上岡伸雄のレビュー一覧
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アラフィフの小説家、アーサー・レス。元彼の結婚式にどうしても参加したくないレスは、断る口実のためにたまたま招待を受けたイベントや仕事をすべて引き受け、世界中を旅する…というお話。
レス(LESS:〜がないという意味)は名前の通り、49歳のぱっとしない小説家。新作は編集者に却下され、行く先々でも名前を間違われたり、イベントに行ってみたら有名な作家の代わりに呼ばれただけとか、雑に扱われているような様子が多く描かれる。
ただ物語が進む中で、おや?と思う場面が増えていく。レスがヒゲを生やすと結構ハンサムだとか、魔性のキスを持っていることを窺わせる描写があるだけでなく、レスの作品を高く評価している人や、レス自身を大切な存在として愛している人がいることが明らかになっていく。でもそのことにレスはずっと無自覚で、そのギャップやズレが面白い。
そして、そんな自分自身の生き方や人生が悲劇的だと思っていたが、実は喜劇的であることに気づき(「アメリカの白人男性を可哀想に思うのは難しい」)、書きかけの小説を大胆に書き換えるインスピレーションとなっていく。英語の小説は一人称の作品も多いが、本作は二人称で、最後に語り手が誰なのかがわかり…。という物語の構造もミソ。
本作はクィア小説ということで、主に中高年ゲイの人生を描いている。
年上のゲイはみんなAIDSで死んだというかなりパンチの効いた一文もあったが、ロールモデル不在の中で、かつ肉体的な若さやモテ・セックスの色が強いカルチャーの中で年を取っていくことは難しいことだと感じる。
でも、そんなに不安がったり怖がらなくていい、とか、昔の出会いが思わぬ形で再び巡ってくることもあるよという温かな人生のメッセージを感じた。
続編があるそうなのでこちらも読みたい。 -
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アメリカの田舎町に住む平凡な人々の平凡な人生を覗き見るような小説。
登場人物たちは、国や生活様式は違えど私たちと同じように毎日毎日同じことを繰り返して生きている。みんな大なり小なり苦悩と幸福があり、どこか孤独。
この本は、そんな取るに足らないと思われるような人生を歩んできた人々の、ある瞬間を描く。
それは誰にも省みられないような小さな出来事で、大きな変化を起こすような力はない。なのにどこか惹き付けられる、その人のこころを象徴するような特別な瞬間。
どんな人間にも物語があり、この本からはそれを慈しむ心を感じる。
私にとっては相容れない人や、一生関わることが無い人にも物語がある。そのことに想いを馳せると、孤独は尽きなくとも、隣人を愛したいと思えます。
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「カーティス・ルメイ」をどのくらいの日本人が知っているだろうか?恥ずかしながら、私自身も日本本土空襲に関わった指揮官程度くらいの認識しかなかった。本書は、一夜で10万人の犠牲者を出した東京大空襲を始めてとする日本本土への焼夷弾・無差別爆撃を指揮した男であり、1945年末までに13万人の犠牲者を出した広島の原爆投下や7万人の犠牲者を出した長崎の原爆投下にも関与したカーティス・ルメイ。カーティス・ルメイ本人の自伝や英語文献を丹念に調査・研究した書籍である。空にあこがれた少年時代。勉学に励みながらも生活のために軍隊に属した青年時代。空軍の地位向上や改善に取り組み、ヨーロッパ戦線から日本本土への焼夷弾・無差別爆撃など理論などより実地を好む「実際家」としての壮年時代。最終的には政争に巻き込まれる晩年。ベトナム戦争の北爆では「ベトナムを石器時代に戻せ」などと発言記録が残るなど、強硬な戦時姿勢があらわとなる。他方で、1964年12月の自衛隊創設10周年記念において航空自衛隊の育成に貢献したとして勲一等を授与されている。時代考証や解説に、明治大学文学部の山田朗氏(近現代史・登戸研究所所長)が加わっている点も、本書を重厚なものとしている。敗戦から80年を迎える今、ルメイを通じて世界史観で本書を読み込めたことは深い学びとなった。
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2018年に出た新訳版。橋本福夫の旧訳版に比べ、読みやすくなっている。
時代は1900年頃、舞台はオハイオ州、架空の町ワインズバーグ。その町で起こる小さな出来事をめぐる25篇。田舎の風景や季節の描写、人物の心理描写が秀逸。
それぞれの掌篇はしゃれた終わり方をするわけではないし、受ける印象も明るいものではない。でも、なにかしら心に残る。この作品にインスパイアされて、レイ・ブラッドベリは『火星年代記』を書いた。構成のしかたが似ているだけでなく、読後の印象も似ている。
(訳文は練られているが、多少気になる訳語もある。たとえば「哲学者」の章、パーシヴァル医師はさほど高齢でもないのに「わし」や「わしら」で話す。ちなみに橋本福夫訳は「ぼく」、小島信夫・浜本武雄訳は「おれ」。) -
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エリザベス・ストラウトが『オリーヴ・キタリッジの生活』において、クロズビーという架空の町での人々との交流を描いたり、レイ・ブラッドベリが『火星年代記』の冒頭で「こんなにすばらしくなくてもいい、これの半分だけすばらしい本でいいから……ぼくが書けたとしたら、どんなにすてきだろう!」と賛辞を送るほど影響を与えた本作。二作とも好きですが、これも読み進めるほど話に引き込まれて、読んで良かったと思いました。
本書は、ある老作家が見た夢「いびつな者たちの書」という物語から始まる連作短編の形を取っています。舞台は、オハイオ州の架空の町ワインズバーグ。どの短篇も新聞記者のジョージ・ウィラードを登場させて、一見バラバラな町の人たちの話しに一貫性を持たせており、彼が精神的に成長していく様子も読みとることができます。
それぞれの短篇に登場する人たちは、孤独感に苛まれていたり、臆病であったり、不器用な性格であったりと”いびつな者”に該当しています。そして、そんな皆が、どこか夢想家や野心家だったりするため、当然一花も咲かせずに一生を終えたり、先を思い悩んで気狂いになる人もいたわけですが、その行動の細やかな描写や心の内を炙り出す巧みさに引き込まれてしまいました。
それにしても、作中の不器用な人たちを”いびつな者”とみなすのは簡単ですが、現実世界でも程度の差こそあれ、誰しも悩みを持っているものです。そういう意味では、単に田舎町の住人の鬱屈した孤独感の代弁にとどまらないものを感じて興味深かったですね。 -
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差別をしないということは、悪口を言わない・暴力市内・見下さないということだけではない。人種が違うだけで、同情したり、自分の人種以上に優しく接したり、申し訳ない気持ちになることもまた、差別の一種だと思っている。
本書『ネイティブ・サン』では黒人の主人公ビッガーに対して、「仲良くなりたい」というスタンスで歩み寄ってきた2人の人物、ジャンとメアリーがいた。
ジャンは白人がこれまで黒人にやってきた歴史を申し訳ないと言い、黒人であるビッガーを特別扱いしようとしていた。日本人の我々にも、たくさん他国に迷惑をかけた歴史があるが、それは現在の我々のやったことではない。これに対して、私は申し訳なく思ったり、こちらがその罪滅ぼしをする必要はないと思っている。我々が唯一やらねばならないのは、「二度と同じ歴史を繰り返さないこと」だけである。そのために歴史を学ぶ努力も怠らないことである。
ジャンとメアリーという2人の白人たちの振る舞いは、間違ってはいないが正しくもなかったということだ。「差別してもダメ、優しくしようとしてもダメならどうすればいいんだ!」という文句も言いたくなるが、それほどこの人種問題が複雑で解決が難しいことを示している。アメリカ文学が面白い理由が詰まっている。
周囲の連中は、白人女性が殺された=黒人によるレイプと勝手に決めていたが、ビッガーの目線でこれまで物語を見てきた我々には、「黒人はそこまで単純な生き物ではないぞ」という嫌悪感が湧き上がってくる。このような、ビッガーを擁護したい気持ちも最初はあったのだが、ビッガーが次々と罪を重ねていくにつれ、流石に擁護する気持ちも失せてくる。そしていつしかビッガーの視点に立つというより、「白人と黒人」というもっと大きなテーマが隠れていることに気づき、頭を悩ませることになる。
著者であるWright氏の潜在的な感覚を反映した主張は、黒人のビッガーだけでなく、白人の共産主義者ジャンや白人弁護士のマックスによっても語られているように感じた。ビッガーのセリフと同じかそれ以上に白人のマックスやジャンのセリフの方が多いのだ。
Wright氏の自伝小説である『Black Boy』からもわかるように、彼はクリスチャンではないものの、キリスト教に深い関心を抱いており、南部から北部のシカゴに移ってからは共産主義にも触れている。彼の興味がこの『ネイティヴ・サン』にも現れているのを確認できたのは個人的に興奮できるポイントだった。 -
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妻から『アラバマ物語』って知ってる?と聞かれたので、そのとき読んでた津村記久子著『やりなおし世界文学』に載ってるよと言うと、それはスルーされて、妻の通う英会話教室生徒の元高校英語教師のかたとアメリカ人講師のかたが「アラバマ物語はよかった」と話していたそうだ。
たしかにこの本はおもしろかった。通勤のとき、1回乗り過ごし、3回乗り過ごしかけた(たんに暑さ?でボケてるだけで指標として不適切説あり)。
何がおもしろかったのか?いちばんは主人公の女の子だと思う。
主人公のスカウトは、父アティカスと4歳年上の兄ジェムの3人家族だ。
物語は、スカウト6歳のころから始まる。母はスカウトが赤ちゃんのころ亡くなっている。それで家には、黒人の家政婦カルパーニアが通いできている。
夏休み、近所にスカウトより一つ年上の男の子、ディルがやってきた。夏休みだけ叔母さんの家に世話になっているのだ。
この子どもたち3人の夏休みを読むのは、ほんとうに楽しかった。いろんな遊びをかんがえだしていく。この子たちと近所の人たちとのやりとりも、また楽しい。
そこではられた伏線は、最後にしっかり回収されていた。
スカウトは女の子だが、兄といつも遊んでいるためか、あるいは母をしらないからか、「女の子らしさ」は好まないようだ。
大人のつかう言葉の意味も、まだ、よく分かっていないみたい。
だが、スカウトは自分が見たままに、感じ考えたことを言葉にし、そして質問する。「白人」「女性」「宗教」「大人の事情」などに関係なく。
物語はスカウトの目をとおして、1930年代のアメリカ南部の世界がかたられていく。スカウトの語り口は颯爽としていて、すがすがしい。
1930年代は、大恐慌の余波が残り、第二次世界大戦前であって、アドルフ・ヒトラーがいる時代だ。
スカウトは率直に、当時の黒人への差別がどのようなものであったか語っている。白人たちは、普通に黒人に対する差別ワードを言いまくっている。
スカウトが子どもであるためか、正面切って語られていないが、女性の権利も制限されている。
差別や蔑視はいまも続いている。当時と比べて少しずつよくなっていると思いたい。読んでいると、理性に訴えてもどうしようもないことなのかとも思える。
思いだしたのは、神を信じ創造説を信じるひとたちだ。ひとのことは言えない、創造説は?だが、自分だって神社やお寺にお参りにいく。
脳の神経回路をひとつひとつつなぎ直さないとダメなような気もする。モジュールぽんなら楽だけど。
本とは離れるけど、映画『アラバマ物語』に主演したグレゴリー・ペックは、この『アラバマ物語』が代表作だとアメリカでは言われているそうだ。映画の中のグレゴリー・ペックはアメリカの理想の父のひとりとされているらしい。
確かに立派なお父さんだ。ただ、本を読んでも、どのへんが理想的なのか、わたしにはよくわからなかった。子どもたちとの接し方とか、公平で正義をもとめる姿だろうか。とにかく、読書が趣味で生活に余裕があるようにみえる「父」だった。長距離の通勤がないからかな?
そもそも、わたしは父ではあるが自分で「理想の父」なんて考えたことがなかったように思う。それは子どもが願うことか?
子どもたちが小学生のころ、毎日がバタバタしていて、とにかく必死だったことを思いだす。
いまこの時を父として頑張っているかたは、アメリカの標準タイプの「理想の父」と今の自分を比較してみてもおもしろいかもしれない。
わたしは、過ぎたことでもあり、遠慮しておきますけど。 -
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(1940年発表)
読書会に参加しました。
みなさまありがとうございました。
アメリカ全土で黒人差別が当然だった1930年代のシカゴ。
黒人青年のビッガーは仕事もなく、仲間とたむろいながら窃盗や強盗をしていた。盗みの対象は黒人の店ばかり。黒人同士の事件は警察はまともに扱わないからだ。
そんな日々を送るビッガーだが、皮肉な巡り合わせが重なり人を殺してしまう。
この殺人に至るまでに、当時のアメリカの差別社会、ビッガーの性質、そして被害者側の軽々しさが書かれていく。
当時のアメリカで差別されていたのは黒人だけではなく、共産主義者、ユダヤ人達も対象だった。
一見黒人に理解を示す白人もいる。資産家たちが黒人のための住宅を作ったり、福祉施設から紹介された黒人を雇ったりする。だが彼らは被差別を謳いながらも黒人のことを「あなたたちの民族」と自分たちとは区別するし、福祉や寄附をするのもあくまでも「白人と黒人は別だ」という前提のもと自分たちの商売に有利な範囲でだけ行われている。
序盤に「白人と黒人は同じだ」という共産主義者も出てくるが、彼らの見ている黒人は彼らが理想化している黒人であり、実際の黒人ではない。
だから自分たち白人が優しい言葉をかければきっと黒人たちは喜ぶと思っている。しかしビッガーたちがそんな白人に感じるのは、恐怖と距離感だった。黒人たちは常に<恐怖と屈辱>を抱えさせられていた。「教育を受けたいか」と言われても、その後黒人には仕事がない。白人が黒人のために作った住居とは白人とははっきり区別されている。白人が黒人に優しい素振りをするのは騙すときだけなのだ。
…と、まあそんなことが分かるようになっているので、ビッガーが起こしてしまった最初の事件はやむを得ないと分かるんだが、そもそもビッガーが短気で暴力的で窃盗常習者であり、さらにどんどん犯罪を重ねてゆくのはさすがに同調できない。
小説ではビッガーが犯罪を重ねることを
<偶発的な殺人によって、彼は周囲の人々との関係に秩序と意味が築き得ると感じ取るに至った。その殺人によって生まれて初めて自由であると感じたために、それに対する道義的な罪と責任を受け入れた。人々と違和感なく接したいという漠然とした要求を感じ、それがでいるたようになるために身代金を要求した。このすべてをやり、失敗した。P493>
としている。
つまり、白人にずっと支配され指図されてきたので、自分自身のために考えたり感じたりすることができなくなっていたのが、殺人により初めて自分の意思で世界に立った、世界と繋がったと感じたという心情を書いている。
しかし、小説としてはビッガーが捕まって死刑になるとしか考えられなくて、犯人側から書かれたサスペンスのような追い詰められるチリチリした気持ちを味わいながら読み進めた。
読んでいってぐっと興味を惹かれたのは、逮捕された後のビッガーが自分の気持ちに向かい合うようになってから。
最初の事件の前にビッガーに手を差し出して見せた白人共産主義者のジャンがいる。彼なりの理想のために、黒人に混じり「自分は理解しているよ」と示そうとしたジャンだが、ビッガーの起こした事件により、自分の考えは表面的にしかしなかったことを悟る。そして自身もビッガーによる被害者でありながら、ビッガーのためにユダヤ人の老弁護士マックスを紹介する。
物語は、共産主義者、ユダヤ人、黒人犯罪者が分かり合おうとする方向に…、…、と思ったらやっぱりそんなに簡単には行かない。
ビッガーが諦めているからだ。
<彼は誰に対しても責任を取ったことがない。何かを共用されるような状況になるやいなや、彼は反抗した。自分が恐れる世界に対しての強い衝動を挫こうとしたり、あるいは満たそうとしたりして、日々を過ごしてきたのである。P79>
<こう叫びたかった。「違う、俺は怖かったんだ!」しかし、誰が彼の言う事を信じるだろう?自分があの夜どう感じていたか、こういう男たちに説明しようと試みもせず、自分は死んでいくのだろう。P606>
ビッガーの犯罪により、アメリカ中の黒人への憎悪は増していた。人々は黒人を憎む理由ができたとして、黒人全般へのより激しい暴力や差別を爆発させていた。それは黒人たちでさえ「あのニガーのせいで(黒人が黒人をニガーというニュアンスはどんなものだろう?)俺たちまで大迷惑だ。」と怒りを見せる。
ビッガーを告発する白人たちは、これを機会とばかりに共産主義者も共犯として潰そうとするし、政治家はビッガーを死刑にするとして支持率をあげようとする。
そんななか、ユダヤ人老弁護士のマックスはビッガーに質問する。
いままでどのような人生を送り何を考えていたのか、なぜ殺したのか、本当は何をしたくて何をしたくなかったのか。
初めて自分を「何かを持つ人間」のように接したマックスの問い掛けと自分の答えにより、ビッガーは自分の人生、感情、人となりが認知されたと感じた。
なんということだ、自分が殺人を、その後も罪を重ねたのは、このことに気が付くためだったのか(P653あたり)
<彼らが望んでいるのは、君の命であり、復讐だ。彼らは君がやったようなことができないよう、君たちを隔離しているつもりだった。今は心の奥底で、君にああいうことをさせてしまったのは自分たちだと分かっているから、それで腹を立てている。人がそういうふうに感じてしまったら、彼らと理屈で分かり合うのは無理だ。P649>
しかしこの小説は「分かりあえて良かった」にはならない。マックスは、自分がビッガーを感動させたことの重みが分かっていなかった。二人は真に分かり合えたわけではないのか。
<「俺は殺したくなかったんだ!(中略)でも、俺がなんのために殺したかというのは、それ自体が俺だからなんです!ものすごく奥深くにあるのものが、俺に殺しをさせた!ものすごく強くそれを感じたから、殺さずには…」P775>
著者のリチャード・ライトも激しい差別を受けてきた。そんな黒人から、アメリカで、差別が当然の黒人として生きることが書かれる。
自分は「高み」でわかったつもりで誰かに接してはいないだろうか、個人の行為を「彼らを憎んで良い理由」にしていないか。
後半の弁護士マックスの弁舌は「魂への訴え」のようだった。もう唸りながら噛みしめるように読んでいった。しかし同時に罪を罰するという意味での裁判では、淡々と事実に照らした刑罰を決める場所であり、個人の罪を自らの罪として受け止めるために判決内容を決めるというのは裁判制度としては難しいよね、とも思う。
読書会メモ
・アメリカを問うのが、アメリカの作家
・捕まったあとになって、人との交流が行われ、自分が欲しかったものが分かってくる。
・殺人に理由はある。しかしうまく説明できない。それを小説として言葉にしている。
・人と人との交わり、魂の交流の物語
・魂の交流はあったがその場だけだった。成功しない、誰も幸せにならないことが文学的。(しかし犯罪者が神との対話をしたのなら、それでも意味はあるとも思う)
・題名の意味は「アメリカの息子」であり、ビッガーはアメリカが産んだ息子という意味?
・「ビッガー」という名前はアメリカでは当たり前なの?小説としての意味を持つ造られた名前なの? -
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19世紀アメリカ西部の田舎町、ワインズバーグ。新聞記者の若者ジョージ・ウィラードを中心に、町に住む「いびつな者たち」の物語を綴る連作短篇集。
この作品に描かれた「いびつな者たち」とは、大きく括って社会的なマイノリティーの人たちを指しているのだと思う。さまざまな理由ではぐれ者扱いを受けている人たち。「手」のビドルボームや狂言回し役のジョージが抱える葛藤から、〈男らしさが至上の世界からこぼれ落ちた人びと〉というテーマを受け取った。ヒーローにも不良にもなれず、世間から賞賛されるようなことはひとつも成し遂げられない苦しみ。〈落ちこぼれ〉のなかには当然〈女〉も入ってくる。
ジョージの母エリザベスを主人公にした「母」からものすごいのだが(一つ前に置かれた「紙の玉」との対比がのちのち「死」で効いてくる構成も見事)、「狂信者」の息子を愛せない女性ルイーズの描き方には本当にギョッとした。赤ん坊が「家に侵入してきた人間の欠片のようなもの」に見え、「これは男の赤ん坊だから、欲しいものを自分で手に入れるわよ」「これが女の子だったら、どんなことだってしてあげるでしょうけど」と言い放つルイーズ。でもこの小説はネグレクトする母親を断罪しない。100年前の男性の手で書かれたと思えないくらいフラットに彼女の鬱屈した感情に寄り添っている。
ルイーズの反対目線、つまり女性を妊娠させた責任から逃れきれなかったことを後悔し続けている男性レイの物語「語られなかった嘘」もしっかり入っていて、最後の段落でタイトルが回収されるとレイへの悪感情がすべて霧散し、寂しさだけが残る。男と女、それぞれに押し付けられた役割とそこから逃れようとする〈弱さ〉を描き、解放されたいという願望も「タンディ」のように新しい言葉を創りだして提案する。「冒険」のアリス、「教師」のケイトなど当時ならまだオールドミス扱いを受けただろう年齢の女性たちの苦しみも、なんと現代的に描写していることか。
田舎町に住む変人たちを観察する青年の成長物語ということで、サローヤンの『僕の名はアラム』に近くもあるが、サローヤンが人種的マイノリティのコミュニティをどこかユートピア的な連帯感のある場所として書いているのに対し、『ワインズバーグ、オハイオ』は一人ひとりが孤独な星のように描きだされる。だからこそ、「見識」でジョージとヘレンが無言のままお互いに敬意を示し合う場面の美しさが胸に迫るのだ。「それぞれの心には同じ思いがあった。『この寂しい場所に来たら、この人がいた』」。
さまざまな生きづらさにスポットを当て、架空の町ワインズバーグに息を吹き込んだ古典的名作。ミルハウザーの芸術家小説や、ルシア・ベルリンの刺すようなユーモアなど、自分の好きな現代小説が描く〈孤独〉のルーツがここにあるような気がした。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ人種差別は自由の国を喧伝するアメリカのあまりにもあからさまな矛盾で、それを外部からどのように語っても的外れにはなってしまうが、この本からはその世界の歴史的な面を少しだけ垣間見ることができる。
そしてこの本のテーマはそんな歴史の問題だけにとどまらず現代の個人の意志にまで広がっている。
キーポイントは記憶でありそこから紡ぎ出される物語。現実はもっと厳しいかもしれないけどそんな物語があるからこそ厳しい現実に立ち向かって地下鉄道を辿っていくことができたということかもしれない。
微温的なハッピーエンドは遥か昔に奴隷制度を克服しても問題は解決しない現実も示している。