富永京子のレビュー一覧
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若者は政治に関心がないと言われるが、本当にそうなのか?
実態は関心がないわけではない、しかしどのようにそれを表現すればいいのかがわからない。1960年代〜70年代にかけて醸成された規範(反戦平和や女性解放運動、サブカルチャーの受容のあり方)へ対抗意識が1980年代の若者共同体にあった。一方でその規範自体の矛盾が1980年代の若者共同にいて花開いた。
つまり、前の世代が求めた多様性が大事という価値観を受け継ぐが、多様な価値観を獲得してきたその運動自体が、新しい規範となってしまう。
ビックリハウス内の読者投稿欄においては「反戦平和運動」的なもの、「女性解放運動」的なもの、「ロックは反権力としてメッセージを受容すべき」的なもの、が拒否される。これは多様な価値観を目指す運動がその目的をある程度達成し、その運動に内包していた「〇〇すべき」という強制力がその多様な価値観=「祖父は戦時中に〇〇したらしいけど、それは私たちにとっては面白い投稿として受容できるよね」、「バリバリのキャリアウーマンになって真面目ですごいけど、面白いの?」「自分はロックを自由に聴いているだけ」などのように茶化して受け入れることで、80年代の若者共同体のオリジナルな受容、自分達らしさを表現していた。
それは「政治に無関心な若者」、つまり政治に関心がないわけではないが、政治活動や運動という表現を忌避する若者という現象がそこには現れていた。 -
Posted by ブクログ
自由に生きるための知性
これはいってしまえば=教養なのかなと思った
第一部が特に心に残った
教養を学ぶ意義
教養と社会の関係について整理できた
いま、教養が大事だと改めていわれている理由
→教養から専門知に傾いて
専門家と一般人のコミュニケーション
が上手くいかず、さらには
非対称な垂直な関係になり
専門家と一般人の間の信頼が崩れた
→終身雇用制度が崩壊しており
学び続ける力が必要になってきている
=エンプロイアビリティ
一方で、教養・リベラルアーツとは、
それがある人とない人を隔てる垣根であり
いま社会から求められている教養との間に
ジレンマがある
いま求められている教養とは
他者に対して「開かれ」ていること
新しい自己に出会うこと
その後の章では、差別、好きって何、読書のすすめ、など専門家からの細かな話になるが
「いまの自分の枠からはみたでたものを学ぶ、触れることで、新たな自分を発見する」こと
の重要性が通底しているなと思った
感想
上田先生が言ってたいわゆる量産型の奴隷のような学生だったな自分…
そして色々みているつもりだったけど、自分の好きの中でしか出会えてないかも…
めちゃくちゃ井の中の蛙だな自分…
てか文中の引用がハードすぎて付いていけない…
と落ち込みそうになりました
しかし相手は大学教授たちなので仕方ない
というか、
教養の持つ分断の意味合いにジレンマ感じつつ
インテリたちの共通言語を使いすぎてやしないかい?とツッコミを入れながら読みました
単細胞の私には少々難しい本でしたが
1ヶ月くらいかけてゆっくり理解しました
おすすめの本がたくさん出てきて
読書リストがどんどん伸びる
時間を空けてもう一度読みたい作品
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Posted by ブクログ
歴史的・社会的変化を基準にシンプルに考えてみた。社会運動とは2つに大別できる。「もみ消せる運動」と「もみ消せない運動」。両者の境界は「情報のグローバル化」、つまり現代。情報操作できた時代は、もみ消しによって社会運動を抑圧することができた。しかしSNSやネットが主役の現代では、情報操作するとそれ自体炎上して火に油をそそぐ。だから様々な性加害問題が顕在化し、裏金問題に一石が投じられる。へたすると体を動かすことなくネット空間上で誰かをバクシさせることもできる。それがいい時代かどうかは別だが。目的を伴わない新しい社会運動という考え方は面白い。ノーベル賞発表時期になると毎年村上春樹推しが現れたり、いまだにタマちゃんを愛でる会があったり、集まること自体を楽しんでいる人たちを見ると、なんとなくほっこりする。あれ?これって社会運動?
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筆者は曰く、日本で初めての社会運動論に関する新書。今の社会を「社会運動論」という全く縁の無かった切り口で俯瞰して見ることができる機会になりました。
社会運動に携わったことはないし、日本という国自体、社会運動から縁の遠い国のように思っていたが、長い目で見れば、日本の社会も変わっています。障がいのある子の親になり、同じようなご家族の先輩世代と接する機会があると感じます。変わっている背景に社会運動というのものがあったことに気付かされます。
「運動=集団」とインスピレーションしますが、個々の世の中になっています。この世の中で社会運動があるのだろうか?と思ってしまいますが、SNSなどの個人メディアでの発信や、社会からもう少しブレークダウンした「まち」とか「コミュニティ」とかに関する発信も、新しい社会運動になっているんだろう、と思いました。 -
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「世の中はひとりでに変わっていく訳ではない 必ず変えた人々がいる」という帯のフレーズに引き込まれました。去年読んだ『「ビックリハウス」と政治関心の戦後史 サブカルチャー雑誌がつくった若者共同体』で出会った著者です。前著ではテキスト分析を駆使してその当時の気分を抽出した手法に驚いて、極めて冷静な研究者というイメージを抱きましたが、とんでもない。激アツの人でした。冒頭のアンセム『この本は「社会を変えよう」と呼びかけるものでも、「社会の変え方」を伝えるものでもありません。日本社会に生きる私たちは、そもそもそれ以前の問題として「社会を変える」ということをよく知らないのです。だからこそ、私たちの社会は確かに変わっていること、また社会を変えた主体として私たちのような市井の人々がいることにも気づかないのです。だからこそ、私たちがやるべきことは、まず「社会を変える」とは何なのかを、 過去の研究や事例に照らして明らかにすることです。』という問題提起に心が動きました。「社会運動論」という分野はまったく触れたことがないので第二章以降で触れられる集合運動論、フリーライダー問題、資源動員論、政治過程論、動員構造論、政治的機会構造論、フレーム分析、新しい社会運動論、「社会運動と文化」論、MTTの理論、経験運動論、もう翻弄されるばかりでいっぱいいっぱいになりますが、それでも事例によって引き寄せて考えることが出来ます。そして辿り着く、あとがき。ここでなされるこの問題への著者自身への個人化によって、また激アツモードになります。理解できていないところも多々だけど、読んでよかった新書です。
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●デモや抗議活動を「特別な人の行動」という固定観念を崩し、フラットに「社会運動」を見る目を養える本。
●社会を変えるとはどういうことか、社会運動を見る目を養う。→社会運動論を学べば、これまでとは異なった視点で社会の出来事を眺められるのだろうという展望を持った。
●本書は、社会運動に対する固定観念を、100年以上にわたる「社会運動論」の系譜を紐解くことで鮮やかに解体してくれる。著者は、人々がなぜ立ち上がるのかを心理的に分析した「集合行動論」から、組織や資源の重要性を説く「資源動員論」など、複雑な理論を現代の事例(「カスハラ」や「炎上」など)に引き寄せて解説する。社会は自動的に「変わった」のではなく、私たちも含む多くの人が「変えた」ということに気づけるようになる本だ。例えば「カスタマーハラスメント(カスハラ)」という言葉。かつては個人の不運や「お客様だから仕方ない」と片付けられていた事象に名前を与え、共通の「フレーム(枠組み)」を構築したことで、それは個人の問題から解決すべき社会問題へと変わった。これはまさに、本書が説く「フレーム分析」の実践なのだ。 -
Posted by ブクログ
「社会運動論」について学びます
筆者の富永京子さん曰く、「社会運動論」を学ぶことで、社会を見渡したときに、今これがこうなってることの裏にそれを変えた活動が視えてくるということなんですな
そもそも「社会運動」ってなんやねんって話なんだけどAIさんによると
「社会運動とは、社会問題の解決や社会の変革を目指し、人々が団結して行う集合的な行動のこと」
つまり、わいのこのレビューも「社会運動」のひとつと言えるわけやな(変な回路繋がった!)
いや、そうやん!
どう考えてもそうやん!
一言一句違わずそうやん!
なので今後は、わいのことはカリスマレビュアーではなく、カリスマ社会運動家と呼んで下さい
社会を変えて行きますよ!
ご唱和下さい!
せーの!えいえいひまー!(急に合わせられるか!) -
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90年代のサブカル者である私にとって、大槻ケンヂこそがサブカルトップスターだった。そしてオーケンこそが、ノンポリビックリハウサーの代表だった。(エンピツ賞取ってるはずなのに、この本では名前が出てこず残念!!)
失われた30年を生きてきたからこそ、日本をここまでダメにしたのは政治だと痛感する。でも、それは政治に無関心すぎた国民のせいだ。
ビックリハウサーはなぜ政治や社会に無関心だったのか? 私もずっと疑問だったから、この本の存在を知って、少しでもヒントがあればと期待した。
読んで、今の風潮につながる点を2つ発見した。
一つは論争を嫌うところ。『宝島』のロック論争を「あげあし取り」「けなしあい」として避け、それぞれの「極私的ロック論」を語るようになったという指摘があった。昨今、プチ鹿島さんがよく指摘しているように、「批判・批評と悪口の区別がつかない」風潮がある。評論は読まれず、ファンダムだけが好まれる。その発露が「極私的ロック論」にある気がした。音楽なら害がない。けれど、政策に対する正当な批判までが、政治家個人への悪口とねじ曲げられ、「野党は批判ばかり」と論争を嫌うため、与党に都合よく世論形成されてきた。
もう一つは、第三部のタイトルにもなっている「みんなの正しさという古い建前、個人の本音という新しい正義」。ビックリハウス的なこの考え方は、今のネット社会に溢れてすぎている気がする。深澤真紀さんが語った話を思い出すのだが、深澤さんの学生がネトウヨの差別的暴論に対し、「正論だと思いました」と言った件。深澤さんは「正論というのは正しい論。あれは本音かもしれないが正論ではない」と諭していた。ビックリハウスの時代にはまだ反抗するべき「建前」が残っていたのだろうが、今はむき出しの「本音」だけが跋扈してしまっている。これもサブカルの罪に思えてならない。
オーケンは言及されていなかったけれど、ハウサーとして名前が出てきた香山リカさんは、今もずーっとSNS上でネトウヨと戦っている。『宝島』の編集者だった町山智浩氏も。結局、80年代90年代のサブカル者は、多くの人が今や政治的関心を寄せている(ただしみうらじゅんと大槻ケンヂを除く)。多くのサブカルスターたちが、SNSで政治的発言をするようになったとき、私は悲しかった。「政治がちゃんとしてないから、本来バカなことばっかり言ってた人たちまで、ちゃんとしたことを言わなきゃいけない時代になっちゃったじゃないか!!」
さて、80年代のサブカルを率いていた人として、宮沢章夫さんの著書が参考文献としてひいてあって、私はうれしくなった。2022年に宮沢さんが亡くなってはや3年。宮沢さんも決して政治や社会について無関心な人ではなかった。きっとこの本も興味深く読まれたんじゃないかなぁ⋯。