死について考えさせられる新書だった
「「天涯孤独っていう人がいるじゃない、あァいう人がうらやましいわ。 呆けた両親を見ていると、老人とかかわらないで一生が終われるなんて最高よ!」」
—『大往生 (岩波新書)』永 六輔著
「☆二十歳の頃から、自分が三十歳になったら、四十歳になったら、六十歳になったら、八十歳になったら、ということを考えている人は上手に歳がとれるという。若者から、「歳をとったら、あァいう老人になりたい」と憧れられてこそ、本当の老人である。くれぐれも「あァいう老人になりたくない」と言われないように。」
—『大往生 (岩波新書)』永 六輔著
「「私の障害は一級一種です。 障害者の中ではエライんです」 ☆盲人で車椅子の方が、そう名乗ったとき、僕は「エライ」という発想が面白くて笑ったが、これがテレビだったために問題になった。障害に「エライ」という区別はないというのである。福祉の世界では洒落や冗談が通じないことが多くて残念だ。」
—『大往生 (岩波新書)』永 六輔著
「「死ぬということは、 宇宙とひとつになるということ」」
—『大往生 (岩波新書)』永 六輔著
「「病院で死ぬか、在宅で死ぬかじゃありません、誰に看取られて死ぬかなんです」 ☆病院の集中治療室で、医療器具と技術者に囲まれて死にたくない。家族や仲間に囲まれていたい。遺族になる家族が納得のゆく臨終でありたい。 これには病院の協力が必要だ。死への協力も病院の仕事と理解してほしい。病院は生だけでなく、死についての学習を。」
—『大往生 (岩波新書)』永 六輔著
「「日本もひろいねェ! 毎日、六十人が自殺しているんだって!」」
—『大往生 (岩波新書)』永 六輔著
「「人さまの前で「人の世話にはならない」という人がいますが、自分で墓の穴を掘るんでしょうか」」
—『大往生 (岩波新書)』永 六輔著
「山崎 どうも皆さんいろいろな意味で誤解しているのではないでしょうか。ホスピスというのは決して死ぬ場所ではなく、最後まで生きるところなんです。だから、ホスピスの考え方でいけば、淡谷さんのように舞台の上で歌を歌って最期を迎える、というのは非常に自然なことだと思いますね。」
—『大往生 (岩波新書)』永 六輔著
「山崎 まず、財産では救われませんね。それから医療だけでも救われませんが、かたい信仰をもっている人はそれで救われると思います。しかし、日本人は信仰をもっていない人がほとんどです。結局、患者本人と周りの人たちとの深い友情関係によって出てくる「愛」の世界によって救われるのではないでしょうか。愛の世界というのは宗教に共通するものですよね。永 日本人には信仰があるんでしょうか、ないんでしょうか。無着 日本には仏教があるんだけれども、お坊さんたちがお経をきちんと読めるようにしなかったわけです。つまり日本の宗教それ自体が、教祖のやったことをみんなに話すチャンスを奈良時代以後失って、読経仏教になってしまったという問題がありますね。そのために、日本人が宗教に対してオンチであり、宗教オンチの国になってしまった。だから、世界でも極めて特殊な状況下にあるんですね。」
—『大往生 (岩波新書)』永 六輔著
「山崎 まず、財産では救われませんね。それから医療だけでも救われませんが、かたい信仰をもっている人はそれで救われると思います。しかし、日本人は信仰をもっていない人がほとんどです。結局、患者本人と周りの人たちとの深い友情関係によって出てくる「愛」の世界によって救われるのではないでしょうか。愛の世界というのは宗教に共通するものですよね。永 日本人には信仰があるんでしょうか、ないんでしょうか。無着 日本には仏教があるんだけれども、お坊さんたちがお経をきちんと読めるようにしなかったわけです。つまり日本の宗教それ自体が、教祖のやったことをみんなに話すチャンスを奈良時代以後失って、読経仏教になってしまったという問題がありますね。そのために、日本人が宗教に対してオンチであり、宗教オンチの国になってしまった。だから、世界でも極めて特殊な状況下にあるんですね。永 そうすると、世論調査にあったように最後は財産を頼りにして死ぬしかなくなってしまうんですか。無着 そうですね。死をどのように受け入れるか、ということが一番発達していないのが日本なんですよ。」
—『大往生 (岩波新書)』永 六輔著
「永 そういう淡谷さんの強さを支えているどこかに信仰ってあるんですか。淡谷 あります。お不動様と観音様。毎朝お明かりあげて拝むの。子供の時からやってます。前に、心霊の人のところへ行って、死んだ母を呼んでもらったことがあるの。そのとき母が「あんたはお不動様に助けてもらったことがあるんだから、しっかりご信心しなきゃだめよ」って言ったの。永 お不動様に助けられたことは自覚していますか?淡谷 はい。ハルビンへ巡業でいったとき、ホールの屋根が落ちたんです。ほんとでしたらそこにいたはずなんですが、あんまり人さまが来て下さって、ホールに入りきらないんで、収拾がつくまでホテルにいなさいって言われて、そこで待機してたんです。そのとき、お不動様に助けられたんだと思うの。永 でも、そこが大切なところで、子供の時からお参りをしているから助けられたという考え方と、偶然いなかっただけだと考えるのでは、ずいぶん違いますよね。無着 いよいよ死ぬという時に、自分の信じるものをもっている人の場合には死を納得させることができるけれど、信じるものをもっていない人は、ほんとに死ぬことが納得できないんです。だからその人に何を信じ込ませて死を迎えさせるか、というのは一番重大なことでしょうね。」
—『大往生 (岩波新書)』永 六輔著
「永 そういう淡谷さんの強さを支えているどこかに信仰ってあるんですか。淡谷 あります。お不動様と観音様。毎朝お明かりあげて拝むの。子供の時からやってます。前に、心霊の人のところへ行って、死んだ母を呼んでもらったことがあるの。そのとき母が「あんたはお不動様に助けてもらったことがあるんだから、しっかりご信心しなきゃだめよ」って言ったの。永 お不動様に助けられたことは自覚していますか?淡谷 はい。ハルビンへ巡業でいったとき、ホールの屋根が落ちたんです。ほんとでしたらそこにいたはずなんですが、あんまり人さまが来て下さって、ホールに入りきらないんで、収拾がつくまでホテルにいなさいって言われて、そこで待機してたんです。そのとき、お不動様に助けられたんだと思うの。永 でも、そこが大切なところで、子供の時からお参りをしているから助けられたという考え方と、偶然いなかっただけだと考えるのでは、ずいぶん違いますよね。無着 いよいよ死ぬという時に、自分の信じるものをもっている人の場合には死を納得させることができるけれど、信じるものをもっていない人は、ほんとに死ぬことが納得できないんです。だからその人に何を信じ込ませて死を迎えさせるか、というのは一番重大なことでしょうね。山崎 特定の宗教だけではなく、例えば家族の愛とか、そういうものが信じられれば、信仰がなくても大丈夫だと思いますよ。つまり、兄弟の愛とか家族の愛というものを信仰ととるか、とらないかによるんですけど。」
—『大往生 (岩波新書)』永 六輔著
「無着 生きている目的は死ぬことですよ。だとすれば、見事に死んでみせようとするためには、今死んでも大丈夫なように生きるしかないんですよ。死ぬことを語るのは縁起の悪いことではなくて、楽しいことなんです。淡谷さんのように、このように死にたい、あのように死にたい、と語るのはうんといいことなんですよ。淡谷 そうです。だから、あたくしは、皆さんにご迷惑だけれども、ステージで死にたいと思ったんですよね。きたやま 死ぬということを言葉にして皆さんと話をするのは非常に難しいですね。宗教の話でいくと、日本には神道がやっぱり根強く残ってます。日本の神様はどちらかというと死に弱いんですね。むしろ死を正視できないというか、死を受容できない。心理学の立場から言うならば、生き生きと美しく輝いていたものが突然何も言わなくなるというあの落差がすごく痛ましいわけですね。ですから、淡谷さんがむしろ堂々と「人前で死んでやる」とおっしゃってくれるのは、日本人が変わるチャンスかもしれないし、すごく画期的なことではないかと思いますね。でも、見る側にとっては大変な課題を押しつけられたことになりますね。それを見つめてくれっていうわけだから……」
—『大往生 (岩波新書)』永 六輔著
「きたやま 亡くなっていく方の気持ちをうかがうということは、私たちも非常に苦しいわけですね。これはやっぱり宗教がないとなかなかできない仕事なんです。ガンだと言われても、やっぱりみんなどこかでそれを「疑う」んですね。「そんなことはないだろう」「そんなはずはない」って。だから、それを信じ切る気持ちというのはなかなか生まれてこないんです。 それが、一定期間たつとだんだん実感になってきて、今度は何で自分が死ななきゃならないんだという「怒り」がわいてくる。ここですごく重要なのは、それをしっかりと受けとめてくれる神様や友人やお医者さんに囲まれているということ。その怒りを周りに迷惑だからと我慢してしまうと、当人は非常に辛いんです。だから僕は、その時はしっかり腹を立ててもらわないと困ると思っています。 そしてどんなに腹を立てても死は免れられないとなると、「憂鬱」とか「絶望」とか「悲しみ」というのがあって、分かち合える相手がいるといいけれど、これは一人で嚙み締めねばならないものというふうに言われています。 そして最後に、冷静に自分の死を迎えるという心境の「受容」の時期が来ると一番素晴らしい。」
—『大往生 (岩波新書)』永 六輔著
「永 さっきのアンケートで日本人が最後に頼るのは財産だとありましたが、でもやっぱり信仰をもっているほうが強いとお感じになりますか。山崎 それは感じますね。宗教を本当にかたく信じている人たちの場合には、いろんな状況を乗り越えて最期を迎えますけれど、それはやはり世の中を信じられるからなんでしょうね。しかし、特定の宗教をもたなくても周りの人たちと生きることを共有してきた場合には、お互いにその場で信じあえるという状況が生まれると思います。」
—『大往生 (岩波新書)』永 六輔著
「永 ぼくはよく「死亡率一〇〇パーセント」と言うんですけど、人間は必ず死ぬ。その最終的な死の場面をどうやって迎えるかは、当人にとっても家族にとっても、たいへん重大な問題なんですね。 わが家を例にすれば、父の希望通りに最期は家で見送ろうと決めまして、お医者さんには「家へお連れしたら、それでお終いですよ」と言われたけれど、帰ったんです。帰ったら、父はにわかに、あれが食べたい、これが食べたい、と言い出して、病院にいたときより元気になっちゃったんですよ。今度は食べ過ぎだったんでしょうね。また救急車で病院に運ばれて、最後はそこで亡くなったわけですが、でも、ぼくはとてもよかったと思っています。退院させてくれたお医者さんに感謝しています。」
—『大往生 (岩波新書)』永 六輔著
「永 ぼくらの世代がギリギリなんだけど、かつてはだれもが家で生まれ、家で死んでいましたよね。それがごくふつうの人生の舞台だった。ところが、現在はほとんどの人が病院で生まれて、病院で死ぬ。家は、その間を通過する仮の舞台に過ぎなくなってしまったわけ。ぼくらには、人間が生まれたり死んだりするときのドラマが記憶のなかにある。あの部屋でおじいちゃんが亡くなって、そのときに親戚のあのおじさんが活躍したとか、反対に、弟妹が生まれたときに近所のおばさんが集まってきて、子供は向こうに行ってらっしゃいなんて言われながら、お産婆さんが駆け込んできたりして、オギャーッて生まれたところへ間接的であれ立ち会っていたんですね。命の誕生とお終いには。そんな生活体験が、いまやまったくなくなっちゃったわけでしょう。その代わりに、何かをしなければいけない。」
—『大往生 (岩波新書)』永 六輔著
本日の注目本
#永六輔 『大往生』(岩波新書 赤329)
90年代後半、よく売れていた一冊でロングセラーです。
永六輔さんは、港町の清水を愛して下さったので当地の書店・戸田書店にもよく来てくださいました。サイン会も懐かしいです。
「山崎 死とはだれにも訪れる通り道なんですね。どうしても避けられない。その意味で、さきほどのロマンティックな死に方だけを言っておくのはどうも不十分で(笑)、もうひとつぼくの頭のなかに理想的な死の形があるんです。 これは本にも書きましたが、ぼくは一九八三年に調査船に乗って南極へ行ったときに氷山の氷を拾ってきて、家の冷凍庫にしまってあります。それから、ぼくの医者としてのものの考え方を根底から変えた『死ぬ瞬間』の著者、キュブラー゠ロス女史に三年前にアメリカでお目にかかったとき、手作りのクッキーをご馳走になって、そのうちのいくつかをこっそり持ち帰り、冷蔵庫にしまってあるんです。もう黴が生えて食べられないかもしれないけれど(笑)。つまり、冷凍庫に南極の氷が、冷蔵庫にロス女史のクッキーが入っている。それは、ぼくの人生にとってかけがえのない場所と人の記念です。だから、ぼくは人生の最期のときを自分の家で、その氷で作った水割りを飲み、クッキーを齧りながら迎えたいと思いますね。そして、やはり家族に「いい人生だったね」とお祝いしてもらって、ぼくも素直に「さよなら」と言えたら、これはとても安らかな死だろう、と。永さんが言われたように、死とは決して恐怖ではなくて、自然の道筋のうえにあるものだと家族に伝えられたらいいですね。」
—『大往生 (岩波新書)』永 六輔著
永 六輔「大往生」を読み切る。
著者が伝聞した一般人の「名言」や、自身の近しい人々を通した経験を交えつつ、生老病死をあくまでも明るく考えようという一冊。
それだけあり終始軽やかな気持ちですらっと読める。
「名言」は現在からすると時代錯誤なものはあれどユーモアや説得力に溢れていて良い。