ショーペンハウアーのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ばりおもろい。
ニーチェの哲学的熱情を駆り立てたショーペンおじさんの主著であり、二十世紀の西洋思想を語る上で特に重要な一冊。
時間と空間の考察を読むあいだアインシュタインの相対性理論が脳内をチラチラしたが、案の定アインシュタインはショーペンハウアーを深く敬愛していたらしい。
科学的努力とは世界の仕組みを理解するのに欠かせないが、我々人間という意識主体を説明するのには不十分で、そこには「哲学」や「思想」が必要になる。
主観と客観は表象によって統合されていて、我々の無方向で盲目的な意志だけがあるのみ。
人の根源的な欲動性や力の偏在を認めるあたり、その後出てくるフロイトやニーチェの思想にも接近していく。
まさに二十世紀を生み出す礎石としてのドイツ哲学。
これからが楽しみ。 -
Posted by ブクログ
すごく読みやすくて面白かった
読書が好きな人は共感する部分が多いのではと思う
人生の質は経験の数ではなく精神的充足の密度で決まると思っているけど、その根底を言語化してくれていて頭の中がスッキリした感覚
自分含め、皆が周りでなく自分自身を変えることに意識が向けば、少なくとも今より精神的に豊かな世界になるんじゃないかな
✏人が直接的に関わり合うのは、みずからが抱く観念や感情や意志活動だけであって、外的な事柄は、そうした観念や感情や意志活動のきっかけをつくることで、その人に影響をおよぼすにすぎないからである。
✏現在と現実の客観的半面は運命の手に握られており、それゆえ変化しうる。いっぽう主観的半面はほかならぬ私たち自身であり、それゆえ本質的に変わらない。したがって、ひとりひとりが送る生涯は、外界からいかなる変化が訪れようとも、終始一貫して同じ特色をもち、同一主題をめぐる一連の変奏曲にもたとえられる。
✏教育ですら、こうした領分を広げるのに、いくばくかは貢献できても、総じてたいして役に立たない。なぜなら、たとえ青年期に思い違いをすることがあっても、最も高尚で多様性に富み、最も長続きする喜びは、精神的喜びであり、これは主としてもって生まれた力に左右されるからである。
✏私たちが何を幸福とし、何を享受するのかということにとって、主観は、客観とは比べものにならないほど重要である。
✏空疎な内面、精彩を欠く意識、貧しい知性がかれらを社交へと駆り立てるけれども、類は友を呼ぶため、同類が集まる。みなで一緒に退屈しのぎの歓楽を追い求める。
✏なぜなら個性は四六時中、どこまでも彼に寄り添うものであり、彼が体験するすべては個性の色調を帯びるからだ。あらゆる点で、何事につけても、彼はなによりもまず彼自身を享受する。
✏だから英語で〈to enjoy oneself〉というのは、きわめて適切な表現だ。たとえば〈He enjoys himself at Paris.〉、つまり「彼はパリを堪能する」のではなく、「彼はパリにいる自分自身を堪能する」のである。
✏だから良き事も、悪しき事も、大きな災禍はともかく、人生において何に遭遇し、何がその身にふりかかったのかよりも、本人がそれをどう感じたのかが問題であり、何事も感受力の質と程度が問題となる。
✏したがって私たちの幸福にとって、気高い性格、有能な頭脳、楽天的な気質、心根が明るいこと、健康そのものの丈夫な体のような個人的特性にまつわる財宝、つまり「健全なる身体に宿る健全なる精神」が、第一の、最も重要な財宝である。それゆえ私たちは外的財宝や外的名誉よりも、こちらの財宝の維持増進をこころがけるべきだろう。
✏ これらすべての中で最も直接的に私たちを幸福にしてくれるのは、心根が明るいことである。
✏「客観的に現実にいかなる事態なのか」ではなく、「私たちにとって、いかなる事態なのか、私たちが事態をどう把握したのか」が、私たちを幸福にしたり不幸にしたりするのである。エピクテートスの「事態が人間を不安にするのではなく、事態に対する見解が人間を不安にする」という言葉は、まさにこれを言い表している。
✏気質や気分の究極の原因は、明らかに身体の根源的な、それゆえ不変の性質にあり、しかもたいていは多かれ少なかれ、刺激に対する感受力と再生力が正常なバランスを保っているかどうかにある。感受力が異常に大きいと、気分にむらがあり、周期的に過度の陽気さがあらわれたり、憂鬱が基調になったりする。
✏美という個人的な長所は、そもそも私たちの幸福に直接的に貢献するわけではなく、単に他人に与える印象を通して間接的に役立つだけなのに、男性においてもたいそう重要性をもつ。
✏精神の富が卓越性の域に近づけば近づくほど、退屈が入り込む余地がないからである。
✏したがって全体としてみれば、精神が貧弱で、総じて卑俗であればあるほど、群れたがることがわかる。
✏だからアリストテレスの「幸福は、自分に満足する人のもの」という言葉は、まことに正しい。
✏その人自身が常にそなえているものこそ、年齢の如何にかかわらず、幸福の真の源泉、唯一の永続的な源泉であり続ける。 -
Posted by ブクログ
最終巻となる本書には『意志と表象としての世界(正篇)』の第四巻「意志としての世界の第二考察」および序文が収められている(付録の『カント哲学の批判』は収録されていない)。
第四巻の冒頭でショーペンハウアー自身がおごそかに宣言しているとおり、『意志と表象としての世界(正篇)』のクライマックスである本書では、生(性)と死、善と悪、などといった倫理的な問題が集中的に論じられている。ショーペンハウアー哲学に対する「性と死の哲学」という形容は、この第四巻のためにあるといっていい。
世界は私の表象に過ぎず、知性は意志の奴隷に過ぎない。その知性が意志に対し謀反を起こし、芸術という形で脱却する可能性が第三巻において明らかにされた。だがそれは天才において、しかも一時的に発生する束の間の夢でしかない。知性が永続的に意志から解き放たれる可能性はないのだろうか。
意志の否定。それがショーペンハウアーの回答である。意志に翻弄され苦痛を味わい尽くし、最終的に意志を否定する境地にたどり着くこと。それが解脱であり、悟りへの道である。だがそれは自殺ではない。自殺とは意志の強烈な肯定でしかない。意志が否定された暁には、私は夢から覚め、世界は無に帰することであろう――。
預言的な内容を含む本書は、事実宗教と、とりわけ仏教(インド哲学)との親和性が高い。だがショーペンハウアーは預言者としての道は歩まない。哲学者は聖人である必要はないからである。本書を読んだニーチェがやがてツァラトゥストラとなり、意志の肯定を説くことになるのとは対照的である。
ダイナマイト・ニーチェの導火線に火を点けた本書を読まずして、ニーチェ哲学の理解は覚束ないであろう。これなくして哲学者ニーチェは生まれなかったであろう本書を、ニーチェ研究家の西尾による名訳で読めるわれわれ読者は幸せである。 -
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本書はショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界(正編)』の第三巻に相当する(第四巻の一部も含まれる)。「表象としての世界の第二考察」は芸術論であり、ショーペンハウアー哲学の最も個性的な側面といえよう。
世界は私の表象に過ぎず、その表象を認識させている知性は意志の奴隷に過ぎない。しかしこの知性が異常に発達した人間、すなわち天才においては、例外的に知性が意志の支配から脱却することがある。そのとき知性は世界を客観的に映す明澄な鏡となる。かかる過程を経て生産されたものが芸術作品であり、天才の業である。
ショーペンハウアーの芸術至上主義が遺憾なく発揮されている本書では、空間のみを形式とした建築、時間のみを形式とした音楽、その他ありとあらゆる芸術(彫刻、絵画、詩、等々)が俎上に載せられる。だがショーペンハウアーが最も高く評価するのは音楽である。音楽こそは、時間以外のあらゆる狭窄物を取り去った、生のままの意志に最も近い芸術様式であるという。
「意志」から解放された客観的な世界の認識にショーペンハウアーが肯定的な価値を付与するのは、やはりそこにプラトン的なイデアの把握を見て取っているためであろう。「意味」を剥奪された「物自体」の認識については、例えば漱石が「発狂」「自殺」「宗教」の三つの可能性しか認めなかったり、あるいはサルトルが『嘔吐』を書いたりといったように、むしろ否定的な解釈が多いことを考え合わせると興味深い。
ショーペンハウアー哲学がアカデミズムの世界よりもワーグナーやトルストイ、トーマス・マンなどといった芸術家たちによって高く評価されたのも、この芸術論があってこそであろう。第一巻・第二巻とは隔絶した明朗な哲学世界に、読者は魅了されるに違いない。 -
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ニーチェに影響を与えた実存主義哲学者として、ヘーゲルと犬猿の仲だった在野哲学者として、数々のアフォリズムを残した厭世哲学者として、間接的に名前だけは知られているショーペンハウアーを、直接読もうとする読者があまりにも少ないのが残念で仕方が無い。これほど分かりやすく、面白く、魅力的な哲学者は滅多にいないというのに。
ドイツ本国でさえ発売当時見向きもされなかった『意志と表象としての世界(正篇)』の難点は、ショーペンハウアー哲学の独創性が遺憾なく発揮されている第三巻と第四巻が、その前置きに過ぎない第一巻と第二巻の背後に隠れている点であろう。その第一巻と第二巻が収められた本書は、ショーペンハウアー哲学の理解にとって避けては通れない鬼門であるとは言える。
しかしながら内容は決して難解でも退屈でもない。「世界は私の表象である」の一文で幕を開ける第一巻「表象としての世界の第一考察」は、その名のとおりわれわれが認識している世界の哲学的分析に終始している。第二巻「意志としての世界の第一考察」で論じられる「意志」は、ショーペンハウアー哲学最大のキーワードであろう。それを神の言い換えに過ぎないと断ずる評者もいるようだが、時間・空間・因果性によってフォーマットされる以前の世界をあえて「意志」と名づけた辺りは、感情によって世界が形成される実存主義哲学の先駆ともいえ興味深い。
『意志と表象としての世界(正篇)』はショーペンハウアーの主著であり、邦訳はほかに白水社の全集版と理想社版があるが、入手のしやすさと分かりやすさでは西尾幹二訳の本書が群を抜いている。このまま忘れ去られてしまうのはあまりにも惜しい、特に若い読者に読んでもらいたい古典的名著であり名訳である。 -
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ロシアの大文豪トルストイに、
多くの人間たちの中でももっとも天才的な人物だと確信すると言わせたドイツの哲学者ショウペンハウエル。
今から150年ほど前、当時の一般的な常識であった、人生とは幸せになるためのものという前提を根底から覆し、人生とは困苦であり退屈であるのだから、いかにその災難から逃れられるかが、幸福を握ると喝破した。
アリストテレスの「賢者は快楽を求めず、苦痛なきを求める」という文言こそが生きる知恵の最高原則だと講ずる。
引用される人物
ソクラテス、プラトン、アリストテレス、ホメロス、セネカ、キケロ、シェイクスピア、ゲーテ、スピノザ等
古代ギリシャ、古代ローマ、中世ヨーロッパの過去の賢者から多くを学んでいることがうかがえる。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ普通人にとって認識能力とは、自分の実生活上の道を照らしてくれる提灯であるが、天才にとってのそれは、世界を明らかにしてくれる太陽である。p46
「草木はこの世界の仕組みが目に見えて美しいかたちをなすよう、感覚に対しその多様な形態を提供して知覚に役立ててくれる。草木は自分では認識することができないから、いわば認識されることを欲しているようにみえる」(聖アウグスティヌス『神国論』)p91
純粋に後天的(アポステリオリ)には、つまり単なる経験だけからでは、いかなる美の認識も可能にならないであろう。つねに美の認識は、先天的(ア・プリオリ)である。それはわれわれにア・プリオリに知られている根拠の原理の形態とはまったく違った種類の認識ではあるが、少なくとも部分的には、美の認識はア・プリオリなのである。p123
人間の美とは、意志の認識可能性の最高の段階における意志の完全な客観化である。p126
真の詩人の叙情詩のうちには、人類全体の内心が写しとられ、過去、現在、未来に生存する幾百万の人間がいつの時代にもくりかえし出会っていた似たような境涯で感じたこと、またこれからも感じるであろうことは、真の詩人の抒情詩のなかに、適切な表現を得ているといえる。幾百万の人間が置かれてきた境涯は、またこれからも休みなく繰り返され、人類そのものと同じように恒常的な境涯としてありつづけ、つねに変わらぬ同じ感情をよび起こすものであるから、真の詩人の叙情的作品は、千万年を貫いて真実で、感化を与え、またつねに新鮮である。なんといっても詩人とはそもそも普遍的な人間のことだからである。いずれかの人の心を動かしたこと、いずれかの境涯で人間の本性から生じたようなこと、いずれかの場所で人の胸に棲みつきしだいに大きくふくらんでいったこと―これらはすべて詩人のテーマであり、詩人の素材である。p187
意志は個体のかたちで現象するが、個体の死後も意志は相変わらず生きつづけているのであって、別の個体のかたちをとって現象しつづけるのであり、ただ後の方の個体の意識が前の死んだ個体の意識となんらつながりをそなえていないだけである。p217
ヴェーダでは次のように表現されている。
人が死ぬと、その人の視力は太陽と一つになる。その人の嗅覚は大地と、味覚は水と、聴覚は大気と、言葉は火と一つになる。p275(脚注)
わたしの見解では意志こそ第一のもので、根源的なものであって、認識はあとから意志に単に付け加わったものにすぎないのであり、意志の現象にその道具として帰属しているものが認識である。それゆえいずれの人間も、そのあるがままの相は、意志からこれを得たのであって、意志の性格が根本であり、意欲はその本質の根底をなしているからである。これに認識が付け加わるにつれて、人間はだんだんに経験を重ねていくうちに、自分が何であるかをやがて知っていき、すなわち自分の性格をわきまえるようになっていくだろう。つまり人間は、意志の結果として、また意志の性能に応じて、自分を認識するのであって、古いものの見方にもあるように、認識する結果として、また認識に応じて、なにかを意志するというものではそもそもない。p290-291
→古い見方では、人間は認識したものを欲するというのであるが、わたしの見方では、人間は欲したものを認識するのである。
スコラ哲学者「究極原因はそれが実際に何であるかに応じてではなく、それがどう認識されているかに応じて作用する」(スアレス『形而上学論議』)p296
エピクテトス「人間の心を乱すのは事物ではなく、事物についての意見である」p306
意志はそれ自体としては、現象を離れたときには、自由であり、いな、ほとんど全能というべきであるが、認識によって光を照らされた意志の個々の現象、つまり人間や動物においては、意志は動機によって規定されているのであって、この動機に対し(人間や動物の)そのつど異なる性格が反応するが、反応の仕方はいつも同じで、合法則的であり、必然的であるということがこれまでの考察でわかったのである。p309
享楽であれ、名誉であれ、富であれ、学問であれ、芸術であれ、美徳であれ、それらのいずれかを求めようとする一定の努力は、われわれがその努力に関係のないあらゆる要求を捨てて、また他のあらゆるものを断念したあかつきにのみ、ほんとうに真剣に、そして上首尾に追求することができるものなのである。p316
[就活や、将来について、有益なアドバイス]p317
単に、やってみたいという意欲があるとか、やればできるという能力があるだけではまだ不十分であって、人間は自分が何をやってみたいかと欲しているかを知っていなければならないし、やれば何ができるかを知っていなくてはならないのだ。かくてはじめて彼は性格を示すことになろうし、そのあとでようやく彼はなにか正当なことを成し遂げることができるであろう。そこに到達するまでには、彼には経験的性格の自然な帰結がそなわっているとしても、まだ無性格である。で、彼は大体において自分に忠実な人で通し、自分の魔神(デーモン)に引かれつつ、おのが進路を一目散に走り抜ける人に相違ないとわかっていても、それでも彼は真一文字の線を描くことはなく、震えた不揃いな線を描き、動揺したり、横にそれたり、後戻りしたりして、後悔と苦痛のたねを蒔くことになろう。こうしたことはすべて、人間におこない得ること達成し得ることは大なり小なり多数あることを現に目前にしていながら、そのなかで自分にだけ適するものは何であるかを彼が知らないために起こることなのである。
オウィディウス「心を惑わす苦しみの絆をひと思いに断ち切る人は、魂の最良の救い手である」(『恋の葉』)p324
満足はつねに新しい努力の起点であるにすぎない。努力がいたるところで幾重にも阻止され、いたるところで戦闘しているさまをわれわれは目撃する。かくて、そのかぎりでは努力はつねに苦悩である。努力の究極の目標というものはなく、それゆえ苦悩にも限度や目標はない。p330 -
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愛、生と死、正義、自己肯定、虚無。ショーペンハウアーの説明はなんとも清々しく感じる。
読んでいて、「そうだ、そういうことなのだ」と自分の内奥に通ずる思いを感じるのだ。
我が意を得たり。あやふやで悩んでいたことへの理解を与えてくれたことに感謝しよう。
愛とは無償の献身であること。
友情とは自己愛と同情の混合であること。
泣くことは他者への同情を介した、自分への同情であること。
永続する幸福など無いということ。
性欲は生を肯定し、死もまた生の一部であるがゆえに生を否定するものではないということ。
真に正義である人は、自分を肯定し、他人を支配せず、自分の受けた分だけ他人にも施そうとする。
なんと自立していて格好いいのだろう。
自分自身を肯定するがゆえに、それが成し得ない状況において、自殺という方法以外に自身の肯定を貫く方法がない。
自殺についての納得いく説明。だからといって本当に自殺していいわけではないのだが。
「意志を還元なまでになくしてしまった後に残るところのものは、まだ意思に満たされているすべての人々にとっては、いうまでもなく無である。しかし、これを逆にして考えてみれば、しでに意思を否定し、意思を転換し終えている人々にとっては、これほどまでに現実的に見えるこのわれわれの世界が、そのあらゆる太陽や銀河をふくめてー無なのである。( 244P)」
たしかに、「無」とはそういうものかもしれない。 -
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ネタバレショーペンハウアーが多くの芸術家から支持されたのは当然とも言える。
なぜなら、ショーペンハウアーが登場する以前の時代から、もしかしたらペシミズム(厭世観)という言葉が登場する以前から、絵画、音楽、詩など様々な形で、芸術家たちはこの世が苦しみや悲しみで満ちていることを描くことを試みてきたのだから。
そして、さまざま芸術の中にイデアを見出し、伝達しようとする試みも、芸術の作り手たちが考えてきたことだからこそ、共感を得たのではないかと思う。
悲劇が、人物の特性を遺憾なく発揮し、人間の心情の深さを開示するという点で、詩芸術の最高峰というのはまさに言い得たことだろう。人間の本質は楽なとき、喜びに満ちているときより、苦しみ悲しむときこそ現れるものだから。
しかし、死が排泄物と同じとは。排泄物を悲しむことがないように、死の場合にしても恐れおののく理由はなにもないということなのだけど。さすがにこれについては他の表現をして欲しかった。
ショーペンハウアーは芸術論において人間の「生」について語り、その対極である「死」についても語る。
死に対する考えや行動を美化するのでもなく、卑下するのでもなく、あまりにも率直にその姿を描いている。
苦しいからといって自殺しても得るものはない。
常に死の恐怖に触れているわけではない。
死を自分の意識の中に入れようとしない。
うつ病や自殺を考えている人などに、ショーペンハウアーを読ませるなというのは、かえって路頭に迷わせるように思える。
むしろショーペンハウアーやウィトゲンシュタインを読ませ、生きること、悩むこと、そして死とはなにかを自分で考える時間と力を与えるべきではないだろうか。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ私たちは、自分が「享楽的消費社会」の只中でその『自由』と恩恵を享受しながら、収入、生活、老後などの様々な問題で身動きが取れない『孤独』を感じざるを得ない。
水がどのような形であっても、その本質を表すことに変わりないように、人もまた、どのような場合にもその本質が現れることをショーペンハウアーは述べている。
しかし、2012年の現実は、どの場合に誰かが作ったレッテルを貼られ自分の本質で内容に感じられてしまう。
今こそ、自分の好む、好まざるの思想を超え、新しい考え方、生き方を見ようとしなければ。
そのヒントを与えて食えるかもしれないと思える本である。