井上ひさしの本で、昭和天皇が戦争責任をとらなかったことが批難されていた。この本を読んでそれが正当なものであることがわかった。
・一般には、十五年戦争の時期は、「軍部独裁」が成立してゆく時期と考えられているが、軍部とてオールマイティの権力を握っていたわけではなく、この「穏健派」の黙認や追認、あるい
...続きを読むは支持や協力がなければ、軍部の推進する路線は国策とはなりえなかったのである。 さらに、敗戦という危機的状況のなかで「穏健派」は、東京裁判への積極的協力にみられるように、すべての戦争責任を軍部を中心にした勢力に押しつけ、彼らを切り捨てることによって生き残りをはかろうとした。その意味では東京裁判は、日本の保守勢力の再編成の一環として位置づけることができる。そして、この「穏健派」のなかから、アメリカの対日政策の転換に呼応するかたちで、占領政策の「受け皿」となる勢力が成長してくるのである。四八年一〇月の第二次吉田茂内閣の成立は、そうした「受け皿」の形成を意味している。
・天皇の戦争責任の問題が封印され、マスコミや学校教育のレベルで事実上タブー視されたことは、この国の戦争責任論の展開をきわめて窮屈なものにした。本来、戦争責任論とは、政策決定の当事者であった権力者の責任を追及するという次元だけにとどまらない、裾野の広がりをもった議論である。それは、戦争の最大の犠牲者であった民衆にも、戦争協力や加害行為への加担の責任を問い直すものだったが、国家元首であった天皇の責任がタブー視され、戦争責任論のなかに最初から大きな例外規定が設けられることによって、戦後の戦争責任論は国民的ひろがりを欠く結果となった。
・すべての戦争責任を軍部に押しつけることによって政治的なサバイバルに成功した「穏健派」のなかから、戦後の保守政治をになう主体が成長してきた。この結果、パワー・エリートの人的構成という面では、戦前―戦後の「断絶」より、「連続」が主たる側面となった。
・わたしたち日本人は、あまりにも安易に次のような歴史認識に寄りかかりながら、戦後史を生きてきたといえる。すなわち、一方の極に常に軍刀をガチャつかせながら威圧をくわえる粗野で粗暴な軍人を置き、他方の極には国家の前途を憂慮して苦悩するリベラルで合理主義的なシビリアンを置くような歴史認識、そして、良心的ではあるが政治的には非力である後者の人々が、軍人グループに力でもってねじ伏せられていくなかで、戦争への道が準備されていったとするような歴史認識である。そして、その際、多くの人々は、後者のグループに自己の心情を仮託することによって、戦争責任や加害責任という苦い現実を飲みくだす、いわば「糖衣」としてきた。しかしそのような、「穏健派」の立場に身を置いた歴史認識自体が、国際的にも大きく問い直される時代をわたしたちはむかえている。