ガリバーと言えば巨人を連想される方も多いでしょう。第1章のリリパット、いわゆる小人の国のお話です。
ただ、スウィフトの作品の本質は人間社会への痛烈な批判にこそあります。しかし、小人の国(第1章)や巨人の国(第2章)が注目され、ガリバーの単なる冒険譚として見なされがちであることは、スウィフトにとってはなんとも皮肉なことです。
まずは第3章。「空飛ぶ島・ラピュタ」のお話から。ラピュタは島国バルニバービの領空域を自在に移動することができる飛島です。
ラピュタの民は誰もが科学者であり、常に科学について沈思黙考しています。そのために心はいつも上の空。ときどき、正気に戻るために頭を叩く「叩き役」なる者を連れています。
ラピュタの科学は優れていながら、それが実用に活かされることはなく、「学問のための学問」に過ぎませんでした。スウィフトは「科学は人類に貢献すべきもの」と考えていたため、人類に貢献しないラピュタ人のような科学知識は、まったく無用の学問と見なしました。
また、地上のバルニバービは豊かな国でしたが、空に浮かぶラピュタ国に常に搾取される存在でした。そのため、バルニバービの住民には生気がなく、街は荒れ果てています。
仮に、バルニバービで反乱が起きれば、ラピュタの国王は島を反乱の起こっている場所の上空に移動させ、太陽や雨を遮り、その地域の農業を破滅させ、飢餓と病を与えます。酷いときには、ラピュタを島ごと下降させ、街を力任せに押し潰して鎮圧させます。
ラピュタを後にしたガリバーは、グラブダブドリッブという小島を旅し、魔法使いの種族と遭遇します。
彼らは降霊術を心得ており、ガリバーは歴史上の偉人を呼び出しました。その結果、彼らがいかに堕落した不快な人物であったかを知ることになります。スウィフトはここで、幾世代間もの人間性の堕落がいかに根強いものであるかを、示そうとしています。
高貴な時代からの退化という形で人類の進歩を示すことにより、現在の人類は堕落しています。しかし、かつてはその堕落も甚だしくはなく、まだ救いようがあったことを伝えようとしているのです。
次にラグナグという島にたどり着いたガリバーは、この島国に不死の人間がいることを聞かされます。ガリバーは自分も不死であったなら、いかに輝かしい人生を送ることができるだろうと夢想します。しかし、彼らは不死であるものの、不老ではありません。そのため、老衰から逃れることはできず、80歳を過ぎると法的に死者として扱われ、以後、永遠に老いさらばえたままで、世間から厄介者扱いされるのです。悲惨な境涯を知らされたガリバーは、むしろ
死とは人間に与えられた救済なのだと考えるようになりました。
そして最終章のフウイヌム国(馬の国)。フウイヌムは、平和で非常に合理的な社会を持つ、高貴かつ知的な馬の種族です。この国では、戦争や疫病や大きな悲嘆を持つことはありません。
そしてこの国には、フウイヌムを悩ませている、ヤフーと呼ばれる生物が住んでいます。ヤフーは、人類を否定的に歪曲した野蛮な種族であり、ヤフーの中には退化した人間性が存在しています。
ヤフーは酩酊性のある植物の根によるアルコール中毒に似た症状を持っていて、絶えず争い、輝く石をむやみに求めています。ガリバーはヤフーの行動に、特に理由もないのに同種族で争いあう習性と戦争を引き起こす醜さとは、まるで人間そっくりだという発見をします。
そしてガリバーは、自分は人間ではなく、ヤフーであり、また自分の住む世界にいる人間たちもヤフーであると信じるようになります。以来、ガリバーは(自分は俗世間に塗れた故郷には戻りたくない。自分はフウイヌムでありたい)と切望し、己がいかにフウイヌムによって啓蒙されたかを語るのです。
しかし、ガリバーは故国に帰ることになります。それでもガリバーは、自分の「人間性」から遠ざかろうと考え、最後は半ば、厭人的になります。これは、ガリバーという虚構の世界に仮託した、スウィフト自身の姿でもありました。
スウィフトは『ガリバー旅行記』をとおして、人間の醜さや愚かさを徹底的に暴こうとしました。この作品が書かれたのは、今からおよそ300年前ですが、それでも今なお、この『ガリバー旅行記』が読み継がれているのは、偏に「人間にある普遍的な人間の心の不純さ」を鋭く指摘しているところにあります。この負の普遍性に気付いたスウィフトの眼差しは、現代に生きる僕たちにまで、鋭く射抜かれていると言えるでしょう。