瀬川拓郎のレビュー一覧
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【内容】
アイヌの人々の様々な風俗とその歴史について分かりやすくまとめている、まさに題名通り入門的な内容の本。最初にこれまでのアイヌ研究について検証し、それらがステレオタイプ的な誤ったアイヌのイメージ形成に繋がってしまったと批判している。その上で言語、交易、小人神話(コロポックル)、呪術、疫病への対応、祭祀、黄金採取といった7つの主要な観点について、続縄文文化、擦文文化、アイヌ文化(筆者はニブタニ文化という名称を提唱している)の変遷の中での様態とその変化を説明している。アイヌの歴史の中で、ある部分では和人の影響を受け、ある部分では大陸やオホーツク文化等周辺の影響を受けており、そういった影響を一つずつ分析することで、さらにその根底に息づく縄文時代から受け継いでいる文化、思想を読み解くことが出来ると筆者は説く。
本書では縄文時代をそのまま引き継ぐものでもなく他民族とどこかで入れ替わるものでもなく、断続的に相互に影響し合いながらも独自の文化とアイデンティティを形成していったアイヌの人々の姿がいきいきと描かれている。また最後に現代のアイヌの生活にも触れ、筆者の知人のA氏との対話からアイヌの人々が差別により苦労してきた歴史やアイヌとしてのアイデンティティの苦悩を描いている。
【印象に残った点】
コロポックル伝説の正体の一案としての、千島アイヌ正体説。一方でその内容の一部は遠くローマから伝来してきた言い伝えが大陸から伝わり影響を受けている可能性も示唆している。
北海道における砂金の採取が、奥州藤原氏の時代やさらにそれ以前から本州に影響を与えていた可能性。及びアイヌの人々が交易の品目として砂金を採取、精錬していた可能性も指摘している。そこでは、貨幣経済の枠外にある自然と生きる人々といった従来のアイヌ像とは異なる姿が示唆される。
あとがき、渡来系の人々が5世紀後半からアイヌの人々と交流し、北海道にまで渡っていた可能性。
【感想】
蝦夷とアイヌの関係や違いもわかっていない、続縄文文化という響きになんとなく後進性を感じてしまう程度の初学者である私にとっては、概説書としても今後の興味への入口としても最適な入門書であるように思う。また著者のアイヌに対する思想の押し付け等がなく、客観的かつ真摯な姿勢に好感を覚えられ、少なからずセンシティブな要素がある分野にも関わらずストレスなく読み進められた。
本書ではアイヌに影響を与えたものとして本州の陰陽道や呪術、修験道等にも触れられているが、そういった知識も不足しているため知識習得の必要性を感じた。 -
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日本の社会の形が弥生時代、農耕社会より始まった、というのことは事実としては正しいと思う。
縄文文化→弥生文化とすると、縄文文化を前社会的とする感覚になるが、果たしてそうなのか?
世界遺産に選ばれた「北海道・北東北の縄文遺跡群」を調べると、どうもそうではないような気がする。
どこかで縄文文化、縄文社会について気になるところがあり、福岡伸一先生の薦めもあり、本著を手に取る。
「海民」の存在、南北のつながり(沖縄からアイヌまで)、自分が住む瀬戸内にも関係する内容は興味深いものばかりだった。
ある意味で閉塞的な農耕社会とのアンチとしての海民社会、縄文社会を捉えていることも、現代の日本にとっては学ぶべきところかもしれない。
以下引用~
・北海道縄文人は、伝統的な「旧石器的生業体系」を維持しながら、そのことによって異文化の産物を入手することが可能だったのであり、もともと植物食への依存が大きくなかったこともあって、農耕を積極的に導入する意味はなかったのです。
・(アイヌにとって)海の神がむかった「高山」とは、死霊と祖霊の世界の境界であり、山の女神はその世界の住人であったことになります。つまり、海の神の山中往還譚は、海の神がなき女神を訪ねる、他界への往還譚にほかならないのです。
・生命の誕生や成人は、祖霊の生まれ変わりや祖霊による祝祭とむすびついており、山の神はその祖霊だったということになるのです。
・海民、アイヌ、南島の人びとの伝説では、海と山の二元的な世界観が語られており、その二つの世界は他界によって有機的にむすびついていました。
そのむすびつきは、洞窟と高山という現実の空間をつうじて可視化され、生者である海の神と死霊・祖霊である山の女神の交流という神話によって論理的に了解されていたのです。
・山の神をめぐる農耕民の世界観は、「海」と「山」という縄文の二元的な世界観が変形されたものであり、したがって縄文の世界観の継承であると同時に、構造的な変容だったといえそうです。
・縄文時代の遺跡に強い階層化はうかがえません。分配と平等は縄文の思想でもあったとおもわれます。
谷川は、平等とは分配の平等のことであり、なぜ漁民が惜しみなく分配することができたのかといえば、それが神からの授かりものだったからだ、とのべます。
・網野善彦は、「延喜式」に記載された神選が、コメや酒などの農作物より海産物が大きな比重を占めていたことから、「日本の神々は農業神としてだけではけっして理解しがたい、著しい海の香を身につけた神々だった」とのべ、列島社会のなりたちを複眼的にとらえる海民史観を唱えました。
・網野善彦は、海民が農耕民とは異なる独自の世界をもち、農耕民がその生活を維持するうえでなくてはならない交易相手であったこと、中世や近世初期の商人の出自も圧倒的に海民であったことをあげ、日本の社会像をいちぢるしくゆがめてきた閉塞的な「島国論」「稲作一元論」を克服するため、なにより海民の社会と歴史の研究を早急に充実させる必要がある、と訴えたのです。 -
Posted by ブクログ
我々日本人がもしかするとありえたかもしれない時代を考察する書籍
基本的には北海道、東北北部を中心とした縄文人の末裔に関する歴史や文化の歩みを考古学の観点から考察していく流れで進んでいくが、読み進めていくうちに鉄器などの技術は和人から流用するにも関わらず何故縄文人は和人の文化に染まりきろうとしないのか?という疑問を抱き続けるようになった。
しかしそういった疑問を(そういう読者もいると想定したのか?)終盤で解決させる構成からか今まで知ってきた歴史の見方が変わり視野が広がったように感じるようになった。
もしかしたら現代社会の構造が実は彼らよりも進歩的ではないのではないか?そんな事も考えさせられる内容でもあった。 -
購入済み
アイヌの歴史を知るには良い本
直木賞受賞の「熱源」を読んでアイヌに興味を持ち購入。
北海道にいくつもの文化圏があったことを初めて知り驚いた。
北海道のあの広さを考えたら当然と言えば当然かと納得。
たくさんの物を持つ者は権力を持ってしまうと言う理由から、自分達の文化内では物々交換をしないことで、平等性を保ち続けると言う考え方は興味深い。
おそらく当時の人口の少ない時代だからこそできることだったのだろう。
今なら一つの集落単位や、サークルほどの単位でなら出来そうだ。
資本主義万歳!お金万歳!個人の自由万歳!の現代ではこんな考え方の社会はまず無理だろう。
でも現代社会に疲れて別の生き方をしたいと思う人にとっては、1つの指針になるかもしれない。
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Posted by ブクログ
シャーマンキングやゴールデンカムイなどの漫画からアイヌに興味を持つようになり、ちょうど筑摩書房のセールもやっていたため購入。
縄文人の末裔であるアイヌの歴史を振り返りながら、同じ祖先である縄文人の縄文思想とは何だったのかを考えていく内容です。
これは良書ですね。
遺伝子的な部分だけではなく、言語や文化、風習などといった多角的方面からアイヌの歴史について述べています。
そして参考文献の数がすごい…。
アイヌを語るのに欠かせない本州との関連や中国やロシアなど大陸側との関係にも言及されており、より理解が深まります。
今のアイヌはただ縄文人が外部の文化を受け入れずに現代まで続いているのではなく、様々な文化と交わり変化していった姿だということがよく分かりました。
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Posted by ブクログ
昨年「第3回古代歴史文化賞」の大賞を受賞するなど、なにかと話題になった本。
これまで関連本を何冊か読んだり、博物館などを見て来た限りでは、アイヌ民族の自然や野生、道具への畏敬とか、世界観とか、サステイナブルな生き方とかにスポットが当たったものが多かったように思う。もちろんそれも一面の真実だろうけど、人間社会だもの、そういう文化的な美徳ばかりではないだろうなという、どこか収まりの良くなさも感じていた。
この本は、今まで見ていたそうした風景に一石を投じてくれる。すなわち、オホーツクや大陸東北部の先住民、和人との交易や、砂金の採掘や取引という、いわば経済的な側面を、考古学の知見などに照らしながら明らかにして行く。ダイナミックな国際民としてのアイヌ民族が浮かび上がってくるのである。
沈黙交易、行進呪術、修験道との関係などの話も面白かった。 -
Posted by ブクログ
北海道の縄文人の食事は肉食主体で、オットセイやアザラシなど海生哺乳類に偏っていた。本州では一定期間飼育した子イノシシを殺す祭が行われていたが、北海道にはイノシシが生息していないにもかかわらず、祭りを行うために本州からイノシシを入手していたらしい。著者は、このイノシシ祭りがクマ祭りのイオマンテに変容したと推測している。
本土の弥生・古墳時代は、北海道では続縄文時代が並行する。1世紀以降、東北北部では水稲耕作が行われなくなり、人口が減少していた。4世紀になると北海道の人々が東北北部に南下し、古墳社会の前線地帯である仙台平野と新潟平野を結ぶラインまで進出した。続縄文時代には、皮なめしの石器が大量に使われており、毛皮が古墳社会に渡っていたと考えられる。この東北進出と同時に、北海道には鉄器の流通が拡大し、石器が激減した。また、オホーツク人が稚内から奥尻島まで南下してきて、古墳社会との交易を求めるようになり、続縄文人との緊張関係が高まった。660年、阿倍比羅夫は北方交易の安定を図るために奥尻島のオホーツク人を撃ち、続縄文人と東北北部の人々との間で行われていた交易を王権の管理下に置いた。8世紀前葉には、国家の出先機関としての秋田城が設けられた。東北北部の人々は、苫小牧から札幌にかけての石狩低湿地に進出し、続縄文人との交易を確保した。
本土の奈良・平安時代は、北海道では擦文時代が並行する。東北北部からの移住者の影響により、住居はカマドをもつ竪穴住居になり、土器は文様のない土師器に似たものになった。アワ、キビ、ヒエ、コムギ、オオムギなどの農耕が行われるようになり、鉄製農具も普及した。9世紀後葉以降、石狩川流域の集落はサケの産卵場地帯に集中するようになり、本州へ大量のサケを出荷した。日本海沿岸には、河口港としての流通集落が現れている。同じ頃から、東北北部の人口が急増し、特に津軽地方では、水田開発、鉄生産、塩生産、窯業などが始まり、北海道の遺跡では東北北部で生産されたと思われる須恵器やコメ、鉄器が出土するようになった。
本土の鎌倉時代以降は、著者はニブタニ時代と呼ぶ。11世紀に東北北部で竪穴住居が平地住居になり、土器は漆器椀や白木の椀、鉄鍋に変わり、北海道の日本海側でも同様の変化が起こった。15世紀になると、東北北部から渡島半島南端に武装した和人集団が進出し、館を構えて交易の利権を争った。