トーマス・マンのレビュー一覧
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マンの超大作の下巻。中心的な登場人物はハンス・カストルプ、セテムブリーニ、レオ・ナフタ、ペーペルコルン氏。ハンス、ヨーアヒム、セテムブリーニ、マダム・ショーシャのあいだで保たれていた均衡が破れる。マダム・ショーシャの転院もさることながら、最大の原因はレオ・ナフタという反近代的――反セテムブリーニ的――な知性の登場である。ハンスは、セテムブリーニの人格には好意を抱き続けるがナフタの懐疑的で破壊的な知性に取り込まれかかる。しかし、そこでさらに登場するのが反知性的な権力者としてのペーペルコルン氏である。ハンスは、ペーペルコルン氏の登場によって知性への憧れを曇らされる。このような展開のなかでハンスの立場にある読者は行き場を失う――いかなる指針の下で生きればいいのだろうか。マンがハンスに与えた解決は穏やかな死だった。結局、理性的でも反理性的でも反知性的でもあるより前に人間は自然的に――すなわちいつかは必ず駄目になる身体として――生きているのである。結核療養所という環境に置かれながら、そのことに最後まで気づかないハンスが滑稽でもあり、同時に「明日は我が身」のようでゾッとする。
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カラマーゾフ読んでたら、無性に魔の山を詠み返したくなったのでのっけてみた。でも再読してないので、詳しいことがさっぱり言えない(笑)
カラマーゾフ2巻読んでたら、コレは結局のところ人間群像が織り成すユーモア小説かいな?って感じがしてきて、ユーモア小説だったら、なんつっても魔の山だろー!!と思ったんで。カラはまだシリアスに話が展開するんだろうか?ってのが読めなくって、どうもその中に差し挟まれるキャラのお茶目ぶりの処理がよく分かってないんですけど、魔の山は全編渡って皮肉な笑いに満ち満ちてる。
隔絶されたサナトリウムに集う特権的なイっちゃった人たちが、ひたすらなんの特にもならない世間になんの寄与もしないアイロニーに満ち溢れた会話を延々繰り広げる話、だろうか。(てかだったっけ)
とりあえず主人公のハンスくんがもってもてで、色気おばはんショーシャ夫人とか、ホモおっさんとかに取り合われる話。だけど本命はいとこくん。って、そんな話だったかと・・・。
ショーシャ夫人とそうなるとこの描写がまたセクシーだった気が。
ラストは壮絶。デミアンは叙情に溢れてたなあ・・・。
とりあえず全編多少分かんないとこがあろうが、ユカイ小説として楽しく読める。 -
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長かった。オーディブルで、上下それぞれ20時間超え。オーディブルでなかったら分厚さに怯んで読まなかったであろう。読んだとしても完走できなかったかもしれない。オーディブルだったから、よくわからないながらも終わりまではいけた。
主人公のハンス・カストルプ青年は、幼い頃に父と母を亡くし、育ててくれた祖父も間もなく亡くし、おじに後見人になってもらって、経済的には自分が引き継いだ財産がじゅうぶんにある状態で育つ。造船エンジニア見習いとして就職が決まっていたが、従兄の見舞いのつもりで訪れた山上のサナトリウムで自分も病を得て、いつ終わるとも知れない療養生活に突入。
ハンスは、素直で誠実で感受性豊かで、どこか鈍重さもある。地上とは異なる山の上の療養生活に次第に慣れていき、恋もし、精神的師匠にも出会い、喪失も経験する。もともと近親者を喪っていることもあり、地上とのつながりはどんどん薄くなる。滞在するにあたって、カストルプ青年に金銭的不安はないようだ。これは大きい。山の上の人々の暮らしは、申し分なく美味しい食事に、夜毎のサロン、恋もするし、相手のいる人はセックスもしているようだし(もし妊娠したら出産まで面倒見てもらえるのだろうか、それとも追い出されるのだろうか、そこんとこ考えてやってるのだろうか、というのは疑問)、ゴシップにも知的な議論にも盛り上がることができるし、音楽の楽しみもあるし、風光明媚だし、軽いハイキングをすることもできるし、わりかし自由で愉快そうに見える。ただし、死と隣合せであることを除けば。この生活の終わり方は、快癒して「地上に戻ってよろしい」と医師に言われるか、言われないのにやけっぱちの卒業を決行するか、あるいは遺体となってボブスレーで地上に送られるかのどれか。
ハンスの恋の相手、ショーシャ夫人は、地上にご主人がいるのだが、病のために各地のサナトリウムを転々とし、そこかしこで恋愛をしているらしい。病によって自由を得ている、と評される場面があった(気がする)。病によってではもちろんあるけど、そうできるだけのお金があることも条件に入っている。地上の暮らしに比べて、「一見自由で楽しい/または精神的に豊かそうに見えるけど、なんといっても病気なんだから気の毒だ」とも、「病気でかわいそうに見えるがしょせん金持ちの贅沢暮らしだ」とも、どちらとも言い切れない微妙なバランスがある。
健常者と病人、世俗世界で生産的に生きる人と、雲の上で享楽的に消費生活(知的議論だってそんなもんかもしれない)を送る人、というふうに二分して考えようとするからこういうことになるのだろうか。もっと境目をゆるくして、同じひとりの人が、活力のあるときにはせっせと働いて、疲れたら好きなだけ休んで、という行き来をいつでも好きなようにできたら、もう少しやりやすくなるんじゃないだろうか。そうでないと、山登ったり降りたりは大変だし、遠くてお互いの状況もよく見えないし、山にこもるにはお金がかかるし、手離しちゃった職務には簡単には戻れないし。もちろん、このシステムにも一定の利点があるのだろうが。
⋯というのが2026年現在の私の感想。もちろん、従兄ヨーアヒムの美点や、ショーシャ夫人とのあれこれ、セテルブリーニ氏とナフタ氏の論争、それらを相対化してみせたペーペルコルン氏の存在感、なども見どころ。
カストルプ青年は、この山の上の生活をどう終わらせたか。そこには戦争の始まりが関わってくるが、胸中ははっきりとは語られない。殺伐としてきた山の上が嫌になったのか。帰るところはもうどこにもないと思っていたのに、祖国こそが帰る場所だと感じたのか。それとも、やけっぱちな気持ちからだったのか。文学研究の世界には定説があるのだろうか。 -
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正直に言いますが下巻前半のセテムブリーニvsナフタの議論はほぼほぼ読み飛ばしました。そのあとの雪の章でも乗れなくて1ヶ月くらい放置して、戻ってきてみたらペーペルコルンが登場して、そこからが本当に面白かった。圧倒的人格者と議論好きの口先おじさんたちの対比。これまでおじさんたちの長い長い議論を読みながらモヤモヤとしていた気持ちが一気に晴れる感じ。そこにいるだけで周りの人を魅了する人っているよね。話す内容より、誰がそれを話すか。でも悔しいので、口先おじさんより人格者の方が優れているとは思いたくない。
上巻でも思ったけど、語り手が主人公について意見を述べる形式が面白くて好き。あと、語り手がおもむろに語りだす人生の教訓が響く響く。乗れなかったら読むのをストップしてしばらく寝かせるのって大事ね。
山の上と下、西洋と東洋、モラトリアムと地に足のついた生活など、数えきれないほどの対比構造を見いだせる内容。本の内容もだが、そもそも「ブログやYouTubeで数々の批評や解説を聞きながら世の大名作を読む」という経験が楽しかった。 -
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30年ぶりの再読。
ダボスのサナトリウムで思いがけず長い年月をを過ごすカストルプの物語。時間感覚の麻痺、そして停滞と思索の日々。セテムブリーニとナフタの思想的対立、ショーシャ夫人と微妙な関係、ヨーアヒムとの別れやペーペルコルンとの出会い、雪山での幻視—カストルプは様々な経験を「通過」していく。
彼は成長も破滅もなく、ただ全てを受け身に取り入れていく。そこに現代的な人間の一つの在り方を感じる。
前半のワルプルギスの夜までの物語的な流れと、後半のテーマごとの深掘りのゴツゴツ感。作品の成立過程を聞くとなるほどなと思う構造の違いも興味深い。
最後、戦場で菩提樹を歌うカストルプ。ベルクホーフでの経験が彼に何をもたらしたのか。答えは明確ではない。人間は生きている限りその時代を通過していくということか。 -
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久々の岩波文庫。最近引っ越した家の近くに小さな小さな個人経営の書店があり、岩波文庫も揃えていたので、せっかくだからと薄くて読みやすそうなコイツを読んだ。浅はかな理由だけどしょうがない。
解説で三島由紀夫らが影響を受けたと書かれているあたり、ひと昔前はかなり広く読まれていたのだろうか。芸術家とその対極としての一般市民、そのどちらにもなり切れない自分という、存在の置き場がない不安みたいなものを、芸術を愛する男の青春という切り口で描く物語。
市民社会に疎外感を覚えてしまう少年時代、芸術家になりきれないもどかしさを覚える青年時代、そしてその悩みが昇華されてゆく終盤。そんな物語展開。とりわけ、終盤は気高さある孤独を受け入れる主人公が描かれるのだが、この明るくも哀しくもある終わり方が、「世界のどこかで自分のように孤独と戦っている人がいる」として、たくさんの人の心を励ましたのかもしれない。「物語に救われた」って現象は、得てしてそういうものなのかもしれない。私も、この本ではないが、物語に救われたことがあった。
私は、大学時代、大学院に進んで学問の道を……などと考えていたが、結局挫折してしまい、就職もせずフラフラしていた時期があった。主人公の葛藤とは種類も程度も異なるものではあるが、何ものにもなりきれない自分、という不安や悲しさのようなものは、その一端が少しは理解できる気がする。
他方、トーニオ・クレーガーのような生き方はしておらず、普通に手堅い仕事に就職して、結婚して、子どもを授かった。悪い意味で、これからも小市民として普通に暮らしてゆくのだと思う(不幸なイベントが起きないと楽観しているわけではないが)。そんな人生は世界に溢れていて、それを肯定する声はいくらでもある。でも、そうした声に救われたと感じたことも、自分の人生は正しいと感じたこともない。学問の道など進んだところで、私にはそぐわなかったと思うけれど。
この物語は二つの世界のどちらにも属せない孤独を一心に受け止める主人公の物語だ(と思う)が、結局世界は二つじゃないし、類別したって境界線は実際にはないのだから、程度の差はあれどんな生き方をしてもそれをしっかりと受け入れるしかないのだろう。自身の生き方を、自身で選んだ道としてにがっつりと抱き留めた主人公。対する自分は、成り行き任せの安直な道として人生を送っていないか。人生を送り流していないか。そんなことを思わなくもないけど、まぁ特定の生き方を批判しているような物語でもないし、この本の感想としては測わないかもしれない。 -
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主人公トーニオの、自己矛盾に起因する愛と孤独を理解するのが難しく、いま一歩踏み込んで読めなかった。
・トーニオはリザヴェータから「迷子になっている市民」と言われたように、市民的なものへの憧れ・愛を捨てきれず、一方では、「愛されるなんて、吐き気を催しながら虚栄心を満足させることだ」などと考え、自分を理解し、愛してくれるマクダレーナ(黒い瞳の少女)には見向きもしなかった。さらには、インゲボルグ(青い瞳の少女)には、好きと言ってほしいなどと思っていて、彼の孤独の複雑さがうかがえる。
・望むような愛情が返ってくることはないと知りつつ、彼は結局、市民への愛情を捨て切れなかった。それでも満足していた?「この愛情をけなさないでください、リザヴェータ。それなりにまともで、実り豊かなものがあります。そこには、憧れがあり、気がふさぐような妬みがあり、少しばかりの蔑みがあり、純潔この上ない歓喜があるのです。」ここはこの小説の核心的な部分だと思うが、いまいち理解・共感できず、この小説に踏み込めないでいる。これは希望なのか諦観なのか?純潔この上ない歓喜とは何か?なぜ苦しみつつも、黒い瞳の少女を選ばなかったのか? -
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ネタバレ本作は、トーマス・マンの自伝的要素が一番強い作品で、カフカが何度も読み返したらしい。
主人公トーニオが幸福な青春期を過ごしてから大人になり自分を取り戻す話。
故郷に帰り、実家のあった場所に帰ったり、そこには思い出の胡桃の木があったりするけど、ホテルで詐欺師と疑われたりもする。
でも、愛すべき平凡な人たちを再び発見したトーニオ。自分のことを芸術にハマって迷子になった普通の人、と女友達に言われて、故郷に旅に出たおかげだった。
1章ラストと9章(終章)ラストがつながるソナタ形式で、私は感情がブワッと昂ぶりました。
「これは価値ある、実りあるものだ。
ここには、憧れと、憂鬱な羨望と、ほんのすこしの軽蔑と、この上なく清らかな幸福感とがあるのだから。」
トーニオは決心をします。よりよい作品を書くと。
短い作品ではありますが、綺麗に纏まっていて、自分の青春を思い出したこともあり、良い作品だと思いました。 -
Posted by ブクログ
ネタバレタイトルは小説の内容とはほぼ関係ないが、このサナトリウムの隔絶された世界で繰り広げられる人間絵巻は、読み応えがあった。多彩な人物との交流の中で、主人公のハンス・カストルプが大きく成長する過程が描かれる。色物関係はわれらがアイドル、ショーシャ婦人との交流は上巻ラストにかけて、素晴らしい筆致でクライマックスを迎え、ワルプルギスの夜という箇所でクライマックスを迎え、下巻での収まり方への繋がりも胸が高鳴った。下巻は論争の場や死の匂いも感じられ、世界文学として一気に高みへ引きあがる。もっともっと読書に充てる時間が必要と痛感した。時間切れだけど。