平野卿子さんは翻訳家。ドイツ語・英語に長けている方です。
日本語にするとき、どんな表現にするかで試行錯誤している。
ドイツ語の名前は日本人には性別が分かりにくい。
例えば、クルトとかイルムガルトなんてなじみがない。
だから、クルト(男)には「腹が減った」、
イルムガルト(女)には「お腹が空いたわ」
...続きを読むとしゃべらせたりする。
「実際にはあまり使われていないのに、メディアや翻訳小説、映画の字幕や吹き替えに頻繁に登場する女ことばに違和感がある」
という意見を最近聞くことが増えている。
「女ことば」や「男ことば」は、翻訳する時には女性と男性の"役割語"として登場しやすくなるようだ。
「女ことば」や「男ことば」は書きことばにはなく、どちらも話しことば。
日本では、お行儀のよい娘は口にしない言葉が「男ことば」として区別されるようになった。
世界でもあまり例のない「女ことば」を生んだ背景には男女格差の文化があり、
日本には民主主義国の中で断トツのジェンダー格差があることと密接な関係がある。
女ことばは、古くから伝えられてきた日本の伝統だと思っている人が多いが、
「だわ」や「のよ」の言葉づかいの起源は明治時代の女学生の流行りことばだったりする。
丁寧で控え目で上品な言葉が選ばれ、不満や怒りに繋がる乱暴な言葉は排除されたらしい。
最近は若い世代は性差の無い「中立語」を普段から使うようになってきていて、
著者も一人でテレビを見ている時などは、「文句言ってねーでお前がやれよ!」「こいつ、るっせえ」とか悪態をつく言葉を発するようです。
口に出すとストレス発散できるみたいですね。
「女ことば」のもう一つの制約は、命令ができないこと。
「やめて(ください)!」とお願いはできても「やめろ(よ)!」と命令できない。
英語の一人称の "I" は性別とは無縁だが、日本語は違う。
特に女性が使えるのは基本的に "私" 一つだけ、それも女性専用ではない。
女は自己主張するなという風潮が言葉にも表れている。
漢字には男編がなく人偏が使われるのは、人間=男だからと言われるが、西洋でも man が人間も表していた。
今は sportsman は athlete や player に変ってきている。
ドイツ語には女性名詞や男性名詞があるので、言語の性差別が問題になり随分変わってきているようだ。
日本語には性差別を含む言葉は沢山あり、今は使わないように注意しつつも、意識の中に根強く残っている。
男の中の男、男を上げる、男が惚れる 「男」=「立派な人間」
女々しい、女だてらに、女の腐ったよう「女」=「低俗な人間」
「うちの人」は妻が夫を指して言うときの言葉。つまり「人」=「男」。
「女」が「人」として扱われるのは「美人」や「夫人」と、容姿が美しかったり結婚した時くらい。
「男勝り」は「男に負けないほどしっかりしている」女性のことで、男の方がしっかりしているという前提からできた言葉。
「姉御肌」は男とは比べていなくて、面倒見のいい頼れる姉さんという感じ。
男は、自分との比較対象にならない「姉御肌」の方を好む。
日本の小説では、男性は姓で、女性は名で記すことが多い。
これが逆だと奇妙な印象を受ける。
そのわけは家制度にあり、男子が生家の姓を名乗り続け、女子は他家へ嫁ぐものとされていたからのようだ。
「女らしさ」と「男らしさ」は、どちらの性別であっても縛りのある言葉。
違いは、「女らしさ」は過剰な時に、「男らしさ」は足りない時に批判される。
「女ことば」とは別に「オネエことば」がある。
「オネエことば」は、「毒舌」をやわらかく感じさせるのに役立っている。
命令したり、でしゃばったりしないように作られた「女ことば」の範疇に入るからだろう。
マツコ・デラックスは、自分の立場を冷静に分析もしていて、
「自分はキワモノであり、社会の端っこにいる、世の中の人と対等でない存在」
「アタシが何を言ったってどうせあのオカマが、と思うだけだから好きな事が言える」
と発言している。
この先「女ことば」がすたれても、「オネエことば」は生き延びるのではないかという気がする。
「女ことば」は使いたければ使い、使わなくてもいい時代になってきたことは喜ばしい。
「女子力が高い」なんて言う男は軽蔑される世の中に変ってきてると感じる。
と思いつつ、無意識のうちに男尊女卑の言葉を使っていないか心配になってきた。