鈴木宏昭のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
人が犯してしまう様々な勘違いの原因を認知バイアスという概念で説明しており、人は何と愚かな生き物かと思わされる。同時に心理学者の行うイジワルな実験を除けば、認知バイアスは大方の状況で適切な判断ができるように最適化されたもので、実際に適切に対処できていると言う。であれば8章までの議論は何なんだったのかと思わずにはいられないが、このような仕組みがあると知っているのと知らないのとでは同じ失敗をしても状況の理解がまるで違うのだから、やはり大きな意味がある研究成果と言えるだろう。
第6章で言語に関するバイアスに関して状況モデルの構築と言う概念が紹介されるが、座学で第2言語を習得するのが何故難しいのかがよく理解できた。コトバは理解できてもその状況に身を置いたことがないから文章だけでは頭の中に状況を再現できないのだ。
この他にもいくつもの気付きを与える良書だった。 -
Posted by ブクログ
練習による上達、発達、ひらめきといった無意識的な認知的変化は「創発」によって起こっている。
創発というアプローチで、上記の上達、発達、ひらめきの3つの認知的変化のメカニズムを説明している認知科学の本。
全然異なるように思えるこれら3つの現象は、「創発」の概念を用いると共通する説明が可能である、としている。
ここでの「創発」とは、何か新しいものを作り出すことだが、「発見」や「発明」との違いは以下2点。
- 還元不可能:創発されたものはそれを作り出すための要素の性質からは説明できない=還元できない。
- 意図の不在:人の明確な意図なしに生み出される。
こういう創発的な過程こそが認知的変化とのこと。
とまあこれだけだとなんか小難しいが、実際読むと順序立てて丁寧に説明してくれているので分かりやすい。
練習による上達、発達、ひらめき、それぞれについて実験とその分析が出てくるのだが、これが非常に面白い。結論としては、どれも「多様なリソース(冗長性)」「揺らぎ」「環境」によって創発が起こって成る認知的変化だ、となるのだが、そこに至る分析過程が結構ワクワクした。
あと、ひらめきの章に出てくる以下の表現(抜粋)が印象に残っている。
人間が意識できていることは思考のごくごく一部なのだと改めて思った。
> 意識の知らない間に、寡黙で働き者の無意識的な学習のシステムが働き、(中略)意識の方はボンクラだから、それにまったく気づけない。そして無意識システムが学習を重ね、相当程度までよい配置のパターンを作り出す。すると、意識システムもさすがにそれに気づく。そして「わかった」と叫んで、成功を横取りしているのだ。 -
Posted by ブクログ
第一章の「能力という虚構」というタイトルからして面白い。
ちくまプリマー新書という体裁に油断していると、知的にどんどん引っ張っていかれる。
知識はモノじゃなくてコト。環境と経験が混ぜ合わさって、その場で立ち現れるもの。
言葉を「粗雑な伝達メディア」と論じていることにもおかしみを感じる。私がずっと「言語化」という言葉に抱いていた違和感が刺激された。
思考力、判断力、非認知能力……ラベルを貼って測れるものにしようとする動きへの、静かで鋭い問いかけ。「学び・教育をなめている」と著者が書いてから30年以上経ってもなお同じことを書かねばならなかった、という一節には考えさせられる。
「ひらめいた時の驚きは、実は自分の無意識的な心の働きに対してのものなのだ」の一文は思わず栞にしたくなった。 -
Posted by ブクログ
学びとは、ただ与えられたものをこなせば良いということではない。
与えられたものが、有識者にとって練り上げられたものであっても、それは単なる立方体の一側面を見たにしかすぎない。
一側面しか見ていないのだから、そこから多面を推測することが容易ではないことがわかる。
そして、この立方体を伝達する術はない(いまのところ)。
つまり、本書でいっていることは、そういうことだと思う。
結局、私たちに必要なのは探求心や知識欲だし、そういった欲望に向かわせる動機である。
そして、学校とはそういった動機付けを促す場であってほしいし、教師自身も常に探求の人であってほしい。
人は、欲望に向かって勝手に学ぶものだ。 -
Posted by ブクログ
人はどう事物を見て(認識)、どういうふうに覚え(記憶)、どう考えるのか(思考)といったところ軸に、人間の認知の仕方をつぶさにながめ、解き明かしていくのが認知科学です。認知科学は学際的な学問で、多領域を横断して作られていく学問と言うことです。認知心理学、発達心理学、社会心理学、哲学、言語学、社会学、教育学、神経科学、動物心理学、生態学、コンピューターサイエンスなどが、認知科学で使われたり参照されたりしています。本書では、認識、記憶、思考についてのとらえ方、現在わかっている知見を読んでいくのもかなりエキサイティングなのですが、ここでは僕が特に気になったトピックをまとめる記事とします。
サバン症候群のナディアという女性が五歳の時に描いた馬の絵が図4-3としてp116に掲載されています。馬に乗った近衛兵を描いた絵なのですが、五歳が描く絵ではないような躍動感や写実的正確性を感じさせるスケッチなのでした。ナディアはこのとき、ほとんど言葉を発することができず、社会的に無反応で、動きもぎこちないものだったといいます。次に、数字の順序(1の次は2,2の次は3ということ)を覚えたチンパンジーに行わせた実験が例に出されていました。タッチパネルの数字の「1」をタッチすると、表示されていた残りの数字にマスクがかけられてしまい、まるでトランプゲームの神経衰弱のようではあるのですが、どこに次の「2」があって「3」があって、というのを覚えておいてそのマスクされたタッチパネルを押していくというゲームがこの実験です。チンパンジーはこれをそつなくこなしていくのですが、同じゲームを大学生にやってもらうとなかなかうまくいかないそう。
こうした例に共通するのはなんなのだろうか、という疑問に答えるのが、下の引用になります。
__________
ここからは哲学者であるハンフリーの考え方に従ってこの問題を考えてみたい。彼はナディアの描いた絵を、一万五千年から三万年前にクロマニヨン人によって描かれたとされる、写実的で、躍動的、遠近感のある馬の洞窟画と比較している。彼の『喪失と獲得』に掲載されているクロマニヨン人による馬の群れの洞窟画とナディアの絵との類似性は衝撃的なほどである。ここからハンフリーは、優れた視覚的な記憶の背後には、言語の欠如があると主張している。裏を返せば、私たちの視覚的記憶が驚くほど貧弱なのは、言語を獲得したせいということになる。(p117)
__________
→視覚でとらえたものを言葉にして記憶する、という行為をあたりまえのように私たちは行います。この、「言葉にする」段階で、実際の視覚的情報からかなりの情報量を削っているということなんです。言葉は抽象的ですし、簡便なものです。情報を言葉に置き換えると、そのぶん、情報を扱うエネルギー的にも記憶する行為的にも省エネで済む。その結果、本来の情報元を実はぼんやりとしか把握できていない、という結果になっている。これはこれで、省略してもっと多くの物事や概念を覚えたりしてそれらを組み合わせてアイデアを作っていったりする方向に頭を使う、という思考システムとして有効だからなのかもしれません(この一文の部分は僕自身の素人考えではありますが)。音楽を作る人や、絵を描く人で、ぼんやりと考えていたり言葉を使わないで考えていたりする人はいると思いますけれども、そういった人たちは、外界からの情報量をなるべく損なわないで感じていようとする姿勢が、無意識的に働いているのかもしれません。あと、余談ですが関係がありそうなのは、精神に疾患が生じる人のケースです。一般的な人のように外界からの情報をフィルターで濾して、少なくなり適正な情報量として受け取る、ということができなくなっている、というのが精神疾患が発生した人にはあると言われます。フィルターが破れてしまったからだ、なんていう喩え方がありますけれども、言語を獲得した現代人にとっては、外界からの情報の扱い方として精神衛生上、言葉がフィルターとなっているとも考えられます。
なにか大きな事件、インパクトのある事件などがあると、マスメディアはそれ一色になります。新聞、週刊誌、テレビのニュース、ワイドショーなど事件の経緯、経過、今後について細かく、時間をふんだんに使って伝えてきます。それが認知の偏りをつくることについての引用が次になります。
__________
このような報道が繰り返しなされると、それは当然記憶に定着しやすくなる。記憶に定着すれば、それは随時呼び出し可能、つまり思いだしやすくなる。ここで利用可能性ヒューリスティックがはたらき、思い出しやすいのだから発生の頻度が高いという判断を下してしまうのである。
はじめにも述べたように、利用可能性ヒューリスティック自体は実世界では有用な場面も多く、それ自体が間違っているとは言えない。おそらく多くの場合、このヒューリスティックは有益な情報をもたらしているはずである。(p182)
__________
→こうありますが、このヒューリスティックはメディア社会では誤作動を起こしてしまうのです。その理由は。マスメディアの性質自体にあり、それは、めずらしいこと、変わったことに報道の価値があると考えるからです。「ニュースの価値がある」とは「めったに起きない」にあり、それが連日さまざまなところで報道されることにより「よくあること(発生しやすい案件)」だと誤認してしまう。これによって、誤認なのに「厳罰化」を求める声が高まったり、監視社会化が進んだりします。ちなみに、ヒューリスティックとは、コンピューターによるしらみつぶしのやり方とは違って、勘のようなものが働いて「だいたいこうすればこうなる」的に問題を解決する人間らしい思考の癖のようなものです。
__________
生死が関わるような状況が作り上げられると、また別のバイアスもはたらくようになっている。どうも私たちは死が関わるような危機的な場面になると、集団主義的傾向を強めるとともに、、そこからの逸脱者に対して不寛容になることが多いらしい。たとえば戦時中の日本とか、9・11後のアメリカなどである。そういう時には団結心が高まると言えば聞こえはよいが、通常と異なる意見に対するきわめて激しい弾圧、バッシングがある。こうしたことが恐怖管理理論(存在脅威理論)という立場から研究され、実験的にも確かめられている。たとえば、死についてのアンケートに答えた後には、それとは全く無関係の法律違反者に対して厳しい罰を望んだり、葬儀場の前にいると、自分と同じ考えを持つ人の数を高く見積もったりする。(p196)
__________
→たとえば東日本大震災のときに自粛ムードが漂いましたが、そこは集団的傾向の強まり、そして「逸脱者に対しての不寛容」に合致するところです。また、精神医学の観点から見ると、不安障害の人が、とくに大きな障壁がないにも関わらず、家族を束縛し支配する例がありますが、これがここで引用したバイアスと関わっていることが推測されると思います。
__________
実は、一九九〇年あたりに認知科学に起きていた変化は、生物学的シフトだけではない。もう一つとても重要なシフトがあった。それは社会学的シフトよ名付けることができると思う。知性を個人の内部に求めるのではなく、他者、人工物、社会、文化との関係の中で考えていくという立場である。これは認知科学の中に状況論、状況的認知という大きな勢力を作り出した。(p269)
__________
→社会心理学で言われる「帰属の基本的エラー」の話がこれに相当します(社会心理学も、学際的である認知科学に貢献する分野ですから、まったくの門外漢としての知見ではないのですが)。帰属の基本的エラーについては、過去に山岸俊男さんの『日本の安心はなぜ消えたのか』で読み知っていました。別の本の引用になりますが、それをご紹介します。<人間の行動が、つねにその人の本心から行われているものとはかぎりません。周りの状況からやむなくそういう行動をしている場合もありますし、第三者から強制されて、しぶしぶやっている場合もありえます。そんなことは誰でも分かってはいるのですが、こと他人がやった行為については、そうした「事情」があってのことではないかと思わずに、その人がそういうことをする「心の持ち主」だと考えてしまうのです。(中略)このように、相手の行動から「相手の意図」を推しはかる性質が人間にあるために起きる認知の間違いを「帰属の基本的エラー」というわけです。 『日本の安心はなぜ消えたのか』山岸俊男 p80-82>
また、これは「人間は思いたいように思うもの」というリップマン『世論』に通じる知見でもあります(リップマンはステレオタイプという概念を『世論』によって世に広めました。そのベースにはどうやらカントの哲学があるみたいです)。 -
Posted by ブクログ
「教養としての」という枕詞がついた本は、大体、難しい内容をわかりやすく噛み砕いてくれた本が多いと思っているが、本書はなかなか、そうはいきません。
私なりの解釈を言えば、本書は、人間がハマってしまう「思い込み」についての本だという風にざっくり理解しています。しかし、それなりに難解。
「アハ体験」という、静止画を注意深く観察していても気が付かない、画の変化に気がついた時に愕然とするあの感覚の理屈を科学的に説明してくれる本とでも言うのか。
(実際、上記の事象を「チェンジブラインドネス」として本書でも紹介され、You Tubeで検索すれば沢山ヒットする)
知的好奇心を刺激される、様々な人の認知に関するエピソードが紹介されています。
人間の脳は、超・高性能だけれど、それでも人間は馬鹿な判断をしてしてしまうということが、多くの実例、実験結果で証明されていきます。
「自分だけは、正常に判断できている」というふうに感じている人が多いかもしれませんが、それこそ大きな誤解で、IQの高さとは別の次元で、人間は自分の脳に騙されます。
認知、思考、記憶なんかの、脳みその、知っていそうで知らなかった能力とその限界を、かなりアカデミックに説明してくれてます。
それはそれで面白いのですが、説明内容はなかなかに高度な理解力が必要と思われます。
それは、筆者もよく自覚していて、安易にわかりやすさに走るのではなく、長くなってしまっても正確に伝えようという真摯な姿勢の裏返しだとのことです。
ということで、ある程度の難解さはありつつ、認知という世界の入り口にして、幅広いテーマでの解説を網羅的に説明してくれる本書はおすすめです。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ私が衝撃を受けた本だと言っていいと思う。人間が学ぶこと言うことは、どんなことが起こっているのかを明らかにしようとしている本だ。
冒頭の1章にある「能力という虚構」で私は衝撃を受ける。
ここから抜粋
〜最初にこの章の主張を述べることにする。〜中略〜
能力というのはアブダクションから生まれた仮説である。そこに不適切なメタファーが加わることで、誤った能力観が広がっている。それは能力の安定性、内在性という見方である。なぜこれらが誤っているかと言えば、人の認知にほぼ普遍的に見られる文脈依存性を説明できないからである。よって認知的変化を考えるときに、能力という仮説は不要である。〜
ここまで
能力というのは、計算力、創造力、論理的思考力と呼ばれるようなもので、本書の冒頭で否定されたのだが、私自身「能力」は、個人に内在するものであり、安定的に引き出せるものだと思っていた。これを否定された上に、今まで認識していたものが、間違っていたと気づかされた。
能力とは、本人が自由自在に使えるようなものではなく、環境要件によって引き出されるものだと言うことが、本書を読むと理解できる。
こんな能力を持っているということ自体、恥ずかしいことに思える。謙虚に、外的環境(仲間や教師、同僚、上司、部下など)があってこそ発揮できたものだと考えた方が良い。
そして次の章では、「知識は伝わらない。」と言われてしまう。
ここから先は、ぜひ読書で体験をしてほしい。
本書には、さらに理解を深めるための参考文献も多数掲載されている。
お金が続く限りという制約があるのだが、興味を持ったらさらなる迷宮に入り込める。