棚刺しで目があって借りた。初読の作家さん。
闘病中の方が身近におられる人には読むのはしんどいのではないやろうか…
と、思うような本やった。わからんけど…。
(わたしの)年齢が年齢やからかもしれへんけど、ある意味すんごい「死」を感じる話やったなあ。
あっ、わたしにも残された時間なんて少ないな
と、また思った。最近ほんま、こればっかり感じてしまう(笑)。
しかも今までとその解像度が違う。
老いは病気ではないけど、作中で翔太が感じてたように
「未来があるのが当たり前」
の、「前提」がぼんやりと見えているくらいの解像度?
未来があるのが当たり前と思っていない、まではいってないけど、
「この人は『未来があるのが当たり前』と、思ってるんやなあ」
と、いうのが他者を見ていてなんとなくわかるというか? いやややこしいし、えらそうやな。
まあもちろんそれには「わたしにもそんなころがあった」が、含まれるんやけど、なんやろうねえ、他者に対して
「この人にも事情や都合がある」
と、いうことをまったく考えないタイプのことかな。
単に性格の問題もあるかもしれへんけど、いやいや、生きてりゃみんな事情や都合があるもんやん。
若いうちは自分自身のそれで手一杯、世界はそれがすべて、みたいになるけど、変な話、
「みんなそう」
なんよね。
自分自身はものすごい事情があって、周囲はのほほんと生きてるように見えたり、苦労してへんように見えるんやけど、その人にもその人の「ものすごい事情」がある。云わんだけで。見せんだけで。
そこに考えが至っていないのかどうかは言動の端々にどうしても出る。それがいいとか悪いとかではなく。
自分自身の「ものすごい事情」はそれはそれでいい。大変でいい。自分が世界の中心でいいし、むしろそうすべきやけど、何がアレって、
「『自分のものすごい事情』をわかってくれない周囲は無神経」
などと周囲を下げるような言動をすることが、
「他者にも都合がある」と、いう想像に至らないタイプ
で、ひいては
「未来があることを当たり前に思っている」
ように感じる、ちゅう感じかな。
後半はかなり飛躍してるけど、飛躍している部分は
「他者の都合を考慮できない人はたんなるわがままなのでは」
ちゅう話で、そもそも、わがままを通せることが、未来があることを当たり前に思ってる、ちゅう感じ。
あ、やっぱり飛躍するか。笑
聞き分けのいい人になるべし、と、言いたいのではないけど、わがままを通すことに対する対価を払えると当たり前に思っているところに、未来を贅沢に使ってるかな。
とはいえわたしも全然、病気や死、そもそも病院にほぼかかわらんまま50年生きてきている。ありがたい話すぎる。
この先はそういうわけにもいかんやろけど、とりあえずはできることを毎日やろうと思った。
(何)
著者の他タイトルも読んでみようかなあ。
ちょっとクセはあれど(あと、この話に関しては登場人物にそこまで移入できなかった)(何やねん)、むきだしの感情がぐっとくるところもある。
生きるって成長するってことやなと思えたので、読んでよかったなと思う。