難しくやや背伸び感があったが、時間をかけて読み終えた。
↓以下僕なりのまとめ
フッサール初期『算術の哲学』→『論理学研究』
問題意識は思考の依拠する基礎の解明。
心理学は、認識のうち経験に関する実在的主観的連関には有効だが純粋論理に関するイデア的客観的連関の解明には及ばない。後者の解明のため経験心理学の前提から離れ認識体験を純粋に記述する態度が現象学である。彼はブレンターノの志向性の概念を意識の基本的性格として援用し、認識作用の主観性と認識内容の客観性を橋渡した。実在的対象ではなくイデア的対象を意識が志向し表象すると、その「構成」作用の所産として純粋論理が立ち現れる。ここで彼はイデア的対象を前提としておりプラトン主義あるいは論理主義的である。
中期『イデーン』
論理的/実践/判断理性の批判を通じ内的確実性への到達を目指す彼は、神/理性的秩序を追求する西洋の理性主義的哲学の流れにおり、意識やイデア的なものを経験的法則に還元する自然主義的科学的態度や思想を歴史/心理/社会構造の所産に相対化する歴史/心理学/社会学主義を批判する。これらの実証主義は、それ自体その状況でのみ正当性をもつ相対的なものに過ぎないという自己否定に至り懐疑主義に陥る。認識主体に真の志向対象として与えられていない超越的存在者の断定を根拠としており、普遍的真理を求める学の理念を変造あるいは弱体化するものだとする。対して「第一哲学」たる現象学は、超越的断定を保留する「現象学的還元」の態度をとる。この還元により、経験的科学が前提する諸条件の一切を括弧に入れ、意識そのものの自己構成が問題となる。ここで志向性の概念は、静的な「対象の志向的内在」ではなく、動的綜合的な意識の構成作業に結びつく。デカルトのコギトに立ち還り、純粋意識の一般構造を、その志向作用=ノエシス的契機と志向される対象=ノエマ的契機の相関関係として組織的に解明する。現象学を基礎学に据えて、そこから経験的科学を出発させる試みだといえる。
後期『危機』
自然主義的態度と自然的態度を分け、自然を客体化し合理的なものだと断定する自然主義的な理念の衣を剥ぎ直感的に経験される生活世界に立ち戻る自然的態度を恢復することを、現象学的還元の第一歩とした。この態度は、デカルトのコギト、バークリーとヒュームの懐疑論、カントの超越論の流れにある。デカルトは超越論的主体主義の道を開いたがその先に客体的合理的世界を置いた。経験主義者は客体的世界の自明性を疑った。カントは主体の意味構成の問題に迫った。
また、中期での対象を能動的に定立する「作用志向性」に加え、後期では主体の受動的根源的な生活世界の構成作業への還元も示唆される。あらゆる対象は孤立しては経験されず、潜在的に他の対象との関係たる外的地平と対象そのもののもつ性質や契機たる内的地平から成り、この地平が相互に関係し合い全体的地平=「世界」となる。作用志向性~生活世界に先立ち匿名的に世界を構成する働きを「作動しつつある志向性」「受動的綜合」と呼ぶ。このような受動性に着目した「発生的現象学」は、知覚経験から身体主観性の問題へと移り「身体性の現象学」が成立する。また、生活世界は個人的主観だけに尽きるものではなく、他者の身体への「自己投入」「感情移入」を介した共同主観的構成の問題に至る。自然的態度での主体の世界経験はもはや、世界を越え出て世界の表象や意味を定立する超越論的主観性たる「世界定立」というより、世界そのものに受動的に自身を内属させる「世界内存在」である。
以上のように変遷を経て錯綜するフッサール現象学を巡って、後継者たちが豊かな展開を見せていく。
「世界内存在」はハイデガーの概念。構成的主観は世界内部的存在者ではないが純粋な超越論的主観でもない。超越論的構成の可能性を有する存在者が、自己を企投し世界へと超越し世界内部的存在者と不可分に結びつき、その実存のなかで、自身の存在とその意味を各自的に解釈する現場(Dasein)となる。フッサールは中期で世界定立が自然的態度の本質規定と考えたが、後期では自然的態度を自然主義的態度と線引きし前者を知的活動に先立つ根源的な世界の事実的存在の開示=世界経験とした。さらにハイデガーはこの世界経験の概念を一歩進め世界内存在と捉え直し、それを現存在の基礎的存在構造とした。ハイデガーの基礎的存在論では一切の哲学的思索が、実存の遂行を通じた現存在の各自的な自己了解に出発するため、彼の置かれた事実的状況に根差す。自己了解の本来性/非本来性を決める基準にも彼が理想としたキルケゴール的人間観が多分に入り込み、それが『存在と時間』を断稿させる一因となった。
一方、フッサールでは絶対的超越論的な主観の業に留まった哲学的反省を各自の実存を生きる人間存在のうちに根付かせようとしたハイデガーの姿勢が、現象学の新しい展開をもたらした。
1930年代ナチス体制が確立したドイツでは現象学は過去のものとなるが、フランスの若い世代が新たな現象学を展開する。
サルトルは、認識を物を意識のうちに取り込み消化する作用だと錯覚する従来の哲学に対し現象学は認識を本来的に意識に外的で相対的な世界へと自己を超越して自己を炸裂させる運動とみなすものだと解釈した。現象学について、対象の志向的内在より意識の志向的外在に重きを置いて捉え直したといえる。根源的な非反省的意識は対象への純粋な志向作用に過ぎない非人称的なもので、この一次的意識が他我と同様に超越的対象の一つとして反省的に二次的な意識としての自我を構成する。この自我の存在が、意識に不純で不透明な部分をもたらし意識を凝固し自発性を失った実体とする。
サルトルは現象学的還元の無動機性の問題について、フッサールが還元し得ない剰余たる自我のコギトに意識の根源的構造を見たのに対し、自我のこの自己欺瞞に対して意識が根源的に抱く不安こそ還元の動機だとした。共に絶対的非人称的な意識の所産たる自我と世界は透明な純粋意識を介して相互依存する。
以上のように『存在と無』で現象学に絶対的認識の権利を恢復する思弁を展開した一方で、初期のサルトルは絶対的権利への躊躇いも示しており、現象学が実存から出発し世界内存在の原理に忠実である限り、一切の経験的認識に先立つ本質直観はあり得ず、哲学的反省は経験の意味の解釈の域を出ないとする。
メルロ=ポンティは真のコギトを、「我思う」の観念論でも刺激と感覚の一対一関係を恒常仮定する実在論でもなく、世界内存在の内属性を徹底する「我なし能う」、すなわち客体的世界に先立つ知覚的な「生きられる世界」に還元した。ここで知覚野は要素に還元されない有機的全体たる構文法で成り立つ。
客体的世界は生きられる世界を地とした図として構成される。意識は、絶対的真理=理性を志向しある対象を現在の私だけでなく過去や他者の全ての知覚主体にとって統一した対象と捉えようとするが、それは他方で現象の綜合なので私的生活とその起源たる知覚への内属から脱し得ない相対的なものである。彼は私的経験的な生への内属性と絶対的理性への志向を共に明かそうとする。
知覚的な世界経験は自己の現象的身体を現場とする前人称的な匿名の機能で、刺戟を分化し安定した全体性をもつ非定立的実践的知たる「身体図式」へと形態化し構造化する。この「脱自」で超越で世界内存在そのものたる身体的実存の層で対象や意味は前述語的に統一され、生きられる世界は身体図式の統一に応じて前論理的、潜在的、曖昧、両義的、開放的に統一され現前する。意識は生きられる世界から意味を二次的に再構成する。この実存的基層が一切の合理性の母胎となる。
客観性や文化的対象の構成には複数の主観の相互同意たる「相互主観性」が必要となる。まず他我の認識の問題に直面したフッサールは、自己の身体に類似する他我の外部的身体に自己の内部身体性と自我を「自己投入」しそれを他我と認識するとしたが、これはマネキンに投射した自我に過ぎず他我ではない。この挫折は、「われ」を自身にしか近づき得ない意識とする規定に端を発する。メルロ=ポンティは問題を身体的実存の層に置き世界への共属性から解決しようとする。この層では世界は身体の志向性により身体の文脈のうちに生まれた独我論的なもので、真の即時的な「物」は他人の開示の後に立ち現れる。思惟の次元では他の精神や思考はマネキンへの感情移入程度にしか経験し得ないが、感覚的経験の次元では他人が私にとって実存する。知覚的世界で自我は脱自して他の脱自と同じ世界に共属し、この次元で相互主観的、客観的な「物」が可能となる。
この議論はアンリ・ワロンなどの発達心理学の上に立つ。幼児は、内受容性→身体図式→外的知覚→他人の観察→鏡像段階の順に発達する。視覚的に他人の身体から学んだ認識を系統的に自分に移し、自分の見られる身体と内受容により感じられる身体との対応関係に慣れる。鏡像段階では内受容による身体と鏡のうちに見える身体が区別されず自己は偏在性を持つ。同じ時期、幼児には自他の区別がなく、自分の視覚像と同様に他人の身体のうちにも自分を感じる。この時の幼児では、外から見える私の身体と私の内受容的身体と他人とが不可分な一つの系をなす。自分が未分で、生活が自分に限定されず、自他の体験が融け合い、このことが「癒合的社会性」の基礎となる。癒合的社会性の爆発が「3歳の危機」まで続き、そこで自他の間に「間身体性」などの中性的、客観的な地盤が整備され「生きられる隔り」が出来上がる。発達を経ても幼児期の未開の思考は留まり続け顔を覗かせる。成人の相互主観的世界が可能だとすれば、癒合的社会性が寄与をするだろう。
絶対的な真理を追求すると歴史性が厄介な問題となる。歴史性の現象学は現象学の歴史性に直結する。哲学は歴史に内属して時々の相対的妥当性を実現する一つの理念である。哲学は歴史を内的分節と構造に形式化し、歴史は哲学を実在化する。知と歴史を往復してそのずれを縮めることで、その文脈での固有の真理を見出せる。超越論的主観性は我々を歴史の全体に結びつけていく相互主観性に他ならず、不断の生成、普遍的な実践の環境としての共存の次元にある。
現象学とは、知と歴史の循環性を開示し、世界や歴史の内側から経験の全体に問いかけその意味を生起する状態において解読し、ある固有の真理を実現する努力である。