ショーペンハウアーのレビュー一覧
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本書は散漫な読書や軽薄な文筆に対する罵詈雑言集だ。
ショーペンハウアー曰く、
・紙に書き記された思想は、砂地に残された歩行者の足跡以上のものではない。なるほど歩行者がたどった道は見える。だが、歩行者が道すがら何を見たかを知るには、読者が自分の目を用いなければならない。
なるほど、読書は受動的な行為であると考えていた私にとって耳が痛い言葉だ。
・真の思索家タイプや正しい判断の持ち主、あるテーマに真剣に取り組む人々はみな例外にすぎず、世界中いたるところで人間のクズどもがのさばる。クズどもは待ってましたとばかりに、例外的人物の十分に熟考した言説をいじくり回して、 せっせと自己流に改悪する。 -
Posted by ブクログ
「自分の頭で考える」「著述と文体について」「読書について」の3章から成っているが、1,3章と2章で全く印象が異なる。
1,3章は現代にも通ずる鋭さがある。読書は他人の思索の過程をなぞる行為にすぎないという視点は秀逸。まぁ、何も考えないで生きてるよりは読書をする方が100倍マシであると思うけど。
しかしながら、2章が酷い。言ってることは「格式高い昔の文法を大事にしようね。端折るのはダメ。」ということだけなのに、それになんと106ページも費やしている。彼は「ドイツ人の文は曖昧で、入り組んだ長い挿入文が満載」と述べているが、ここまで綺麗なブーメランは見たことがない…
それでも歴史的大著であることは -
Posted by ブクログ
読書と著述について、一般に「善い」とされるそれら営為を改めて振り返り、愚鈍な手法について強い主観で批判した本。
ショーペンハウアーを読むのは初めてだったけど、最初から最後まで口が悪すぎて終始笑いながら読めた。ページをめくる度に新しい悪口が出てくる。
「読書」は著者の思索をなぞるだけであり、まず自身の思考軸を持ち、それを補するものとして接しない限りは空虚な営為だという批判が主。特に多読や流行り物を批判する。
これは昨今、web上でインフルエンサーの意見を多量摂取し、それをなぞった主張するだけの人へも同じ批判となるだろう。
流行りのビジネス書を何冊も読むより、現代まで残っている古典書をマイペー -
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哲学書の中ではかなり読み易い部類に入るだろう。全く哲学に触れてこなかった人や中学生くらいでもこれは読めると思うし、衝撃的ながらも「確かに」と首肯してしまう内容になっている。
「読書について」とあるが、ショーペンハウアーはその冒頭で「読書するとは、自分でものを考えずに、代わりに他人に考えてもらうことだ。他人の心の運びをなぞっているだけだ」とバッサリ断じてしまう。しかしよくよく考えると確かにその通りなのだ。読書とは他人の思考をなぞる行為でしかない。下手な自己啓発本を礼賛する行為に嫌悪感を感じるのはそれが先鋭化されているからかもしれない。
とはいえ、ショーペンハウアーは読書そのものを否定している訳で -
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ばりおもろい。
ニーチェの哲学的熱情を駆り立てたショーペンおじさんの主著であり、二十世紀の西洋思想を語る上で特に重要な一冊。
時間と空間の考察を読むあいだアインシュタインの相対性理論が脳内をチラチラしたが、案の定アインシュタインはショーペンハウアーを深く敬愛していたらしい。
科学的努力とは世界の仕組みを理解するのに欠かせないが、我々人間という意識主体を説明するのには不十分で、そこには「哲学」や「思想」が必要になる。
主観と客観は表象によって統合されていて、我々の無方向で盲目的な意志だけがあるのみ。
人の根源的な欲動性や力の偏在を認めるあたり、その後出てくるフロイトやニーチェの思想にも接近してい -
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すごく読みやすくて面白かった
読書が好きな人は共感する部分が多いのではと思う
人生の質は経験の数ではなく精神的充足の密度で決まると思っているけど、その根底を言語化してくれていて頭の中がスッキリした感覚
自分含め、皆が周りでなく自分自身を変えることに意識が向けば、少なくとも今より精神的に豊かな世界になるんじゃないかな
✏人が直接的に関わり合うのは、みずからが抱く観念や感情や意志活動だけであって、外的な事柄は、そうした観念や感情や意志活動のきっかけをつくることで、その人に影響をおよぼすにすぎないからである。
✏現在と現実の客観的半面は運命の手に握られており、それゆえ変化しうる。いっぽう主観的 -
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最終巻となる本書には『意志と表象としての世界(正篇)』の第四巻「意志としての世界の第二考察」および序文が収められている(付録の『カント哲学の批判』は収録されていない)。
第四巻の冒頭でショーペンハウアー自身がおごそかに宣言しているとおり、『意志と表象としての世界(正篇)』のクライマックスである本書では、生(性)と死、善と悪、などといった倫理的な問題が集中的に論じられている。ショーペンハウアー哲学に対する「性と死の哲学」という形容は、この第四巻のためにあるといっていい。
世界は私の表象に過ぎず、知性は意志の奴隷に過ぎない。その知性が意志に対し謀反を起こし、芸術という形で脱却する可能性が第三 -
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本書はショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界(正編)』の第三巻に相当する(第四巻の一部も含まれる)。「表象としての世界の第二考察」は芸術論であり、ショーペンハウアー哲学の最も個性的な側面といえよう。
世界は私の表象に過ぎず、その表象を認識させている知性は意志の奴隷に過ぎない。しかしこの知性が異常に発達した人間、すなわち天才においては、例外的に知性が意志の支配から脱却することがある。そのとき知性は世界を客観的に映す明澄な鏡となる。かかる過程を経て生産されたものが芸術作品であり、天才の業である。
ショーペンハウアーの芸術至上主義が遺憾なく発揮されている本書では、空間のみを形式とした -
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ニーチェに影響を与えた実存主義哲学者として、ヘーゲルと犬猿の仲だった在野哲学者として、数々のアフォリズムを残した厭世哲学者として、間接的に名前だけは知られているショーペンハウアーを、直接読もうとする読者があまりにも少ないのが残念で仕方が無い。これほど分かりやすく、面白く、魅力的な哲学者は滅多にいないというのに。
ドイツ本国でさえ発売当時見向きもされなかった『意志と表象としての世界(正篇)』の難点は、ショーペンハウアー哲学の独創性が遺憾なく発揮されている第三巻と第四巻が、その前置きに過ぎない第一巻と第二巻の背後に隠れている点であろう。その第一巻と第二巻が収められた本書は、ショーペンハウアー哲