あらすじ
マレー半島上陸と真珠湾攻撃によって開始された「アジア・太平洋戦争」.なぜ開戦を回避できず,絶望的な抗戦へと至ったのか.兵士や銃後の人びと,アジアの民衆は,総力戦をいかに生き,死んでいったのか.矛盾を抱えて強行され,日本とアジアに深い傷跡を残した総力戦の様相を描きながら,日米交渉から無条件降伏までの5年間をたどる.
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Posted by ブクログ
よく考えれば当たり前だが、知らなかったことが多い。
(真珠湾攻撃の通告がどうこう以前に、マレー半島が完全な奇襲であること。アジア解放や大東亜共栄圏が極めてあやふやで矛盾した理念であったこと。天皇の戦争責任など)
Posted by ブクログ
アジア、太平洋戦争を詳細に研究した書物
・2005年の世論調査で、中国との戦争は侵略戦争だったが、アメリカとの戦争は侵略戦争ではなかった。と答えた人が、34%。
→その通りだと思う。というのも、中国は領土侵略をして、中国現地で戦ったから当然。しかし、アメリカとの戦争は、アメリカ現地でなく、太平洋の島々で戦った。別にこの戦争を肯定も否定もしないが、ある種、自衛戦争の要素も含まれているのでは?その引き金が、日本の中国侵略であることは言うまでもないが。ただ、アメリカのいわゆる石油など禁輸措置もやりすぎ?感もある。
・ハル・ノートの中国からの撤兵に、「満州国」は含まれるか?
→ハル・ノートには中国からの撤兵の要求が書かれていたが、確かに、満州国が含まれるかどうかは微妙だと思った。外務省はそこを確認していないわけだし、当時、満州国は日本は独立国として認めている以上、中国に含まれない可能性も存在する。中国の範囲を確定させる行動を取っていれば、戦争は違った模様をみせたのかも。たらればの話だけど。
・開戦に伴う違法行為
日本は、アメリカへ宣戦布告をせず、真珠湾攻撃をしている。よって対米最終覚書をアメリカへ渡したのが12月8日午前4時20分。真珠湾攻撃が午前3時19分だから、1907年の「開戦に関する条約」違反。そもそも対米最終覚書は日米交渉の打ち切りを知らせたものだし、渡したとしても違反だった。この覚書を渡すのが遅れたのは、日本大使館員の過失と言われているが、外務省本省が「大至急」「至急」扱いでなく「普通電」で発電したため、意図的に遅らせた可能性もある。
→宣戦布告せず、真珠湾攻撃をしていたから、国際法違反と、日本大使館員の過失というのも知っていたけど、外務省本省にも過失?があったのは意外だった。おそらく、過失ではなく軍部の圧力も相当あったから、普通電にした可能性がかなり高いと思うけど。
・その他の違法行為
イギリスに対しては真珠湾攻撃の一時間前にマレー半島への強襲攻撃しているので、こっちの方が国際法違反が際立っている。だた、真珠湾攻撃後、天皇が国内向けに宣戦布告に言及しているから、ギリギリ。オランダの場合は宣戦布告すらしていない。
→真珠湾攻撃の国際法違反がかなり際立っているけど、確かにイギリスへの方も完全に国際法違反だわ。オランダに対しては宣戦布告すらしてないなら、日本政府の対応はどうしようもないわ。
・全般的なとこで、日本軍は、陸軍、海軍とも戦争で負け続けている中、敗北かを認めず(大本営の放送から明らか)、その敗北から学ぶことが大事なのにもかかわらず、何一つ学ばなかったことも敗戦の原因の一つだと思う。これは、戦後の司法、立法、行政機関の全てに繋がっていると思った。都合の悪いことからにはフタをして、無かったことにする。フタをするのは百歩譲っていいとしても、学ぶ姿勢は必要な気がする。あと、敵を甘く見る、すなわち過小評価も、戦後に繋がっていてどちらも活かされていない…
・女性の社会参加向上
労働力不足により、国家による労働動員政策を通じて、女性の社会進出を加速。戦前は、職業婦人はいたものの、縁遠くなると敬遠されていたり、「職工」「女工」と卑賤視する風潮もあった。基本的には、家事手伝いのまま、「花嫁修業」だった。
家庭外の活動の場も提供された。1942年に結成された大日本婦人会では、女性団体の活動。翼賛会、町内会の活動などである。
→これらが、戦後の女性の社会進出につながったの皮肉なものだと思う。もともと政府は、女性は家にいて夫の帰りを待つ、夫がいない間は、家を守る役割にしておきたかったはず。しかし、労働力不足などにより、結果的に戦後の女性の社会進出を加速させることにつながり、政府にとっては都合が悪くなったはずだ。
1942年に女性団体を結成したように、政府の対応は後手後手に回り、行き当たりばったりの印象が強い。
この対応も戦後に繋がっている気がする…
果たして気づいているのかも疑わしい…
・都市爆撃の有効性
アメリカは、都市爆撃ばかりやっていたが、鉄道施設への攻撃はほぼ行われなかった。具体的には、鉄道と軌道の戦争による被害率は7%。水力発電は無傷。鉄道への攻撃も行えば、日本の戦時経済の大動脈に致命的な打撃を与えられたはず。
→確かに、鉄道へ攻撃すれば、もっと日本は早く負けていたはず。都市爆撃によって、死傷者も増え日本の戦意を喪失させることにつながったとは思う。でも致命的では無かったのかも。
死傷者を増加させるより、経済へのダメージの方が政府はこたえるのかも。
・戦局と株
1944年下半期、6月の連合軍のノルマンディー上陸作戦の開始、B29の北九州爆撃、7月のサイパン島陥落の「悪材料」が出たのにもかかわらず、株式指数は高水準。
これは、売りの始まった軍需株を戦時金融金庫が買い支え、加えて、民需株(平和株)の買いが始まったから。
さらに1945年2月頃から、民需株の動きが目立ち始めた。主として、紡績株、人絹株、船舶株、セメント株、食品株、興業株。
これは、戦争終結を見越した動きだろう。当時、日本では、外国の放送を聴取できる短波ラジオの所有は禁止。ただ隠し持っていた人はいたと思われる。ポツダム宣言にも株式市場は敏感に反応していた。
→おそらくこの民需株の買いによって、戦後、大儲けした人がいたのだろう。隠れた情報は持っている人は持っているんだな。でも、短波ラジオの所有はリスクはあるにせよ、情報を手に入れないのがいけないわけだから、情報を得た人々はすごい。
・戦争終結へ
戦争終結の方向で動いた人々が、明確な形で戦後構想をほとんど持ち得ていなかった。例外は、近衛文麿。彼は、対ソ交渉の特使を引き受け、「和平交渉の要綱」を作成。これは、「国体の護持」を絶対条件、無理なら、領土は「固有領土」で満足、「民本政治」への復帰のため、「若干法規の改正、教育の革新」にも同意すること、最小限度の軍事力の保有が認められない場合、「一時完全なる武装解除に同意」など当時としては、思い切った内容の和平条件を決めていた。この要綱には、明治憲法の改正、天皇の退位の可能性にも触れていた。
結果的には、近衛文麿の自殺によって、自主改革構想は挫折。
→近衛文麿の戦争犯罪は問題あるにせよ、服毒自殺してしまったことは本当に残念。たらればの話だけど、生きていたらと思う。
連合国軍の戦後構想に近いものもあり、やはり有能だったのだと思う。
戦争終結の方向で動いた人々が、明確な形で戦後構想をほとんど持ち得ていなかったことは逆に、かなり問題だと思う。要するに、戦争を止めようとしていただけで、その後のことは全く考えていなかったに等しい。連合国軍は戦後構想を持っていたわけだし、そりゃ負けるわな。意識の違いは激しい。
こと「その後」のことを考えない姿勢も戦後に繋がっている気がする…