【感想・ネタバレ】哲学入門一歩前 モノからコトへのレビュー

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Posted by ブクログ 2018年04月12日

存在論および認識論について、もっとも基礎的なところから丁寧に整理して話が進められていく。話が原理的なところに遡りすぎていて頭がついていかなくなることもしばしばだが、哲学というのは本来常に原理的(原初的)なところへ立ち戻ろうとする営みだと思うので、がんばって著者の思考についていくしかないだろう。話はだ...続きを読むんだん難しくなっていく。第1章と第2章は著者の手際のよさに感動して読んだ。第3章・第4章あたりになると部分的にはわかるものの、全体の筋道が追いづらくなったのが正直なところ。ただ、1章だけでも読む価値は十分にあった。「実体」ということについて頭が整理できたように思う。

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ネタバレ

Posted by ブクログ 2013年01月27日

岩波新書の「入門」の後にかかれた。入門よりも手前から説明した一歩前と、
入門より先へ行く一歩前の両方に広がりを持っているという前書きがある。
物から事へという廣松哲学の肝要を解説している。

物理学を理解していないと、ひょっとしたら間違った認識になるかもしれない。
難しすぎて入門になっていな...続きを読むいかもしれない。
あるいは読者の努力で補うものかもしれない。
安易な読み方は、考える力を養わないからかもしれない。

両方読んだ感想を待つ。

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Posted by ブクログ 2010年11月26日

[ 内容 ]
〈実体(モノ)〉的三項図式にかわり、現相世界を網のように織りなす〈関係(コト)〉的存立構制、その結節としてたち顕れる「私」とは、どのようなものか?
量子論からイタリアの戯曲まで、多彩なモデルで素描する、現代哲学の真髄!

[ 目次 ]
事物に「実体」はない(事物の本体を探ると;自然科学...続きを読むの「物体」像;「量子力学」と原子論;物理的「実在」と認識)
認識は「写実」ではない(写像的知覚観の破綻;現象学の雄略と頓挫;現相的世界への定位;観測と実在相の構成)
本質はどう仮現するか(個別存在と普遍概念;本質認知の擬直覚性;意味的本質の存立性;2重の物象化的錯認)
事態は斯様に妥当する(「所与‐所識」と事態;肯定否定と判断対象;人格的主体の如実相;事態の自他への妥当)

[ POP ]


[ おすすめ度 ]

☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)

[ 関連図書 ]


[ 参考となる書評 ]

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Posted by ブクログ 2021年12月26日

慎重な認識論。場の量子論や特殊相対性理論など現代物理の知見も援用して、モノからコトへの認識論を説く。最後にこの続きがあるような書きぶりだが、それはどの本なのだろう。
現象学への批判がラディカルではなく、本書の文脈に沿った形でのみ妥当している。

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Posted by ブクログ 2016年10月08日

先日、五木寛之と佐藤優の対談本で五木氏と廣松渉の共著を読んでみる気になったが、絶版らしい。
廣松渉の名は知っていたような気もするというレベル。

講談社現代新書の表紙は既に画像と違っている。

これは高校の頃に読んだ形而上学に近いかな。しかし、何となく言い包められらような印象がなく、逆に終盤はこんな...続きを読むに問い詰めていかなきゃいけないのかと、少々音を上げた。

実体は目を通して網膜に写り、僕らはモノを見ていると思っているが、実際は網膜から視神経を通じて脳細胞の電気信号として処理されている。そう考えれば、皮膚感覚や匂いや味に至るすべての刺激がデータとして僕の存在実感が出来上がっているんだろう。そして僕の意識や感覚も莫大なセンサーからの情報処理に他ならないのかとも考える。岡嶋二人「クラインの壺」のような完璧な仮想現実が出来上がったら、現実と仮想の区別はなくなるだろう。ついつい色々余分なことを考えてしまった。

自我自体の認識不可能性とか不可知性が当然の了解事項とされているが、勉強不足でよく判らない。
本の終盤で自我の対自存在としてこの議論が出てくるが。

対象(所与)を認識するとは一定の所識として覚知識されることにおいて個物として現認されるというのは成程、と納得。
そして、所与ー所識なる機構は、人が「誰かとしての私」を共同主観的な同型性を保有させていくというプロセス。能識者としての私が結論付けられる。

しかし、「私は私にとって何者であるか」という問題はよく判らない。判断主観一般の僣你者としての能知者ということなのか。
もう少し、読み返さないと駄目かな。

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Posted by ブクログ 2012年05月01日

本書の副題は、「モノからコトへ」でして、「モノからコトを見つける上手い方法」がないかと探索中の一冊なのでした(……という目的にはそれほど参考になりませんでしたが……)。

本書を一言で言えば、Wikipediaの廣松 渉の解説にある、
  実体があって関係があると考える物的世界観に対し、関係があっ...続きを読むてこそ実体があると考える事的世界観を提起した。
という哲学の入門書です。

まえおきに、
  本書は、著者がこれまで出した本のうちで最も判り易いかたちにかけていると信じています。
と書いてあるように、予備知識なしで読むことができます。でも、独特の言い回しや漢字の使い方があるのですらすら気軽に読むというわけにはいきませんでした。

さて、内容に入りますが、廣松 渉が否定する「実体があって関係があると考える物的世界観」とは何のことかというと、根底にモノが存在してそのモノとモノとの関係から世界が成り立っているという考え方だそうです。

廣松は、量子論を出して物理的なモノ自体の基盤のもろさを指摘したり、相対性理論を持ち出して、主観-客観という認識関係が成り立たないことを示します。

その後、モノの認識の話に移るのですが、ここで、
「抽象」という手続きによる「概念」形成ということは論理的にみて成立しえない。
という話が載っているのですが、それがおもしろかったので、引用し紹介します。

 今、人が概念を抽象によって形成しようと努めているものとする。そこでの作業手続きはどのようになっているであろうか?
 それは二段階の手続から成るものと考えられている。第一段において、比較校合する素材的与件たる一群の個物が弁別収集され、第二段において、それら与件群の普遍本質的な規定性がピック・アップされる、云々。──これが「機能的抽象」の手続だというわけである。

はい。科学的方法として、サンプルを集めてきて、それを分別・分類・分析することで本質的な何かを発見するのと私も思っていました。

ところが、、、

 だがしかし、謂うところの「第一段」(これは現物を実地に寄せ集めるというより、実際問題としては、当座の概念形成に必要な与件群が記憶その他をも動員して意識野に引出される過程なのであるが)、そこにおいてすでに重大な先決問題がある。
 人は、<犬>という概念を形成しようと試みるさい、自家の飼犬ポチ、隣家の飼犬ジョン、……等々の個体群を“集め”ることであろう。が、ミケ、タマ、等々の個体は初めから除外してかかる。ましてや、<犬>という概念を抽象しようという今の場合、机とか石とか、木とか草とか、……こういった多数のものどもは与件群に入れられない。

おぉ。確かに!!

 では、一体なぜ、ポチやジョン……を比較校合の素材的与件として集めるのか? まさに、それらは犬であるから。また、ミケやタマや、机や石や草や木……などを排除するのは、まさに、それらは犬でないから、であろう。

言われてみれば……。

 ということは、人は<犬>という概念を今から抽象・形成しようと企てているのであるにもかかわらず、何は犬であり何は犬でないかを与件収集の場面ですでに知っているということを意味する。ポチ、ジョン……を集め、ミケ、タマ、机、石……等を除外するさいの、判別基準は何か? まさに<犬>という概念、つまり、今から形成すべき概念を事前に知っているということにならないか? もし、そうなら、なにもいまさら、<犬>という概念を抽象などという手続で形成する必要もあるまいではないか!

この後、もう少し精緻にこの問題の考察が続き、外延と内包の話にまとまり結論としては、

論者たちは、概念形成は抽象という論理的手続によっておこなわれると称し、第一段の作業工程として、外延群の集拾をを云々する。が、実態においてはサンプルの集拾しかおこなわれないのであって、しかもそのさい、選別・集拾の基準として“概念態”を事前に所持している。そして、自覚的概念形成と称される手続はたかだかこの既知の“概念態”の陶冶(みがきあげ)にすぎないのだが、当の“概念態”たるや、今から形成されるという触れ込みの「概念」と、不明瞭ではあれ実質的には既にほぼ同じものである。“概念態”が直感的に既知とされるとき、今から抽出するという触れ込みの概念が実質上は既知という論件先取の事態となってしまっている!

議論は、さらに「内包抽出」の行程に進み、そこもとてもおもしろいのですが、読むほうも疲れていると思うので結論だけ引用すると、

 普遍的本質なるものは、帰納的抽象といった順次的手続によってではなく、直覚的に観取される。

なのですね。

最後の章では、これらの考察を受けて、「対象→内容→作用」というつまりは、モノがあってコトが生ずるという認識ではなく、「所与→所識」によって、つまりは、事的世界観を展開するのですが、本書ではその詳細までは至れずでした(廣松渉は1994年にお亡くなりになってしまったので完成させることはできなかったようです)。

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ネタバレ

Posted by ブクログ 2015年06月16日

入門本というにはかなり難易度が高いです。
おそらく、見慣れない感じや、言い回しが
やっぱり哲学的世界という感じです。

ただ、そんな言葉が羅列する割には
そんなに文章にドヤ顔感は
漂ってはきていません。
例の提示も割とわかりやすい、というか面白い例まで
出してくれています。
努力は伝わってくるんです...続きを読むよね。

でも、哲学は世界観が違うから
難しいものです。

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Posted by ブクログ 2014年12月31日

「モノ」の情報が~,「コト」の情報が~
といってたら,後輩のS氏に渡されました.

大御所なのでしょうが,
その時代の哲学者らしく,難しい漢字にドイツ語カタカナ読みでかながふってあったりして,なかなか読んでいて悩ましい.

それはさておき,入門一歩前ってのは入門の手前っていみと,入門して一歩前へって...続きを読む意味をかさねたはるらしい.
相対性理論や量子理論を引き合いに出して,原始論的な実在主義がもはや科学においても崩壊してると論じつつ,認識論についてかたられています.

いろいろ難しいことはおっしゃってますものの,やはり純な哲学ですと,言葉を粘土のごとくこねまわすだけでは,新しいモノは出てこないような印象を感じました.

# あ,失礼なこといってるかモ?

しかし,メルロ=ポンティだーのなんだーのの「間主観性」とかが結局の所,いってみたものの全然前進してないよねー.

と,「ぶっちゃけ」てられたのには共感しました.

本書中に

「哲学の世界ではもはや陳腐になっている話だが,実は概念は抽象と言う手続によっては論理的に生み出されない」

と,ぶちあげたはったんで,理由をよんでみると,ツッコミどころ満載だったと感じた..

哲学者っていうのは,なんでも決定論的にクリスプに考えるよなあ.と思わされた本日でした.

(2014/12/31追記)
突っ込みどころについては,「記号創発ロボティクス」においてツッコミました.

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Posted by ブクログ 2013年03月27日

著者の哲学の入門書。『新哲学入門』(岩波新書)より幅広い話題を扱っており、「モノからコトへ」というサブタイトルが示すように、実体論的世界観に代わる関係論的世界観の意義について比較的詳しい説明がある。

第1章では、現代の常識となっている、物理的実在を実体とみなす見方の問題点を指摘するとともに、場の量...続きを読む子論などを取り上げて、自然科学の内部で実体論的な発想を乗り越える試みがなされていることに触れている。第2章では、カメラの写像をモデルとして認識を説明する見方を退け、ありのままの現相的世界から出発しなければならないと説いている。

第3章では、本質直観の対象となるようなイデア的存在者の自体的存立を認める立場を批判し、著者の「所与-所識」構造に基づいて、「本質」についての私たちの理解が成立する機序を明らかにしている。

第4章では、著者の役割存在論への導入的説明と、判断の客観的妥当性を説明する「能知-能識」構造が解説されている。

現相的世界の対象的側面における「所与-所識」構造と、主体的側面における「能知-能識」構造からなる四肢的存立構造の中で事態は存立する。こうした事態が忘れられて、たとえば感覚的所与や普遍的本質のようなものが自体的に存立しているという「物象化的錯認」が生じることで、実体論的世界観の種々の問題が出来すると著者は論じている。

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Posted by ブクログ 2009年10月04日

 難しい…。読むに当たってかなりの緊張を強いてくる本です。少し気を抜くと何を言っているのか分からなくなります。電車の中で読むには適していないのかもしれません。私としてはこの本の主張は、「例えば目の前にレモンがあるとして、それがレモンであるのはレモン自体が「レモン」だからではなくて、レモンを「レモン」...続きを読むにしようや、とみんなで決めたからレモンなのであって…」という感じなのかなぁと思います。。

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Posted by ブクログ 2009年10月04日

これで1歩前…頑張ったのに…
原子の話が出てきて超文系の自分には新鮮。文系/理系と分けて考えてはダメだなと実感。

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