小林章夫のレビュー一覧
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フランケンシュタイン
あまりに有名な固有名詞でありながら
それが怪物の固有名詞ではないと
全然しらなかった!
この年まで、何から
フランケンシュタインの自分のイメージを
作り上げてだのだろう?
手紙を通して
話は展開していく
切なく、悲しい
最後、つまらない終わり方だったら嫌だなー
と思ってたけど
最後の最後まで、切なく、きれいな文章だった
強いて言えば、旅の途中の情景のへんや
繰り返される、感情表現のいくつかは
読んでいて、すこしだるくなる
それを、味わって読むものと思えば
5点。
最後の解説で、作者メアリー・シェリー
についての系譜も載せられていたけど
お子さんやご主人を亡くしたりと
大変な人生を歩まれており
彼女自身も、興味深いと感じました。
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コーヒーハウス。店には美しい女店員がいて、店を明るい感じにしている。それら美人が愛嬌のある眼差しで、タバコの煙に満ちた店内に誘い込む。空いてる席があればどこでも座ってもいい。大きなテーブルが一つあり、そこでいろいろな話題について議論している。あちこちのテーブルには官報や新聞、雑誌などが置かれて客の用に供されている。字の読めない人のために、読んで聞かせている人もいる(当時、新聞や雑誌で情報を得る場所はコーヒーハウスなどに限られていた)。壁には、盗品を見つけた人への報酬を描いた広告、実母を探す男の広告、逃亡奴隷の捜索依頼などが貼られている。p.40
初期のコーヒーハウスでは、身分・職業・上下貴賎の区別なく、ぼろを着た人も、流行の衣装を着たおしゃれな男も、誰でも店に出入りできる人間のるつぼだった。怪しげな人間が数多く出没する場所でもあった。p.36 男性客のみ出入りでき、女性客は出入り禁止だった。p.41 賭博や喧嘩、宗教問題を議論することを禁止して罰金をとるコーヒーハウスもあった。p.41 コーヒーが二日酔いの特効薬とされたこともあり、ほとんどのコーヒーハウスはアルコールを出さなかった。p.37 トーリー系のコーヒーハウス、ホイッグ系のコーヒーハウスがあった。p.117
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1554年、イスタンブールに世界初のコーヒーハウスが開店。1650年、オックスフォード東部の聖ペテロ教区で、イギリス初のコーヒーハウスをユダヤ人のジェイコブという人が作る。1655年、オックスフォードにティリヤード・コーヒーハウスが開店。王党派の学生たちのたまり場として栄える。1670年代、夕方5時になるとコーヒーハウスに多くの学生が集まった。たむろして駄弁ってばかりいると真面目な学問が衰えると批判が起こった。1675年、チャールズ2は、コーヒーハウスで人々が国王の政策を非難しているとして閉鎖を命じた(多くの抵抗にあってすぐに撤回された)。1688年頃、ロイズ・コーヒーハウスがロンドンで開店。海上保険を担うように。 -
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ネタバレ探検家の手紙から始まる物語。
探検家がフランケンシュタインに出会い、その話を書き記すというのが序盤だった。
正直、出だしは全く惹かれない。失敗したかなと思った。
探検して、氷に阻まれて進まない……なんだそれ。と。フランケンシュタインの語りも、最初は人が次々に出てきてよく分からない。でも、怪物が出てくるあたりから面白いと思い始めた。
最終的に怪物が、いろんな人を殺し続ける……という狂気に陥るのだけど、ちゃんと堕ちていく過程が描かれているので、共感しやすい。で、思う。
これ、毒親と毒親に育てられた子供の話じゃないか。……そーいえば、名著でも、そんな話があったような…なかったかな。
愛情を注がれない事がどれだけ人を、歪に変えていくのか。
怪物と言われるものも、最初は『何も分からない無垢なるモノ』
その見た目から、周囲に怯えられて迫害されて、どんどん狂気を育てていく。
フランケンシュタインの『生命を作りたい』という感覚には一切、共感できないケド。
でも、『生命を作りたい』は普通に考えれば、大半の人が『子供をもつことが幸せ』と考えてるのと同じものなんだろうなと思う。
それらも含めてやっぱり『毒親(親になれない親)』の話なのだろうなと。
最終的に怪物は、創造者であるフランケンシュタインを憎んで、周囲の人を殺していく。そして、最後に創造者に「自分を追いかけさせる」ことにする。怪物を追いかけて殺す事がフランケンシュタインの役目になる。
なぜ、怪物はフランケンシュタイン(創造主)を殺せないのか。というのも『親だから』の一言に尽きる。
最後にはフランケンシュタインは怪物を殺すことなく、死んでしまう。
怪物も一人で誰もいない場所へ行って、死ぬことに決めて物語が終わる。
殺し合うほど憎み合いながら、殺すことは出来ない。
怪物といわれるものを作った後悔はあっても、怪物にしてしまった後悔を持つことがないフランケンシュタイン。なんていうか……あまりにもリアルな毒親家庭の図を読まされている気分になった。最終的に怪物は『自分だけを追いかける親』を手に入れている。
子供が必死で自分だけを見てと言うのと同じだな……と思いながら読んだ。
最初に戻る。最初は探検家の話だった。
探検家の方は探検を諦めて帰る……というオチになっていた。
そして、探検家には帰りを心配している家族がいる。平和で幸せな探検家の家族と、憎しみと恨みで拗れた家族。
その対照が、ますます怪物とフランケンシュタインの影を際立たせているのかな。 -
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ネタバレ⚫︎受け取ったメッセージ
人間らしさとは
⚫︎あらすじ(本概要より転載)
天才科学者フランケンシュタインは生命の秘密を探り当て、ついに人造人間を生み出すことに成功する。しかし誕生した生物は、その醜悪な姿のためフランケンシュタインに見捨てられる。やがて知性と感情を獲得した「怪物」は、人間の理解と愛を求めるが、拒絶され疎外されて…。若き女性作家が書いた最も哀切な“怪奇小説”。
⚫︎感想
いろいろなテーマが含まれている
・科学至上主義の暴走
・外見の美醜が持つ圧倒的な力
・内面と外面
・創造主と被創造主のパワーバランス
・愛とは何か
非常に悲しい物語である。
本能として、似て非なるものが最も恐ろしく感じてしまうのだと思う。彼がロボットでもなく、人間でもないという見た目のみに、人は恐怖する。人の心を持つが故に悲しみは憎しみへと増大する。彼はコミュニケーションの第一歩も踏ませてもらえない。
「人を見た目で判断してはいけない」とは言うものの、情報を得る場合、五感の割合は知覚が83%であるという。いかに直感的に人が視覚で物事の判断しているかがわかる。
彼が、創造主であるフランケンシュタインにだけは愛されたいと願ったがそれも叶わず、産み出してくれるなと訴えた。まさに今、現実世界でも生きるのが苦しくて同様の気持ちを持って生きながらえている人は居るだろう。特に親に拒否されるというのは耐え難いことであろう。
フロムは「愛することは技術であり、努力である」というようなことを「愛について」で説いている。外見の良さというものは、いとも簡単にファーストステップをクリアする力がある。これは致し方ない事実である。しかし、愛することが技術であり、努力であるならば、そこにまだ希望はある。 -
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ネタバレ1948年発表。原題は「The Loved One」で、岩波文庫からも『愛されたもの』というタイトルで出版されている。ハリウッドにあるペットの葬儀屋で働くイギリス人のデニス、大手の葬儀社「囁きの園」を訪れたデニスは、そこで働くエイメに恋をする。しかし、エイメの上司で遺体処理師のジョイボーイも彼女に気がある様子。
遺体処理の工程や、霊園の区画分けや価格設定など、「囁きの園」は非常にシステマティックに運営されている。現在の日本ではあまり抵抗を感じないけれど、カトリックを信仰していたウォーにとっては不謹慎に思えたに違いない。(カトリックでは死後の復活を信じているので、埋葬方法も伝統的に土葬が中心だった)
「囁きの園」に送られてくる遺体は、ジョイボーイが整形、防腐処理をおこない、化粧師のエイメのところにまわってくる。彼女に送られてくる遺体はいつも満面の笑みを浮かべているけれど、エイメの心がデニスに傾いたとたん、悲しい表情を浮かべるようになる。ほかにも、「囁きの園」のオーナーである「ドリーマー」、新聞のコラムで悩み相談を連載する「導師バラモン」といった妙な人物が登場し、最後には後味の悪い結末が待っている。「死」をネタにした、究極ともいえるブラックユーモアには、ただただ苦笑いするしかない。 -
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ネタバレ紳士の定義、ライフ・スタイル、時代による紳士像の変遷などを、筆者の実体験をまじえながら軽妙な語り口で紹介している。現代の貴族は着古した服を普段着にしていることや、紳士の集まる会員制のクラブなど、どれも興味深いものばかりだ。
筆者は、イギリス人の特徴として「我慢強さ」と「余裕」を挙げている。バス亭やスーパーのレジ、チケット売り場など、時間がかかる場合でも文句ひとつ言わずに並んでいるという。そして、感情を爆発させたくなるような場合でも、自分自身を外側から見つめる冷静さと余裕ある態度を失わず、そこから独特のユーモアが生まれてくるとしている。
第二次大戦中に首相を務めたウィンストン・チャーチルは、名家の生まれというだけでなく、ユーモアの才能もずば抜けていた。彼の発言は、本のなかでもいくつか紹介されている。汽車や飛行機によく乗り遅れる理由を尋ねられると、こう答えたという。
「私はスポーツマンだから、フェア・プレイ精神を尊重するんだ。だから汽車や飛行機にも逃げるチャンスを与えてやるのさ。」
(p.147、148)
また、余命いくばくもないときに、若い新聞記者からインタビューを受けた。インタビューのあと、「来年再びお目にかかれれば、たいへん光栄に存じます」と記者が丁重に礼を述べると、
「君ィ、来年会えないはずがあろうか。見たところ君は健康そのものだ……、せめて来年までは生きておるじゃろう」
( p.152)
ひと筋縄ではいかなそうだけれど、とても愉快な言い草だ。つらい状況や悲しい場面に直面しても、イギリス紳士は平然とした顔でユーモアをくり出すそうだ。
「紳士」を意味する「ジェントルマン」は、もともとは「生まれがよく、礼儀正しい人」という意味だった。つまり、「紳士」と「貴族」は非常に近しい関係だった。自分は身分的にも資産的にも貴族ではない。豪邸に住んでいるわけではないし、使い切れないほどの貯えがあるわけでもない。でも、気が利いて、ちょっと皮肉めいた冗談を言えるよううな、紳士的、貴族的な心の余裕はいつも持っていたい。 -
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18世紀初めにはロンドンだけで3000軒以上あったといわれるコーヒー・ハウス。
男性のみ、アルコールなしのコーヒー・ハウスは政治、経済、文学などをシラフで議論できる場所として賑わい、情報収集の場から新聞が発行されるジャーナリズム誕生の場所ともなった。
「カフェの文化史」では必ず言及される18世紀ロンドンのコーヒー・ハウス。
入場料を払うと「バー・メイド」と呼ばれる美人が席まで案内してくれるとか、コーヒー・ハウスごとに支持政党が違っていたとか、いろいろおもしろい。
私のイギリス史の知識が弱すぎて、デフォーとスウィフトくらいしか名前がわかりませんが、文学や歴史との関わりも勉強したくなる。
表紙のイラストはAIに聞いたところ、ウィリアム・ホガースの『真夜中の現代の会話(A Midnight Modern Conversation)』。
18世紀ではあるものの、パンチ酒に酔いつぶれる男たちを描いているのでコーヒー・ハウスとはちょっと違う。
コーヒーのほかに紅茶やココアも提供されていたらしいが、ドリップコーヒーだったのか、そこらへんはよくわからない。
共同で本を購入し回し読みする「ブック・クラブ」の話がちょっと出てくる。
「読書施設としてのコーヒー・ハウス」はなかなか興味深い。現代でも飲食しながら本を読めるブックカフェというのは、ありそうでなかなかない。(カフェ併設の本屋とか、本が並んでるカフェとかシェアラウンジはあるけれど、読書に特化したものとなると『fuzkue』など限られる。)
最近『mekuru』という読書アプリを始めてみたけど、こういうみんなが勝手に静かに本を読むだけ、みたいな場所がリアルでも欲しいんですよね。
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ネタバレ怪物もフランケンシュタインも加害者であり被害者である。しかし、一番の加害者は怪物を作り出し、責任を放棄したフランケンシュタインだと私は考える。
怪物は生まれながらに醜い姿だったから、他者から受け入れられず、拒絶されて、一人で生きてきた。フランケンシュタインは親であり、怪物は望まれない子どもの様に思えた。
怪物がフランケンシュタインが死んだ後、今後は誰のことも傷つけないと言ったことが怪物が求めていたのは最初から最後までフランケンシュタインの優しさだったのではと思えて心が締め付けられた。
怪物とは誰のことだったのだろうか、そして誰が作り出したのだろうか。 -
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フランケンシュタインを初めて認識したのはアニメの怪物くんの中のキャラだと思う。それが後に一般的?なキャラであることを知り、大人になって随分経ってから、古典の文学作品であり、しかも怪物の名前ではなく科学者の名前であることを知った。で、機会があり読んだのだけど、いろんな意味で想像とまったく違う作品だった。
怪物がとても人間的な性格で、かわいそうで同情してしまった。時代が違うと考え方も違うのだろうけど、どっちかというとフランケンシュタインの考え方の方が理解しにくいというか、突っ込みどころがありすぎて、、なんだかなぁと思ってしまった。風景描写などは印象的で、時代が変わっても美しい風景を感じる心は変わらないんだなと思った。 -
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ギレルモ・デル・トロ監督の映画を観て、読みたくなった。
ヴィクターの苦しみは、自ら生み出した怪物への嫌悪感とそれへの恐怖で、そこには自分の行いへの罪悪感はあまり描かれていない。
それは、1,800年前後がそういう時代だったのか、ヴィクターがそういう人間だったからなのか。
おそらくは、後者。
終盤、さまざまなことがあって失意や絶望味わっているときも、その気持ちは翻って復讐へと向かう。
あまりにも自分本位。
怪物は、彼の語るところを読むと、最初驚くべき清らかな精神を持っていて、それがいくつかの経験を経て自分の姿や存在そのもので苦しむようになるのが、読んでいて辛かった。
彼の願望は、生きている以上当然かもしれない。
最終的に拒否されて、復讐に向かうのも、同意したり受け入れたりはできないけれど、そういうふうになってしまうのかもと。
怪物もキリスト教関係の本を読んでいたので、罪悪感を感じるのではという気もするが、感じてはいない。
自分を憐れむ気持ちが大きすぎるからかも。
和解することなく、復讐と復讐への復讐。
そして破滅。
ヴィクターと怪物の物語は、でもその話を聞いていて、瀕死のヴィクターを友達と呼んだ船の上のウォルトンの健康的な前向きさによって救われている。
デル・トロの映画とは一部ストーリーも違うし、描かれ方も異なるけれど、読んでおきたかった一冊。