中村佳子のレビュー一覧
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ネタバレ現代フランスの作家ミッシェル・ウエルベック(1958-)の第一作品、1994年。資本主義的な「自由」が到り着いている地点を描く。
資本主義社会では、すべてが同一平面上に並置させられてしまう。すべてがフラット化してしまう。超越的なものが引きずりおろされてしまう。即物的無価値(金、力、快感、効用)へと還元されてしまう。世界がひとつの巨大な商品陳列棚、ランチプレートに成り下がってしまう。則ち、一切のものが貨幣という統一の尺度で比較され計量化される商品と化す。コミュニケーションは互いに商品ラベルと値札を貼り付け合うだけ。外部はありふれた商品として内部に繰り込まれ、消費されるだけ。一切の出口は予め塞がれている。
「生」の在りようが「自由」の追求にあるとする。資本主義社会において、「自由」とは「資源を選択する自由」である。しかし、「資源の有限性・希少性」ゆえに、「資源を選択する自由」は「資源を獲得する競争」として現実化する。こうして、「自由」は「自由競争」へと転化する。則ち、「生」のあらゆる局面において「自由」を追求するということは、「生」のあらゆる局面において「自由競争」に晒されることを意味する。つまり、「自由」の追求は、不断の「闘争領域の拡大」として現実化する。「絶対的窮乏化」が、経済的な自由競争(物質的資源の獲得)だけでなく、性愛の自由競争(性的資源の獲得)の局面においても引き起こされることになる。
こうした云わばありふれた地獄の、その出口の無さを、この作品は描いている。
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自分がいつか感じていたような焦燥、嫉妬、絶望、倦怠の言葉が見つかる。
「しかし、なにをしたところで本当の逃げ道にはならない。次第に、どうしようもない孤独、すべてが空っぽであるという感覚、自分の実存が辛く決定的な破滅に近づいている予感が重なり合い、現実の苦悩に落ち込むことが多くなる」(p17)。
「要するにあらゆる逃げ道が塞がれていた。彼女にできることは、黙って臍を噬みながら、他の娘たちが解放されていくのを見ていることだけ。少年たちが他の娘たちの周りで蟹のようにひしめき合うのを眺めることだけ。他人のあいだに関係が結ばれ、ことが行われ、オルガスムが広がっていくのを感知することだけ。他人が悦びを誇示する傍らで自分が静かに崩壊していくのを徹底的に味わうことだけ」(p114)。
「その気になれば、毎週だって女は買えるだろう。[略]。でも同じことをただでやれる男もいるんだぜ。しかもそっちには愛までついている」(p125)。
「君はいつまでも青春時代の恋愛を知らない、いってみれば孤児だ。[略]。君には救済も、解放もない」(p149)。
「僕はがむしゃらに、うろうろと歩きまわる。いてもたってもいられない。しかしなにもできない。なにをやっても失敗する気がする。失敗。失敗だらけ。自殺だけが遠く埒外できらめいている」(p169)。
「僕は裂け目の中心にいる。自分の肌を境界のように感じる。そして外部の世界を壊滅的な圧力のように感じる。分離はすみずみまで行き届いたようだ。このさき、僕は自分という檻の囚人だ。崇高な融合なんて起こらない。生存の目的は達せられなかった」(p202)。
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ところで、とかく日本では文学研究や社会学などでしか顧みられることが稀なフロイト精神分析は、どうやらフランスの一般的な社会の中に根を下ろしているような描写があるのだが、それはどのように位置づけられているのか。 -
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フランスを代表するベストセラー作家であるミシェル・ウエルベックのデビュー作。フランス現代思想のような衒学的なタイトルであるが、その意味するところはシンプルであり、痛切なものだ。
近代の資本主義は、企業やそこで働く個人を市場という絶え間ない闘争領域に追い込んでいく。最初は生産・販売などの経済的活動が闘争領域で繰り広げられたが、止む事のない資本の自己増殖能力は徐々に闘争領域を拡大させていく。その結果、恋愛そしてセックスまでもが闘争領域に飲み込まれていく。
身の回りを見渡してみれば良い。良いセックスができる人間はますますそのチャンスを増大させる一方で、そうした機会が与えらない人間はますますそのチャンスを逃していき、格差が増大していく。
常に現代社会の残酷な一面を切り取り、小説という形態にテーマを昇華させ見事な作品に仕立て上げるウエルベックの方法論はデビュー作からして確立されていた。そうしたことを感じた一冊。 -
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やっと読み終わったー。がんばった。
最初はSFと思っていたのです。ネオヒューマンがいかな人生を送っているのかという興味から購入したのです。でも実際は、ネオヒューマンに至る新興宗教に肉薄した皮肉を扱うコメディアンの人生記に対して、ネオヒューマンたるが為にその人生記につけた未来人の注釈を読む物語だった。
ゆえにネオヒューマンの生態というより、コメディアンの皮肉、人生や戦争、なにより老いと性生活への皮肉と批評がメイン。この辺は読み手の読み間違いもあるのでなんとも言えない。
ただ主人公は本文中で指摘されてるとおり、感性が特別豊かなわけではない。ただただ正直なんだ。この世の欺瞞に対して。そうしてその欺瞞へ率直に切り込む語り口はなかなか得難い。パッと見セックスだのフェラチオだの言ってるだけでなんだこいつってなるけども。
その実人間の根元にある愛への飢え、その飢えがなくなったネオヒューマンの一人の末路など、読みごたえはある一冊ではあった。 -
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往来堂書店「D坂文庫2015冬」から。選んだ理由は選者の「日本にこんな意地悪な小説家は絶対いない!」というコメント。
さして取り柄のない仏人公務員ミシェルは、親の遺産でタイ行きのパッケージ・ツアーに参加し、少女を買う。そして、周囲のひんしゅくを買いつつ、そのツアーで知り合ったヴァレリーと恋に落ちる。帰国後はヴァレリーと一緒に彼女が勤める旅行会社で売春ツアーを企画するが、最後は…。
この小説の中でミシェルとヴァレリーは、もう数えきれないくらいセックスをして、その度にミシェルは西洋の性の退廃を、ひいては西洋文明の没落を嘆く。
少々乱暴なつかみ方ではあるけれど、西洋の高度資本主義への批判・警告を性を通して描いた、と言えるのかもしれない。
とは言え、この表現の仕方に読者はどこまでリアリティを覚えるんだろう。この小説にリアリティを感じる人は、この作家にのめり込むだろうし、反対にリアリティをまったく感じない人は、もうこの作家の作品を手にすることはないのだろう。もっとも、リアリティ云々の前に、官能小説とも言える性描写に辟易として、本書を投げ出す人も決して少なくないとは思うけれど。 -
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これがウェルベックのデビュー作らしい。テーマというか作者の姿勢は本当に一貫していて清々しさすら感じる。これと後の作品を比べると(全部読んではいないが)、変えていっているのは読者層を広く取り込むための工夫の部分だろうか。遡ってデビュー作が文庫化されるくらいなのだから、その努力は上々の成果を上げている。この作品自体は、面白いのだけど、まあウェルベックの作品として一番に薦めることはないかなという感じ。
最後はあの後、自殺したのかな?してないのかな?どちらもあり得ると思うが…。雄大な自然の中にいてもむしろ虚無感を感じるというのは自分にも覚えがある。個人というものの枠組が根源的には「死によって世界から分離されるもの」として規定されており、その前提のもとに社会が運営されているのだから、冷静に考えるとなかなかぞっとする。人は繋がりが完全に絶たれることに耐えられないにも関わらず、それを社会全体が奨励している。可能性のなくなった人は死んでいく。人間は一体なにがしたいんだ、とは思う。 -
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ウェルベックの原点。
資本主義社会では、誰もが財を成す権利を持ち、それを行使するか否かを決める自由を手にしていると幻想している。
けれど、それは当然「誰もが」であるはずはなく、このシステム下においては性愛でさえ、持てる者だけが享受し、持たざる者はどれほど足掻こうとも除外されてしまう。
主人公と正反対で、外交的かつ情に厚いビジネスパートナーのティスラン。
彼の頭の中は常時と言っていいほど、女性のことが占められていて、自分が愛した女性に無償で愛されることの自由と格闘している。
けれど残念なことに、彼の容姿やセンスは女性を惹きつけるどころか、遠巻きに嘲笑を浴びるほどだ。
『性的行動はひとつの社会階級システムである』
それは金銭とは別の、勝者と敗者を生産するシステムであった。
ティスランを見ながら、主人公は自分が大量の愛を与えたかつての恋人ヴェロニクを思い出す。
彼女は鬱病を患い堕落していき、主人公は注いだ愛情をただの浪費だと考えるようになる。
主人公とティスランは、この闘いに何らかの勝利をもたらそうと画策するのだが……。
ウェルベックが、日本のオタク文化を見たら、賞賛するだろうか、罵倒するだろうか。
二次元の中に理想の女性を描き、彼女との擬似恋愛に満たされる、第三次産業が起こした革命(笑)
ただ、まあ、結局のところ、ティスランも主人公も、自らの勝手な欲望を、都合よく消費出来る女性を求めているだけなのでは。
そこに時間もお金もかけないことを望むのは、最早恋愛の神聖視ではない。 -
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今年はミシェル・ウェルベックの『服従』が文庫化され、その不穏な衝撃が自分自身にもたらしたものは大きかった。
なので、オビにあるウェルベックとジョージ・オーウェルの名前に、これは手に取らずにはいられない作品だな、と直感。
『1984年』をある意味で受け継いだ作品で、偉大な神ヨラーとその代理人アビを盲目的に信仰する宗教国家アビスタンが舞台となる。
誰もがその教義に従って、自らの徳を上げ(つまりは地位と名誉を)、他者が裏切らないかを監視し、自らの力で生きることを取り上げられた社会。
主人公アティは、サナトリウムの中でアビスタンを外側から見つめる思考を手に入れ、信仰はある種の狂気を孕んでいることに行き着く。
信じないという選択は悪であり、悪は辱められた死に繋がるシステムの中で、アティは志を共にするコアと、真実に触れる旅に出るのだった。
この作品では、イングソックの三原理を踏襲し、また核戦争を大聖戦として繰り返した果ての、第二の1984年が語られている。
ある枠組みから暴力を以て脱却し、戦いによって統治し、君臨する。
変革は、人がそれを求める心に端を発し、その時は自由であり、自らの理念を誰かと共有することに純粋に喜びを感じるものではないのか。
それはアティの思いにも共通する。
けれど、一度力を集めることで、理想は拡大と永遠を求めることに変わってしまう。
求める心を縛り付け、思考を取り上げる。
この変容から人が守られるには、どうすれば良いのか。
その答えの一つは、トーズの博物館なのだろう。
結局のところ、私たちの外側にあるものを、勇気を持って見つめることでしか、知ることでしか、守られないのかもしれない。 -
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田舎出のデュロアは元アフリカの騎兵隊下士官だったが、一旗挙げようと軍隊を辞めフランスに。しかし鉄道会社勤めでお金がなく、日々を窮していた。ある日、アフリカでの騎兵隊仲間だった新聞記者フォレストに会い、チャンスをつかむ。人一倍ハンサムなディロアは、フォレスト家に集まる上流社会の女性達に愛されて、その助けを受けながらチャンスを広げてゆく。愛と資産と名誉を求め、次々と成功の階段を上ってゆく。そのたびに女性の愛を裏切り、別の愛に求め、移ってゆく。//愛人たちとそれらの夫とデュロアの関係がとても面白い。新聞業界やフランスの上流社会のモラルと倫理のなさがリアルに描かれていて興味深い。でも、物語としては面白いが、人生はそれだけなの?真実もあるのでは?という疑問も抱かせる。