高橋哲哉(哲学者)のレビュー一覧
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ネタバレ靖国問題について、①遺族感情 ②戦争責任 ③宗教性 ④文化 ⑤追悼施設 という観点からわかりやすく説明されている。
今までは、靖国神社を、国のために戦ってくれた人への感謝を表する場だと考えていたのだけれども、それ自体に政治的な問題があるのだとわかりはっとさせられた。追悼施設ではなく、顕彰施設。人々の悲しみを喜びへと変えてしまったこと。個々人が靖国に賛成するか否かという問題ではなく、この神社はいまだに天皇主義が色濃く残った場なのだ。それをよすがとする者もいれば拒否反応を示す者がいるのも納得できる。
戦後処理がもともと曖昧に終わってきた日本では、この問題が収束することはないのだろう。しかし、多くの政治的問題を孕むことは明らかに理解することができた。
公式参拝を正当化するのは無理だ。
靖国神社は政治性がありすぎて、純粋に平和を願って参拝するのにはなんだが気後れしてしまう。
第二の靖国とならない、追悼施設をつくってほしい。でも無理なんだろうな。 -
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<目次>
はじめに
第1章 感情の問題-追悼と顕彰のあいだ
第2章 歴史認識の問題-戦争責任論の向うへ
第3章 宗教の問題-神社非宗教の陥穽
第4章 文化の問題-死者と生者のポリティクス
第5章 国立追悼施設の問題-問われるべきは何か
おわりに
<内容>
靖国問題(その存在と政治的問題など)をとてもわかりやすく解説したもの。多くの文献や発言を元に、章ごとに掲げた問題点を快刀乱麻で解いていく。そして問題点をクローズアップさせる。抜粋する文献の引用が長いのでやや読みにくい部分もあるが、著者の論点は明快だ。
では、解決策はあるのかというと、その点ではやや不満の残るのだが、われわれに出来ることはこの施設を「戦争賛美」(遊就館に行くとよくわかる)にしないよう、子どもたちに伝えていくことであろう。 -
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ネタバレ靖国「問題」を宗教、外交、政治、文化などの観点からそれがなぜ問題なのか?を論じているのですが、15年戦争以前の台湾征伐、朝鮮の暴徒制圧の際に犠牲になった人が合祀されていることが問題だとする指摘は初めて認識し、なるほどと思います。そういう背景もありながら、中国韓国がA級戦犯のみを合祀から外すことを要求しているのは、著者が指摘しているように、両国がこれだけで収めようとする政治的メッセージだとも思います。靖国の存在そのものが、両国、台湾などにとって「日本帝国主義の象徴」だということを改めて痛感しました。そして新たな追悼施設の建設により解決するという案についてもそれが「平和のために死んだ」という顕彰施設である限り第2の靖国になるだけであるという著者の指摘にも成る程と思いました。全くこの問題は出口が全く見えないのですね。
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『国家と犠牲』では靖国神社にみられる犠牲のシステムを分析しておられましたが、まったく同じシステムが福島・沖縄についても作動しているという指摘には、この国にいきるものとして、うすら寒いものをかんじざるを得ません。
「犠牲のシステムでは、或る者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望等々)を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには生み出されないし、維持されない。この犠牲は、通常、隠されているか、共同体(国家、国民、社会、企業等々)にとっての『尊い犠牲』として美化され、正当化されている」 -
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ネタバレ第3章以降が著者の言いたいことの中心だった。その前は事実関係の整理で、原発事故以来、一定の時間経過があったいまとなっては、わかっていることが多い。
震災後の「天罰」思考、また原爆投下後の「天恵論」が本質的に犠牲のシステムであることにおいて同じであるという。そして、基地問題における沖縄の犠牲と、原発事故における福島の犠牲がある部分では同質のものだとも。
そもそもこの本を手に取ったのは、片山杜秀著「国の死に方」で、国家の存亡に関わる圧倒的な脅威の前で人間(国民)が犠牲にされるその有り様が、時代とともに変化していることが明らかにされていたからである。国家権力による犠牲のシステムの構築(最終的に戦没者が英霊としてたてまつられることとか)が謀られた時代から、犠牲のシステムに組み込まれるかどうかにもはや国家権力は効力がなく、もはや個人の「ボランティア」となってしまっているに等しいのが現代なのでは、とのことだった。ここに現れた「犠牲」というキーワードから、そういえば、というので高哲先生のこの新書を読み始めたのだった。
読んでみると、片山氏は、どこか「犠牲(のシステム)」が存在すること自体は受け入れている。その上でその歴史的変遷を淡々とあぶり出すのに対し、高橋氏は「犠牲(のシステム)」そのものに疑義を唱える態度だった。どうしてこの人間世界に犠牲という概念ができちゃったのかを追究しているんだなと。
片山氏が政治思想史が専門で、高橋氏が哲学が専門、というところからくるスタンスの違いなのだと思うが。 -
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ま、もともとこの問題に関して知識がなかったけど
なかなか深い考察をしてるな〜と思いました。
とりあえず、いい本だと思います。
靖国神社は
「戦死者を祭神として昇華し、戦争に赴く気を保つ装置である」
というような定義をしてると思います。
第一章が非常に印象的で、
息子の死を悲しみながらも、
靖国に祀られ天皇の顔を見れた事を光栄に思う人の談話がのってました。
そして、靖国問題=A級戦犯分祀問題と捉えることで
戦争責任をA級戦犯のみに押し付け、
それを指揮したとされる昭和天皇やBC級戦犯の責任、
ひいては満州事変以前の
日本の歴史認識の曖昧さを覆い隠す、と。
それでいて無宗教の国立追悼施設についても
神道は形式的には宗教ではなかったことに関連して言及してます。
うん、いろいろ書いてあったんだけど、
全体としていまいち咀嚼しきれてない感覚。
本の中で、靖国問題から非戦の話にまで話が拡大したからかな。
それが当然の流れなんだろうけど。 -
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加藤典洋の『敗戦後論』(ちくま学芸文庫)に対して厳しい批判をおこなったことで知られる著者が、靖国神社をめぐる諸問題について考察している本です。
著者は、靖国神社に合祀されたひとたちの遺族が示す激しい感情を参照することから議論を説き起こし、「祖国のために命をささげた英霊を顕彰する」という回路のうちに遺族の感情を回収する装置として、靖国神社が機能していることを指摘します。さらに、「歴史認識の問題』「宗教の問題」「文化の問題」「国立追悼施設の問題」というテーマにわたって、著者自身の考えが展開されていきます。
靖国神社をめぐってどのような問題が提起されているのかということを知るのみならず、哲学者である著者がその論理的な帰結を追求していくことで、英霊に対して公的行事として報恩の儀礼をささげるということに内在している問題が明確にされているという意味で、興味深く読みました。ここまで問題の次元を掘り下げてしまうと、当然のことながら「自然」な遺族感情に依拠するような議論とは完全に乖離してしまうことは避けられにように思います。
著者のこうしたスタンスに対しては、賛否それぞれの立場から意見があるでしょうが、「靖国問題」とされているものの論理的な帰趨を明確に示したという点では、双方の立場から読まれるべき本なのではないかという気がします。 -
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靖国神社について、素朴な疑問を抱いていた。
(1)靖国神社とは何か?
(2)「A級戦犯」とはいえ、既に死刑が執行されている。なぜ中国等は問題視するのか?
(3)公式参拝に違憲判決が出ているのに、なぜ小泉氏に何らのペナルティーもないのか?
(4)内外の圧力に対して、小泉氏はなぜああも頑ななのか?
(5)つまるところ、靖国神社は是なのか非なのか?
そこで、この本を手に取ってみた。
「感情の問題」「歴史認識の問題」「宗教の問題」「文化の問題」「国立追悼施設の問題」と章を区切り、それぞれの切り口から問題の所在を明らかにしていく。
著者は哲学者なんだそうだが、それだけに筆致は論理的であり、公平に思える。そして「素朴な疑問」への答えもおおむね書いてあるように思った。
ごくごくかいつまむと、以下のような感じ。
(必ずしも本にこう書いてあるというわけではなく、私がこう理解したということ)
(1)への答え…国民を喜んで死地に赴かせるために作られた顕彰装置である。
(2)への答え…刑を全うしていない者も合祀されている。それより以前に「A級戦犯」を問題視するのは、むしろ問題を矮小化して解決を図ろうとする中国指導層の戦略である;「A級戦犯」だけではなく、「靖国の存在」自体が真の問題である。
(3)への答え…直接合憲か違憲かを問う裁判は起こせない…らしい(起こされた裁判はいずれも「公的参拝」によって原告の利益や権利を侵害されたかどうかについての争い)。その中で「違憲」判断を示したのは2004年4月の福岡地裁判決があり、係争中が6件あるが、少なくとも「合憲」とした判決は現在までにひとつもない。ちなみに7月26日にも大阪高裁で同様裁判の判決があったが、憲法判断には踏み込まなかった。
(4)への答え…は、明確ではない。てゆーか、小泉氏の胸の中を推し量るしかない。没論理の説明しかしていないのは確か。
(5)への答え…戦争を非とするならば、靖国も非だ。興味深かったのは、歴史認識を明確にしないまま「国立追悼施設」を作っても第二の靖国となるだけだという指摘。
非常に「面白い」本だった。 -
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「思考のフロンティア」シリーズの別巻で、姜尚中、齋藤純一、杉田敦、高橋哲哉の四人の短い論考と座談会が収録されています。
著者たちは、本シリーズの刊行中に起こった、アメリカの同時多発テロとそれにつづくアフガン空爆という現実を見据えながら、思想にいったいなにができるのかという問いに向きあってそれぞれの立場からこたえを模索しています。
とくに個人的に興味を惹かれたのは、福沢諭吉とアジア主義が現代にどのような問いを投げかけているのかという問題提起でした。丸山眞男が福沢に高い評価をあたえていたことにも触れながら、近代および民主主義の臨界点を指し示しているように思います。 -
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たしかに「騙される」には「騙される側の責任」もないとは言えない。しかし、補助金も何も地元にとっては「安全」が前提であって、その前提なしに原発を受け容れる住民は存在しない。大事故と補助金との「等価交換」など成り立っていないのであ
る。(P.33)
かつて「戦争絶滅受入法案」なるものがあった。前世紀の初めデンマークの陸軍大将フリッツ・ホルムが、各国に次のような法律があえれば、地上から戦争をなくせると考えたのだった。戦争が開始されたら10時間以内に、次の順序で最前線に一兵卒として送り込まれる。第一、国家元首。第二、その男性親族。第三、総理大臣、国務大
臣。第四、国会議員、ただし戦争に反対した議員は除く。第五、戦争に反対しなかった宗教界の指導者。-戦争は、国家の権力者たちが己の利益のた
めに、国民を犠牲にして起こすものだとホルムは考えた。だから、まっさきに権力者たちから犠牲になるシステムをつくれば、戦争を起こすことができなくなるだろう、というわけだ。(P.38)
こうしたスローガンに対してナショナリズムが台頭するのではないかという懸念も表明された。私の印象を言えば、これらのスローガンをナショナリズムというのはむしろおこがましく、これらの日本ナルシシズム、あるいは日本フェティシズムといったほうが適切ではないか、と感じる。(P.151)
ちなみに宜野湾市の普天間基地が、この旧ハンビー飛行場の11倍の広さがあるのに、雇用数はたったの173人。もし普天間基地が返還されて跡地が有効利用されれば現在の十数倍の雇用が生まれるのではないか、と大田氏は言うのである。(P.202)
彼の言う「10人の犠牲」すなわち一割の犠牲とは誰のことなのか。そしてだれが決定するのか。さらにこのような犠牲の論理を主張し、展開する人々は、自分自身がその犠牲になることを想定しているのか、いないのか。憲法の平等原則からすれば、これらの犠牲を一部に負わせることができるものではなく、犠牲が避けられないとしたら、全国民に平等に負担すべきだという議論に道理があることは否定できないだろう。(P.214)
誰にも犠牲を引き受ける覚悟はなく、誰かに押しつける権利もないとしたら、在日米軍基地についても原発についても、それを受け入れ、推進してきた国策そのものを見直すしかないのではないか。(P.216)