西尾幹二のレビュー一覧
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ネタバレショーペンハウアーが多くの芸術家から支持されたのは当然とも言える。
なぜなら、ショーペンハウアーが登場する以前の時代から、もしかしたらペシミズム(厭世観)という言葉が登場する以前から、絵画、音楽、詩など様々な形で、芸術家たちはこの世が苦しみや悲しみで満ちていることを描くことを試みてきたのだから。
そして、さまざま芸術の中にイデアを見出し、伝達しようとする試みも、芸術の作り手たちが考えてきたことだからこそ、共感を得たのではないかと思う。
悲劇が、人物の特性を遺憾なく発揮し、人間の心情の深さを開示するという点で、詩芸術の最高峰というのはまさに言い得たことだろう。人間の本質は楽なとき、喜びに満ちているときより、苦しみ悲しむときこそ現れるものだから。
しかし、死が排泄物と同じとは。排泄物を悲しむことがないように、死の場合にしても恐れおののく理由はなにもないということなのだけど。さすがにこれについては他の表現をして欲しかった。
ショーペンハウアーは芸術論において人間の「生」について語り、その対極である「死」についても語る。
死に対する考えや行動を美化するのでもなく、卑下するのでもなく、あまりにも率直にその姿を描いている。
苦しいからといって自殺しても得るものはない。
常に死の恐怖に触れているわけではない。
死を自分の意識の中に入れようとしない。
うつ病や自殺を考えている人などに、ショーペンハウアーを読ませるなというのは、かえって路頭に迷わせるように思える。
むしろショーペンハウアーやウィトゲンシュタインを読ませ、生きること、悩むこと、そして死とはなにかを自分で考える時間と力を与えるべきではないだろうか。 -
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ネタバレ私たちは、自分が「享楽的消費社会」の只中でその『自由』と恩恵を享受しながら、収入、生活、老後などの様々な問題で身動きが取れない『孤独』を感じざるを得ない。
水がどのような形であっても、その本質を表すことに変わりないように、人もまた、どのような場合にもその本質が現れることをショーペンハウアーは述べている。
しかし、2012年の現実は、どの場合に誰かが作ったレッテルを貼られ自分の本質で内容に感じられてしまう。
今こそ、自分の好む、好まざるの思想を超え、新しい考え方、生き方を見ようとしなければ。
そのヒントを与えて食えるかもしれないと思える本である。 -
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戦前の愛国心を盛り立てるような、熱に浮かされたような国家主義を説いた焚書の紹介。あまり現実的ではない理想だけの国家主義。日本的国家主義の甘さはリアリズムの欠如と西尾さんは言っています。今の日本人が読むと??ってなる。行き過ぎた国家主義は良くないけれど、最近は外国人労働者受け入れの問題や日中関係の問題で日本を大事に思う雰囲気があって、日本再生なるかと期待。
気になったところ
建国の三大網
・養正(正義を行う「義勇の徳」)→勇気は養うもの
・重暉(闇を取り除く文化の新しい「知恵」)→知恵は重ねるもの
・積慶(仁徳)→仁は積むもの
・集団では強いが個では弱い
・他者(外国)と対面したときのしたたかさが欠けている。
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西尾先生も亡くなってしまわれた。
西欧とは何か、米国とは何か、日本はそことどう向き合って来たか。
歴史家のような細かい定義に興味はないと言い切る。歴史のうねり、流れを理解したい。
アジアは何万年もの間、穏やかであった。空間的な拡大を望まず、生きてきた。
ところが350年前、突然、異質な文明が海の向こうに突然出現した。
戦争の度に大きくなり、戦争の中で変容する国。
領土拡大の野心はないが、情報と金融で世界を支配しようとする国。
米国である。
西欧の忌み子。そう受け取ったな。
米国には、国際関係は存在しないと断言する。その辺は、中華と似てるのか。
西欧は、モンゴルとイスラムに圧迫され、青息吐息であったが、終末思想に焦燥的に追い詰められ、大洋に出た。
西欧とは、信仰と暴力と、科学が三位一体になった、そっか、これも異質なんだ。しかも傍迷惑な。
視野狭窄な野蛮人が、野蛮な正義に基づいて世界中を席巻した。
日本は。
太平洋という天然の要害に守られ、その波から逃れ得た。
日本は確たるイデオロギーがない文化であり、虚心坦懐、自分を無にして相手を受け止める。維新後、西欧文化を鏡として必死に追いつこうとし、それを認めない異文化にボコられた。
日本は。
この先、そんな世界とどう接していくのか。 -
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ショーペンハウアー「 意志と表象としての世界 」
3冊(4巻)は長いが、認識論(主観と客観)に始まり、芸術論(純粋主観)を経て、倫理学(主観と客観の無)に終わる展開は見事。想像をはるかに超える結論(ユートピア)だった。
人生に関する名言格言も多い。西尾幹ニ 氏の訳も良かった
印象に残った論考
*生きんとする意志の否定し自由に転換することと、自殺と生きんとする意志の否定を明確に区別
*個体化原理を乗り換えて、苦しみを与える者と苦しみを受ける者は同一とした
著者が目指す人間像は「世界の超克〜真の認識を開き、生きんとする意志を捨離し、真の自由を得て、寂静たる生活振舞いをする」と捉えた
人生に関する名言格言
*人生は苦悩と退屈の間を往復している
*苦悩は人生の本質をなす〜苦悩は外から自分の方へ流れこんでくるものでなく、誰でも自分の心中に苦悩の泉をかかえて生きている
*他人の苦しみと自分の苦しみとの同一視こそが愛である。愛は共苦である
*普通人は認識によってでなく、苦悩を通じて解脱に近づく。苦悩には人を神聖にする力がある
苦しみを与える者と苦しみを受ける者は同一である〜永遠の正義(罪の悪と罰の悪を一つに結びつける天秤の竿)を認識するには、個体化の原理を超越することが必要〜輪廻の神話
生は 生きんとする意志 の模像であり鏡である〜表象としての世界において、意志の目前に 意志を映す鏡が現れ、鏡に照らして 意志は己れ自身を認識する
苦しみを与える者と苦しみを受ける者は同一である〜永遠の正義(罪の悪と罰の悪を一つに結びつける天秤の竿)を認識するには、個体化の原理を超越することが必要〜輪廻の神話
生きんとする意志の否定とは〜神聖さであり、意志の鎮痛剤の中から生じる。鎮痛剤とは 意志の内部抗争、意志の本質的な空虚性をいう
意志を廃絶するのは認識によってしかなし得ず、自殺は意志の肯定の一現象である。自殺は個別の現象を破壊するのみで、意志の否定にはならず、真の救いから人を遠ざける
意志の否定こそ現象の中に現れる意志の自由の唯一の行為である〜意志の否定の本質は、苦悩の嫌悪にあるのではなく、人生の享楽を嫌悪することの中にある
自殺は意志の否定でなく、意志の強烈な肯定の一つの現象である〜自殺は現在の自分に満足できないだけにすぎない〜自殺者は生きんとする意志を放棄するのでなく、生を放棄して、個別の現象を破壊するととどまる
完全に必然性に支配されている現象界の中へ意志の自由が出現するという矛盾を解く鍵は、自由が意志から生じるのではなく、認識の転換に由来することにある
意志が自分の本質自体の認識に到達して、この認識の中から鎮痛剤を獲得し、動機の影響から脱したとき、意志の自由が出現する
意志の完全な否定に到達した人にとっては〜無こそが存在するものである。彼はいっさいの認識を超えて、主観も客観も存在しない地点に立つ
意志がなくなるとともに意志の現象がなくなり〜現象の一般形式である時間と空間もなくなり、現象の根本形式である主観と客観もなくなる
癒し難い苦悩と悲惨が意志の現象である世界の本質であることを認識し、意志の廃絶により世界が消え去り目前に空虚なる無が残る
意志を完全になくしてしまった後に残るものは〜無である。すでに意志を否定し、意志を転換し終えている人々にとっては、現実のわれわれの世界が無なのである〜一切の認識を超えた世界〜主観も客観も存在しない地点
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ショーペンハウアー「 意志と表象としての世界 」
3巻 天才論と芸術論から 新しい世界秩序を展開。全体像が少し見えてくる。2巻の意志の世界を、生に盲目的であり、自由の代償として孤独を感じる苦悩の世界としている。
イデアは 本質、普遍的な真理、不変の原型、意志が適切に客観化されたもの
イデアは いっさいの現象(表象)の普遍的な形式(客観は主観に対応した存在)をまもっている〜イデアのみが意志(物自体)の適切な客体性といえる
純粋な認識主観はイデアを認識しているだけ
著者の伝えたいことは「目前に存在するのは、自分自身でなく 客観のみであるという幻覚を作り出せれば、あらゆる苦悩から免れることができる〜意志としての世界は消え失せ、残るのは 表象としての世界である」
そのためには、芸術や天才から 純粋な認識主観を捉え、世界の本質を観照せよ、という論調。崇高感から純粋主観を説明した文章から想像するに、純粋主観は 宗教的解脱に近いものに感じた
天才は 根拠の原理に従わず、事物のイデアを認識し、自分を個体として意識するのでなく、意志を持たない純粋な認識主観として自分を意識できる
普通の人間〜自然が毎日作り出す工場製品のごとき人間
生への意志を肯定し、自己利益を至上原理とする普通人は 世界を観照することはない
意志を持たない純粋な認識主観、プラトンのイデアの認識。美の認識を可能にする主観と客観の関係〜ショーペンハウアーの芸術論の基礎
芸術は時間の歯車を止める〜ただ本質的なもの、イデアのみが芸術の客観である
天才的な認識(イデアの認識)は 根拠の原理に従わない認識のことである〜イデアは直観的な認識の領域にある〜理性的な認識とは対立
天才は狂気に近似している
天才は根拠の原理に従った相互関係の認識を見捨てて、事物の中にイデアだけを見る
芸術家〜人間の美しさを描き出し、その描写において自然を凌ぐほど
芸術家は生への意志に奉仕しない、想像力と理性により自然がじつげんしたことないイデアを先取りし表現できる
人間の本質を顕わにすることが芸術の最高目的
人間の美とは、意志の認識可能性の最高段階における意志の完全な客観化である
あらゆる芸術家はイデアを描き出す点で目的を一にしている〜本質的な違いは、描き出すイデアが意志の客観化のいかなる段階かという点
人間は意欲の激しい、暗い衝動である〜人間は同時に、純粋認識の永遠な、自由な、晴朗な主観である
崇高な性格
自身の人生航路とそこで出会う災難を、自分の個人的な運命と見るより人類一般の運命と見て、悩むというより認識するという態度
哲学とは、普遍的な概念を用いて世界の本質を完全に再現し、言明すること。哲学は意志の要求に応じて世界秩序を構築するものでなく、意志を肯定する世界の本質(イデア)を概念により表現すること。哲学は科学より芸術に近い
4巻の基本命題「表象としての世界において意志の前に意志を映す鏡が現れ、鏡に照らして意志は己れ自身を認識する」
*再び意欲の動機となって意志の肯定の永劫回帰が確立する道
*意欲の鎮静剤になって意志が消滅する道
ショーペンハウアーの死生観
意志の現象の形式〜は現在だけであって、未来でも過去でもない〜現在といい、内容といい 動揺することなしに存立しているが、それはあたかも滝にかかる虹のよう
意志の現象が完全になるにつれ、苦悩もあらわになる
生への意志の肯定が強まり、他者の意志に対する侵害(苦しみ)も増加する
いっさいの生は苦悩であることが本質的であることは、苦しむ動物の世界を見れば得心する -
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「意志と表象としての世界」第3巻と第4巻の一部を掲載したのが本書。ショーペンハウアーの芸術論(第3巻)と世界観(第4巻の一部)で構成されている。
芸術論はイデアの世界観と芸術の世界観をテーマにペシミストたるショーペンハウアーが垣間見せるポジティブな世界観。音楽を最高の芸術と称して芸術はイデアの世界を認識させてくれるという。
そしてこの意志というものは万物を動かすエネルギーみたいなもので、盲目なるエネルギー。こうやって考えるとドーキンスの「盲目の時計職人」を想像させる論理で、人間が制御できないエネルギーだからこそ人間の生は苦悩という次巻の結論につながっていく。 -
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日本は大東亜戦争開戦において、帝国政府声明文(昭和16年12月8日)を発表し、その戦争目的は亜細亜解放であることを明言していた。西尾氏はこの政府声明文を認める数少ない保守派の論客である。GHQ焚書図書開封シリーズでは、戦争当時、日本人がどのように現状を考えていたか、また、米国がその事実を消すために、どのように焚書を行ったかが、焚書図書の内容を紹介しながら、淡々と書き進められている。実に我々は戦後70年間もいいように洗脳され続けてきた。しかし、少しずつではあるが、その事実が知られるようになった。米国の力が弱まり、日本の自立も近づいていると思われる。本シリーズ及び帝国政府声明文を発見した安濃豊氏のブログは必読である。
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太平洋戦争に対する評価は難しい。戦後の教育がGHQによる「彼らに都合のよい歴史史観」に基づいて行われたことは容易に推測できる。かといって右派のいうように戦前の日本が無謬であったとは思えない。問題は帝国主義、植民地主義の時代から民族自決、自由平等主義へと舵を切っていくおおきな流れの中で、どの時点で何が非難されるべきことであったのか、ということである。それまで散々アフリカやアジアや太平洋地域を征服し、植民地化してきた欧米諸国がなぜ急に「きれいごと」を言い出したのか。日本が犯した罪を認めながらも、同時に欧米諸国の欺瞞を指摘し続ける事も必要だろうと思う。
太平洋戦争は日米の宗教戦争であったという西尾氏の主張は一定の説得力を持つが、これを国際社会に納得させるのは非常に難しいだろう。 -
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ネタバレ『意志と表象としての世界』の構成 p37
第一巻=認識論、第二巻=自然哲学、第三巻=芸術哲学、第四巻=倫理学
《第一巻 表象としての世界の第一考察―根拠の原理に従う表象、すなわち経験と科学との客観》
冒頭 p5
「世界はわたしの表象である」―これは、生きて、認識をいとなむものすべてに関して当てはまるひとつの真理である。
(解説)わたしの意識の外に世界が実在する、と主張してみても、そのことを確信するのもまたわたしの意識である。この言葉は、外から押しつけられるいかなる既成の価値をも疑う、という態度表明でもある。
継続こそ時間の全本質である。p20
理性によって正しく認識されたものが真理 Wahrheit であり、悟性によって正しく認識されたものが実在 Realitat である。p57
教義(ドグマ)に没頭するのは閑暇のある理性のやることである。行動は結局のところ教義に左右されず、わが道を行く。大抵は抽象的な格率に従うことなく、まだ言葉になっていない格率に従う。このような言葉になっていない格率を表現したものことそ、ほかならぬ人間の全身全霊なのである。
むしろ理性の機能は一段下位にあたるもので、この機能はいったんきめた決心を守らせ、格率を突きつけ、一時の弱みに反抗させ、首尾一貫した行動をとらせることにある。
哲学の任務は具体的な認識を抽象的に再現することである。いいかえれば、継起的で可変無常な直観、一般に情という広範囲の概念のうちに抽象的でないとか明晰でないとかいうネガティブなレッテルで一括されているところのいっさいを、抽象的な明晰な知にいたるまで、つまり一つの永続不変の知にいたるまで高めること、これが哲学の任務である。p184
哲学をする能力はまさに、プラトンが定めたように、ひとえに多のなかに一を認識し、一のなかに多を認識することにある。p185
フランシス・ベーコン「世界そのものの声をもっとも忠実に復唱し、いわば世界の口述するところをそのまま写しとった哲学のみが真の哲学である。それはまた、世界の模写と反射にほかならず、なにか自分自身のものをつけ加えたりせずに、ただひたすら繰り返しと反響をなすだけのものである」(『学問の発達』)p185
理性は貴い志のためにも悪しき企てのためにも、また賢明な格率のためにも無分別な格率のためにも、とにかく組織的に首尾一貫してこれらを実行する用意を均等にそなえていて、またそれに均等に役立つのである。これはまさしく理性の女性的で、受身的で、保存的で、みずからはなにも産み出せない本性のしからしむるところであろう。p193
エピクテトス「貧乏が苦痛をもたらすのではなく、欲望がもたらすのである」p196
(ストア派の)開祖ゼノンにおける出発点は、最高の善、すなわち精神の平静による至福状態に達するためには、自分自身と一致した生き方をしなければならないということであった。[一致して生きるとは、すなわち同一の理性に従い、自分自身と調和して生きることである。Cf. ストバイオス『自然学及び倫理学抜粋』―同じくまた、徳とは全生涯にわたって魂が自分自身と一致することにある。ところでこれは、変化する印象や気分によってではなく、どこまでも理性的に、概念に従って自らを決定することによってのみ可能である。]
身体というこの唯一の客観は本質的に他のあらゆる客観とは異なっていて、あらゆる客観のなかでこれのみが意志であると同時に表象である、ということである。これに反し他の客観は単なる表象であり、いいかえれば単なる幻影でしかない。したがって身体こそ世界中でただ一つの現実的な個体である。すなわち身体こそただ一つの意志の現象であり、かつ主観にとってただ一つの直接の客観なのである。p229-230
幻灯の映し出す絵はたくさんあり、さまざまであるが、すべての絵が眼に見えるかたちになるのは、たった一つの焰のためである。この比喩と同じように、相並んで世界を満たし、相次いで事件としてせめぎ合う現象はさまざまであるが、しかしそのなかで現象するものはたった一つの意志であって、万物はこの意志が可視的になり、客観的になったものにほかならない。意志はあの変転推移のただなかにあってもあいかわらず不動である。意志のみが物自体である。p343
現象は無限の差異性と多様性をそなえているが、物自体としての意志は一つである。意志は一つであるという認識だけが次のことについての本当の解明を与えてくれよう。自然界のすべての産物にみられる見違えようのないあの不思議な類似性 analogy 、すべての産物は同時に与えられてはいないが、結局同一テーマのヴァリエーションとみなされるあの同族的な相似性についてである。このことと同様に、世界のあらゆる部分と部分とのあの調和、あの本質的な連関、部分と部分とが段階を構成する必然性、われわれがたった今考察してきたあの必然性―こうしたことを明晰に深くつかんで認識すれば、すべての有機的な自然の産物の否定しようのない合目的性の内的本質と意義に対する、真実で十分な洞察がわれわれには開かれてくるはずである。p345
われわれが生きかつ存在しているこの世界は、その全本質のうえからみてどこまでも意志であり、そして同時に、どこまでも表象である。この表象は、表象である以上はすでになんらかの形式を、つまり客観と主観とを前提とし、したがって相対的である。客観と主観というこの形式と、根拠の原理が表現している、この形式に従属したすべての形式とを取り除いてしまったあかつきに、さらにあとに何が残るかをわれわれは問うてみるなら、これは表象とはまったく種類を異にしたものであって、意志以外のなにものでもあり得ず、それゆえこれこそ本来の物自体である。p363