のたねを蒔くことになろう。こうしたことはすべて、人間におこない得ること達成し得ることは大なり小なり多数あることを現に目前にしていながら、そのなかで自分にだけ適するものは何であるかを彼が知らないために起こることなのである。
オウィディウス「心を惑わす苦しみの絆をひと思いに断ち切る人は、魂の最良の救い手である」(『恋の葉』)p324
満足はつねに新しい努力の起点であるにすぎない。努力がいたるところで幾重にも阻止され、いたるところで戦闘しているさまをわれわれは目撃する。かくて、そのかぎりでは努力はつねに苦悩である。努力の究極の目標というものはなく、それゆえ苦悩にも限度や目標はない。p330 -
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現在我が国は米国と軍事同盟を結んでをり、さういふ意味ではいたづらに反米を煽ることは得策ではない。
しかし、大東亜戦争の遠因が遡ればペリー来航にあったといふこと、そして支那大陸を目指す米国にとって日本は邪魔者として立ちはだかってゐたこと、また、アメリカはマニフェスト・デスチニーといふ強迫観念に囚はれてゐたことなどは、覺えて置くべきであらう。
そして、歴史を見れば、永遠の同盟などあり得ない、それは日英同盟がアメリカによって壊されたことを見ても明らかであらう。
だからこそ、我が国は我が国で自らの身を守らねばならない、といふ、当たり前のことに思ひ至るのである。 -
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二年前に発刊された「尖閣戦争」の第二段。
中国情勢に精通したジャーナリスト青木直人さんと、博識な評論家、西尾幹二さんの対談ということで、楽しみに予約購入していたのに、なんだかんだでずるずると積読……
ようやく読み終えることができました。
あいかわらず、青木さんの何者にも寄りかからず、こびず、遠慮せず、気兼ねのないずばりとした発言は刺激的です。
そして穏やかそうでありながら、ぴりりとした西尾さんの発言もずしりと脳みそに響きます。
中国の政策やアメリカの思惑などなど、不安やいら立ちを覚える記述がいくつも出てきますが、なにより問題だと思うのは日本政府や一部財界人、言論人などの身勝手さ、いい加減さ、軟弱さ、平和ボケさなどなどです。
宮脇淳子さんもおっしゃっていたが、結局突き詰めれば何事も日本の問題なのでしょう。
帯にでかでかと書かれてあるように、「ひるむな日本。最後は勝つ!」という言葉を信じ、これからも勉強を続け、行動すべきところは行動する勇敢さを持っていきたいものです。 -
Posted by ブクログ
愛、生と死、正義、自己肯定、虚無。ショーペンハウアーの説明はなんとも清々しく感じる。
読んでいて、「そうだ、そういうことなのだ」と自分の内奥に通ずる思いを感じるのだ。
我が意を得たり。あやふやで悩んでいたことへの理解を与えてくれたことに感謝しよう。
愛とは無償の献身であること。
友情とは自己愛と同情の混合であること。
泣くことは他者への同情を介した、自分への同情であること。
永続する幸福など無いということ。
性欲は生を肯定し、死もまた生の一部であるがゆえに生を否定するものではないということ。
真に正義である人は、自分を肯定し、他人を支配せず、自分の受けた分だけ他人にも施そうとする。
なんと自立していて格好いいのだろう。
自分自身を肯定するがゆえに、それが成し得ない状況において、自殺という方法以外に自身の肯定を貫く方法がない。
自殺についての納得いく説明。だからといって本当に自殺していいわけではないのだが。
「意志を還元なまでになくしてしまった後に残るところのものは、まだ意思に満たされているすべての人々にとっては、いうまでもなく無である。しかし、これを逆にして考えてみれば、しでに意思を否定し、意思を転換し終えている人々にとっては、これほどまでに現実的に見えるこのわれわれの世界が、そのあらゆる太陽や銀河をふくめてー無なのである。( 244P)」
たしかに、「無」とはそういうものかもしれない。