安野光雅のレビュー一覧

  • カラー版 絵の教室

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    1056円

    安野光雅『カラー版 絵の教室』(中公新書1827)の目次です。全7章、224ページ。

    1. 空想の宿題
    2. 絵と真実
    3. 遠近法の実験
    4. よく見て描く
    5. 自画像の実験
    6. ゴッホの存在
    7. イマジネーションと子どもの時代

    安野 光雅
    (あんの みつまさ、1926年3月20日 - 2020年12月24日[1])は、日本の画家・装幀家・絵本作家。元美術教員。島根県鹿足郡津和野町出身。東京都小金井市在住。文化功労者。40年以上にわたって描かれた代表作の1つ『旅の絵本』シリーズ全10冊のうち9冊までの累計発行部数は、152万部を記録している(2022年1月末時点[2][3])。子供の頃より画家になる夢を抱いていた。美術のみならず、科学・数学・文学などにも造詣が深く、豊かな知識と想像力を駆使して独創性あふれる作品を発表した。原色や派手な色をほとんど使わない淡い色調の水彩画で、細部まで書き込まれながらも落ち着いた雰囲気の絵を描く[要出典]。主な著書に、『ふしぎなえ』、『繪本平家物語』、『天動説の絵本』、『空想の絵本』、『ABCの本』、『旅の絵本』、『算私語録』、『空想工房』、『空想書房』、『わが友 石頭計算機』(『石頭コンピュータ』としてリメイクされている)など。アンデルセンの原作を森鷗外が翻訳した『即興詩人』の熱心なファンで、舞台となったイタリアの紀行文『繪本即興詩人』を発表している。

    「ギュスターヴ・クールベ(一八一九─七七)は、フランスとスイスとの国境に近いオルナンという村の裕福な家に生まれ、画塾に学びましたが、ほとんど独学と言ってもよいくらいで、パリに出て行ったのは二一歳のときでした。現実にありえないものは描かないという信念を貫き、写実主義のさきがけとして知られる画家で、「天使は見たことがないから描かない」というのは彼の有名な言葉です。それまでの宗教画や歴史画に対して、新しい写実主義を象徴するような言葉になりました。写実といっても、写真のように描く、というのではなく、画面を構成しながら、そこに寓意をこめたり、時間的経過を劇的に織り込むといった、それまでの絵画のあり方を踏襲したものではありました。つまり、描かれたものはそれぞれ写実的だけれど、それらが画面でなくては同居することはなかったという意味で、それまでの絵画の思想を満足させるものでした。」

    —『カラー版 絵の教室 (中公新書)』安野光雅著

    「ひろしま美術館には、『雪の中の鹿の戦い』(一八六八頃)というクールベの作品が収蔵されています。これはメス鹿の見ている前で、二匹のオスの鹿が、雪を蹴散らし戦っています。  さきに「写真のように」ということを書きました。これは別に写生したわけではないのですが、事実として見ようと思えば見ることのできる光景です。説明するまでもないことですが、一匹のメス鹿を二匹のオス鹿が争っていることの、一つの暗喩をこの絵から読み取ることができる絵です。  もっとも、これはほんの序の口で、クールベはもっと時代を画するほどの仕事をした人です。」

    —『カラー版 絵の教室 (中公新書)』安野光雅著

    「 クールベは部屋の中で外の風景を描いています。風景を描くなら外へ描きに行けばいいじゃないかということになりそうです。それは、外光派、つまり外の光の下で直接描くという、今ではいかにも当たり前の流派(ゴッホなど、 6章からを参照してください)がのちに現われたことを知っているわたしたちが考えることかもしれません。  また、外光派の一時期が過ぎた今となっては、「部屋の中で外の風景を描いてもいいのではないか」と思わせられる点でも、これは一つのおもしろい示唆をはらんでいると思います。  この作品は今でこそ評価の高いものですが、一八五五年の万国博覧会に出品され、審査員の眼鏡にかなわず落選したのだといいますから絵描きも楽ではありません(クールベの他の作品は入選しました)。これを怒ったクールベは自分だけの作品を並べた「リアリズム館」という名の会場を設営したということです。そんなことがあって、クールベの写実主義は時代を画すことになります。」

    —『カラー版 絵の教室 (中公新書)』安野光雅著

    「生粋のパリ育ちであったマネは、市民の日常生活をテーマに多くの絵を描いています。マネは、当時クールベと並んで最先端にあった人ですが、マネのほうはすでにサロンに入選していましたし、声望も高く、将来を嘱望されていた人の一人です。トーマ・クーチュールという肖像画や歴史画で知られた画家に学び、二九歳のとき『ギター弾き』(『スペインの歌手』ともある)という作品で好評を受けます。だから彼もサロンの中にいて、おとなしく絵を描いていれば出世は間違いないのですが、いわゆる画壇の伝統的な評価にこだわらず、自己主張を持った作品でなければ飽き足りなくて、もっと過激な実験的な作品を世に問いたいというファイトがあったと見えます。」

    —『カラー版 絵の教室 (中公新書)』安野光雅著

    「マネはこの落選に怒り、若い画家たちもこぞって審査の不当に抗議をはじめたため、時の皇帝ナポレオン三世の提案で「産業博覧会の会場とは別に会場をもうけて展示し、大方の批評にまかせてはどうか」ということになり、世に言う「落選展」が開かれました。  そのときの世間の評判もやはり、「ああいう内容の絵は感心しない」ということだったらしいのです。それから約六〇年の後、パリではおしり丸出しのフレンチカンカンが一世を風靡するようになることを誰が予見したでしょう。  マネは亡くなる前の年にレジオン・ドヌール勲章を受けたのでしたが、今から思えば遅すぎた受章ではありました。」

    —『カラー版 絵の教室 (中公新書)』安野光雅著

    「わたしたちは、ものごとを、写真のように見ているのではなく、絵のように(主観的に、かなり自分の都合のいいように)見ているのだった。そして絵はそれでもよかった。むしろ、そのほうがよかった。  ということになりますが、いかにも悟ったようなこの考えかたは、実は写真がわたしたちに教えてくれた、あるいは、気づかせてくれた考えかただったのです。」

    —『カラー版 絵の教室 (中公新書)』安野光雅著

    「おもしろいことに写真を発明したダゲールは、はじめ絵のように、静物画を撮っていたのです。証拠写真とか、写真測量とか報道写真といった考え方は急には生まれませんでした。写真的な技術を待望していたのは画家だったのに、いざできてみると、これは強敵でした。写真は神を冒すものだという話になったりしました。写実の権威だったアングルもその反対者だったといいますが、彼の『泉』は写真を参考にしたものだそうです。  写真の出現に一時は大あわてだった画家たちでしたが、セザンヌ、ルソー、ピカソ、ドガ、ロートレックなどは写真を利用したことがあると言われています。とくにユトリロなどは公然と写真を参考にして描いています。「なーんだそうだったのか、それなら簡単だ」とは思いませんか?  ところが、そうではありません。写真を使ってもそう簡単には描けないのです。写真のようにはなっても、絵にはならないのです。最近ではアメリカのノーマン・ロックウェルの仕事があります。これはありあわせの写真を使うのではなくて、まるで映画を撮るように写真を準備してとりかかっているのですから、かえって大変です。「スーパーリアリズム」という用語を聞いた方もあると思います。これは写真で撮るほかはない決定的瞬間を、写真よりも迫力のある絵として試みた仕事でした。」

    —『カラー版 絵の教室 (中公新書)』安野光雅著

    「ちょっとラブレターの話をします。ラブレターには間違い字があったほうがむしろいいと言う人がいます。ものすごく上手な字で水茎麗しく、間違い字も何もない、一分の隙もないお手本のような字で書かれるよりは、むしろ間違い字があったほうがその人らしい─そういう余裕があったほうがいいということをよく言います。  ワープロで書いたラブレターというのは考えられないのですが、この頃はどうなのでしょう。以前はワープロで書いたよりも手で書いた手紙のほうが、その人の気持ちが直接伝わってきたような気がします。  絵もやはりそれに似ています。写真のように描いたり、あるいは写真を見て描いたりするとダメだと思うのです。その人の個性がどこかへ行ってしまって、写真のように描かされてしまい、上手だけども何も伝わってこない、ということになりがちです。」

    —『カラー版 絵の教室 (中公新書)』安野光雅著

    「そうは言っても、わたしは長いあいだ写実的な絵を描いて、悩んだ経験もあります。ようやく、好きなように描けばいいんだと悟り、外国の町や、人の見ているところでは「僕はもともと下手なんだ、頭も足りないんだ、絵が好きなだけなんだ」と、自分に言い聞かせます。そうして、世間の目の中で、まったく自由な世界を創って、その中で描くのです。その頃から描くことがより楽しくなりました。これは、いわば悟りでした。これは絵を描く方法論の中では最高に難しく、また実に楽なことでもあるのですが、わかってもらえるでしょうか。」

    —『カラー版 絵の教室 (中公新書)』安野光雅著

    「そのようにして見た結果を、画用紙の上に描きます。植物学の牧野富太郎は、細い筆で、和紙の上に驚くべき精密さで描きました(優れた画家の助手もいたそうです)。描かれたものは、絵というより、正確で説明的な意味を持っているので図と言ったほうがいいかもしれません。」

    —『カラー版 絵の教室 (中公新書)』安野光雅著

    「野の花  以前、『日本の椿』という書名の豪華本を作ることに関わったことがあります。紅白が斑入りに乱れた花を咲かせる、京都の法然院の椿なども見たことがありますが、銘木中の銘木で、それは実に豪華な花です。それにくらべて、椿の原種と言ってもいい大島椿は、鑑賞用というより油を採るためですし、山野の藪椿などはほとんど自生しているわけですが、豪華な改良種にくらべ、花は小さいし、葉は虫が食っているし、一見して野性的です。  一般に改良種の花と、野生の花をくらべると、野の花のほうが貧相な感じがしますが、絵に描いているうちに、断然野の花のほうが美しいと思うようになります。  これはなぜなのか、改良種と言っても自然の恵みによるもので、造花とは大きくちがいます。それでも野の花のほうが美しいと思えます。これがなぜなのか、いろいろなことが言えそうですが、言葉で説得されるより、自分で花を見て感じることのほうがいいと思います。  このたび、いろいろ描いてみた中で、花屋さんで買ったものはアネモネで栽培種です。木イチゴも買ったものですが、これは山道に自生しているものと同じです。木蓮もそうです。」

    —『カラー版 絵の教室 (中公新書)』安野光雅著

    「 そうは言っても、ここではできるだけ食い下がって写実的にいっぺん描いてみよう、そういう絵描きは現在もいますし、わたしもたとえば椿を描いたときなどはできるだけ丁寧に詳しく描いてみようと考えました。  さきに、生物学者のように食い入るように見て描くことについて書きました。そうすることで、何か新しいものが見えてくるはずです。  そうして描いた絵は、写真のような絵には必ずしもならない。リアリズムというのはそういうことだったわけです。アントニオ・ロペスの絵が「マドリード・リアリズム」といって評価されるのも、結局それはよーく見て描いたということだけで、写真のようなできあがりが問題ではないのです。出来不出来はいろいろとあるでしょうが、「よく見た」というその経験がきっと何かの形で残るだろうと思います。」

    —『カラー版 絵の教室 (中公新書)』安野光雅著

    「機関車はそれがどうして動くのか、あの黒い鉄のかたまりの中に一つとして無駄なものはなく、外観からも、その仕組みが見て取れる箇所もいろいろあります。その仕組みを考えながら描くとおもしろいと思います。大きい車輪に弾み車の機能があることは知っていましたが、それぞれに弾みの部分の大きさがちがうのです。また、坂を登るときのエネルギーは大変で、うまくいかないときは後退し、また挑戦すると聞きます。坂に敷かれた鉄道は、どうしても線路そのものを下に引く力が働くので、保線が大変だということは聞いてみなければわからないことでした。」

    —『カラー版 絵の教室 (中公新書)』安野光雅著

    「余談になりますが、『赤い風車』というロートレックの生涯をモデルにした映画を見てとてもおもしろかったことを思い出します。この映画にはロートレックが描いた人物が生きて動いています。人間を絵にしたのではなく、絵から人間が出てきた感じです。これはどの絵から出てきた人物かということがわかるくらいによくできていました。わたしは動く名画を見たようにさえ錯覚しました。」

    —『カラー版 絵の教室 (中公新書)』安野光雅著

    「また当時の、「自然界のものは、すべて円柱と球と円錐でできている」というセザンヌの言葉は、現在やや一人歩きしている感じがあります。セザンヌが言うと箴言的な響きを持ちはじめますが、格別深い詮索はしないほうがいいと思います。機能を考える上で形を科学的に詮索するのは、たとえば風洞実験などはいいとして、機能を持たない絵にあてはめて考えるのは無理だと思います。  ターナーの『戦艦テメレール』(一八三九)は帆船が蒸気機関車に曳航されている絵ですが、これはいかにも時代の変わり目を象徴しています。またモネの『サン・ラザール駅』(一八七七)という作品はパリにできた最初の乗客用の駅です。これも蒸気機関車という新しい時代を象徴する絵になっています。」

    —『カラー版 絵の教室 (中公新書)』安野光雅著

    「 たとえば、浮世絵には線がある。縁取りなどの線がある。でも、自分たちの(フランスの)絵には線がなかった。これは、彼らの目から見るととても新鮮だったようです。  そして、「やはり日本がいい」と思うらしいのです。わたしたちが聞くと、ちょっと気恥ずかしくなるほどなのですが、ゴッホは、「日本へ行きたい。できることなら日本へ行って、あの人たちが描くような絵を描きたい。彼らの描く絵は、われわれとは何か基本的にちがうところがあるんだ」と思い、太陽の明るいアルルまで出かけていくのです。  ゴッホの手紙の五四二信の中に次のような言葉があります。(前略)日本の芸術を研究してみると、あきらかに賢者であり哲学者であり知者である人物に出合う。彼は歳月をどう過しているのだろう。地球と月との距離を研究しているのか、いやそうではない。ビスマルクの政策を研究しているのか、いやそうでもない。彼はただ一茎の草の芽を研究しているのだ。(中略)  日本の芸術を研究すれば、誰でももっと陽気にもっと幸福にならずにはいられないはずだ。われわれは因襲的な世界で教育を受け仕事をしているけれども、もっと自然に帰らなければいけないのだ。」

    —『カラー版 絵の教室 (中公新書)』安野光雅著

    「ゴッホたちがせっかく浮世絵がすばらしいと言ってくれるのに、反対に、たとえばレンブラントだとかブリューゲルなどに傾倒してしまうわたしたちからすれば、彼らの考え方を「美しい誤解だ」と思う必要はないかもしれませんが、「そうだとも日本の浮世絵はすばらしい」と胸をはる気にはなれません。それは彼らの創造性が認識したのであり、わたしは彼らの目によって再認識したからです。また、わたしは日本の浮世絵に反応するより前に、印象派の仕事に反応していたことを、ややうしろめたく思うのです。」

    —『カラー版 絵の教室 (中公新書)』安野光雅著

    「 絵描きを職業として考えるとき、お金の問題を口にしないことが一種の紳士協定のようになっています(武士は食わねど高楊枝です)。しかし事実は経済的な問題を考えずにはどんな職業もなりたちません。ゴッホは絵が売れないことを、いつも気に病んでいました。「同時に将来は必ず売れるようになって、今つぎ込んでいる経費は必ず取り戻せる」という意味のことを、何度も手紙に書いています。その時点では誰にもわからなかったことが、現在は事実になっているではありませんか。彼の描いた、ただ一枚の絵だけをもって、彼のすべての経費をペイしてなお余ることは、奇跡というほかありません。  ゴッホの手紙の五二四信の中に次のような箇所があります。絵描きは、狂人かさもなければ金持のように見られる。一杯の牛乳が一フランしたりパン一片が二フランにもなる。それでいて絵は売れない。だからこそ、あのオランダの荒野で共同生活をしている修道僧のように、われわれも団結しなければいけないのだ。  これは、ゴーガンとの共同生活を期待している気持ちです。  ゴッホの手紙の五五二信の中には次のような箇所があります。画家はみんな労働者のような生活をしなければいけないのは、ほんとのことじゃないかね。大工だって鍛冶屋だって、いつも画家よりはずっと多くの生産をしている。」

    —『カラー版 絵の教室 (中公新書)』安野光雅著

    「『昆虫記』で有名なフンコロガシはアルルを流れるローヌ川の河口にあたる、サント・マリー・ド・ラ・メールで観察できました。サント・マリー・ド・ラ・メールにはゴッホも出かけていって絵を描いています。また近くのフォンヴィエイユという町にはドーデーがそこにこもって『風車小屋便り』を書いたという、その風車が今もありますが、これは観光的伝説です。でも、『最後の授業』(右寄りで美談すぎるという説があります)で有名な彼の故郷はやはり近くのタラスコンです。ゴッホは彼の本を読んだことを手紙に書いています。また手紙には、トルストイとかモーパッサンとかバルザック、シェイクスピア、ストウ夫人などのことが出てきます。ゴッホは大した読書人です。『アルルの女』という短編もドーデーの作品で、ビゼーの組曲になっています。同じ題名の絵がゴッホにもあります。この絵を描いたときのことが手紙の五五九信にでています。」

    —『カラー版 絵の教室 (中公新書)』安野光雅著

    「技術を磨くことが芸術表現の手段として大切であることは今も変わりませんが、技術に習熟することの一方で創造性を置き忘れてはいないだろうかということをおそれます。稚拙な絵が創造的だとは限りませんが、たとえば無心な子どもの絵にハッとさせられ、写実的な表現に腐心しているうちに、自分が現代の美術のあり方から取り残されているのではないかといったような心配をすることは、誰にもあるものです。」

    —『カラー版 絵の教室 (中公新書)』安野光雅著

    「 写実主義が完成に近づく前の絵は(実は写実主義でさえも)想像を抜きにしては考えられませんでした。  見たことのないものを描くには、想像力、創造力が必要です。それほど大げさに考えなくてもいいのですが、絵の世界に限らず、芸術科学一般にとって、それはなにより大切です。  数学者の野崎昭弘は、「もしも、こうだったら」と考えてみることは非常に大切だと言います。科学者の板倉聖宣は「仮説実験」を主張しています。言わないほうがいいかもしれませんが、犯罪者や捜査員にも大切なことです。ただし、想像や仮説はあくまで想像で、事実ではありません。想像の上に断定を重ねて、人の心の中を推し量って事実にしてしまうこと、つまり勝手に断定することとはちがうことをはっきりさせておきたいと思います。  卑近な例では、小説の挿絵や、漫画は、まさしく想像の世界を描いているわけです。仕事の評価は、その作品の持っている創造性を問題にすべきだという話になります。」

    —『カラー版 絵の教室 (中公新書)』安野光雅著

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    2026年08月31日
  • 小さな家のローラ

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    挿絵と共に大きな森での豊かな生活が描かれています
    キャンディ1つが大きな贈り物である心の豊かさが、とても羨ましいと思うのです

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    2026年08月02日
  • かんがえる子ども

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    子育て中、また歳をとっても、何度も読み返したいです。
    意味至上主義な現代社会において、視聴者が何も考えなくて観られるよう、丁重に説明し尽くす番組やコンテンツが相当多いように感じますが、「天気予報で着る服のアドバイスを伝えるなんて余計なお世話。自分で考えてみればいいじゃない」と一刀両断。
    確かに、そうだよなー、と考えさせられました。そして検索魔になりがちな自分を省みました。
    自分の人生は自分で考えて歩む、ということが豊かなことなのだ、というシンプルだけど忘れがちなことを気づかせてもらいました。
    また、親の気持ちを子に押し付けていないか、ほんとうに子を尊重するとはどんなことか、ハッとすることがたくさん書かれています。
    自分自身は考えることを諦めないでいたいし、子にも自分で考えること、自分で見つけていくことを伝えていきたい。

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    2026年07月28日
  • 会えてよかった

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    2012年に1年間「週刊朝日」に連載されたという著名な画家の交遊録。筆者も含め登場する人物の多くは故人。
    さりげない描写の中に筆者の芸術論であったり人生に対する深い洞察がある。

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    2026年03月03日
  • 空想亭の苦労咄 ――「自伝」のようなもの

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    もとは2006年刊。
    見事というしかない。「定吉」という弟子を相手に、落語風に自らを、そして世間を語る。しゃべくりも会話も絶妙。凝りに凝っているのに、ゆとりがあって、自然体、すなわち安野風。でも、絵を用いないで、これだけのことができるとは。
    カバーを最初に見た時には「?」 どうやら判じ物らしい。本文は落語の「湯屋番」の話から始まる。妄想する湯屋番=空想亭=著者という図式が見えてくる。登場する落語はほかに、「二階ぞめき」「長屋の花見」「火焔太鼓」「黄金餅」「寝床」「首提灯」「猫の皿」「酢豆腐」「高田馬場」「笠碁」。
    安野光雅作品のなかでは異色中の異色。しかも80歳でこの作品!
    (p.s. 人名はどこまでが本当か、見極めが必要。たとえば、二等兵時代の「石原という元ラッパ卒の友人」とか、N響アワーに出演しているきれいな娘さん「阿川ふみ」とか。)

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    2025年11月18日
  • かんがえる子ども

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    2018年刊。安野光雅、92歳。
    自分で考えて生きよう。そのためには、まずは疑おう、「自分の考え」を持とう、自分の大きさを知ろう、その場に行きその場で感じよう、「ほんもの」を見よう、本を読もう……子どもたちへのメッセージ。説教くさくないのがいい。
    おとなが読むと、安野光雅の生き方のエッセンスとして読める。安野は35歳までは小学校の教員だった。最初の絵本『ふしぎなえ』を出したのは42歳、初めてのエッセイ集『空想工房』は53歳。驚くほどスロースターターだった。しかし、彼の生き方を考えるなら、それもうなずける。
    本書の版元は最初の絵本を出した福音館。安野が小学校の先生だった時、生徒の保護者から、絵本を出してみないかと誘われた。その保護者が松居直、福音館の社長。そのこともうしろに書いてある。

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    2025年10月21日
  • 私捨悟入

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    2020年、亡くなる4カ月前の刊行。もとは『月刊数学教育』に2013年~19年連載の「忙中閑話」と「続忙中閑話」。
    『散私語録』から続く定番スタイル。トリビア、小話、アイデア、箴言、語録、なぞなぞ、思い出などの入ったカプセル、今回は317錠。
    どこかで読んだようなエピソードもいくつか混じる。いわゆる再話。ディテールが微妙に違っているのが可笑しい。たとえば、パリのホテルで向かいの部屋の妙齢の女性から電球の取り換えを頼まれる話。今回はいつもより詳しい。
    最後、317番目は、1984年に国際アンデルセン賞を貰った時に、山梨の温泉で泊りがけの祝賀会をしたという話。余興の写真が2枚、25名ほどの参加者に取り囲まれて、安野を相手に江國滋がトランプ手品を披露している。見ると、編集者のほか、森毅、野崎昭弘、澤地久枝、吉田直哉の顔が見える。和気藹々、41年前のスナップ。

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    2025年10月18日
  • 絵のある自伝

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    日本経済新聞の「私の履歴書」(2011年2月連載)とはまったく違った印象。大幅に加筆、連載後の後日談もある。水彩のイラスト(55葉)も花を添える。
    37の各章に、いくつもの小話風のエピソードが散りばめられている。そして安野氏お得意の謎めいた箇所も随所にある。だから、安易に読み飛ばすわけにはいかない。
    「つえ子のこと」、「村松武司」、「ダイアナ妃のこと」の章がいい。安野氏は『旅の絵本』にチャールズ皇太子とダイアナ妃の婚礼の儀式を描き込んだことがあった。そのため、ふたりが来日した折に英国大使館主催のパーティに招待された。「ダイアナ妃のこと」には、その時のこと、そして悲劇的な死のことまでが綴られている。
    最終章の「空想犯」は、連載にはなかったボーナストラック。ある年に、冗談の凝り過ぎた年賀状をみなに送ったため、思わぬところで問題を起こしたという話。しゃれもここに極まれり。

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    2025年05月08日
  • かんがえる子ども

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     ネットで検索してトップに出た記事ですべて知った気になっている現代人に、改めて自分の頭で考えることの重要性を説いておられる。子どもの方がよりテーブルに近く目線も低いので、うまく距離感が掴めなかったり置いてある物が見えなかったりすることに改めて気づく。相手の視点に立って考えようと子どもに言いながら、自分が子どもの目線に立てていないことを反省。子どもは大人をよく見ている。言われたこと、目の前の事実を疑い、自分の頭で考える習慣をまず大人からつけていきたい。

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    2025年01月16日
  • 絵のある自伝

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    ネタバレ

    2024年、北九州市立美術館に安野光雅展を見に行って、グッズショップで購入しました。子どものころから安野光雅さんの絵本に親しんできたので、私が夢中になっていたあの絵本は、このようにして作られたんだなとか、こんな秘密があったのね、なんて発見もあり、読んで良かったです。絵は一つのエッセイにつき1つ、ささやかに添えてある感じです。

    印象深いエピソードがたくさん載っている。戦時中のエピソード、子ども時代のことも興味深い。
    私が一番好きな安野光雅さんの絵本、「旅の絵本」シリーズがいかにつくられたかのエピソードもあって、読めて良かった。一冊目の中部ヨーロッパ編に脱獄犯が描かれていること。これはよく覚えているし、子どもの頃の私も気になってしょうがなかった。脱獄犯が他のページにもいるらしいと編集者が目を皿のようにして調べたと聞いて、しまった、描いておけばよかったと思ったらしい(笑)。で、6冊目のデンマーク編で、逃げている脱獄犯がいるらしい。(確認しなきゃ笑)。
    旅の絵本シリーズは文字は全くなくて、批判もされたらしい。しかし、安野氏いわく「絵や音楽をことばの説明を仲立ちにして見たり聞いたりしようとするのは、ことばに頼りすぎた者の悪い癖である。その癖が長じると『この絵は何なにを表している』とか、『何を意味している』というように、ことばで整理して判じ物を見るような目で見るようになる。そして、絵とはそういうものだと思いはじめるだろう」とのこと。
    そう考えると、姉と二人でほおを寄せ合って、「旅の絵本」を飽きもせず眺めていた幼い頃の私の、絵本の鑑賞の仕方は、本当に純粋で、それ以上ないくら正しいやりかただったのではないかと思う。
    最後の方は、親しい人たちとの別れのエピソードが多くなって、読むのが少し切なかったです。

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    2024年08月18日
  • カラー版 絵の教室

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    カラー版 絵の教室
    著:安野 光雅
    中公新書 1827

    絵をどうかけばいいのかという方法ではなく、感性豊かな画家が、自分の心情、考え方を述べたものであると理解しました。

    絵を書かないものが、「絵の教室」だなんて変だとはおもいますが、カラーの挿絵がたくさんあり、まさに、絵がわかりやすく語ってくれる本となっています。

    気になったのは、以下です

    ■はじめに

    ・絵描きにならなくても、絵が好きと言う人はたくさんいます。そういう人は音楽について話したり、絵について感じたことを述べるとき、自分の言葉で話します。文学作品について好き嫌いや、あるいはもっとつっこんだ話をする人もおなじです
    ・そういえば、野球でも、競馬でも、それらを好きな人は自分の考えをもっています。この「自分の考え」というところが大切、間違ったり論理的に矛盾がある感じ方でも、受け売りでなかったらいいかなと思います。

    ・写実的な絵というのは、目に見えているものを描いた結果のことですが、よく考えて見ると目に見えないものを描いていることが少なくありません。むしろ見えていないものを描くことに絵の意味があるのではないか、と思います。

    ■絵と真実

    ・昔は、「写真みたい」というのが、ほめ言葉だと思われていました。たぶん今でもその傾向はあると思います。

    ・宗教絵画、戦勝記念の絵、歴史絵図などは、舞台そのもののように、説明図になっています。今でいうイラストレーションの立場で考えると、絵の意味を抜きにすることができなくなります。

    ・構図とは、絵の構成のことで、コンポジションなどと言っています。

    ・昔は、基礎としての構図の方法論のようなものがあって、ちょうど、作文の文法のように、それを、マスターしなければ描けないというような考え方があったのです。

    ・伝承は単なる模倣ではなく、創造性が必要で、自分の創意が歴史的な創意にはかなわない、自分の創造性もつまるところ伝統が育んでくれたのだ、と謙虚に思うことも大切だという意味です。

    ■遠近法の実験

    ・同じ人物なら、遠くへ行くほど、小さく見える。鉄道の線路は遠くへ行っても同じ幅なのに、遠くは狭く見え、ついには、一点に収束して見えなくなります。この現象を、「遠近法」と呼びます

    ・遠近法という技術の問題というより、客観的なものの見方が問題なのだ。

    ・遠近法は、見えない世界を、さも見えているかのように描き表す手段になりました。

    ・わたしたちは、ものごとを、写真のようにみているのではなく、絵のように見ているのだった。そして絵はそれでもよかった。むしろ、そのほうがよかった。

    ・写真のように描いたり、あるいは写真を見て描いたりするとダメだと思うんです。その人の個性がどこかへいってしまって、写真のように描かされてしまい、上手だけど何も伝わってこない、と言うことになりがちです。

    ・美しいと感じる風景があるのはなぜでしょう。そうした感性を育ててくれた風景のことを、原風景といっています。

    ■よく見て描く

    ・生物学を学ぶ人たちは、花でも、昆虫でもそのように、解剖学的に花や虫を見ます。

    ・見ないでも描けるのは、仕組みがわかっているためです。

    ・描かれたものは、絵と言うより、正確で説明的な意味を持っているので図といったほうがいいかもしれません。

    ・「よく見ておく」ことをしなければ、蓄積することはできません。また、ただ見るだけでなく、絵に描けば記憶は、よりはっきりしたものとして、しまっておけることになります。

    ・よく対象を見て考えて描いたという下積みの経験があれば、一見デタラメなようであってもそれはデタラメではなくて、行ってみれば「デッサン力」というものになっていくでしょう。

    ■自画像の実験

    ・寺田寅彦に「自画像」という有名なエッセイがあります。

    ・子どもの頃、小学校の廊下に、「乃木大将」の肖像がかかっていました。白黒写真をもとに「写真みたい」に描いたものです。ところがこの絵はふしぎでした。それを見るわたしが右から見ても、左から見ても絵の顔はわたしを見据えているのです。

    ・寺田寅彦は描きかけの自画像を壁にかけていると、「絵の顔が思いがけもなくまたたきをするような気がした。これはおもしろいと思って見つめるとなんともない」などと書いています。

    ・山藤章二の場合で言うと、「花の中三トリオ」を描いた有名な作品があります。山口百恵と桜田淳子、森昌子の三人が中学生の時に売り出していたことがありますが、この人たちが年をとったらどうなるんだろうという50年たったのちの中三トリオを想定して描いているのです。

    ・「似ても似つかないものを描いて、しかし似ている」という離れ業みたいなことをやっている、これが似顔絵の真面目です。

    ■ゴッホの存在

    著者はどうして、ゴッホだけを、ひとつの章で表現したかったのでしょうか。ちょっと気になりました。

    ・ゴッホたちがせっかく浮世絵がすばらしいと言ってくれるのに、反対に、たとえばレンブラントだとか、ブリューゲルなどに傾倒してしまう私たちからすれば、彼らの考え方を「美しい誤解だ」と思う必要はないかもしれませんが、「そうだとしても日本の浮世絵はすばらしい」と胸をはる気にはなれません。それは彼らの創造性が認識したのであり、わたしは彼らの目によって再認識したからです。また、わたしは、日本の浮世絵に反応するより前に、印象派の仕事に反応していたことも、やや後ろめたく思うのです。

    ・ゴッホに至るまでは、情熱だけで絵を描いたという時代はおそらくなかったのではないでしょうか。ゴッホが現れて、情熱だけで描いていきます。「お金になろうとなるまいと、売れようと売れまいと、とにかく絵を描く絵を描きさえすればそれでいい。もしかして、売れずに終わったかもしれないけれど、それで満足だ。絵さえ描いておれば満足だ」という彼の生き方が、私たちに何か強く訴えかけてくれます。

    ・売れない絵ばかりが繋がっているのを見ると、ある意味では哀れだし、ある意味では非常に感動的で、絵を描くわたしたちにとってはとても大きな存在のように見えてくるのです。

    ■イマジネーションと子どもの時代

    ・森鴎外も、なんだか自分を支配するものが頭にいて……、責任上、鴎外の著作をさんざん探して、「妄想」という作品の中にあったことがわかりました。

    ・この本の結論は、想像力・創造力がたいせつなのだという話になります。そしてそれは疑う力とセットになっています。創造性は想像すること、つまりイマジネーションからはじまりますから、一言でいうとやはり、イマジネーションという問題です。絵を描かない人でも、イメージする力は大切なことです。

    目次
    はじめに
    1 空想の宿題
    2 絵と真実
    3 遠近法の実験
    4 よく見て描く
    5 自画像の実験
    6 ゴッホの存在
    7 イマジネーションと子どもの時代
    あとがき

    ISBN:9784121018274
    出版社:中央公論新社
    判型:新書
    ページ数:224ページ
    定価:980円(本体)
    2005年12月20日初版
    2007年06月10日7版

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    2024年06月02日
  • かんがえる子ども

    Posted by ブクログ

     画家で、絵本作家でもある安野光雅さんの本を初めて読んでみました。
     画風などから独特な感じを受けていたので、合わないかもと危惧していましたが、とても興味深く面白い内容でした。

     題名のごとく、「自分で考える」ということを、多くの人に「考えてほしい」という内容です。それでは、自分で考えるとは、どういったことなのか?

     安野さんは「考える」、ぱっと答えを出すのではなく、「じっくりと考える」ことができるような本を書いてこられたようです。

     例えば、クイズは、知っていることの中から答えを見つけるものですが、答えを全く知らなくても、その問題を考えていれば答えを導き出せるのがパズルと書かれています。

     数学系の、パズル的練習問題が4問書かれてありました。そのうち一問は難しい…

     私は解けなかったので悔しくて、こういうのが得意な中学生の息子に助けを求めました。息子もなかなかわからず、スマホで友達15人ほどに問題をシェアして、皆んなああでもない、こうでもないとそれはよく考えてくれました。
    あー、これこそ、「かんがえる子どもだな!」と思わず笑ってしまいました。安野さんの狙い通りです。

     結局、お友達の従姉妹とうちの子が、それぞれ違った解法で解けました。すごく難しく、色々な場合を想定して考えなければいけない問題でした。息子も、なかなかわからず、悔しそうで、でもとても楽しそうで、解けた時はスッキリとしてすごく嬉しそうでした。これが考えるということかと教えてもらいました。そして、こういう楽しさをみんながもっと知っていれば、スマホ依存から少し遠ざかることができるのでは、と感じました。

     子供と関わる親や教育関係の方に、是非読んでもらいたい一冊でした。


    心に響いた箇所を抜粋します。この本を読む予定の方は、読む楽しみが減りますので、ここからは読まないでくださいね。

    ○子供に見えているものと、大人に見えているものは、そもそも違うのではないでしょうか。もしそうだとしたら、この違いは親や教師が心すべきことだと思います。

    ○子供が、大人のすることをしっかり見ています。その結果、かなり演技をし、だんだんと要領が良くなっていきます。どういう答えを書いたら、先生に褒められるのか、ということまでわかってくるようです。
    もっともらしいことを教えられれば、教えられるほど、子どもは、自分自身辞めるつもりのないことでも「廊下を走るのはやめましょう」などと言うようになります。大人と一緒に生きていくための、これも一種の生活の知恵なのでしょう。

    ○私はしつけなどと言う考え方が嫌いです。子供は早く大人のようになるより、子供らしい世界に存分に生きて、自分からお行儀よくしたほうがいいらしいぞと感じる時は来るのを待つほうがいいと思います。

    ○お土産のお礼がうまく言えなくても、心の中では喜んでいることが伝われば、それで良いのです。子供の礼儀にかなった返事を期待して、大人がご褒美を与えるとしたら、大人の方が間違っています。

    ○一位になっても得意にならず、ビリになってもベソを書くような子ではいけない。世の中は、何でも競争するようにできている。今、一等になるために走るのではなくて、いつか大人になって一等になっても得意にならず、ビリになってもくじけない、そんなプライドを持つ日のために走るのだ。

    ○大人になってから、子供の頃にやっておけばよかった、ということはたくさんあります。でも、子供がそれをやらないからといって、親は嘆かないでもいいでしょう。大人は後のことばかりを重く見て、今のことを大事にしませんから、子供から見ると、せっかち、ということになります。

    ○できれば、子供たちには、美談でない本と出会ってほしいと思っています。なぜ美談を逃れたほうがいいかというと、美談はほとんど嘘だからです。本当のことが書いてある本がいいと思います。

    ○自分で学ばなければ、何にもならない
    勉強は自分でやることが大事。勉強の基本は独学。

    ○図画工作の時間は、上手に絵をかいたり、ものを作ったりするのが、めあてではありません。
    上手にかこうとするよりも、見たり考えたりしたことを、自分で感じた通りに、かいたり作ったりすることが大切です。
    しんけんに、絵をかき、ものを作り続けていると、上手になるだけでなく、人としての感じ方も育ちます。この繰り返しの中で、自然の大きさがわかり、どんな人にならなければならないかが、わかってきます。これがめあてです。
    『子どもの美術』より

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    2023年12月18日
  • メアリ・ポピンズ

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    あまりにも有名な本である。津田の読み直し世界文学の1冊。やさしいやさしいお手伝いさんか、という先入観を持っていたら全く異なっていた。

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    2023年07月24日
  • あしながおじさん

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    何度読んでも色褪せない名作。
    主人公があしながおじさんに送る手紙からなる本作は、とっつきやすく、主人公に共感しやすい。
    劇的な場面は少ないが、少女にとっての悲しみや喜びを丁寧に描いた作品。

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    2023年03月27日
  • シンデレラ

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    名作絵本、どの本で読み聞かせしてあげようかなと悩んでいる最中。
    安野さんの描かれたシンデレラを見つけた。文章が綺麗。絵が美しい。大人向けかな?と思いきや萌ちゃんもしっかり見て聞いてくれた。

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    2023年03月07日
  • あしながおじさん

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    谷川俊太郎さんの翻訳と安野光雅さんの絵が素晴らしいです。

    ジュディーの率直で前向きで、ユーモア溢れる言葉の数々はキラキラしていて、読んでいて心が磨かれて洗われるようでした。

    本人が書く手紙なのに彼女がどんどん新しいことに出会い、学び、お洒落に、素敵になっていく様子が読んでいて楽しく、ワクワクしました。

    読み始めたら止まらないこのお話は、ジュディの成長譚でありながら、同時にハッピーエンドに違いないと思いながらも様々な角度から想像して時々切ない、素敵なラブストーリーでもありました。

    谷川俊太郎さんのまえがきと安野光雅さんのあとがきにも心を打たれました。

    これまで読んだ本の中で一番好きな本になったかも知れません。

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    2023年02月17日
  • かんがえる子ども

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    こどもに真摯で丁寧な安野さん

    空想の世界で遊ぶ娘たちを
    現実世界で間違いないしつけに押し込もうとしてしまいつつある私をふりかえりつつ

    ゲームとゲームのYouTubeが好きな娘たち
    ゲームができない日は、なるべくゲームの解説動画をみて過ごしてる

    はて。それでいいんだろうか?
    テレビをみるのも動画をみるのも似たようなもの、とおもう妻はとくに疑問なく1日1つならOKと

    『わが家のルール』はどこでもすくなからずあるでしょうが、うちはかなりきびしめ。「なんでゲームするために英語べんきょうしないといけないの?」と小3小4の娘が反対するのも頷けます、、

    せっかちなだけ。なのかもしれません
    つくりたいのはルールよりも習慣です

    本を娘たちが好んで読むようになったように
    私が好んで英語をたしなむ姿を毎日みると、むくむく興味がわいてくるものなのでしょうね。明日から7時起きにしよう

    •••ますますせっかちになりますね汗

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    2022年08月29日
  • かんがえる子ども

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    サクサク読める。
    地動説を発見したコペルニクスの喜びはどんなに大きなものだったろうか。
    こどもの発見の芽を摘んではならない。

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    2022年08月20日
  • 絵のある自伝

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    ネタバレ

    今、一等になるために走るのではない、いつか大人になって一等になっても得意にならず、ビリになってもくじけないプライドを持つ日の為に走るのだ

    試験というもののありかたが、教育の方向を決定づけているという変なことになりつつある。

    絵は説明ではない。(略)壁に飾る絵に題名はあっても文字はない。

    空想の時間

    などなど、普段感じてることがさらっと書かれていて、あぁ、間違ってない、というか、自分の気持ちに肯定感を得たような。

    戦中、戦後を生き抜き、沢山の絵を残し、令和の世の中まで見て逝かれたのだと思うと尊敬しかない。

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    2022年06月15日
  • かんがえる子ども

    Posted by ブクログ

    今の時代、すぐにネットで調べてしまう。
    自分で考えるってことがほとんどない。でも、この本を読んで“考える“ことをしてみようと思った。

    まずは身近なところから…
    『あの漢字どういう時だったっけ…』『あの芸能人なんて名前の人だったっけ…』考えることで案外、自分が漢字が書けることや思い出せることに気づいたりする。笑

    大袈裟かもしれないけど自分自身も見えてなかった自分の可能性に気づけたり、ふとした時に広い世界で物事を見れたりするのかもしれないと思った。

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    2022年02月27日