【感想・ネタバレ】「ビックリハウス」と政治関心の戦後史のレビュー

あらすじ

ほんとうに若者たちは政治に無関心なのか?
伝説的サブカル雑誌から「若者の政治離れ」の源流に迫る。

「政治に関心がない」とされがちな若者の第一世代である「しらけ世代」。だが、彼らはほんとうに政治や社会運動に関心がなかったのか? そして、なぜ現在に至るまで非政治的だとみなされているのか? 糸井重里、橋本治が編集に参加し、YMOやタモリもたびたび登場した伝説的サブカルチャー雑誌『ビックリハウス』 (1974―85)から、「若者」たちの心のうちと彼らの“運動”の実態、その意図せざる帰結を実証的に明らかにする。
各メディアで活躍する社会学の新鋭が「若者の政治離れ」の源流に迫る渾身の一冊。

◉目次

『ビックリハウス』ギャラリー
はじめに

第1部 日本人は政治と社会運動に背を向けたのか?――問題意識・先行研究・方法と事例

1 消費社会と私生活主義は日本人を政治から遠ざけたのか?――問題意識
1−1 消費社会と私生活主義
1−2 六〇―八〇年代における社会意識と政治参加の動態
1−3 私生活主義と政治への忌避を代表する存在としての「若者」
1−4 本書の構成

2 「雑誌の時代」と『ビックリハウス』――先行研究
2−1 なぜ雑誌なのか――読者共同体の緊密なコミュニケーション
2−2 私生活と公的関心の入り交じる場としてのサブカルチャー雑誌――『面白半分』『話の特集』『宝島』
2−3 政治性・対抗性を「見過ごされた」サブカルチャー雑誌『ビックリハウス』

3 事例、方法、分析視角
3−1 事例――雑誌『ビックリハウス』
3−2 方法――雑誌の計量テキスト分析と内容分析
3−3 分析視角――戦争、女性、ロック

第2部 戦後社会の価値変容――戦争経験、ジェンダー、ロックの視点から

4 語りの解放と継承のずれ――「戦後」から遠く離れて
4−1 七〇年代以降の反戦・平和運動と方法をめぐる是非
4−2 『ビックリハウス』における戦争の語り
4−3 「戦後」から遠く離れて

5 女性解放――運動がなしえた個人の解放、解放された個人への抑圧としての運動
5−1 同時代の雑誌上における女性表象の両義性
5−2 「個の解放」への真摯さと「性の解放」の挫折
5−3 解放の過程にある女性たち

6 「論争」から「私的」へ――みんなで語るそれぞれのロック
6−1 『宝島』と対抗文化としてのロック
6−2 『ビックリハウス』はロックをどう「論争」したか
6−3 「人それぞれ」の読者・編集者共同体

第3部 みんなの正しさという古い建前、個人の本音という新しい正義

7 社会運動・政治参加――規範と教条主義に対する忌避・回避
7−1 政治への関与を辞さないサブカル雑誌
7−2 『ビックリハウス』の政治関心
7−3 「べき」への忌避、「主体性」の尊重、「共同体」の隘路

8 「差別」が率直さの表明から不謹慎さを競うゲームになるまで
8−1 マイノリティへの本音という対抗の実践
8−2 『ビックリハウス』におけるマイノリティと差別
8−3 表現規制へのカウンターから過激さの競争へ

9 自主的で主体的な参加の結果、「政治に背を向けた」共同体
9−1 若者の生の声としての『ビックリハウス』
9−2 若者の主体性を歓迎する共同体としての『ビックリハウス』
9−3 「書くこと」がもたらした解放とその行方

10 意図せざる結果への小路――考察と結論
10−1 本書の知見がもつ普遍性
10−2 時代論・世代論への反論
10−3 「人それぞれ」を超えて

おわりに
参考文献
付録 『ビックリハウス』頻出語リスト

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Posted by ブクログ

社会運動に対する忌避、揶揄、冷笑の裏には、ビックリハウス編集者の世代にある、その先行世代が掲げた規範や大義などの「かくあるべき」という枠組みにたいする反発があり、ひとそれぞれ、という多様性を尊重した結果だった。

著者が研究の間に考えていたという、過去の不謹慎な発言や振る舞いに対する償い、という言葉には身につまされた。

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2025年01月03日

Posted by ブクログ

若者は政治に関心がないと言われるが、本当にそうなのか?
実態は関心がないわけではない、しかしどのようにそれを表現すればいいのかがわからない。1960年代〜70年代にかけて醸成された規範(反戦平和や女性解放運動、サブカルチャーの受容のあり方)へ対抗意識が1980年代の若者共同体にあった。一方でその規範自体の矛盾が1980年代の若者共同にいて花開いた。
つまり、前の世代が求めた多様性が大事という価値観を受け継ぐが、多様な価値観を獲得してきたその運動自体が、新しい規範となってしまう。
ビックリハウス内の読者投稿欄においては「反戦平和運動」的なもの、「女性解放運動」的なもの、「ロックは反権力としてメッセージを受容すべき」的なもの、が拒否される。これは多様な価値観を目指す運動がその目的をある程度達成し、その運動に内包していた「〇〇すべき」という強制力がその多様な価値観=「祖父は戦時中に〇〇したらしいけど、それは私たちにとっては面白い投稿として受容できるよね」、「バリバリのキャリアウーマンになって真面目ですごいけど、面白いの?」「自分はロックを自由に聴いているだけ」などのように茶化して受け入れることで、80年代の若者共同体のオリジナルな受容、自分達らしさを表現していた。
それは「政治に無関心な若者」、つまり政治に関心がないわけではないが、政治活動や運動という表現を忌避する若者という現象がそこには現れていた。

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2024年11月23日

Posted by ブクログ

90年代のサブカル者である私にとって、大槻ケンヂこそがサブカルトップスターだった。そしてオーケンこそが、ノンポリビックリハウサーの代表だった。(エンピツ賞取ってるはずなのに、この本では名前が出てこず残念!!)
失われた30年を生きてきたからこそ、日本をここまでダメにしたのは政治だと痛感する。でも、それは政治に無関心すぎた国民のせいだ。
ビックリハウサーはなぜ政治や社会に無関心だったのか? 私もずっと疑問だったから、この本の存在を知って、少しでもヒントがあればと期待した。
読んで、今の風潮につながる点を2つ発見した。
一つは論争を嫌うところ。『宝島』のロック論争を「あげあし取り」「けなしあい」として避け、それぞれの「極私的ロック論」を語るようになったという指摘があった。昨今、プチ鹿島さんがよく指摘しているように、「批判・批評と悪口の区別がつかない」風潮がある。評論は読まれず、ファンダムだけが好まれる。その発露が「極私的ロック論」にある気がした。音楽なら害がない。けれど、政策に対する正当な批判までが、政治家個人への悪口とねじ曲げられ、「野党は批判ばかり」と論争を嫌うため、与党に都合よく世論形成されてきた。
もう一つは、第三部のタイトルにもなっている「みんなの正しさという古い建前、個人の本音という新しい正義」。ビックリハウス的なこの考え方は、今のネット社会に溢れてすぎている気がする。深澤真紀さんが語った話を思い出すのだが、深澤さんの学生がネトウヨの差別的暴論に対し、「正論だと思いました」と言った件。深澤さんは「正論というのは正しい論。あれは本音かもしれないが正論ではない」と諭していた。ビックリハウスの時代にはまだ反抗するべき「建前」が残っていたのだろうが、今はむき出しの「本音」だけが跋扈してしまっている。これもサブカルの罪に思えてならない。
オーケンは言及されていなかったけれど、ハウサーとして名前が出てきた香山リカさんは、今もずーっとSNS上でネトウヨと戦っている。『宝島』の編集者だった町山智浩氏も。結局、80年代90年代のサブカル者は、多くの人が今や政治的関心を寄せている(ただしみうらじゅんと大槻ケンヂを除く)。多くのサブカルスターたちが、SNSで政治的発言をするようになったとき、私は悲しかった。「政治がちゃんとしてないから、本来バカなことばっかり言ってた人たちまで、ちゃんとしたことを言わなきゃいけない時代になっちゃったじゃないか!!」
さて、80年代のサブカルを率いていた人として、宮沢章夫さんの著書が参考文献としてひいてあって、私はうれしくなった。2022年に宮沢さんが亡くなってはや3年。宮沢さんも決して政治や社会について無関心な人ではなかった。きっとこの本も興味深く読まれたんじゃないかなぁ⋯。

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2025年10月11日

Posted by ブクログ

結局これって当事者に聞いてみればって思いになるんだけど、聞いたのは一部だけの人みたいで、文献から読み解く「推測」が研究とされている。
個人的には死んじゃったけど橋本治に聞いてほしいし、高橋章子は外せないな。
聞けばわかることがいっぱいあると思うけどなぁ。

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2025年09月14日

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