月沢李歌子のレビュー一覧
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購入済み
素晴らしい!
ビジネスの組み立て方を体系的に示唆してくれている。
どの様に組み立てるかが非常に整理されている。
実用最小限のビジネス製品を作り出す為に22ステップを踏み入念な計画の元リリースしていく様子は、リーン生産方式を凌駕する内容だ。 -
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キリスト教の牧師さん?が書かれた本なので、いわゆるスピリチュアル系というか、では神様に祈りましょう!、という内容。キリスト教系の本を読み慣れなかったり、宗教アレルギーが強い人には厳しいかもしれない。
でも、この本のすごいところは、ほぼすべての内容が実例というか、著者が体験したこと、他の人の工夫を著者が採集したことを紹介する形で成り立っている点。それも、ごくごく自然に、それこそ教会で気のいい神父さんとの立ち話のような語りで。
読んでいるうちに、そんなこともあるのかな?そういうこともあるかもしれない、と思えてくるのが不思議です。
ところどころでメンタルケア的なテクニックも載っていて、意外と実践的。実はストレスフルなビジネスパーソンにオススメなのかもしれない。 -
Posted by ブクログ
著者が提唱する「SEES分析」、すなわち「状況認識」、「事実説明」、「状況予測」、そして「戦略的警告」の4つをもとに、現代人がいかにして過酷な出来事を乗り切るのかを提示する。また上記以外に、推論や論理的思考において重要な要素や情報を賢く活用するためのポイントと、全部で10のレッスンを読書に教授する。
状況認識だが、ここで大切なのが、知識というのは常に断片的で不完全であり、ゆえに間違えることがあるということ。そこで著者はベイズ推定を用いてそれぞれの状況を認識すべきだと唱える。事実説明については、事実を検証するためには説明が求められるということである。状況予測は、予測そのものに限界があること、また文化の違いや偏見には注意すべきである。戦略的警告については、これが念頭に置くことで、かりに予期せぬことが起きたとしても過剰に焦る必要がないことがわかる。
次に推論をチェックするための3つのポイント、すなわち「認知バイアス」、「強迫観念」、「偽情報」に触れるが、これらはいずれもたとえ個人がどんなに有能な人物であったとしても、陰謀論に捉われ、最悪グループさらには組織全体でそのような罠に引っかかってしまう例があると注意を促す。そうならないためにも、外部の視点を持つことが大切である。
最後に賢明な情報の活用法であるが、これは相互の立場を知り、そこからお互いの共通の利益が何であるのかを見出すことが、今後の情報社会を生き抜くうえで重要なスキルである。 -
Posted by ブクログ
面白かった.世界史の類はどうも苦手意識を覚えてしまう自分でもすらすらと読めた.
原始の狩猟採取時代から現代に至るまでの人間同士の争い(戦争)を巨視的に描いている.
国家の樹立や技術革新など,歴史の進展とともに戦争の技術,戦術,戦略がいたちごっこのように進化し,現代まで脈々と続いていることがよく理解できた.
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・戦争は人類特有の愚かな行為なのか?
→No. 現代の文明を持たないヒトやその近縁種でも集団間の戦争は起きている
→生物の生存競争方法の表出。生命は与えられた環境で最大限の繁殖を試み、結果環境の収容力を超える。そんな状況では天候の変化など少しの環境の変化が生命に欠乏をもたらす。欠乏を埋め生き残るべく、他の群から奪う選択肢に生存上の合理性が生まれる。遺伝的に攻撃的な素質を持つ部族が生き残り、淘汰の結果、闘争が遺伝子に刻まれる。
ピュロスの勝利
→割に合わないこと の喩え
軍隊の指揮はなぜ絶対服従なのか
→戦争は本質的に不確実。絶対服従はその戦いを取り巻く不確実さを減らす。
戦争の極度のストレスは兵士の精神を蝕み破壊する。精神的な意味でのタイムリミットが各兵士にある。
エース
→WW1で生まれた用語。敵機を少なくとも5機撃墜したパイロット
ドローン攻撃
登場は2001年。
ドローン操作者は自分の命は晒さないという倫理上の批判がある
平等主義は相互監視や抑制行動が効く小規模集団では効くものの集団規模が大きくなると維持できない。上位下達のシステムが必要。さらには群衆をコントロールすることが必要
→統治者の登場、専制政治と軍事化
→大群衆が平等主義を取り戻すのは18世紀末の民衆革命(アメリカ,フランス)以降.
印刷技術の登場×識字率の向上=ある問題を集団で議論し,意思決定する民主制の萌芽
男に対する貧しい食生活と終わりのない労働、女に対する社会的身分の貶めはいわば抑圧の手段。
スイス→傭兵団の輸出を産業としていた.
ファランクス,時々騎兵や海上戦→1700年までには銃器を中心とした戦術にシフト.狙い撃ちではなく弾幕で圧倒するスタイル.
フランス革命 1789年
ナポレオンが皇帝へ.戦争の目的はヨーロッパ全土の支配へ. 1804年
民衆革命はナショナリズムも掻き立てる.統治者が自身の立場を失わない程度に繰り広げる限定戦争から全面戦争へ.
→塹壕で戦線を張り互いに持久戦→消耗線→大量資源が必要、国全体を巻き込む→攻撃の標的が国全体に。
→塹壕による硬直は戦車が突破.全面戦争は以前変わらず.
→電撃戦.スピード勝負の前線突破.(WW1後のドイツのポーランド侵攻) -
Posted by ブクログ
人類も所詮動物であり、争いはする。
しかし殺し合うところまで行ってしまうのは、他の動物と違うところだと思いながら読み進めた。
改めて、人類歴史は戦争の歴史でもあることがわかった。
ロシアのウクライナ侵略やイスラエルとパレスチナの紛争がクローズアップされているが、大国同士の世界大戦は、この75年発生していない。
そう言う意味では、歴史から一定程度学んでいるのかもしれない。ただ、大戦とは言わないまでも、紛争は起こっているし、その質も変わってきている。もしかしたら、今までと異なる要因で、導火線に火がつくかもしれない。
まえがき
第ー章 戦争の起源
第2章 実戦のありさま
第3章 戦闘の進化(紀元前3500年―紀元前1500年)
第4章 古典的戦争(紀元前1500年―紀元1400年)
第5章 絶対君主と限定戦争(1400年―1790年)
第6章 大規模な戦争(1790年―1900年)
第7章 全面戦争
第8章 核戰争小史(1945年―1999年)
第9章 戦争の三つの枝―核兵器、通常兵器、テロリスト
第10章 戦争の終わり
あとがき
それにしても、歴史的におびただしい数の人間が殺されていたこと、人間の命は相当軽いものだったことが理解できた。
仏では、1562年から1598年のあいだに、10件の内乱が起こり、推定300万人が殺された。オランダでは、スペインの支配に抵抗する80年にわたる反乱が1568年に始まったが、1618年以降、こうした地方の争いは、すべてのヨーロッパ強国が巻き込まれた最初の戦争へと統合された。1648年に三十年戦争が終わる頃には、戦闘は現代より一世紀少し前まで維持された形式になり、800万の人々が死んだ。
独は、三十年戦争のおもな戦場になり、この政策の代償を払った。
1648年にウェストファリア条約によって殺戮が終わるまでに、独の人口は、2100万からわずか1300万へと3分の1以上減少した。ただ戦争の犠牲者の圧倒的多数は農民であり、権力者の誰も彼らのことを本気で気にかけることはなかった。
ナポレオンの時代、1804年から1813年までに240万人が徴兵されたが、帝政末期に帰還できたのはその半分に満たなかった。
独軍は1918年3月、アラスにおいて、攻撃初日に6608門の大砲から320万発を発射し、2週間のうちに広い領土を占領したが、7月までのあいだに100万もの犠牲者を出している。
1914年から1918年までの戦争は、初めての全面戦争で、どちらかが完全降伏をしなければ終えることができないというのがヨーロッパ諸国の政府の理解だった。6000万の男性が徴兵され、そのうち800万人が死に、2000万人が負傷した。
第二次世界大戦で7000万人が亡くなった。
1945年8月6日、ティベッツ大佐の部隊が広島に核爆弾を投下した。たった一個の爆弾を積んだ、たった一機の飛行機によって、5分足らずで7万人が殺された。
第二次世界大戦の勝者は戦争を恐れた。1945年のサンフランシスコ会議で国際連合憲章を採択し、戦争を非合法だとした。新しい国連憲章は、厳密な意味での自己防衛または安全保障理事会の命令によるものをのぞいて、他国への武力行使を禁じた。また、この命令は、加盟国が攻撃されるのを阻止するためにのみくだされることになった。
2022年3月時点で拒否権の行使は、ロシア/ソビエト連邦120回、アメリカ82回、イギリス29回、フランス16回、中国16回である。
次の何世代かをかけてわたしたちがやらなければならないのは、独立した国家から成る現在の世界を、真の国際共同体のようなものに変えていくことだ。そうした共同体を作るのに成功すれば、そこがどんなに論争が絶えず、不満が多く、不当行為に満ちていても、戦争という古びた慣例を実質的に排除することができるだろう。そうすれば、ようやく一息つける。
戦争の歴史を振り返るということは、世界史を圧縮して描くことのようだ。著者のように、軍事史と世界史の両方をよく知る書き手だけが、その見取り図を示すことができる。
本書は現在を理解し、将来を見据えるためにも力となってくれる。戦争という不安や混乱と不可分である現象を前にして、私たちが落ち着いた足取りを取り戻すための手がかりを与えてくれるのだろう。 -
Posted by ブクログ
人類史を説明して、平和に至る道を模索する。正に私のライフワーク。早速手に取った。が、なんか違う‥‥。
第1章冒頭から、「(人類は戦争を)受け継いだのだ。人類のもっとも遠い先祖も戦争をしたし、進化の隣人であるサルも戦争をする」と断定している。私の人類史の理解と大きく違う。戦争は文明を手に入れた時、初めて人類が生み出したものではないのか?
著者は新しい学説として、これを紹介しているが、私には説得力なかった(根拠は長くなるので省略)。著者略歴は、英国軍事アナリストでジャーナリストだった。なんか納得。
前提が違うので、最後の平和に至る道は眉唾なのだけど、軍事専門家だけあって、文明史における戦争史は参考になるところが多数あった。
以下私的メモ。
・現在ドローン攻撃は、「テロを防ぐ」「暴動を鎮圧する」理由で、「周りの罪のない人々に大量の犠牲を出さないように」襲撃する時間と場所を決めて訓練が行われている。←もちろんミスはあることも著者は認めている。
・ロボットはLAWSドローン(致死性自律型兵器システム)として開発されつつある。一台500万ドルとして5年計画で支払えば、アフガニスタン農村部5マイルの地域をカバーする殺人ドローンを購入可能。これはアメリカ軍事予算のほんの一部に過ぎない。
・BC8500-8000頃の城塞都市(パレスチナ東部)が発見された。戦争が起きた証拠になるだろう。軍隊による戦いの「記録」は、BC3500頃のシュメール。狩猟採集民の10-20倍の大人数で、1人の指揮官の元で戦った。農耕民族だけが、数字、責任の概念、然るべき社会構造を持っていた。
・軍隊の集団行動による、大量殺戮の記録は、BC2500メソポタミアのハゲワシの碑にある。組織編成はファランクスの兵士たちであり、3000人が戦いで命を落とした。彼らは自主的に統制ある動きを行なった。しかもこの軍事力はコスパが良かった。
・その後、軍事力の革新(弓・馬と馬車、大規模な要塞、攻城兵器、騎馬隊等々)で、征服者の交代が行われた。
・近代史では世界大戦(その時代の全ての大国が参戦)は6回あった。30年戦争(1618〜48)、スペイン継承戦争(1702〜14)、7年戦争(1756〜63)、フランス革命とナポレオン戦争(1791〜1815)、第一次世界大戦(1914〜18)、第二次世界大戦(1939〜45)。最初は人生で一回半世紀ごとに起きた。ナポレオン以降は、国同士の大きな戦いが起きて、国の勢力図は変わった。世界大戦の度にカードはシャッフル(新国際秩序)される。1918〜1939が20年間しかなかったのは、総力戦で和平が難しかったからだろう。しかし、1945年秩序は89年の50年後でシャッフルされたのに、何故、第三次世界大戦は起きなかったのか?
・次の大戦は、核兵器が使われるからである。
・「核の冬理論」は誰も否定できない。2000〜3000の核爆発で、恐竜絶滅と同じような地球環境の激変が見られ、人類絶滅可能性も否定出来なくなる(戦争を起こしたならば、誰も勝者になれない)。ソ連崩壊あとは、研究は一切進んでいないが、危険性は現在も全く変わっていない。
・戦争に核兵器が使われなかったのは、偶然に過ぎない(例 キューバ危機)。←核抑止論は破綻している。
・都市ゲリラ戦略で、戦争に勝利する方法はない。PLOは国際テロで「宣伝」して、イスラエルと交渉した。ハマスとネタニヤフは、2国家共存による解決を妨害する共通の目的を持ち、うまく成功している(←21年の著者の認識。現在破綻しているのは承知の通り)。
・テロリズムは政府を直接転覆するには無力なままだが、より小さな政治的野望を実現する力は強くなっている(アルカイダ、イスラム国)。テロリストが核攻撃しても、それで世界は変わらない。
・危険な3つの逆戻りが進行中。
地球温暖化(飢餓→難民と移民→武力による移民の取り締まり) 新たな大国(中国・インド・アメリカ体制→印米同盟がなれば危うい) 核の拡散(インド・パキスタン間の核兵器戦争の恐れ)←既に発行している核兵器禁止条約については一切言及ない。
・「ヒヒでさえも戦いを放棄した。人類もできるだろう」という、まるで科学的ではない理論のもとに、人類にも希望はある。と著者は結んでいる。違うだろ?もともとヒヒに戦争をする性質なんてなかったんです。結果的に、私と同じ結論になったけど、なんか納得いかない。
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Posted by ブクログ
ネタバレセネカの考え方は違う。セネカはキケロのように多彩で、哲学者であると同時に、劇作家であり、政治家であり、成功した実業家でもあった。セネカにとって、問題は人生がいかに短いかではなく、わたしたちのほとんどが与えられた時間をうまく使っていないことだった。つまり、ここでも避けられないことについて、どう考えるかが重要になる。人生が短いと腹を立てるのではなく、短い人生を最大限に活用すべきなのだ。たとえ、100年生きられたとしても、いまと同じように人生を無駄にする人もいるだろう。それでいて、人生は短すぎると不満を漏らすに決まっている。だが、正しい選択をすれば、すなわち、無駄なことをして浪費しなければ、人生は多くを成し遂げるのに十分なほど長い。それなのに、わたしたちは金銭を追い求めるのに多大な労力を費やしてほかのことをする時間がなかったり、自由になる時間は酒やセックスに溺れたりする。
年をとってから気がついても遅すぎる、とセネカは考えた。白髪や皺は、多くの時間を価値あることに使った証明にはならない。一方、そうであるかのように勘違いをして振る舞う人もいる。だが、航海に出ても、暴風によってこっちへあっちへ翻弄されれば、船旅に出たとは言えず、波にもまれているにすぎない。人生についても同じだ。コントロールを失い、意味と価値のある経験をする時間を見つけることなく、日々の出来事をやりすごしていくのは、真に生きることとは違うのだ。
十分に生きれば、年老いたときに過去を恐れる必要がない。時を無駄に過ごせば、自分がどのような人生を送ってきたかを振り返って考えたいとは思わないだろう。取り逃したチャンスに思いを馳せるのはあまりにつらい。多くの人たちが、つまらない仕事に没頭するのはそのせいだ、とセネカは考えた。成し遂げられなかったことを認めるのを避けられるからだ。そこで、読者には、集団から距離を置くこと、忙しさにかまけて自分自身から目を背けないことを勧めた。
それでは、セネカは、わたしたちがどのように時間を使うべきだと考えたのだろうか。ストア哲学では、世捨て人のように他者から離れて暮らすのが理想とされた。もっとも有意義に生きるには、哲学を学ぶべきだと鋭い指摘をした。それこそが真の生き方だというのである。
ルソーの一般意志の意味は誤解されやすい。現代での例ではこう考えられるだろう。ほとんどの人は問われれば、高い税金を払わないで済むほうがいいと言う。実際それは、政権をとるためによく使われる手で、単純に税率を下げるという公約が掲げられる。収入の20パーセントを税金として払うのと、5パーセントを払うという選択肢を与えられたら、たいていの人は低い額のほうを選ぶだろうう。だが、それは一般意志ではない。みんなに聞いた結果、みんなが欲しいと答えたものは全体意志である。一方、一般意志とは、みんなが利己的に、自分のためになると考えるものではない。一般意志が何かを理解するには、私利を忘れ、社会全体の利益、つまり公益に注目しなければならない。道路の維持のような多くのサービスのために税金が必要なことを受け入れれば、それを実現できるよう高い税金を課すことは、コミュニティ全体にとって有益になる。税金が少なすぎれば、社会全体が損害を被る。つまり、一般意志は、税金は良いサービスを提供するのに十分な高さであるべきだということになる。
人が集まって形成された社会は、ある種の人格を持っている。個人は、より大きな全体の一部だ。ルソーは、一般意志に沿うような法律に従うことが、社会のなかで真に自由であり続ける道だと考えた。法律は賢明な立法者によって制定される。立法者の役目は、個人が他者を犠牲にして利己的な利益を追求するのではなく、一般意志に沿うことができるような法制度を作ることだ。ルソーにとって真の自由とは、コミュニティ全体の利益になるよう行動している人々の集団の一員になることである。人々の望みと、全体にとって最善のことは一致するべきであり、法律は自分勝手な振る舞いを防ぐ助けになってしかるべきだ。
だが、もしあなたが都市国家にとって最善のことに反対だったらどうだろう。あなたは個人として、一般意志に従いたくないかもしれない。ルソーはこれに対する答えを用意していた。とはいえ、それは、大抵の人が聞きたがらない答えである。よく知られているように、そしていくぶん困ったことに、ルソーはこう言っている。法律に従うのがコミュニティにとって有益だということが受け入れられないのであれば、その人は「強制的に自由にさせられ」なければならない、と。ルソーが言いたかったのは、誰であれ、社会にとって本当に利益になることに反対する人は、それが自由な選択のつもりかもしれないが、一般意志に同調して従うのでなければ、それは真の自由ではないということだ。どうしたら、人を強制的に自由にできるだろうか。わたしがあなたに、本書の残りを読むよう強制したら、それはあなたにとって自由な選択とはいえないのではないだろうか。誰かに何かを強制するのは、自由な選択とは全く反対のことである。
だが、ルソーにとってこれは矛盾ではなかった。何が正しい行いかわからない人は、強制的に従わさせられることで、より自由になれる。社会に属する人は誰でもこの大きな集団の一員なので、従うべきは自分勝手な選択ではなく、一般意志だというのを受け入れる必要がある。この考え方によると、たとえ強要されたのだとしても、一般意志に従って初めて人は自由になれると言える。
連合国軍がドイツを破った、まさに再出発の時だった。戦争が終わったことも、過去を捨て去れなければならないと感じることも救いだった。どういう社会をつくるかを考えるべきだ。戦時中に起こった惨事のあとで、あらゆる人が「生きる意味とは何か」「神は存在するのか」「自分はつねに周りの期待に応えなければいけないのか」といった哲学者が問うような問いについて考えた。
サルトルはすでに、長編で難解な『存在と無』(1943)という本を書き上げ、戦時中に出版していた。中心となるテーマは自由だった。人間は自由である。これは妙なメッセージだ。フランスは占領下にあり、多くの人々が自国にいながら自分を囚人のように感じていたし、実際に囚人のようなものだったからだ。サルトルが意味したのは、たとえば小型のナイフとは異なり、人間は特定の目的のためにつくられたのではないということである。サルトルは人間をデザインしたと言われる神の存在を信じていなかったので、神が意図をもって人をつくったという考えを否定した。小型ナイフは切るためにデザインされている。切るということが本質で、それが小型ナイフを小型ナイフたらしめている。では、人間は何をするためにデザインされたのだろうか。人間には本質がない。人間は理由があって存在するのではない、とサルトルは考えた。人間であるために、あるべき特定のあり方はない。人間は何をするか、何になるかを選べる。誰もが自由だ。どんな生き方をするかを決められるのは自分しかいない。ほかの人に生き方を決めてもらうにしても、それもまたひとつの選択だ。ほかの人が期待するような人になるという選択なのだ。
もちろん、何かをする選択をしても、それが成功するとは限らない。成功しない原因は、自分ではどうしようもないことかもしれない。だが、それをやりたいと思ったこと、やろうとしたこと、実現できなかったことにどう応じるかは、自分自身の責任である。
自由は扱いが難しい。わたしたちの多くは自由から逃げ出してしまう。ひとつの方法は、自分はあまり自由ではないふりをすることだ。サルトルが正しければ、わたしたちには言いわけは許されない。自分の毎日の行動や、それをどう感じるかはすべて自分の責任だ。どんな感情を抱くかもである。いま悲しい思いをしている人も、サルトルによればそれは選択である。悲しまなければいけないのである。悲しいなら、それはその人のせいだ。恐ろしいことだし、あまりにもつらくて直面できない人もいるだろう。サルトルは、わたしたちが「自由を宣告された」と言う。好むと好まざるにかかわらず、わたしたちはこの自由から逃れられない。
「ゲーム」という言葉について考えよう。ゲームと呼ばれるものにはいろいろある。チェスのようなボードゲーム、ブリッジやソリティアなどのカードゲーム、サッカーのようなスポーツなどだ。かくれんぼや、ごっこ遊びもそうだろう。どれも「ゲーム」という言葉で呼ぶために、すべてに共通のひとつの特徴、すなわち「ゲーム」という概念の「本質」があるように思われがちだ。だが、ヴィトゲンシュタインは、思い込みをやめて「よく観察るすように」と読者を促す。ゲームにはすべて勝ち負けがあると思うかもしれないが、ソリティアはどうだろう。壁にボールを投げて跳ね返ったのをキャッチする遊びは? どちらもゲームだが、敗者はいない。では、ルールがあるのがゲームの共通点の共通点だろうか。いや、ごっこ遊びにルールはなさそうだ。共通する特徴になりそうなものすべてに対して、ヴィトゲンシュタインは反例、つまり、その要素をもたないゲームを挙げる。全てのゲームがひとつの共通点をもつと想定するのではなく、「ゲーム」という言葉を「家族的類似の用語」と捉えるべきだと、ヴィトゲンシュタインは考えた。
ヴィトゲンシュタインは言葉を一連の「言語ゲーム」として説明することによって、言葉がさまざまな意味で使われること、哲学者はすべての言葉が同じような働きをすると考えるせいで混乱していることに対して注意を促した。ハエにハエ取り瓶からどうやって出るかを教えるというのが、ヴィトゲンシュタインの哲学者としての目的だった。典型的な哲学者は、瓶に閉じ込められたハエのように、壁にあちこちぶつかりながら、あたふたしている。哲学的な問題を「解く」方法は、コルク栓を抜いてハエを出してやることだ。ヴィトゲンシュタインは、哲学者たちが間違った問いを立てている、または言葉に惑わされていると教えたかったのである。
科学者は、わたしたちの多くと同じように、間違いから学ぶ。現実についてのある見方が誤りだとわかったとき、科学は進歩する。ポパーの観点はこのふたつの文章に表されている。これこそが、人間が世界の仕組みを知るもっとも可能性の高い手段だとポパーは考えたのだ。ぽパーがそうした考えを示すまで、ほとんどの人が、科学者は世界のありようを直感で思いつき、その後、それが正しいことを示す証拠を集めるものだと思っていた。
ポパーによれば、科学者は自分の理論の誤りを証明しようとするのだという。理論をテストするには、その理論が反証される(あるいは偽であることが示される)可能性があるかも確かめなければならない。大胆な推測を立て、それを一連の実験や観察によって覆そうとするのが典型的なやり方だ。科学は創造的で、刺激的な活動だが、真実を証明するわけではない。誤った見解を除外して、願わくは、その過程で真実に近づこうとするのである。 -
Posted by ブクログ
高松智史さんがオススメされているのを見て、MIT流の新規事業の実現プロセスを学んでみたいと思って購入。
全24ステップもあるが、1つ1つMIT卒業生の起業事例も取り上げて解説されているため、退屈せずに読み進めることができた。「ビジネスの必要十分条件は、そのサービスを買ってくれる顧客」というフレーズが印象的。
新規事業を考えているとマイワールドに陥りがちだが、改めて顧客の視点に立って事業の企画立案〜運営することの重要性を学べた。また、LTVやCOCAの考え方も、資本コストで割り引くなど意外と分かっていなかったこともあり、勉強になった。
案件の合間に参考書的に読み直したいと思う。