これまでの社会人の経験を振り返るための手がかりとして、本書を再読した。以下は気づいた点のメモ。
本書は、日本社会における転職を、感情的判断や偶発的出来事としてではなく、データと行動科学に基づいた体系的な現象として捉え直す試みである。その出発点として、著者らは日本の転職観に潜む「隠れた前提」に着目する。すなわち、本人が自分の志向や能力を正確に理解していること、その自己像が短期間では変化しないこと、企業や仕事の実態を求職者が十分に理解していること、企業と仕事が安定的に維持されること、そして両者が変化せずに相互に適合する機会を得られるという前提である(p.40)。しかし現実には、人も組織も常に変化し、予測困難な状況を生きている。こうした前提を無批判に受け入れると、転職の意思決定やキャリア形成を誤って理解する危険がある。この前提を解体するところから、本書の議論は始まる。
第1章では、人が転職意向を持つまでの心理過程が多角的に整理される。多くの場合、人は日常的な職務不満や組織の非合理性に接しても、即座に転職を決意するわけではない。不満の存在そのものよりも重要なのは、不満が「将来においても改善されない」と個人が予測するかどうかである。著者らは、職場の課題が時間とともに改善される見込みがないと判断したとき、つまり未来への期待がしぼむ時点で転職意向が強まるという研究結果を示す(p.62)。この状態はしばしば学習性無力感として説明される。努力しても状況が変わらない経験を蓄積することで、改善を試みること自体が無意味だと学習してしまう現象である(p.58)。
さらに、意思決定に過度の時間がかかり、会議が冗長で、組織の人間関係が硬直している場合、職場全体の「重さ」が心理的負担を増大させる(p.67)。形式的な手続きを重視しすぎる場や、変革に抵抗する文化が強い環境では、この重さが増幅され、働く人の疲弊感を引き起こす。そこに心身の不調、同僚の退職、転職経験者からの誘いといった「最後のダメ押し」が加わることで、離職意向は最終的な決断へと収斂していく(p.72)。このように、転職は突発的な選択ではなく、複数の心理的要因が累積するプロセスとして理解されるべきである。
この心理過程を定式化したものが「D×E>R」である(p.49)。ここでDは現状への不満(Dissatisfaction)、Eは転職力(Employability:転職市場で行動し、選択肢を探索し、職務経験を可視化し、応募行動を遂行できる能力の総体)、Rは転職への抵抗感(Resistance:経済的不安、組織への愛着、生活変化への恐れ、家族要因など)を意味する。転職が現実的選択肢として浮上するのは、不満と転職遂行能力の掛け合わせが、転職に伴う抵抗感を上回った瞬間である。この式が示すのは、転職意向と行動が「感情」と「行動可能性」の相互作用によって決定されるということである。転職力が高ければ、不満が比較的軽度であっても転職が視野に入る。一方、転職力が低ければ、不満が激しくても行動へ移れない。この点は、転職を行動科学的に捉える上で重要な視座である。
第2章では、転職活動そのものが「自己へのリフレクション(内省)の連続」であることが語られる(p.107)。転職活動では、過去の経験を棚卸しし、どのような場面でどのような能力を発揮したのかを明確化する作業が不可欠となる。これは単に経歴を列挙する作業ではなく、経験の意味づけを通じて「自分がどのように価値を提供してきたか」を再発見する過程である。この内省を積み重ねることで、個人の職業的アイデンティティは更新され、環境に応じて柔軟に変容していく。ここで重要なのは、エンプロイアビリティが固定的属性ではなく「行動として発揮される能力」であるという視点である。求人情報の収集、応募書類の改善、面接に向けた準備、ネットワークとの接触など、転職活動のあらゆる局面で、本人の学習と行動が問われる。
第3章は、転職後の幸福感を規定する要因に焦点を当てる。著者らの分析によれば、転職動機が前向きであるほど、転職後の幸福感が高まる。特に、社会的意義のある仕事をしたいという志向(ソーシャル)、スキル向上の志向(チャレンジ)、役職や職責向上の志向(キャリア)は、幸福感につながる三つの中心的要素である(p.113)。これらは、単なる逃避ではなく未来志向の接近動機であり、転職を通じて自己の成長軌道を設計することに関わる。逆に、現状から逃れるためだけの転職や、感情的反応に基づく転職は、結果を伴いにくい。
第4章では、転職が越境学習としてどのような意味を持つかが論じられる。越境とは、異なる制度世界に移動することで、これまで自明視していた行動様式や価値観を相対化し、自己の働き方を再構築する学習プロセスである。異なる組織文化に身を置くことで、新たな職務遂行規範、評価体系、人問関係の流儀などに接触し、自身の仕事観が刷新される。転職後に柔軟に働き方を調整できる者は、そもそも日頃から学習時間を確保し、経験を熟考している者であるというデータが示される。つまり、学習習慣の有無が越境後の適応を大きく左右し、キャリアの持続的発達に影響する。
第6章では、転職後の適応を組織側の視点から分析する。転職者の活躍は、個人の能力だけではなく、組織の構造や文化に大きく規定される。内部昇進を重視する組織では、暗黙知の共有が中心的役割を果たすため、外部からの転職者が職務を理解するまでに時間がかかる傾向がある。これに対し、専門性が中心となる組織では、外部採用が知識更新の手段として扱われることが多い。いずれの場合にも重要なのは、役割の明確化、初期段階での期待調整、情報提供、心理的安全性の確保という。
また、転職者自身による働きかけの重要性も指摘される。著者らは、転職後の適応において「自分も変わりうる存在であり、組織も変わりうる/変えられる存在である」という前提を採ることが有効であると述べる(p.240)。この前提に立つことで、転職者は受動的に組織に適応するのではなく、能動的に環境と相互作用しながら自分の働き方を整えていくことができる。フィードバックを求める行動(フィードバック・シーキング)や、人脈と情報ネットワークを構築する行動(ネットワーク・シーキング)は、越境後の不確実性を軽減し、職務遂行能力を迅速に高める効果を持つ。また、職種を問わず重要になるソーシャルスキルとして、関係形成、関係維持、そして適切に主張する力が挙げられる(p.249)。これらは転職後の職場適応に不可欠であり、組織の新旧メンバーとの橋渡しにも関与する。
第7章は、特にミドル層のキャリア発達を念頭に置き、転職後の行動変容を考察する。多くのミドル層は豊富な経験を持つが、越境後の環境では過去の成功パターンが機能しない場合も少なくない。このとき重要になるのが、経験の意味づけ、まず行動する姿勢、学びを実践に活かす態度、新しい居場所を自ら形成する能力、そして異なる価値観を持つ年下世代とうまく協働する柔軟性である。これらの行動は、単に転職後の適応に有効であるだけでなく、現職にとどまる場合でもキャリア停滞を回避し、環境変化への抵抗を弱める働きを持つ。