中村佳子のレビュー一覧
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ネタバレ現代社会は、経済だけでなく、「性愛」も自由化され、富めるものとそうでないものの格差が拡大している。このような話は、しばしばSNSで話題になっている「弱者男性」問題にもつながっており、ここ数年は熱をもって議論されていることだが、ウェルベックがこの問題を30年も前に小説のテーマにしている点が興味深い。主人公は容姿がよくない同僚のティスランを心の中では散々馬鹿にしており、実際にティスランは性愛に関してひどい目に遭ってしまう。ただ、主人公の心情描写から、自由恋愛の世の中に果敢に立ち向かっていき、最後には不慮の死を遂げる彼を、著者は心の奥底では敬意を払っているのではないかという印象を受けた。愛を得られない者の哀れさを描きつつも、そういった者に対して寄り添いを感じる不思議な作品だった。
フランスでも話題になったようだが、現代の日本で広まればそこそこ議論を生みそうな一作である。 -
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22.11.12〜12.19
快と不快のバランスがゼツミョーだった。ウエルベックの作品はいつもそうかもしれないけど。
Back2Backな構成だから形式は『素粒子』に似ているけど、この小説は構造として『人生記』があるから、全体的にカッチリしてる印象を受けた。
アイデアとしての人生記の面白さと、書き手であるダニエル1たちが定義する彼の人生の滑稽さと悲しいまでの正直さ。人生記には書かれなかったダニエル1の顛末、ままならなすぎる。
ネオヒューマンは自分自身のことが分かりすぎていてやけにサッパリしているから、その孤独な生き方に滑稽さも含まれているような感じがした。
読んでいてウエルベックは正直な人だなと思った。 -
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やはりわたしにはライフオーガナイズ的な片付けが性格に合うようで、読んでて、
あーわかる!わかる!それ!
ってのがたくさんあった。
これはなかなか片付けられない男の子のしかも子ども向けに作られてるけど、片付けられない大人!こういうところから始めてもいいのかも!?
片付けられないのは何も子どもに限ったことではない!!!!この一番初歩から一歩一歩積み上げていけば大人でも大丈夫だし、子どものために噛み砕いて説明しているのも、とてもわかりやすいし大人だけど、
40歳過ぎたけど、
この子どもの気持ちわかるよな。ってなことあるある。
面倒くせー今やりたくねー
とかね。笑
毎朝くじ引きで勉強する時間を決めるとか。笑
大人でもいいかもね。ゼロ分なら堂々とお片付けお休みーみたいな。笑!!!
片付け下手さんにとってもおすすめしたい本でした!!!!!!
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性と老い、そして不死をキーワードに、現在と遺伝子コピーされたクローンが生きる破滅を迎えた世界を描いた、SFというかディストピアの向こう側のような作品。
セックスから男と女の話、そして文明と広がる話の中で、男と女がそれぞれが求めるものをつきつめると、結局一夫多妻が正解だったのかもしれないと感じ、そして文明が崩壊していく中で、人生に居心地の悪さを感じた人々は、最終的にはイスラム的な共和国の建設を願うようになるの部分は、後のウェルベックのベストセラー「服従」につながるように思った。
むしろ「服従」につながると思わせながらも、設定としては「服従」後の作品といえるようなのが面白い。 -
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「前例のない水準の繁栄と健康を確保した人類は、過去の記録や現在の価値観を考えると、次に不死と幸福と神性を標的にする可能性が高い。飢餓と疾病と暴力による死を減らすことができたので、今度は老化と死そのものさえ克服することに狙いを定めるだろう。人々を絶望的な苦境から救い出せたので、今度ははっきりと幸せにすることを目標とするだろう、そして、人類を残忍な生存競争の次元より上までアップグレードし、ホモ・サピエンスをホモ・デウスに変えることを目指すだろう」ー 『ホモ・デウス』ユヴァル・ノア・ハラリ
不死をテーマにしたミシェル・ウエルベックの小説。遺伝子のコピーを世代を超えて記憶とともに引き継ぐことによって「不死」を実現した二千年後の世界。
主人公のダニエル1は、名の知れた成功したコメディアンで映画監督。バツイチだが、監督を務める映画のキャストに応募してきた年の離れたエステルとグダグダな愛人関係。いつも通り、この人の性愛描写は、生々しく露悪的だが、唐突にその衝動が冷めたりする。要するに現実的なのだ。老化によって性愛欲やその能力以前にそこからはみ出してしまうことに対して、ダニエル1は抵抗する。一方、24世代/25世代後のネオ・ヒューマンであるダニエル24/ダニエル25からは性欲のようなものは消えている。少なくとも切実さは失われている。
ダニエル25は最後次のようにつぶやく。
「幸せが実現することはありそうにない。世界は期待したようなものではなかった」
小説のはじめの方に、離婚した最初の妻が連れていった息子の自殺に触れる。
「息子が自殺した日、僕はトマトのオムレツをつくった。『福音書』にも「犬でも生きていれば、死んだ獅子よりましだ」と書いてある。僕はその子のことを一度もかわいいと思ったことがなかった」
未来の人間が「不死」を求めるとき、性愛はどのように扱われるべきなのだろうか。『ホモ・デウス』が避けた議論であるが、ウエルベックはそこから「不死」を考える。『ホモ・デウス』もセックスする。いや、もしかしたら、そうではないのかもしれない。
近未来SF小説として見ると、準備した装置をうまく動かすことができずに、回収すべく置かれたものを放置して終わってしまったように感じる。小説なので、これはこれでよしとして、個人的なこれではない感がぬぐえない。うまく言えないが。 -
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ウエルベックの処女作。冒頭のデブス二人がミニスカートは男の気を引きたくて履いているわけではないと高らかに宣言するのに対し「くだらない。粕の極み。フェミニスムの成れの果て」と主人公が毒づくのは苦笑してしまった。ウエルベックは相変わらず差別的だが、ある種の絶望した男性を描くのは本当に上手い。
自由主義が経済市場や恋愛市場に行き渡ること=すなわち闘争領域の拡大が本作のテーマである。Twitterでよく論じられるキモカネ論(キモくてカネのないおっさん)にも通じる内容で、それは主人公の観察対象であるティスランを見ているとよく分かる。彼は経済的には成功しているものの、性的行動は満たされていない。性的行動は一つの社会階級システムであると本書は語っているわけだが、生まれつき醜く容姿の悪い人間はそれを得ることができない。カネで代替することはできるものの、そこに愛はなく、狭い闘争領域の中に愛は存在しない。これは残酷な真実であり、どうしようもなさを感じてしまう。処女作ということもあって後の作品と比較するとやや淡々とした運びであり、救済も答えもないのだけれど、ウエルベックの暴きたい欺瞞がわりと露骨に出ている秀作である。 -
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センセーション、キッチュ、醜悪、美を自在に配合して縦横無尽に文学するウェルベック。主人公ダニエルはそのコメディアン版という感じ。彼もまた人心の歯車を知り尽くし、観客の笑いをタイミングから加減に至るまで完璧に掌握している。
しかし、そんなダニエルにさえ人生はままならない。中盤のみっともなさがすごすぎて笑ってしまうくらいだがーーそれもコメディアンゆえなのかーー後の人生記の読者となる未来のダニエルを笑わせにいってるような、自虐的な記述におかしみと共に切実さも感じさせる。生への執着と虚無との間をグダグダしているように見えるのは、実は誰よりも真剣に人生に取り組んでいるからに他ならない。その姿もまた、ウェルベックの鏡像のように思えてくる。
才能も知識も意味を持たない地獄のなかで、それでもニヒリスティックになり切れない主人公の苦しみが、遠く離れた未来の自分自身に変容をもたらし、根拠のない可能性へと向かわせるーーそんな一筋縄ではいかない“希望”の小説として読んだ。
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18世紀末から19世紀初頭のフランスの作家コンスタン(1767-1830)の唯一の小説、執筆は1806年、初版は1816年。
本作品はフランス心理小説の先駆けと云われ、人間心理の動きをどこまでも細密かつ合理的に記述しようとしている(逆に、本作中には心理描写以外の情景描写などは殆どない)。その巧みさは見事なもので、自分自身が言語化できずにいた己の内面の運動を表現してくれているように読めて、ああ自分があのとき感じていたこと考えていたことというのはこういうことだったのか、と気づかせてくれる描写が数多くある。幸福の有頂天にあるときの表現もなるほど確かにそういうものだと思わせるが、それ以上に痛切に身につまされるものは弱さや醜さなど自分では直視したくない自分の内なる感情が剔抉させられている場合だろう。そうした醜い心の動きというものは、当人が意識する際には、既に自己欺瞞という歪んだフィルターを通過することで変造され矮小化されてしまっていることが殆どであり、ひどい場合には無かったこととして無意識下に隠匿されてしまうこともある。このように普段からずっと自分の内に潜んでいながら遣り過ごしてきた自分自身の内面が、人間心理に通じた作家の作品によって、あたかも外化されているのを目の当たりにすること。そこには、自らの裸体が晒されるにも似たどこか被虐的な快楽が伴っているように思う。ここの一節には自分だけの秘密にしてきた"あの事"が書かれてしまっているのだ、と。そしてこの物語には、いつの時代にもありふれた男女の悲劇が描かれている。だから訳者が云うように、「いまを生きる人間であれば誰であれ、この小説を最後まで他人事として読み通せはしない」。
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男は、或る女を手に入れようと一見情熱を燃やしていたかに見えたが、いったんその女を手に入れてしまえば、次第にその女の存在が疎ましく感じられてくる。「彼女はすでにある種のしがらみになっていた」。「一方わたしはというと、エレノールが幸せそうだと、こちらの幸せを犠牲にして成り立っている状況を喜ぶ彼女にいらいらする」。しかもそれでいながら、優柔不断ゆえに自らその女へ別れを切り出す決断もできず、ずるずるとどこまでも遅延されていく終局。これは、ありふれたという以上に、普遍的な物語であると思う。
アドルフは、生来の内気な性質からか、女に対して独りであること(孤立)の確保を求めた。一方エレノールは、金持ちの愛人という世間から卑しい女として蔑まされる身分から来る欠落感からか、男と一体であること(合一)の確証を求めた。アドルフを自らの内に包摂したかったのか、或いは自らをアドルフの内に溶け込ませたかったのか、ともかくアドルフの生活全体を(その愛情も身体も時間も)支配しようとした。そしてアドルフは、その支配から逃れようとしながらも、「他者嫌悪」が昂じた「他者恐怖」という自分の弱さからエレノールときちんと向き合って関係を清算することもできず、寧ろ彼女との宙吊り状態に依存していく。
いづれにせよ、双方とも「他者」ではなく「エゴ」を、相手の他者性とともに「二者」たることではなくその相手の他者性を無視して「一者」たることを、求めたのではないか。他者の他者性を尊重した関係を築くことに、二人は失敗している。そこに必要だったのは、「適切な距離の感覚」ではなかったかと思う。その「距離」によって、他者は他者として現出し、そこで初めて他者に対するに相応しい敬意ある態度が可能となる。アドルフとエレノールは、互いに互いへの「距離感」が両極端だった。アドルフはその「距離」が遠過ぎたし、エレノールは余りにも近かった。
「愛がわたしのすべてでした。でもそれは、あなたのすべてにはなりえなかったのです」。
これは両者のエゴイズムが惹き起こした一種の地獄であると思う。
「つまりこの物語が示しているのは、人があれほどに誇る、かの精神なるものは、幸せを見つけることにも、それを与えることにも役に立たない、ということなのです」。