廣松渉のレビュー一覧
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平凡社ライブラリーではなく、平凡社選書の『青年マルクス論』を持っている。廣松渉先生の主要著書に比べればやさしそうに見えるが、もちろん、楽に読めるということではない。
手っ取り早く本書の概要を知るために、カバーに印刷してある、出版社が書いた宣伝文や書評(抜粋)を読んで、ひとまず本を閉じた。『経哲手稿』を主要テーマにしているので、折を見て、挑戦するつもりである。
<マルクスがヘーゲルの哲学とどのように出会いヘーゲル学派の思想をどのように超克したか、本邦初紹介の試料を駆使して、幼少年期、高等中学時代の思想的環境や伝記的事実から起稿、修学時代・新聞編集者時代を縦観、『経哲手稿』の分析と解釈に及ぶ。本書は単なる〈思想的伝記〉ではなく、著者の『経哲手稿』論である。
本書は青年マルクスの思想形成過程を当時の歴史的・社会的状況、ならびにドイツ思想界の動向を背景に実証的に追体験しつつ、既成観念となっている旧来の初期マルクス像の一新を図る。
目次
序論
Ⅰ 幼少年期――家庭的環境と高等中学
Ⅱ 学生時代――ヘーゲル哲学との格闘
Ⅲ ライン新聞――政論家としての出発
Ⅳ 新婚の日々――国法論批判と新機軸
Ⅴ 独仏年誌――プロレタリアとの邂逅
Ⅵ 初期経済学――『経哲手稿』の意想
Ⅶ 社会主義攷――人間解放の段階行程
Ⅷ 哲学的覚識――疎外論とその問題点 >
<最大の読みどころは、全八章中三章、全ページ数のおよそ五分の二が充てられている『経哲手稿』の分析である。……著者は『手稿』を、マルクスの執筆過程における試行錯誤と思想の発展にもとづいて大胆に解剖し、その過程で成熟してきたモチーフを次々に剔出して見せるとともに、彼が『手稿』段階で、どのようなアポリアに逢着せざるをえなかったかを、さりげなく描き出してみせる。著者の評価に、俄かに賛成しかねるものでも――評者も、そのような一人である――読み進めていてスリリングなものさえ感得させられる。津田道夫(週刊読書人書評)>
<本書は、ヘーゲル哲学の批判的継承の視点のみならず、それを縦軸とすれば、バウアー、ルーゲ、ヘスらヘーゲル左派三極およびフォイエルバッハを横軸に配し、それとの思想的交のなかで、青年マルクスの思想形成のドラマが描かれており、その構想には評者も大筋として異論がない。山中隆次(日本読書新聞書評)>
お終い -
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存在論および認識論について、もっとも基礎的なところから丁寧に整理して話が進められていく。話が原理的なところに遡りすぎていて頭がついていかなくなることもしばしばだが、哲学というのは本来常に原理的(原初的)なところへ立ち戻ろうとする営みだと思うので、がんばって著者の思考についていくしかないだろう。話はだんだん難しくなっていく。第1章と第2章は著者の手際のよさに感動して読んだ。第3章・第4章あたりになると部分的にはわかるものの、全体の筋道が追いづらくなったのが正直なところ。ただ、1章だけでも読む価値は十分にあった。「実体」ということについて頭が整理できたように思う。
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ネタバレ物理学を理解していない人、哲学が好きな人でなければ、決して分かりやすくない。
廣松渉の本の中では、分かりやすい方だという趣旨で分かりやすいだけかも。
本書と廣松渉の講談社の「哲学入門」の両方読んで、何も感じるところがなければ、他の廣松渉の本を読まない方がよいという意味で、 廣松渉入門だと思ってもいい。
現代物理学の到達点は、物の認識を事として理解しようということだと知れば、いっきに理解が進むかもしれない。
物理学を勉強する人が、微積分の形式だけに捉われることがないように、あるいは微積分の形式が哲学的にどういう意味があるかを知るのに読むとよいかもしれない。 -
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[ 内容 ]
〈実体(モノ)〉的三項図式にかわり、現相世界を網のように織りなす〈関係(コト)〉的存立構制、その結節としてたち顕れる「私」とは、どのようなものか?
量子論からイタリアの戯曲まで、多彩なモデルで素描する、現代哲学の真髄!
[ 目次 ]
事物に「実体」はない(事物の本体を探ると;自然科学の「物体」像;「量子力学」と原子論;物理的「実在」と認識)
認識は「写実」ではない(写像的知覚観の破綻;現象学の雄略と頓挫;現相的世界への定位;観測と実在相の構成)
本質はどう仮現するか(個別存在と普遍概念;本質認知の擬直覚性;意味的本質の存立性;2重の物象化的錯認)
事態は斯様に妥当する(「所与‐所識」と事態;肯定否定と判断対象;人格的主体の如実相;事態の自他への妥当)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
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私は自らの研究の最も重要なテーマの一つにイデオロギーを据えながらも,イデオロギー研究の出発点ともいえる『ドイツ・イデオロギー』を読んでいなかった。そもそも,マルクスの著自体,『共産主義者宣言』(太田出版),『哲学の貧困』(岩波文庫)に続いて,3冊目にすぎない。だから,そもそもマルクスの人生において,本書がどの辺に位置づくかも知らなかったし,そもそも,本書がエンゲルスとの共著ということすら知らなかったのだ。
そんな浅はかな私だから,ともかく新しい版の方がよいと思って,この岩波文庫版を古書店で見つけて購入したわけだが,内容以前にもいろいろ考えさせられる本であった。まず,『ドイツ・イデオロギー』はマルクスの生前には出版されなかったということ。だから故に,未完のままであり,その構成および構想も決定しないまま残されたようだ。なので,さまざまに出版されている『ドイツ・イデオロギー』は少なからず編集者の解釈を含んだものであるらしい。そんなことから日本のマルクス研究者である廣松 渉氏が1974年に河出書房からドイツ語の原語と併記して出版したということだ。それは『ドイツ・イデオロギー』を初めて読む人のためのものというよりは,マルクス研究者のための文献学的な成果ともいえるものだったようだ。それがその後,他の訳者による版も有している岩波文庫として出版される計画があったが,その後廣松氏が亡くなってしまい,その後の作業を小林氏が引き継いだとのこと。
ということで,本書にはドイツ語は併記されていないが,マルクスとエンゲルスの手書き原稿と丁寧につき合わせて日本語化したのが本書。エンゲルスの原稿は明朝体で,マルクスの原稿はゴシック体で,それぞれの草稿に対して各々が書き入れた補足文や削除箇所,訂正なども何種類かのボールド体を使って区別され,さらにさまざまな注から成り立っている。正直いって,私のような読者にはとても読みにくいが,この2人の努力を思うとありがたく,丁寧に読むしかない。そして,本書には数枚の手書き原稿の写真が印刷されているが,これがとても面白い。といっても,文字が読めるはずはないのだが,面白いのは文字ではなくイラスト。
さて,本書から学ぶことは大きかった。といっても,いわゆるドイツ観念論批判は前半に集中していて,後半はイデオロギーとはほとんど関係ない,歴史的記述に移行する。そういえば,『共産主義者宣言』を読んだときもそうだったなと思い出す。さて,私は10年以上前から「唯物論」とは何か,ということを時折考えている。地理的表象を研究している私の立場は大雑把にいえば観念論的である。しかし,よって立つ立場からいえば「文化唯物論」を参照すべきなのだ。しかし,いまだにウィリアムズをきちんと読んでいないし,唯物論について書かれた本からもどうも納得したものはない。ちなみに,本書でよく出てくるフォイエルバッハの『唯心論と唯物論』も実は読んだことがあったのだ。しかし,マルクスとエンゲルのフォイエルバッハに対する評価も一筋縄ではなく難しい。
ちなみに,現在の地理学では20年前に流行った表象研究の行き過ぎに対して,「物質」なるものの復権が叫ばれている。しかし,そこでいうところの「物質」とは何を示しているのか判然とせず,どうにもこの種の議論には違和感を抱いていたのだが,それについては本書を読んですっきりとした。本書において「物質」という言葉はよく出てくるが,それは自然科学が対象とするような物質ではない。物質的交通と精神的交通(ここでいう交通とは関係性やコミュニケーションのこと),物質的労働と精神的労働などといった対比で用いられ,経済活動こそが社会編成の基礎だという。ここに,有名な土台-上部構造の理論も垣間見れるし,精神というものが社会的な生産物であるという今日的議論も登場する。そして,極めつけが「われわれはただ一つの学,歴史の学しか知らない」(p.24)というエンゲルスの言葉こそ,まさしくマルクス主義的な立場であり,だからこそ本書の前半で歴史と乖離した観念学を批判し,後半で自ら歴史記述を実践した,といえるのだろうか。 -
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マルクスが編み出した思想、『資本論』の要点、資本主義の行く末と共産主義の実現に関する考察と、内容を大きく3つに分けて、それを1冊にまとめた本。
マルクスといえば、「唯物史観」が有名であるが、これは自然界の歴史と人間界の歴史を腑分けすることなく一つの歴史観としてまとめたこと、また、人間がこれまで有してきた生産手段に着目したことが画期的であった。
また著者は『資本論』の内容を要約し、その内容の意図を語るが、一言で言うと、近代市民主義の欺瞞を暴く、つまり人間は一見すると自由で対等な関係を築いたように思われたが、実は労働者と資本関係というの新しい奴隷制(賃金奴隷制)が誕生したことを明かした。それが近代に誕生した資本主義社会の本質である。
さらに現状の資本主義社会と共産主義の実現条件についても語る。先ほど述べたように、近代以降に誕生した資本主義社会は、資本家が優位で労働者が不利な賃金奴隷制といった。近代以前と比べて、確かに多くの人間がこれまで足枷となったことから解放され、自由の身となった。その代わり、資本家の下で、本来貰えるお金より少ない中で労働をせざるを得ない。その価値(剰余価値、利潤)は資本家の懐に入る。このように、労働者が見えない所で、資本家がその価値を得るのが資本主義社会の実態である。とはいえ、必ずしも資本主義が悪だとは断言できない。事実、資本主義が発展する分、多くの労働者(大衆)の消費生活の水準は向上する。それでも、資本主義は剰余価値、利潤を得るために、どんなものでも価値づけしてしまうので、たとえ環境破壊に寄与するものでも、極論価値を見出せるのであれば問題にない。このように、資本主義社会には自主規制という性質を備えておらず、ゆえに問題となっている。
そこで、共産主義の話となるが、そこで鍵となる労働力の商品化と賃金奴隷制を完全になくすことである。そのためには生産手段の私的所有の廃止が必要となる。ただし、私的所有の廃止とは、消費手段(生活財)を廃止することではない。あくまでも他人を搾取するような生産手段をなくすことが本質である。 -
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1988年に出版された同書のアンコール復刊を手に取りました。本書ではまず哲学とはどういう学問なのかという著者の見解が示された後に、認識論、存在論、実践論の大きく3つのテーマが取り上げられています。ただ著者も冒頭に述べているように、1番のウェイトは最初の認識論に割かれていて、そこでは廣松氏の代名詞とも言える共同主観的な視点からの認識論が展開されています。
その意味で本書のタイトルは「新哲学入門」となっていますが、廣松理論入門という方がふさわしい気はしました。認識論では、カメラモデルと呼ばれる知覚論、すなわち「意識対象–意識内容–意識作用」という三項図式がこれまで当たり前と思われてきましたが、著者はそれを否定し、一体化した「所与−所識」構造の中で所識がいかにして生まれるのかを共同主観という概念から解説します。たとえば広場に柵が張り巡らされていたとします。我々がその柵を見たときに、柵という「所与」だけでなく我々はそれに意味を感じ取ります。その意味は人によって千差万別であり得るのですが、その意味は一定の枠内におさまる可能性も高く、例えば「この柵は私有地との境界線でこの柵を乗り越えることは法律違反になるのかもしれない」といった「所識」です。これは現代の先進国に生きている人であれば共有している価値観であって、いわゆる共同主観になります。
廣松氏の理論や哲学そのものにあまり触れたことがない人は著者の独特な言葉遣いなどに苦戦するかもしれませんが、それこそ頑張って読み進めて行くと、著者との「共同主観」が徐々に形成され、チンプンカンプンだった言葉遣いも徐々に理解できるようになります。認識論はとても興味深く読みましたが、存在論、実践論はやや物足りなく感じましたので星4つとしました。 -
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ネタバレとてつもなく難易度の高い本。
あまりにも有名な人だけれども、
どうやら国家レベルで都合のいいように使われていたようで
本当の意味ではなかなか知りえない人かと。
本当は労働を対価にすることが
えてして不条理とも取れるかもしれませんね。
結局のところ、搾取はやまないわけで。
だけれども、最近はその搾取に異を唱えている人が
出てきてはいますね。
後半が見どころかな。
どうすれば人間は理想の地へ下り立てるのか。
そこにお金の概念をなくすには
どうすればいいのか。
途方もないでしょ?
でも、この世界で生き抜くためには
無駄な摩耗は無くすべきなのよね。
あらゆる面の無知をね。 -
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廣松渉は大森荘蔵と並んで戦後日本の二大哲学者。
本書は廣松哲学の入門用として熊野純彦が編んだ。廣松の主要論文が6篇載っている。彼はマルクス主義者だったが、これらが書かれた頃になると廣松哲学と呼べるほどの独自の哲学を論じている。量子力学や相対性理論もその哲学に取り入れている。だが、数式は少ない。それでも物理の素養もあることをうかがわせる。ちなみに、彼の文体は難しい漢字の訓読みが結構出てくる。これで読み手に負荷をかける。それ以上に内容が抽象化されている。一読しただけでは理解できない。もちろん、理解できる部分はある。だが、その論文全体の真意を理解するには並大抵のことではない。ただ、本書を読んでいて、その明晰な思考の流れを泳ぐ心地良さをときに感じた。これは名のあるどの哲学者にも言えることなのかもしれない。
ある論文では、まれに「!」を使い熱いところを見せている部分もあった。まだ若い頃にそれが書かれたのかもしれない。また、ある論考では大森荘蔵が出てきたこともあった。攻撃的な批判ではなく、敬意を込めて、彼と自分の考えは違うことを語っていた。同時代を生きた彼らはきっと互いを意識していたのだろう。
文中、たびたびドイツ語が出てきた。哲学者にはフランス語やドイツ語が使える人が多い。彼はドイツ語が使えたようだ。廣松が影響を受けたマルクスがドイツ人のためだと思われる。
本書は廣松の論文がそのまま掲載されている。だから、廣松の思考を身を持って感じることができる。廣松と直に向き合うことができる。彼の思想を理解するのは一筋縄ではいかなくても、彼の生の声を感じることができる。その人となりも少しは感じることができるかもしれない。その論考に苦しみ、ときに睡魔が襲い、そして、夢中で読める幸せな時間を過ごすことができる。それが一次文献に当たる醍醐味だと思う。 -
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先日、五木寛之と佐藤優の対談本で五木氏と廣松渉の共著を読んでみる気になったが、絶版らしい。
廣松渉の名は知っていたような気もするというレベル。
講談社現代新書の表紙は既に画像と違っている。
これは高校の頃に読んだ形而上学に近いかな。しかし、何となく言い包められらような印象がなく、逆に終盤はこんなに問い詰めていかなきゃいけないのかと、少々音を上げた。
実体は目を通して網膜に写り、僕らはモノを見ていると思っているが、実際は網膜から視神経を通じて脳細胞の電気信号として処理されている。そう考えれば、皮膚感覚や匂いや味に至るすべての刺激がデータとして僕の存在実感が出来上がっているんだろう。そして僕の意識や感覚も莫大なセンサーからの情報処理に他ならないのかとも考える。岡嶋二人「クラインの壺」のような完璧な仮想現実が出来上がったら、現実と仮想の区別はなくなるだろう。ついつい色々余分なことを考えてしまった。
自我自体の認識不可能性とか不可知性が当然の了解事項とされているが、勉強不足でよく判らない。
本の終盤で自我の対自存在としてこの議論が出てくるが。
対象(所与)を認識するとは一定の所識として覚知識されることにおいて個物として現認されるというのは成程、と納得。
そして、所与ー所識なる機構は、人が「誰かとしての私」を共同主観的な同型性を保有させていくというプロセス。能識者としての私が結論付けられる。
しかし、「私は私にとって何者であるか」という問題はよく判らない。判断主観一般の僣你者としての能知者ということなのか。
もう少し、読み返さないと駄目かな。 -
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アーレントの解説本を3冊読んだ上で『人間の条件』に取り掛かったけれど「どうしてもマルクスが前提知識として必要らしい」と悟り、本書を頼ることにした。
本書はソ連・東欧が資本主義経済に舵を切った直後の1990年に出版された。20世紀を通して“主流派”であったレーニン主義的解釈を削ぎ落とし、より純粋な形でマルクス思想の“核”を見てみよう、というのが本書のねらいだ。ちなみに、著者によれば、社会主義国家の失敗とマルクス思想の破綻はイコールでは結ばれない。
第1章では、マルクスが打ち出した新しい「人間観」「社会観」「歴史観」について説明される。
マルクスは、理性的側面を重視する伝統的な人間観を顛倒させ、「生存のために生産活動を行う動物」としての、より本来的な人間観を基礎に据えた。そして「生活手段の生産=労働」こそ、人間を他の動物から弁別する特徴であるとした。
またマルクスは、社会が実体的に存在するとする「社会実在論」も、アトム的個人の実在だけを認める「社会唯名論」も斥け、社会を「諸個人が相互に関わり合っている諸関連、諸関係の総体」と定義する。
そのように定義された社会は、経済の論理に基づく“支配と隷属”に特徴づけられる「市民社会」と、市民社会の階級的利害対立を“調停する”「政治国家」という層をなしている。政治国家は、“市民社会の秩序を維持する”という建前のもとに、市民社会の階級間対立を固定化する傾向をもつ。
こうした現状を追認しようとする人間一般の傾向もまた社会の特徴の一つとされる。
マルクスが提示した歴史観は、自然史と人間史を切り離さないというものである。これは人間の生産活動が、自然の制約を受けているということに関係している。
しかし、人間の歴史を作るのは、やはり自由意志をもった人間である。が、人間の歴史にも一定の法則性がある(ように見える)のはなぜか?それはすべての人間を動かす究極の起動因(=生存のための生産)が存在するから、というのがマルクスの回答だ。
第2章では『資本論』のエッセンスを概観する。
マルクスは、商品の価値がその商品の生産に要した労働量の価値(=労働者の生活費)によって決定されるとする「労働価値説」を採った。
資本家は、賃金を支払って手に入れた生産手段(=労働力)を“所有権”に基づいてフル活用しようとする。結果、労働者は契約以上に酷使されることとなる。ここでは、労働者は自らの「労働」を売るが、資本家は労働者の「労働力」を買う、という不一致が生じている。
さらに、労働力売買の場においては、買い手である資本家のほうが有利であり、また他方で、労働者は他の労働者との雇用競争にさらされている(のみならず、資本家も他の資本家との競争にさらされているので容易に賃金を上げられない)。結果として労働者は、生きていくために不可避的に資本家にからめとられることとなる(実質的包摂)。
これらのことから、マルクスは労資関係を「賃金奴隷制」と呼んだ。
第3章では資本主義から共産主義にどのように移行できるとマルクスが考えていたかが説明される。
「各人は能力に応じて(労働し)、必要に応じて(給付される)」という新しい消費手段の給付方法の理念型が示されるが、具体的なことはマルクスは述べていないという。
ただマルクスは、生産手段を国有化しただけでは資本家が国家という法人になっただけで賃金奴隷制は解消されないと考えていた。
「プロレタリアート独裁」という“過渡期”の必要性を措定せざるを得なかったが、具体的にどのような体制をとるべきかについてもまた、マルクスは何も述べていないという。マルクスはむしろ、貨幣制度の廃止など急進的な制度改革を戒めていたのだそうだ。
20世紀の社会主義国家の失敗は、1世代ないし2世代で共産主義革命を成し遂げようとしたところと、マルクス自身の理論が貧弱であった(恣意的な解釈を挟む余地が大きい)ところに原因があったのではないか?
本書を読む前はマルクスに関する知識はほぼゼロだったが、マルクスが展開した思想の概略はつかめたと思う。
『人間の条件』でつまづいた箇所を再読すると、初回よりも理解できるようになったので一応の目的は果たせたことになる。
マルクスの思想が現代の資本主義を批判する道具となるのではないかと、密かに期待してもいたのだが、いかんせん本書は古い。現代の資本主義経済をマルクス思想のもとにどのように理解が可能か、という問題については、もっと最近の研究を俟たねばならないのだろう。
著者には申し訳ないが、著者が共産主義の将来を語れば語るほど空しい気持ちになってしまった。
むしろ現代の資本主義は、依然として多くの問題を抱えてはいるが、労働法規の発達や福祉制度の充実によって、今さら共産主義を志向するまでもない程度には、一応健全に機能している(マルクスの時代の資本主義の問題をある程度克服している)といえるのだろう、という考えに至った。 -
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マルクスやエンゲルスの体裁が整った著作とは違って、これはノートのような紙に思いついたこと、またはどこかで学んだことをひたすら書き連ねた本である。またエンゲルスが主に執筆した箇所をマルクスが書き加えたり、線を引いて消したり、また絵のような内容を書き加えたりしている。
体裁が整った著書は当然だが取捨選択しているので、彼らがどのような発想をしているか、も当然だが取捨選択している。しかしこの本に関しては思いついたこと、また学んだことの成果をそのまま載せているので、彼らがどのようにして「唯物史観」や「共産主義」の原理を構築したかが読み取れるし、またフォイエルバッハの哲学をどのように学んでいたか、が分かる。
とはいえ、断片的であるのは当然で、分かりにくいのはたしか。ただ生々しいマルクス、エンゲルスの頭の中身がわかる気もする。 -
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本書の副題は、「モノからコトへ」でして、「モノからコトを見つける上手い方法」がないかと探索中の一冊なのでした(……という目的にはそれほど参考になりませんでしたが……)。
本書を一言で言えば、Wikipediaの廣松 渉の解説にある、
実体があって関係があると考える物的世界観に対し、関係があってこそ実体があると考える事的世界観を提起した。
という哲学の入門書です。
まえおきに、
本書は、著者がこれまで出した本のうちで最も判り易いかたちにかけていると信じています。
と書いてあるように、予備知識なしで読むことができます。でも、独特の言い回しや漢字の使い方があるのですらすら気軽に読むというわけにはいきませんでした。
さて、内容に入りますが、廣松 渉が否定する「実体があって関係があると考える物的世界観」とは何のことかというと、根底にモノが存在してそのモノとモノとの関係から世界が成り立っているという考え方だそうです。
廣松は、量子論を出して物理的なモノ自体の基盤のもろさを指摘したり、相対性理論を持ち出して、主観-客観という認識関係が成り立たないことを示します。
その後、モノの認識の話に移るのですが、ここで、
「抽象」という手続きによる「概念」形成ということは論理的にみて成立しえない。
という話が載っているのですが、それがおもしろかったので、引用し紹介します。
今、人が概念を抽象によって形成しようと努めているものとする。そこでの作業手続きはどのようになっているであろうか?
それは二段階の手続から成るものと考えられている。第一段において、比較校合する素材的与件たる一群の個物が弁別収集され、第二段において、それら与件群の普遍本質的な規定性がピック・アップされる、云々。──これが「機能的抽象」の手続だというわけである。
はい。科学的方法として、サンプルを集めてきて、それを分別・分類・分析することで本質的な何かを発見するのと私も思っていました。
ところが、、、
だがしかし、謂うところの「第一段」(これは現物を実地に寄せ集めるというより、実際問題としては、当座の概念形成に必要な与件群が記憶その他をも動員して意識野に引出される過程なのであるが)、そこにおいてすでに重大な先決問題がある。
人は、<犬>という概念を形成しようと試みるさい、自家の飼犬ポチ、隣家の飼犬ジョン、……等々の個体群を“集め”ることであろう。が、ミケ、タマ、等々の個体は初めから除外してかかる。ましてや、<犬>という概念を抽象しようという今の場合、机とか石とか、木とか草とか、……こういった多数のものどもは与件群に入れられない。
おぉ。確かに!!
では、一体なぜ、ポチやジョン……を比較校合の素材的与件として集めるのか? まさに、それらは犬であるから。また、ミケやタマや、机や石や草や木……などを排除するのは、まさに、それらは犬でないから、であろう。
言われてみれば……。
ということは、人は<犬>という概念を今から抽象・形成しようと企てているのであるにもかかわらず、何は犬であり何は犬でないかを与件収集の場面ですでに知っているということを意味する。ポチ、ジョン……を集め、ミケ、タマ、机、石……等を除外するさいの、判別基準は何か? まさに<犬>という概念、つまり、今から形成すべき概念を事前に知っているということにならないか? もし、そうなら、なにもいまさら、<犬>という概念を抽象などという手続で形成する必要もあるまいではないか!
この後、もう少し精緻にこの問題の考察が続き、外延と内包の話にまとまり結論としては、
論者たちは、概念形成は抽象という論理的手続によっておこなわれると称し、第一段の作業工程として、外延群の集拾をを云々する。が、実態においてはサンプルの集拾しかおこなわれないのであって、しかもそのさい、選別・集拾の基準として“概念態”を事前に所持している。そして、自覚的概念形成と称される手続はたかだかこの既知の“概念態”の陶冶(みがきあげ)にすぎないのだが、当の“概念態”たるや、今から形成されるという触れ込みの「概念」と、不明瞭ではあれ実質的には既にほぼ同じものである。“概念態”が直感的に既知とされるとき、今から抽出するという触れ込みの概念が実質上は既知という論件先取の事態となってしまっている!
議論は、さらに「内包抽出」の行程に進み、そこもとてもおもしろいのですが、読むほうも疲れていると思うので結論だけ引用すると、
普遍的本質なるものは、帰納的抽象といった順次的手続によってではなく、直覚的に観取される。
なのですね。
最後の章では、これらの考察を受けて、「対象→内容→作用」というつまりは、モノがあってコトが生ずるという認識ではなく、「所与→所識」によって、つまりは、事的世界観を展開するのですが、本書ではその詳細までは至れずでした(廣松渉は1994年にお亡くなりになってしまったので完成させることはできなかったようです)。 -
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ネタバレ[ 内容 ]
哲学とはなにを解明しようとする学問なのか。
近代哲学の行きづまり状況はいかにして打破さるべきか。
従来の物的世界像から事的世界観への転回をはかって独自の哲学体系を構想し各方面に波紋を投じている著者が、認識、存在、実践の三つの側面から、私たちを捉えている近代的世界観の根底的批判を展開し、新しい知の枠組への案内を試みる。
[ 目次 ]
緒論 哲学とは? そして本書は
第1章 認識するとはどういうことか(意識の存立構造 判断と態度決定 真理の成立条件)
第2章 存在するとはどういうことか(現相の存立構造 事象と因果法則 実在の成立条件)
第3章 実践するとはどういうことか(行為の存立構造 実践と価値評価 正義の成立条件)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
哲学/認識論系の廣松渉の著作を数冊読んできて、ここでマルクス主義者としての彼の書物に挑戦してみた。
先に読んだアルチュセール『マルクスのために』なんかよりはずっとわかりやすく、興味深かった。
資本論の初版と改版との比較、マルクスをめぐる多数の論者の文章の引用とその批評など、精細をきわめる内容で、マルクス主義に疎い私にはついていきがたい部分もあるものの、著者の行論をたどっていくうちに、マルクスの「価値論」の重たさが、なんとなくわかったような気がする。
引用しておいた文章は、音楽の善し悪しに関する問題にも適用できるように思えて、注意をひいた。が、ここで私は廣松渉氏に完全に同意するものではない。
「総社会」なるものは存在しない、それは「あるかのように言われている幻想」にすぎないのではないか、と私は考える。間主観性が可能になってくるのは、現在では社会の一部をなすコミュニケーション空間、何らかの「枠の内側」にすぎず、全主体の総体などという括りじたいが不可能になっているのではないだろうか。