山口裕之のレビュー一覧
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社会には、相反する意見の中から一つを選ばなければならない場面がある。そのとき「人それぞれ」では済まない。著者は、絶対的な正しさを前提とする普遍主義でも、各人の価値観を等しく認める個人相対主義でもない、「より正しい正しさ」をつくるという第三の立場を提示する。
多様性を掲げる運動は、発展するほど内部にさらなる多様性を見出し、やがて個人相対主義へと行き着き、内部崩壊を招く危険がある。多様な人々が抑圧されずに連帯するためには、既存の名前やカテゴリー、すなわち権力が定めた社会的枠組みを一度は受け入れる必要がある。それを拒んで「人それぞれ」と言うだけでは、個々が分断され、連帯が生まれない。そして人々が分断された方が、権力にとっては支配しやすい。
この意味で「正しさは人それぞれ」という言葉は、一見多様性を尊重するようでいて、実際には支配構造を温存する作用をもつ。
「絶対に正しいことはない」としても、「より正しい正しさ」はありうる。その判断に必要なのは、ルールを正当化する手続き自体が正しいかどうかである。ある行為の正しさは、その行為に関わる人々の合意によって初めて成立する。
本書の要点は、道徳であれ事実であれ、正しさは与えられるものではなく、つくり出されるものだとする点にある。読んでいて、筆者が学術的な事柄を断定的に述べる箇所に「本当に?」と感じる部分もあったが、それもまた本書が提示する「より正しい正しさ」を考えるきっかけになっていると感じた -
Posted by ブクログ
発売日に「名著新訳」の帯に釣られて買って1年。Penguinさんのレビューを見るまで、すっかり忘れてました。こんな名作を1年積んでいたことを後悔しきりです。ありがとうございます。
収録は三作品。どれもグイグイ読ませる名作だと思います。ところで帯に「名著新訳」とありますが、岩波文庫の”青・白”は「名著」でも、”赤”はフィクションなので「名作」ですよね。
以下、あらすじと感想。
『ミヒャエル・コールハース』
舞台は16世紀のドイツ。馬商人のミヒャエル・コールハースは、取引先のユンカー(地主貴族)に理不尽な方法で馬を奪われます。後日、その馬や馬と一緒にいた下僕の酷い扱われように憤慨した彼は、法廷に訴えるも権力の壁が厚く立ちはだかります。怒りに暮れた彼は、法が叶わぬならと自ら私刑に撃って出ます。それは次第に暴徒たちを巻き込んで武装蜂起にエスカレートして……。
と、コールハースは正義感の塊で、不正に対しては徹底的に争うのですが、町を焼き払う戦闘の圧倒的な描写力にはグイグイ惹きつけられました。ただ、そんな彼が最後まで争う姿勢を貫くストーリーは、やはり人は一人で生きているわけでは無いので、代償も大きかったわけですけどね。後先を考えない、行き過ぎた正義感に対して考えさせられました。
なお、作中にマルティン・ルターが出てきたのが興味深かったです。
『チリの地震』
舞台は17世紀のスペイン領チリの都市サンティアゴ。貴族の一人娘ドニャ・ホセファは、恋仲になったヘロニモ・ルヘラとの関係が親に露見し、引き離されて修道院に入れられます。しかし、ドニャは行先の修道院でもヘロニモと逢引きし、不義の罪で死刑宣告されてしまい、ヘロニモも牢獄に繋がれてしまいます。そんな折、大地震が起きて都市は壊滅状態になり、二人は奇跡的にも囚われの身から自由になって再会。生き延びた他の人々と新たな暮らしを歩みだそうとしますが……。
地震で崩壊した街を、人々が手を取り合って立ち直っていく話しかと思いきや、まるでギュスターヴ・ル・ボンの『群集心理』を思い起こさせる結末に呆然。せっかく楽園を手に入れたかに見えた二人に、皮肉にも神につかえる聖職者がきっかけで、あのような結末になるとはね。傑作短篇。
『サント・ドミンゴでの婚約』
サント・ドミンゴ島のフランス領ポルトー=プランスでのこと。白人に対して敵意と復讐心の塊のような老黒人のホアンゴは、自分の留守に白人が食料や宿を求めて来たら留め置くようにと、家人のバベカンとトニに要求していました。それはホアンゴが偵察から帰宅して、留め置かれた白人を殺すためでした。
ある日、白人将校グスタフが、町での黒人との争いから逃れて、ホアンゴ不在の家に身を寄せます。そこで若い女性のトニは彼を殺す計画に従うべきか悩みつつも、グスタフに恋心を抱いてしまいます……。
ああ、短気は損気。なんとなく結末がわかりつつも、きっとなんとかなるはずと、ハラハラドキドキしながら読みましたが、相手を信じることの大切さを、改めて思い知らされました。これも傑作。
三作品とも良かったですが、『ミヒャエル・コールハース』は、たくさんの人名や地名が出てきて少し分かりにくいところもありました。ただ、解説のP305〜P309に人名と地図が載っていますので、迷子にならずにすみましたが。出来れば巻頭にあればいいのにと思いました。
ところで、ドイツの作家クライストは、森鷗外が訳したこと位しか知らなかったですが、解説で、多和田葉子さんの『エクソフォニー』に言及されている箇所があるとのことで、こちらもいつか読みたいです。
正誤(第1刷)
P29の8行目:コースハース→コールハース -
Posted by ブクログ
筆者のクライストは18世紀末生まれ、この作品は19世紀(1800年代)初頭。
古い。しかも岩波の赤帯。構えるよね。わかる。わかるよ。
ただ、その先入観を一切捨てて読んで欲しい。
まずはとにかく最初の「ミヒャエル・コールハース」を読んで欲しい。
確かに舞台は古い。19世紀のクライストがさらに昔の中世のドイツを描いている。
やばい私この感覚理解できるかなって一瞬不安になる。
しかしそんなのは杞憂に終わる。コールハースが馬と妻を失ってからの復讐劇。
本から溢れ出る復讐へのパッション。打ちのめされる。
続く「チリの地震」と「サント・ドミンゴでの婚約」も同様。
舞台は古い。ただ、そこで生まれる、本に収まりきらないほどの愛と憎しみ。
これは時空を問わない。私たちにも容易に理解できるし、そして私たち共通の感情について誰よりも理解し、それを文字として表現できるクライストに舌を巻く。
溢れ出るパッションに打ちのめされる。
本書解説にも書かれているし、各所で言われていることであるが、クライストの文章は癖がある。
癖があるというか、英語で言うところの関係代名詞をやたらと繋げて説明していくので、長い。
しかし、慣れてしまえば独特の韻律がむしろ心地よくさえなってくるし、なんなら短期記憶の訓練だと思えばいい。
集中力だいぶ鍛えられる。
そして繰り返しになるけど、この集中して読み取った先の、溢れ出るパッションをぜひ感じ取って欲しい。
岩波だろ古くさいだろなんて思ってごめんねって絶対おもうから。 -
Posted by ブクログ
おそろしく速いテンポ、オレでなきゃ見逃しちゃふね
1807年にドイツ語で発表された短篇「チリの地震」から読んでゐる。おもしろい。ストーリーのテンポが早く、なほかつ迫力がある。
ヘロニモとホセファの恋愛がホセファの父親にバレて、彼女が修道院に連れて行かれるところから始まる。しかしその修道院でふたりはヤッてしまひ、それがバレてホセファは斬首の刑、ヘロニモは牢獄につながれる。いよいよ執行の瞬間、その時、「チリの地震」は起きた……
ここまで冒頭、たった3ページの出来事である。そしてチリの地震の描写がすさまじい。圧倒的にうねるやうな文体で、名作である。 -
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「正しさは人それぞれ」「みんな違ってみんないい」というような相対主義、「真実は一つ」という普遍主義のいずれをも退け、考えの異なる者同士がともに生きていくために、「正しさ」とは何か、それはどのようにして作られていくものかを、様々な学問のこれまでの議論を概観した上で考察。
本書の結論としては、「正しさは人それぞれ」でも「真実は一つ」でもなく、「正しさはそれに関わる人々が合意することで作られる」というものである。
元来自分は相対主義的な考えを持っていて、それこそが「正しい」とも思ってきたが、本書の中で、「正しさは人それぞれ」という相対主義は相手を思いやっているようで、相手のことを理解し自分のことを理解してもらおうとする努力を放棄しているだけという趣旨の指摘を受け、確かにそのとおりだと顔をはたかれたような衝撃を受けた。
本書では、筋道だって、「人それぞれ」というほど人は違っていないということ、そして、「道徳的な正しさ」あるいは「事実認識の正しさ」を人それぞれで勝手に決めてはならず、他者との関わりの中で「正しさ」というものが作られていくということが論じられており、納得性が高かった。
ただ、実際に「正しさ」の合意形成を図っていくのはすごく困難な道のりだとは思う。しかし、それを安易にあきらめて「正しさは人それぞれ」に逃げるのはやっぱり違うなと認識した。 -
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「みんな違ってみんないい」というフレーズに違和感をいだいていた僕にとって、違和感の原因が明確化できたと言える本。
本来、社会の同調圧力に抗うための言葉であったはずなのに、いつのまにか「お前はお前、俺は俺」という他者の関わりを拒絶するための便利な言葉に成り下がってしまっている。
章タイトルにあるように、「『道徳的な正しさ』を人それぞれで勝手に決めてはならない」し「『正しい事実』を人それぞれで勝手に決めてはならない」と思わされる。
デモクラシーの本質は、熟議によって合意形成を目指し、最終的には多数決によって現時点で「正しい」であろうと思われることを仮説として進めて行く。間違っていたかもと思った時のために反対意見を温存しておく、というものだが、社会生活に関わる多くのものが同じような仕組みであるべきなのだろう。 -
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巷に蔓延する「正しさは人それぞれ」という相対主義と「客観的で正しい答えがある」という普遍主義の問題点を、哲学を中心に言語学、文化人類学、経済学、社会学を紐解きながら「正しさとは何か」を考える。
読む前はもっと政治学寄りの本かと思っていたが、哲学の本だった。
そもそもその考えはどこから来たのかということを古代ギリシャから現代までの思想のエッセンスを流れがわかるように解説してくれるところが滅法面白い。今時の高校はどうだか知らないが、私の頃の授業は、誰々はこう考えたを紹介するのみで全く面白くなかったが、流れがわかると面白いものだなと、つくづく感じた。フーコー、ドゥールズ、デリダとかは学生の頃、彼らの本を読んで論争するのがカッコいいみたいな流行があったけど(ロラン・バルトとかも)、ちっともわからなかった。でも、こうやってよくわかった人が説明してくれてると、なるほどなと思う。
著者の言いたいことは一貫しているし、繰り返し書かれてもいるのでよくわかったが、第4章で急に語り方が変わって、ここは分かりにくく感じた。数学・科学についての話は例が豊富で分かりやすかったが、全体として見るとちょっと他とは扱っていることが違うので、必要だったのかなと思わないでもない。
でも、大変面白かった。哲学に興味のある人には特に入門書としてもおすすめしたい。 -
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本書は18世紀の哲学者コンディヤックが一般向けに論理学の初歩を説いたものである。元は学校の教科書(いまの大学1年相当くらい?)として書かれたものらしい。昔の偉い哲学者の書いたものなんて難しくて読めないのではないか、内容は現代でも通用するのだろうか、という不安があったがその心配は無用であった。個人的には求めていたものと合致度が非常に高くて満足だった。私は物事を考えるのが苦手で、論理的に考えるという行為を原理レベルから説明してくれる本を探していたのだが、これはまさにその要望に応えてくれるような内容だった。考えるという行為を本当にゼロから、つまりその発生から説明してくれていて、論理学の初歩というサブタイトルに偽りのない本だと思う。
「自然は必要なことをすべて教えてくれる。だから自然の教える方法に学ぶべし。その方法とは分析である。分析こそが正しく物事を考える唯一の方法である。だから分析の方法を身につけよ」というのがつまるところ本書の主張である。そして、分析の内容と有用性を例を交えて示していく。難しい論理展開はほとんどないと言っていいと思う。コンディヤックの論理学の原則は「知っていることから知らないことへ」であって、本書の作りも同じようになっているため分かりやすい。例えば、私たちは分析というものをまるっきり知らないわけではなくて、景色を目で見て認識するときに自然と行っているのも分析である。だから、私たちがすべきことはそれを拡張することであり、難しいことではないと述べられている。このように感覚的に誰もが知っていることから論を順次展開していくので初心者でも内容を掴みやすい。
本書の内容は哲学としてはもう古いのかもしれないが、正しく考える方法論として高い普遍性がある。この本で言われる「分析」を本当に身につけられれば、あらゆる問題解決の強力な拠り所になるのではないかと思う。 -
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ネタバレ数十ページくらいの小論が十本入っています。
◆「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」について(p206-)
「物語は、伝達の最古の形式の一つである。物語は、出来事それ自体を純粋に伝えること(ちょうど情報がそうするように)に狙いを定めていない。物語は、出来事を経験として聞き手にもたせてやるために、出来事を報告する者の生のうちに埋め込む。ちょうど陶工の手の跡が陶器の皿に残されているように、物語には語り手の痕跡が残っているのだ。」(p213
「時間は、永遠のうちにも見出される。しかし、この地上の時間、世俗的な時間ではない……。この時間は破壊を行わない。それは完成するだけだ。」この時間は地獄の時間の反対物である。地獄の時間は、着手したことを完成することが何一つ許されていない人たちのいる場所である。実際、賭博の評判が悪いのは、賭博者自身が手を下すからだ。(中略)何度でも初めからやり直すこと――これが、賭博(同様に賃金労働)の理念を規定しているものである。」(p246
「詩人は、賭博には加わらない。彼は隅のほうで自分の居場所に佇んでいる。詩人が彼らよりも、つまりこの賭博者たちよりも幸せだということはない。彼も経験をだまし取られた男、ひとりの近代人(モデルナー)なのだから。ただ詩人は、賭博者たちが意識を麻痺させるために使う麻薬を拒絶する。彼らは自分の意識を秒針の動きに引き渡してしまったのだ。」(p247
賭博と詩を読むことの関係は、密かな疑問の一つだったりします。そんな自分も、絵を描かなかったら賭けごとをやりたくなりそうな気がしたり…。そして、「物語」という存在も自分の中で謎でいっぱいな存在なので興味深い…
おそらく、人を見て人々を描くのが物語作者、人ではなく風景を描くのが詩人。
トラウマに対して、夢や物語で埋めるのか、トラウマを生んだ驚愕自体を記憶しつづける(つまり詩を読む)ことで埋めるのか。
◆「類似性の理論」、「模倣の能力」について(p188-)
「学校に行く子どもたちは初等の入門書を読み、占星術は星たちのうちに未来を読む。一つ目の文では、読むという行為は二つの要素に分かれていない。それに対して、二つ目の文では二つに分裂しており、読むという行為をその二つの層にしたがって、次のようにはっきりと示している。占星術師は星の位置を、天空の星たちから読み取る。そしてまた、占星術師は同時に星の位置から未来や運命を読み説くのである。」(p195-196
近代社会の教育では、「読む」ことに「未来や運命」は関係ない。なぜなら、人の「未来や運命」は、制度が決めることだから。占星術は制度に対する反逆になる。
占星術は、星という自然物の姿から何かの意味を読み取る。そのときに重要なことは星の位置の構図である。
人間が自然を模倣する(芸能・芸術活動をする、魔術を行う)のは、その自然の構図から、意味を理解するためである。
そしてその理解した「意味」は、古今東西の魔術師・アーティストが他人に分かる仕方で表現した記号(ここでは特に文字)のなかに入り込んでいる。
その「意味」は、「自分自身とは異なるものに担われることによってのみ、つまり、この志向の基盤となる、まさに言語の記号的特質、伝達的特質に担われることによってのみ、姿を現すことができるのだ(p195)」。
だから「意味」は、個性的なものでも個人的な感性でもなんでもなく、「非感性的」なものであり、自然の類似である。