閉ざされた「進学校」という異界
「東大・京大・国立医学部以外は人にあらず」。 進学校という極めて狭い世界で醸成される「学歴狂」の価値観。本書は、その特殊な環境で洗脳された、個性あふれる登場人物たちの群像劇である。
■「学歴高野山」の狂気
著者が記す「学歴高野山」という表現が秀逸だ。 外界と隔絶されたその宗教都市では、神戸大学ですら高卒と同義に扱われる。社会に出ればそれが幻だと分かるが、渦中にいる当事者たちの苦悩や優越感は、紛れもなく本物。 私立進学男子校の出身者であれば、この歪んだ空気に覚えがあるはず。逆に、それ以外の世界で生きてきた読者の目に、この異様な生態系がどう映るのか興味深いところ。
■「統計」への抵抗
本書は単なる学歴マウントや、あるあるネタの羅列ではない。 後半で語られるのは、人間を偏差値や年収、フォロワー数といった「数字(統計)」で単純化して消費する社会への違和感。 大谷翔平や藤井聡太を無反省に賞賛する世間の風潮に対し、個々の精神の複雑さを掬い上げようとする姿勢。文学が果たすべき役割を提示している。
■「京大卒」の解像度
「京大すごいね」という世辞に対し、どう返すのが正解か。 本書は、単なる謙遜ではなく、「癖のある者の集まりで大変なのだ」という内実を言語化してくれる。 学歴があっても、社会に出るにつれて、変なプライドを捨て、外界の価値観をインストールすることが重要であると教えてくれる。
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●好きな文章 「学歴高野山」進学校R高校(P108)
わが校にも似たような雰囲気が充満しており、外界とは隔絶された価値観の小世界が形成されていた。高野山へ行ったことのある方にはわかってもらえると思うが、あそこはまさに宗教都市と言う感じで訪れるだけでも心が洗われる気がするものだが、あの弘法大師空海を起源に持つ当高校は平地に「学歴高野山」を作り出した。学歴高野山を「訪れると頭から煩悩ではなく、「神戸大学」や「大阪公立大学」は消滅する。東京大学、京都大学、国立医学部しか存在しない世界になる。
こうして改めて客観的に書いてみると、なんとアホな考えなんだろうと思うが、あの空間においては、神戸大学を大学と考える事は猛烈に難しいことだった。我々の内部では、神戸大卒とは高卒だった。裏を返せば、人間を洗脳することがいかに簡単なことか、私は身を持って知っており、おそらく今もって、あの時代の洗脳は解けていない。私だけでなく、私と似たような環境に置かれていた進学校生たちは、たいてい皆普通に大学を卒業し、様々な人間と触れ合い経験を積んで、社会に順応し、一般的な価値観をインストールしていく過程を経る。
●好きな文章 就活における学歴の価値(P72)
学歴。それは就活段階では異常なほどの力を持つ。もしもあなたが誰もが知るトップクラスの大企業に入りたいと言うなら、基本的に旧帝大や早慶を目指す必要があると思っておくべきだろう。はっきり言ってMARCH関関同立の大学に入り、そこから血のにじむような就活対策によって上位大を倒すと言うストーリーはあまりにも難易度が高い。高すぎる。いや、無理と思っておいたほうがいい。受験での負けを就活で取り戻す努力よりも、受験で勝つための努力の方が不確定要素が少なく、また効果も大きい。
●好きな文章 学歴やスポーツ成績等を無反省に賞賛する社会への批判(P83)
言うまでもないことだが、受験で最も重要なのは大学受験である。中学受験、高校受験で失敗しても、大学受験によって覆せる。それが常識的な考え方だろう。しかし国崎君が東大文一に合格しても、東大寺落ちの記憶を払拭できていなかったように、そして岸田元総理が出身の早稲田大学(二浪)ではなく、開成OBのステータスを押し出していたように、最終学歴だけでなく、中学や高校受験の栄光と挫折もまた人の心に長く残っていくものなのだ。たとえ東大や京大の合格者であっても、それどころか、内閣総理大臣になった者であっても、内面的にも勝者であるかどうかは、結局本人にしかわからない。
私が言うのもなんだが、東大合格〇名、京大合格〇名といった統計上の数字には含まれない、個々の精神の複雑な機微を理解しようとしなければ、少なくとも東大=人生の勝者といった安易なイメージから逃れることを思考しなければ、人間を人間として捉える力を失われていく一方だろう。わかりやすいSNSのフォロワー数やら反応の数を競う態度も、もっと極端なことを言えば、大谷翔平や藤井聡太のような人間を最高の成功者の戻るとして無反省に賞賛し消費する態度も、あまり良い傾向ではないと思う。人々がそうした反射的ですとすら言える反応をひたすら繰り返した先には、ほとんどのものが固有性や複雑性を消去された「統計」として、処理される世界が待っているのではないだろうか?もしかすると既にそうなっているかもしれないし、私もそれを知らず知らずのうちに歓迎してしまっている面もあるのかもしれない。しかし個人的にはその流れに抵抗する態度のうちにこそ、人間の善さが立ち現れるのではないかと思っている。これまたお前が言えたことかと言う話だし、非常に難しいことでもあるが、物事を単純化しすぎる人類への警鐘として、文学と言うものが機能し続けてほしいと私は思っている。