あらすじ
著者は少年の頃、京都の禅寺で精進料理のつくり方を教えられた。畑で育てた季節の野菜を材料にして心のこもった惣菜をつくる――本書は、そうした昔の体験をもとに、著者自らが包丁を持ち、一年にわたって様様な料理を工夫してみせた、貴重なクッキング・ブックである。と同時に、香ばしい土の匂いを忘れてしまった日本人の食生活の荒廃を悲しむ、異色の味覚エッセーでもある――。 ※新潮文庫に掲載の写真は、電子版には収録しておりません。
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幼い頃に京都の禅寺で精進料理の作り方を教えられた著者の暮らしと料理のエッセイ。
貧乏寺だったと表現される少年時代はそこにある物で食事を作るしかなく、工夫を重ね作り上げた料理は文章からでも美味しさが伝わってきます。
今のように何でもかんでも手に入ることはもちろんなく、逆に今の時代の方が豊かではないと感じてしまうほど、ありきたりな世の中になってしまったかもなと考えさせられました。
追い詰められることもなく、責められることもなく、それではモチベーションや意欲は正直保ちにくく本人の意思に委ねられ過ぎている気がします。どの時代が良いとか関係なく今生きているので色々と頑張らなきゃと思いました。
作中に何度も出てくる『典座教訓』も今度購読してみます。
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自然の恵みをいただいて、調理をして食べるということ。頭でわかっていても日々の忙しさに、調理することと食べることそのものが雑になりがちだけど、丁寧に向き合おうと思わせてくれる本。定期的に読みたい。
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水上勉氏は、少年自宅に禅寺に預けられ、そこにて修行体験をする。16歳からは、京都の等持院にて老師の隠侍、すなわち食事、洗濯、掃除などをおこない、数々の教えと共に精進料理について学ぶ事となった。
スーパーやネット販売などなく、何もない台所から絞り出し、料理をするのが、精進料理。旬なもの、畑から出ていりものを食べるのであり、畑と相談して決める、つまり土を喰うのである。
土から出てきたものには、平等の価値があり、根っこでも、無駄にはしない。
何もないら台所から、客の心を忖度し、料理をすることは、修行であり、哲学でもあるのだ。
季節の精進料理が紹介されており、教え、教訓的なものもあり、読んでいて楽しい。
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映画『土を喰らう十二ヵ月』のDVDを観て(映画の料理監修が、土井善晴先生なので、ちょっと気になっていたのだ)気に入り、原作を読みたいと思った。
元の本はけっこう昔に出版されていたらしいけれど、映画の情報が出た頃に再版されたのだと思う。
令和3年12月10日 32刷の本。
長く読まれているのだなと思う。
文章のテンポがまさに映画での沢田研二さんの語り口で、いい気持ちで読み進める。
映像も目に浮かび、またDVDを見たくなる。
原作はエッセイなので、女性編集者との関係などのストーリーは無い。
けれど、映画での物語は原作の雰囲気を壊していないし、おばあさんと山椒の佃煮のエピソードなどは人物の続柄を少し変えてうまく取り入れている。
映像も、原作も良い。
一月の食料は、雪の中から掘り出したり、貯蔵庫から乾物を取り出して料理したり、旬を喰う日の楽しみはまだ。
春の芽吹きから、夏の収穫、秋の山のめぐみを経て、十二月、寂しい冬となり土も眠る。
一周して戻った。人の一生のようである。
土の恵みを採り、料理をするという作業の間、作者の脳裏にはいつも、子供の頃に寺で修行していた頃の和尚さんの言葉や思い出が浮かんでいる。
禅寺での料理作り。それは精進の日々である。
その時期ある物で作る、または「何もない台所から絞り出す」
そして、精進の極意は季節を喰うところにある。
何度も読み返したい1冊がまた増えた。
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月毎に違う食材が書かれているので、どの月から読んでも楽しめる。
食を通した人との交流が丹念に紹介されているのが良い。個人的には、六月の章の梅干しの話がジンときた。
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子供時代に禅寺で修行していた著者が、その教えを活かし、毎月様々な料理を作る本。
「美味しんぼ」で知った人も多いと思います(自分もその一人)。
この本には高級料理なんて一品も出てきません。
粗末なお惣菜ばかりです。
けれど、どれもこれも最高に美味しそうです。
畑で取れた旬の野菜を、手間ひまかけて丁寧に料理する。
それがどんなに贅沢で、どんなにありがたいことか。
作中では、以下のように書かれています。
『出来のわるい大根を、わらう資格はぼくらにはない。
尊重して生かせば、食膳の隅で、ぴかりと光る役割がある。
それを引き出すのが料理というものか。』
食材に貴賎なしということですね。
本当の意味での「ご馳走」とは、まさにこういう事なんだと教えてくれます。
じんと来る表現もたくさんあり、心を豊かにしてくれる一冊でした。
ちなみに、自分が一番心惹かれたのは、次の一文です。
『めし時になると、父は近くの山へ入り込んで、三十分くらいすると何やかや、木の葉や、キノコやをとってきてオキ火を片よせて、そこで焼いて喰った。
弁当箱には、味噌と塩とめしが入っているだけだった。
山へゆけば、惣菜になるものが収穫できるから、何もいらなかったのである。』
ああ……なんて羨ましい!!
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水上勉が幼少の頃の寺暮らしを回顧しつつ、軽井沢の仕事場で一年、ぬく飯と家の畑で取れる季節の野菜、山菜、木の実などを様々に調理して味わうエッセイ。精進料理ということで、肉、魚の類はまったく登場しないにもかかわらず、その読むだに滋味豊かな食事は、四季をそれぞれに楽しみ、美味しさに溢れている。この歳になると、本当の豊かさとは、ぬく飯と四季折々の素朴な汁菜のことだと気がつくものだ。随所に引かれる『典座教訓』も滋味深い。
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日経の春秋で「五十三年も生きていた梅干し」の話が引用されて興味を惹かれて購入。なるほど少年時代に京都の禅寺で奉公した経験を元に軽井沢で隠遁生活?をしている食と料理を中心とした月ごとのエッセイ。
『めしを喰い、その菜のものを調理するということは、自分のなりわい、つまり「道」をふかめるためだということがわかってくる。一日一日の食事を、注意をぬいて、おろそかにしていれば、それだけその日の「道」に懈怠が生じるだろう。』
これが全てかな。食材への感謝。そもそもの食材やそれを育てた土や風土の声を聞くこと。手間を惜しまず工夫を重ねる。それこそ『精進』料理であると。何かとコスパ・タイパが重視されがちな今だからこそ改めて噛み締めたい言葉も多い。
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水上勉さんは少年の頃、京都の禅寺で精進料理を教えられたそうです。精進とは「さらによくしろ」。その体験を元に、一年にわたって様々な料理を紹介されています。「土を喰う(くらう)日々」、わが精進十二ヵ月、昭和57年8月発行。高野豆腐と大根の一夜漬けが無性に食べたくなりましたw。人間は口に入れる食べ物の味覚の他に、暦の引き出しがあって、その思い出を同時に噛みしめる。はい、そんな時が間々あります!
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若狭で生まれ禅寺に入り9歳から精進料理を作り始めた著者。軽井沢に居を構え、季節の恵みを工夫を凝らして料理し命をつなぐ。一つ一つの料理にまつわる記憶。移ろいゆく四季の幸、土の香りの溢れた料理の記録。
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料理ってその人のテクニックとかを現すものだと思ってたけどそうではないのだね。
食材を大切に思う心とか、その土地に感謝する心とかが最も大切で、人間はそれをいただいているだけでしかない。
精進料理の捉え方が変わった。
定期的に読み直したい本。
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水上勉が、若き日の修行僧時代に学んだ精進料理を元に、日々の食事をととのえる様をつづった異色の食エッセーである。「土を喰う」のタイトルのとおり、季節季節に土の畑で採れるものから献立を決め調理する。そこにあるのは、すべてを無駄にせずおいしくいただくという禅の教えに通じる考えである。それにしても、この本をもとに映画を作ったそうだが、どんな映画になったのだろう。不思議だ。
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映画版の方の「土を喰う十二ヵ月」を読んだ。
松たか子の存在がうるさく、この静謐な作品に女臭さが果たして必要か?と疑問だったが、こちらを読んでやっと腑に落ちた。
あちらはやはり、商業用にエンタメ化されていた。
真摯に食(自然そのもの)と向き合い、自分と、食べてくれる人を思う。
それがただ淡々と語られている。
読みたかったのはこれだ。
Posted by ブクログ
新潮文庫
水上勉 土を喰う日々
著者自ら 畑に行って 食材を探し、皮も根も草も捨てることなく調理し、喰う ことにより、精進料理とは何かを問うた本
「精進料理とは、土を喰うもの」という言葉で始まり「調理とは 自分のなりわい〜道をふかめること〜おろそかにしていれば〜道に懈怠が生じる」という言葉で終わる
季節に応じた 異なる食材を 調理するのは 和食ならでは。五月の筍、六月の梅干し、九月の松茸としめじは、仏教的制約のある 精進料理にあっても 食欲をそそられる。しかし、辛い大根や渋い栗が 美味しく感じるというのは 理解しがたい
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映画を観て原作を読みたくなり購入。
旬を食す=土を喰らう。
旬なものを、旬な時期に食べるのが、一番美味しいと言われる所以がよくわかった気がした。
料理をする静かな時間が想像でき、自分の気持ちまでゆとりが派生した気がする。
Posted by ブクログ
映画の「土を喰らう十二ヶ月」を観てたいへん面白かった。面白かったが、まさかあんな美人の編集者(松たか子)と懇ろの仲になっていたとまでは流石に思わなかったが、妻方の親戚(尾美としのり)が、自分の母親の葬式の一切までもツトム(沢田研二)に任せ、あろうことか骨壷まで置いていったのをみて、そんなことをありあるのかとビックリして本書を紐解いたのである。
予想通り、そんなことは一切書いてなかった。どころか、未だ著作当時水上勉の奥様は健在だったし、どうも義理の母親の葬式エピソードは、祖母の一人暮らしエピソードを改変したようだった。中江裕司監督は、真冬の信州の自然に、沖縄の死生観と自然観を注ぎ込んだのだ。
映画にも出てきたが、道元の著書(『天座教訓』)引用が至る所に出てくる。10代のお寺修行は、老境の著者に、53年浸かった梅のように滋味深いあじを与えたのか。思うに、その自然観と死生観は、500年を経て尚且つ生命力を持つものだろう。
どうせしないだろうけど、やってみたい料理がたくさんあった。
・ほうれん草の「根」の赤いところはしっかり洗ってお浸しにまぶす。
・蕗のとうの網焼き
・山の焚火に濡れた紙にタラの芽を入れて焼く。
・渋柿の灰焼き
・無名汁
我が家には、捨てるにすれられなくて置いている30年以上は浸かっている梅干がある。勇気を出して食べてみようかという気にもなった。
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質素ですが、自然と共存する食の世界。読み進めるほどに、その面白さ喜びが伝わる文章。なんとなく真似て作れるものも中にはあるが、ほとんどは再現出来ない。本当の贅沢ってこういうものかなとも思うし、多くを求めないことが美徳的にも思える本ですが、本当は欲望の追求なんかもな、とも思える名著。
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言葉遣いが独特で、すっと筋の通ったエッセイ。
田舎暮らしへの憧れが募る。
映画の内容とはまったく違うけれど、
エッセンスはこの本からしっかりとられている。
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少年時代を京都の禅寺で過ごした著者が、軽井沢の地で畑で育てた野菜を食べる日々を綴る。禅寺では食事自体が大きな意味を持ち、食べることだけでなく調理すること材料を調達すること全てが修行となる。そのため食材を大事に扱うことや味付けに至るまで現在の著者の食に対する考えの根源となっています。しかしそのことが窮屈な感じがせず、それどころかのびのびと食べること調理することを楽しんでいるように思えるのです。
畑で採れたものを食べるということは土を食べるのと同様のことであるということ。最近では「旨味=甘味」という公式がはびこっており、美味であることを表わす表現が全て「甘い」となっていることが気になります。しかしここで語られる土からの食物は甘味だけでない様々な味が渾然となり、そこを楽しむ妙味が描かれます。何より著者が食を楽しんでいる様子が素敵です。
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軽井沢山中の庵に暮らし、そこの自然で採れる食材で自給自足の生活をおくる著者の、食にまつわるエッセイ。
1月から12月までの12章に分かれていて、それぞれの時期の旬の野菜や草木の話題を中心にして、調理の仕方と心構えが書かれている。
普通のレシピ本のような内容とはまったく違い、芋の皮をいかに惜しんで薄くむくべきかや、育たない冬を耐えて芽吹きの春を迎えた時の喜びなど、自然との接し方について語られている部分が多い。
ここで説明されている料理は、どれも質素で簡単なものばかりだけれども、小説家なだけあって、その描写がものすごく上手く、読んでいると、くわいをただ焼いただけのようなものでさえ、とても滋味にあふれて美味しそうな感じが伝わってくる。
9歳の頃から禅寺で修行をした著者は、16歳から寺の典座(食事)をまかされ、精進料理を作る日々をおくった。著者の、料理中の写真が時々挿まれているのだけれど、これが渋くて、やたらとカッコいい。
初版は昭和53年だから、現代のようなスローライフブームのはるか前から、ごく当たり前な姿で実践していたことになる。
2004年に病没するまでの間、ずっと同じような生活を続けていたのかと思いきや、その後インターネットが登場してからパソコンに興味を持って「電脳小学校」というものまで作ろうとした時期があったらしく、それは結構意外なことだった。
道元さんという方はユニークな人だと思う。「典座教訓」は、このように身につまされて読まれるのだが、ここで一日に三回あるいは二回はどうしても喰わねばならぬ厄介なぼくらのこの行事、つまり喰うことについての調理の時間は、じつはその人の全生活がかかっている一大事だといわれている気がするのである。
大げさな禅師よ、という人がいるかもしれない。たしかに、ぼくもそのように思わぬこともないのだが、しかし、その思う時は、食事というものを、人にあずけた時に発していないか。つまり、人につくってもらい、人にさしだしてもらう食事になれてきたために、心をつくしてつくる時間に、内面におきる大事の思想について無縁となった気配が濃いのである。
滑稽なことながら、ぼくらは、故郷の過疎地に老父母を置いて、都会の巷で、「おふくろの味」なる料理を買って生きるのである。学生街食堂に櫛比する、「おふくろの店」は、そういう大事をわすれた子らが喰える、皮肉な喰いものといえる。道元禅師のいう大事は、己れがつくる時だけに生じるもので、そこのところが、ぼくの心をいま打つのである。(p.76)
ぼくが毎年、軽井沢で漬ける梅干が、ぼく流のありふれた漬け方にしろ、いまは四つ五つの瓶にたまって、これを眺めていても嬉しいのは、客をよろこばせることもあるけれど、これらのぼくの作品がぼくの死後も生きて、誰かの口に入ることを想像するからである。ろくな小説も書かないで、世をたぶらかして死ぬだろう自分の、これからの短い生のことを考えると、せめて梅干ぐらいのこしておいたっていいではないか。(p.110)
この世に山野が生むもので同一のあるいは普遍の食べものはありはしない。よくみれば、その土地土地の顔と味をして、食膳に出てくる。京にうまれて「京菜」、野沢にうまれて「野沢菜」、軽井沢では、その野沢菜そっくりのものさえうめないではないか。不思議なことだと思う。(p.192)
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9歳から禅宗寺院の庫裡(くり)で暮らし、精進料理を覚えた村上勉さん。16歳から18歳までは、等持院で尾関本孝老師の隠侍(身の回りのお世話係)をこなしていた。老師の食事も作り、精進料理を学んだ。貧乏寺でなにもない台所から絞り出すのが精進で、それは土を喰らうものだと思ったのは、畑と相談しながら料理を作っていたからだそうだ。そんな村上さんが12ヶ月間、山荘の台所で土を喰らう生活をしたときのレシピとエッセイ。
土を喰らう生活という表現でもわかるように、畑から取ってきたり、掘り出したりしたものを、ただ焼いたりするだけの料理なのに、とてもおいしそうに思えた。取れ立てで、皮を薄く剥いて、素材の味を楽しむ料理は、今の時代ではとても貴重なもののように思えた。レンジで簡単にすぐできるもの、たくさんの調味料を使って作ったものを普段いただいているから、余計にそう思えたのかもしれない。この本は昭和53年に出版されたものだが、その当時でも、売られている野菜はもう本来の味ではなかったようだ。今も大根が辛かったりしたら、買ったのを失敗した気がしてしまう。本当の野菜の味を私は知らないんだなと思った。
この本を読むと、竹の子を掘ったり、きのこを採ったり、野菜を育てて食べることに憧れる。本当に生易しい生活ではなかったと思うけれど、自然の中で生活したことのない私は、そんなことを思った。生きるために何を食べるのかということについても考えさせられた。
ちなみに映画もとてもよかった。季節に合わせて撮られた映像や自然の音に、心が落ち着いた。
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以前はお寺の小僧やっていて今は軽井沢に住む著者が、昔教わった精進料理をベースに身近で取れる野菜果物、四季の食を書く。
私も春はふきや蕗の薹を楽しみにしており、より自然に近い暮らしをしている筆者を羨ましくも思う。また、野生の食材を美味しくいただく為の手間も結構なものなのだと。この手間を楽しめるようになると良いのだが。
父に送りたい一冊と思った。
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昔住んでいた付近のお話が沢山出てきて懐かしい気持ちになった。
お料理もこんな風に毎日用意出来たらなと思う。
そして自分が料理するときに、食材をどれだけ無駄にしているんだろうと振り返るきっかけになった。
あまりお寺の事には興味がないので、そういう人には馴染みのない言葉が結構出てくるので大変かもしれない。
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映画『土を喰らう十二ヵ月』に感動したので、原作の料理エッセイも読んでみた。しかし物語部分はほぼ映画のオリジナル。このようなエッセイを土台にして、よくあのような物語を作り上げたものだと感心する。
しかしそこに流れる仏教的なテーマは、確かにこの原作から受け継いだものだ。水上勉は少年時代に禅寺へ修行に出されていた。このエッセイは、その頃に覚えた精進料理を、還俗した今、どのような形で食卓に取り入れているかを語ったものだ。精進料理と、その底流にある思想を語ることは、禅の教えを語ることに通じる。その極めて本質的な部分をすくい上げることで、あの映画が出来たことを思うと、あらためて感動してしまう。
ただし都会人の悲しさよ。読んでも分からない部分が多すぎる。豆腐や梅干しは分かるが、地梨子とか水芹とか言われても、どんな植物かよく分からない。たらの芽とかクワイとか、名前は知っていても味が分からない。松茸は、高すぎて食べられない。ましてや竹による筍の味の違いなど分かろうはずもない。そもそも普段「筍」として食べているのは何の竹なんだという具合。そんなわけで、さすがに距離を感じてしまう部分が多かったのが残念。
Posted by ブクログ
土を喰う日々。タイトル通りのエッセイで、精進料理を作り方を教わった水上さんが、かつての師匠たちの言葉を思い出しながらこさえる料理だったり、自らの経験を積み重ねて工夫した一品だったり。肩肘はらずに、季節の野菜や山菜や果実でこしらえる料理の数々に、ああ料理というのはただ腹を満たせばよいのではないんだ。と、当たり前なことを思う。
Posted by ブクログ
渋皮が少し残った栗、人より長生きする梅干し、山でどんどん採れていた松茸、軽井沢の畑で育った細くて辛い大根。
作者が小さな頃に禅寺で身に付けた精進料理は、文字にしても、どこか土の香りが口の中に広がる。
少し気難しいおじいちゃんに、昔話をしてもらいながら、ご飯を食べているかのよう。
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福井で生まれ京都の禅寺で育った水上と、東京で一生を過ごし若い頃は株の仲買人をしていた同世代の池波正太郎(1923年生まれ)の食エッセイを比較してしまう。
片や精進料理について書き(肉魚も食べただろうが、経歴的にそういった需要が高かったのであろう)、片や各地の豪勢な料理や今で言うB級グルメについて書く。
今はまだ池波のエッセイの料理に引かれるが、いつか逆転する時が来るだろうか。
檀流クッキングは読んだ事がないが、檀一雄と読み比べてみるとどうなるのだろう。
写真が多いが水上が写っているカットが多い。「ミセス」誌を読むミセスを意識した美男、だからか。映画化で水上に擬せられる主人公をジュリーが演じるのも納得。
パルネット ベルマージュ堺店にて購入。
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この本を知ったのはずいぶん以前『美味しんぼ』を読んでのことだったと思う。たぶんそれから20年くらいたってようやく読んでみた。作家・水上勉の軽井沢暮らしのなかでの自給自足・自炊の日々が綴られる。
山野のものを上手に使い、腕も立つ人が作る素朴な料理の数々は魅力的。ところどころはさまれる写真がカラーだったらいいのにと思う。でも、著者の筆致が何だか自慢げ自信ありげで、精進とは逆のギラギラっとした雰囲気をそこはかとなく感じながら読んだ。