高橋哲哉(哲学者)のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
靖国神社に関して、基本的なことも分かっていなかったことを痛感する。
靖国神社は明治時代に出来た神社。戦争が出来る帝国主義を継続させるために出来た。死を嘆かず、むしろ死に赴きたくなる装置だ。
中国や韓国などのアジアからの批判以前に、首相の参拝は国内問題として取り上げられていた歴史を有する。
中曽根はA級戦犯の合祀取りやめに積極的だった。合祀のために厚労省から名簿が靖国神社に流れていた事実も知らなかった。
同じ様な施設が歴史や洋の東西を問わず存在していること。
国立追悼施設を作るだけでは、かえって第2の靖国が出現しかねないこと。すでに千鳥ヶ淵や沖縄の平和の礎でも、その傾向が見られていること。
今読んでも力作である。ただ最後の憲法9条を活かそうと言う主張のみが現在では少し白々しく感じる。中国・ロシアの侵略的傾向、アメリカの世界戦略の縮小によって、バランスオブパワーを越える平和戦略が見いだせないからだ。
蛇足:本書では当たり前に「合祀」という言葉が使われている。合祀はてっきり遺骨などが納められているのかと思っていたら、よくよく調べると、名簿に名前が書かれているだけという。ぽかーんである。それをめぐって裁判しているのか。。。 -
購入済み
デリダ本であると同時に高橋哲哉のデリダ解釈の本という意味で高橋本でもあるのかなぁと。全ての解説本に言えることではありますが、それは念頭に入れて読んだほうが良いかなと思います。
脱構築、差延、散種、原エクリチュール…デリダ哲学の基本的な考え方や発想が分かりやすく解説されており、後半分は脱構築の行き着いた先からいかに正義を実現するかという肯定の思想としての側面が強調されています。 -
Posted by ブクログ
【「引き取り運動」のバイブル】
2016年からFIRBOの活動に参加した評者にとって、本書は導きの書であり、バイブルである。「日本人よ!今こそ沖縄の基地を引き取れ」との沖縄の声に、「日本人は「本土」に米軍基地を引き取る」ことによって応答するべきことを宣言した書である。
日米安保条約を約8割という圧倒的多数の「本土」の国民が支持している現状を踏まえれば、「県外移設は基地を日米安保体制下で本来あるべき場所に引き取ることによって、沖縄差別の政策に終止符を打つ行為である」とし、「「平和」や「安保廃棄」を求めるなら、基地を引き取りつつ自分たちの責任でそれを求めるべきである」と、その論旨は明快である。
また、米軍基地の沖縄への集中の歴史と構造が明らかにしているように、「本土」における反米感情と反基地運動の高まりが、結果として米軍基地を沖縄に集中させた。まさに引き取り運動は、米軍基地問題を自分ごととして考える重要な契機となることを示唆してくれている。(吉村/本土に沖縄の米軍基地を引き取る福岡の会) -
Posted by ブクログ
デリダ入門書として非常によみやすい。
エクリチュール、反復可能性、差延、散種などのデリダ語の使い方が見えてくるだけでなく、デリダ思想を一つの正義の思想として読み解くことで、脱構築が単に哲学の破壊ではなく肯定的な思想であることが分かってくる。
本書を読む以前はポストモダン思想には破壊的・ニヒリズム的なイメージを持っており、脱構築もテクスト斜め読みのようなイメージを持っていたが、本書を読むことでそれとは全く異なる肯定的な他者の思想が見えてくる。
現象学において他者とはなんなのか?という問いをぼんやり持っていたが、デリダはそこに一つの新しい他者像を提示しているのだろう。
デリダの著作の入口として非常にモチベーションが湧く良い入門書でした。 -
Posted by ブクログ
"靖国神社への参拝は、なぜ問題となるのかを整理する目的で本書を手にする。この本は、歴史家ではなく哲学者が論理的に伝えることに重きをおいたもの。
1.感情の問題
当時、戦死による悲哀を幸福に転化していく装置が靖国神社だった。
戦死者の追悼ではなく、顕彰こそが本質的な役割。
(追悼とは、死者を偲び悼み悲しむこと。
顕彰とは、功績などを世間に知らせ表彰すること)
2.歴史認識の問題
A級戦犯の分祀が実現したとしても、政治決着にしかならない。靖国神社への歴史認識は戦争責任を超えて植民地主義の問題として捉えるべき
3.宗教の問題
4.文化の問題
5.国立追悼施設の問題
歴史を再び学びたくなった。山田風太郎の戦中日記など後に読むきっかけになった。" -
Posted by ブクログ
日本国にあり,国民全体がその恩恵をながら,それを維持していくときにある人々の犠牲の下でしか維持できていないもの…それが,沖縄の米軍基地であり,地方に任された原子力発電所です。
ここで恩恵と言いましたが,本当に恩恵を受けているのか,あるいは恩恵と呼んでもいいのかどうか,はなはだ疑問ですがね。
「福島と沖縄」とタイトルにありますが,本書の4分の3は福島のことについて書かれています。
二つのことは,政権交代後の内閣でどうにか解決しようとしましたが,結局「玉砕」してしまいました。米軍基地も原子力発電所も,それほどわたしたちの社会の内部の奥深くにまでしみこんでいるのでしょう。 -
Posted by ブクログ
今度の戦争で死んだ人々を悼むことは当然の感情だが、それを英霊化したり、なぜ死ぬことになったのかという原因を考えない追悼は危険だ。公の悼み方には違いがあってもいいのではないか。それに靖国は明治以来政府に反抗して死んだ人たちはまつっていないし、まつってほしくないと思っている人たちも勝手にまつっている。また戦争を起こした人たちも、赤紙で行かされ死んだ人たちもいっしょにまつられている。これでは今度の戦争の責任はいっそう曖昧になるばかりだ。日本人の伝統は死んだらみんないっしょというのも怪しくなる。靖国問題を感情、歴史認識、文化等の観点から総合的に論じた好著。
-
Posted by ブクログ
【1】
30 修論
36 五月革命
43 脱構築は哲学を文学に
→ハーバーマスは批判、ローティは歓迎
→デリダ・サール論争
48 デリダの抵抗、ブルデュー
52 ド・マン論争
【2】
55 解体の仏訳語としてデコンストラクション
64 エクリチュールはパルマコン(知恵の、記憶の秘訣)である
81 プラトン主義哲学、形而上学=二元論的分割
82 形而上学の要素
①ロゴセントリズム
②フォノセントリズム
③現前(←ハイデガー)
④存在・神・目的論の構造
⑤ファロセントリズム(ファルス)
84 現前(古代・イデア→中世・絶対神→近代・自己現前(コギト・意識・主観性))
92 外部は内部の内部
102 コーラ(場)
106 パルマコン
115 パルマコス Holocaust
121 ソクラテスの幽霊、灰
【3】
129 破壊不可能な責任
130 決定不可能性における決定=非暴力ではない
原エクリチュールの原暴力があるから
「暴力のエコノミー」非暴力を追求する行為自体が暴力となる
133 固有名の暴力
142 レヴィナスの暴力
143 暴力性に無知なのは無責任→暴力にあらがう
147 脱構築は他者への肯定的な応答、まったき他者の侵入
149 言語の反復可能性(エクリチュールだけでない)
①パロールは語る主体が現前するが、エクリチュールは主体はない
②パロールは外的・現実的コンテクスト(周囲)も内的・意味的コンテクスト(文脈)もオリジナルで現前するが、エクリチュールはそうではない
154 マーク(記号)
159 引用 意味のイデア的同一性(←反復可能性)
「最小のイデア化」
162 形而上学的反復は同一の反復だが、デリダの反復は差異を伴う
164 散種 無限の意味の繁殖可能性
167 反復と散種でマークからマークの他者へ向かっていく運動を知る
175 テクストを読むことは他者の署名に連署すること
178 oui
183 自由で自律した決定のまえに、他者への呼びかけへの責任、応答可能性がある
【4】
193 批判法学
197 法は脱構築可能、正義は脱構築不可能
203 独立
208 現前は再現前の再現前
214 不可能性の経験そのものが正義
222 幽霊
228 古典的な解放の理想を肯定
【5】
232 贈与
254 主体は決定できない
257 幽霊
274 死者を葬る
277 忘却
-
Posted by ブクログ
高橋哲哉(1956年~)氏は、東大教養学部卒、東大大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学、南山大学文学部専任講師、東大教養学部助教授、東大大学院総合文化研究科教授等を経て、東大名誉教授。専門は現象学、言語哲学、倫理学、政治哲学。
本書は、毎年太平洋戦争終戦の時季になると話題に上がる(特に、首相が参拝をした年は)、いわゆる「靖国問題」について、様々な視点から考察したものである。
内容は概ね以下である。
◆感情の問題・・・靖国神社とは、国家的儀式を伴う「感情の錬金術」によって戦死の「悲しみ・不幸」を「喜び・幸福」に転化するシステムにほかならない。その本質的役割は戦死者の「追悼」ではなく「顕彰」である。このシステムから逃れるためには、戦死を「喜ぶ」のではなく「悲しむ」だけで充分である。
◆歴史認識の問題・・・靖国問題の歴史認識は、「A級戦犯合祀」の問題としてのみならず、太平洋戦争の戦争責任を超えた、日本近代を貫く植民地主義全体の問題として問われるべきものである。よって、仮に「A級戦犯分祀」が実現したとしても、それは中韓との政治決着にしかならない。
◆宗教の問題・・・これまで首相や天皇による(宗教法人である)靖国神社の公式参拝を合憲とした確定判決はなく、それは日本国憲法の政教分離規定に抵触していることを示している。政教分離規定は、神道が「国家神道」となって事実上の国教になることを、歴史的反省を踏まえて防ぐためのものであり、その改定はあり得ない。他方、靖国神社の宗教性を否定して特殊法人化することは、靖国神社が戦死者の「顕彰」の活動(=宗教活動)を止めるわけにはいかない以上不可能であるし、それは、かつて国家神道を「超宗教」と位置付けた「神社非宗教」の復活にもつながる、危険な道である。
◆文化の問題・・・日本の文化の根源には「死者との共生感」があり、それを首相や天皇の靖国参拝の根拠とする考え方があるが、靖国神社には「天皇の軍隊」の敵側の死者が祀られた例はなく(戊辰戦争等を含め)、それは国家の政治的意志を反映していることにほかならず、文化論的アプローチには限界がある。
◆国立追悼施設の問題・・・「無宗教の国立戦没者追悼施設」の新設は、追悼や哀悼が個人を超えて集団的になっていくことにより、「政治性」を帯びてくるというリスクを孕む。そうした移設が意味を持つ大前提は、日本国家としての、過去の戦争責任の認識と、非戦・平和主義の確立の二つ。即ち、「政治」が施設をどう使うのかが全てなのである。
靖国問題は、極めて複雑な問題である一方、感情的になりやすい性格の問題である。そうした中で、自分の考えを持ち、様々な議論に参加していくために、複雑な論点を整理・理解することは欠かせない第一歩である。
そういう意味で、著者が最終的に導き出す結論めいた見解への賛否はともかくとして、論点が列挙されている本書は一読するに値する一冊と思う。
(2023年1月了)