あらすじ
教育現場ではこれまでのイメージから、間違った学習観が広まっている。その弊害をなくすために、認知科学の視点から「学び」の実態を科学的に明らかにする。
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Posted by ブクログ
学びとは、ただ与えられたものをこなせば良いということではない。
与えられたものが、有識者にとって練り上げられたものであっても、それは単なる立方体の一側面を見たにしかすぎない。
一側面しか見ていないのだから、そこから多面を推測することが容易ではないことがわかる。
そして、この立方体を伝達する術はない(いまのところ)。
つまり、本書でいっていることは、そういうことだと思う。
結局、私たちに必要なのは探求心や知識欲だし、そういった欲望に向かわせる動機である。
そして、学校とはそういった動機付けを促す場であってほしいし、教師自身も常に探求の人であってほしい。
人は、欲望に向かって勝手に学ぶものだ。
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自己啓発本には分類されないと思いますが、すんごい啓発されました。人的資本や人材育成が注目される昨今、リスキリングという御旗の元に、媒体問わずでいろんなコンテンツがありますが、虚しく思えてきました。あれらは情報であり、記憶しただけでは知識ではないわけで、と。スキルにまで高めるには実践して色々とやっていかないといけないわけで、と。日々の仕事の中に取り込んで活用しないと実践とはならないと思うわけで、従ってリスキリングとは、人だけではなく仕事の方も対象にして、変える前提で、一緒にやらないとね!
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人生の停滞感(漠然)にあおられて手にとってみました。
「人間はどうやって学んでいるのか」。
結局、できるようになるには、やってみようと頭をひねってもできない時間が必要なんだな、と客観的に思えてよかったです。
それが当たり前なことにもあたらめて気づけて、よかった。
あることができたりできなかったりしたとき、私はいま成長曲線の揺らぎの中にいるんだなぁ~と思えると、できない自分を責めることが少なくなった。
揺らぎは次の段階への準備期間!
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自分自身の仕事をする立場としての学習や学び
子供を持つ身としての子ども自身が今後学校で進めて行く学び
いずれについて考えるにあたっての、学ぶとはどういうことなのか?を整理できる良い本でした。
人は単純に「暗記だけの学習が良くない」とだけ認知しているケースが多いけれど、なぜダメなのか?何がダメなのか?では、学びとは何なのか?という問いに降りていって思考を深める良い機会になりました。
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私が衝撃を受けた本だと言っていいと思う。人間が学ぶこと言うことは、どんなことが起こっているのかを明らかにしようとしている本だ。
冒頭の1章にある「能力という虚構」で私は衝撃を受ける。
ここから抜粋
〜最初にこの章の主張を述べることにする。〜中略〜
能力というのはアブダクションから生まれた仮説である。そこに不適切なメタファーが加わることで、誤った能力観が広がっている。それは能力の安定性、内在性という見方である。なぜこれらが誤っているかと言えば、人の認知にほぼ普遍的に見られる文脈依存性を説明できないからである。よって認知的変化を考えるときに、能力という仮説は不要である。〜
ここまで
能力というのは、計算力、創造力、論理的思考力と呼ばれるようなもので、本書の冒頭で否定されたのだが、私自身「能力」は、個人に内在するものであり、安定的に引き出せるものだと思っていた。これを否定された上に、今まで認識していたものが、間違っていたと気づかされた。
能力とは、本人が自由自在に使えるようなものではなく、環境要件によって引き出されるものだと言うことが、本書を読むと理解できる。
こんな能力を持っているということ自体、恥ずかしいことに思える。謙虚に、外的環境(仲間や教師、同僚、上司、部下など)があってこそ発揮できたものだと考えた方が良い。
そして次の章では、「知識は伝わらない。」と言われてしまう。
ここから先は、ぜひ読書で体験をしてほしい。
本書には、さらに理解を深めるための参考文献も多数掲載されている。
お金が続く限りという制約があるのだが、興味を持ったらさらなる迷宮に入り込める。
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筆者が言いたいことについては「確かにそうだな」と思うことがたくさんあった。教育に関しては、社会が積極的に関わるような関係性を作っていくことが非常に大切になるのではないかと思う。子どもが色々な大人と出会い、それぞれの生き方を知ることで創発の可能性は伸びるのではないか。そんなことを思った。
あとは、内発的な動機付けをどのように行っていくか、が自分にとっての課題であると思う。
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学習と知識の転移について、たまたま同じタイミングで読んだマンガ「アオアシ」29巻がまさにこの回とリンクした。
知識は簡単に転移しない。意識的に考えることはもちろんだが、無意識が勝手に蓄え続けた他の知識や意識が棄却したさまざまなパターンとの結びつきも存在する。だから認知パターンを増やすことはとても重要。揺らぎが創発を誘発する。
何度も例題を解けば転移の可能性は高まるが、限定的。望ましい状態と現状を一致させるため、原因系を探り、自ら問題自体を創発していく。こうすることで知識が得られる。
アオアシ29巻。ただ先輩の意見を聞くだけでも、質問をするだけでも真の成長にはつながらない。ひよっ子でも自分の意見を臆せず伝えられる選手であることで、創発が生まれる。頭を作り替える瞬間が描かれている。
それを受け止める選手たちも、チームメンバーがより良い動きをする事が結局人のためでなく自分のためになるから、話を聞き、より良い方法を提示する。環境が創発に影響する場面。
これは攻殻機動隊の荒巻課長の名言、「我々の間には、チームプレーなどという都合のよい言い訳は存在せん。 有るとすればスタンドプレーから生じる、チームワークだけだ」にも繋がるなと。
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平易な言葉で、人間の学びの仕組みを教えてくれる良書でした。この本を読んだ事は、今後何かを習熟する際に役に立つと感じた。テーマ毎の末尾に、より深く知りたい場合の図書が紹介されているのも親切。
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知識の獲得、上達、発達、ひらめきのメカニズムやプロセスが語られ、教育や教師の役割について論じられている。人が成長する仕組みに興味があったため、こういうことだったのかとたくさんの発見があった。が、まだ「身体化」されるほどには「認知の変化」が起こっていない。再読し、他の角度からも理解を深めたい。
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とても面白かったです。要素還元的で固定的な学びの概念を覆し、還元不能かつ流動的な創発のメカニズムやダイナミズムを、平易な言葉でコンパクトに解説しています。各章にある参考文献も充実しているのも良いですね。
Posted by ブクログ
はじめにで、「文部科学省を中心とする〜(中略)〜、『学び、教育をなめている』としか思えない」といきなり喧嘩腰なのが、まず面白かった。笑
従来の教えるタイプの教育ではなく創発をうながすことが、これからのVUCAと言われる時代を生きるために必要であることはとても共感できた。
自分がこれまで受けてきた(学校職場含めて)教育で、意味なかったなと思うもの、自分の血肉になってると思うもの。振り返ると、目的を理解し自分で試行錯誤して納得して答えに辿り着いたのかがポイントだったように思う。
真似っこであれば、賢い猿でもできるのだ。
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認知科学の分野で「プロジェクション」の概念を見出した鈴木さんのご本。こちらの本にも少しだけ言及がありました。早逝ご惜しまれます。しけしやはりちくまプリマー新社にハズレはないなあ。
Posted by ブクログ
人間が学習して何かができるようになるとき、人の中で何が起こっているのかを、認知科学の知見からまとめた本。分かりやすくて、とても良かった。
何かができるようになるためには、知識を得るだけではなく、体が学習するという身体性が重要なのが興味深い。また、上達やひらめきが、無意識下の揺らぎに起因しているというのも納得。
これを前提に自身の学習戦略の参考にしたいところ。
以下、面白かった点のメモ。
●知識は構築される
知識は伝わらない。なぜなら、知識は人が自らの持つ認知リソース、環境の提供するリソースの中で創発するものだからだ。
知識は「モノ」のように捉えてはならず、絶えずその場で作り出されている「コト」として捉えなければならない。だからコトバで伝えることは困難なのだ。
●上達する
練習による上達にはうねりがあり、直線的に上達が進むわけではなく、複雑なうねりが存在する。このうねりは、そこで用いられる複数のリソースが、微細に異なる環境の中で相互作用する中で創発する。そしてうねりは次の飛躍のための土台となる。
●ひらめく
ひらめきは突然訪れるかのように語られることが多い。しかしひらめきは練習による変化、発達による変化と同じ、つまり多様で冗長な認知リソースとその合間の競合による揺らぎが、それが実行されるの環境と一体となり創発される。そしてその過程の大半は無意識に沈む。たがら、ひらめいた時の驚きは、実は自分の無意識的な心の働きに対してのものである。
Posted by ブクログ
学習における創発過程を研究する認知科学の専門家が、一般向けに「学ぶこと」について書いた本。
本書では、今まで通念とされていた誤った学習観を見直し、知性を「能力」「スキル」というメタファーで捉えることの危険性を説く。
「能力」というものは安定性を持っており、基本的にはいつでも同じように働くというイメージが強いが、人間に関して言えばそうしたことは期待できない。
むしろそれは文脈に応じて働いたり働かなかったりする「文脈依存性」によるものだという。
親や先生、マネージャーなど教育に携わる者にも読んでほしいが、自己研鑽に励む独学者にとっても役立つ本だと思う。
新書であるが、咀嚼するのに少し時間がかかるなかなかに読み応えのある本だった。
ーーーーー一一一以下、抜書きーーーーー一一一
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創発という用語は専門的には、少なくとも「還元不能性」、「意図の不在」という2つの意味が含まれる。還元不能性というのは、創発されたものは、それを作り出すための要素の性質からは説明できない、つまり還元ができないという意味である。
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創発にだいじな条件は、そこに多くの要素が存在していること、そして要素どうしの相互作用によって揺らぎが生じること、またその相互作用の仕方は環境からの影響を受けることである。
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認知的変化を含めた人の知性を文脈、つまりそれが発現する環境から切り離して論じることは適当ではない、ということである。さまざまなリソースが特定の文脈との出会いによって現れたり、隠れたりする、つまり揺らいでいるのが人間の知性なのである。
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伝えられた事柄、本で読んだ事柄がどのような範囲をカバーするのか、それは他の知識とどう関係するのか、そしてどこで使われるのか、そうしたことを考える作業を行わない限り、その事柄は単に記憶としてしか存在せず、知識とはならないのだ。こういう考え方を構成主義(constructivism)と言う。相手からの情報、その記憶が知識となるためには、それらの素材を用いて知識として構成していかなければならないのだ。構成するのはもちろんあなただ。あなたのこれまでの経験は人と異なるだろうし、これから出会いそうな場面も異なるだろうから、構成される知識は人によって少しずつ異なってくる。より多くの関連した知識と結びつきを作ったり、その知識がカバーする事柄をたくさん経験した人が構成する知識は、単にクイズのように覚えた人のそれとはまったく異なったものとなる。難しい言葉で言えば、知識というものは「属人的」なものなのだ。
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日本の学校で学ぶ英語は身体化されていないのだ。英語の時間に文字として触れるだけであり、それを使って生活することがない。そこでは「apple リンゴ」という記号同士のつながりができるだけだ。一方、英語圏で育つ日本の子供たちは幼稚園、学校に放り込まれ、起きている時間の1/3から1/4くらいをそこで英語を使って過ごす。彼らの英語は自分の経験を構成するさまざまな感覚と結びつき、身体化されている。これが子供たちのすばやい英語習得を支えている。
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これらを利用したものにイメージ・トレーニングと呼ばれるものがある。この効果を調べたある研究はとても興味深い結果を報告している。取り上げた課題はダーツである。あるグループは毎日30分間、 50回投げることを8週間続けた(週5日)。別のグループは実際の練習とイメージ・トレーニングを交互に行うことを5週間行った(1日は実際に投げ、次の日はイメージ・トレーニング)。だからこのグループは最初のグループの半分しか練習しないことになる。どう考えても最初のグループの方の成績が良くなると考えたくなるが、実はイメージ・トレーニンググループの方が2倍以上も得点が向上するのである。ただしイメージトレーニングは、一定の経験を積んだ人にしか有効ではない。初心者はその運動をする時にどんな筋を使えばよいかがわからないからだ。
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事前にミスマッチを繰り返す子供と、ミスマッチをほぼしない子供を選び出し、彼らにこの課題の解決に必要な事項を教えた。教えている最中の成績については、ミスマッチをするグループもしないグループも差がなかった。しかし、その2週間後にテストを行うと2つのグループには大きな差が現れた。ミスマッチグループの子供はそうでない子供の5倍もの成績を収めたのである。つまり、揺らぎや変動性を伴う子供たちは、練習から得たものを持続的に用いることができる一方、揺らぎの少なかった子供たちは学習期間を過ぎると急速に教えられたことが実行できなくなってしまうのである。
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以上のことがひらめきの背景にあるとすれば、巷に溢れる創造力育成プログラムとか、そうしたことをまとめた書籍の持つ意義はとても限定的であることがわかると思う。つまり失敗を含めた経験抜きに、ある方法を使ってクリエイティブなんてことは起こらない。
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認知科学の視点からの「学び」の実態を明らかにするという書。
『類似と思考』を書いた鈴木先生の著作。鈴木先生は、思考、学習における創発過程の研究を行っている認知科学の専門家。
いろいろ直観に反する話が載っている。
一般に教えているのは「情報」であり「知識」の素材にすぎない。
問題を解くには、認知的リソースと状況が提供するリソースを組み合わせて「知識」を構築する必要がある。
このあたりの主張は、自分の思い込みをはずしてくれる。
・知識はそのまま身につくことはない
・練習しても簡単には上達しない
・思考力は安定しないものである
・ひらめきは突然生まれない
したがって、教育や学習に関する素朴理論の批判的検討が最大の価値。
その意味では、最後の章を読まないといけない。
素朴理論というのは、特に教育を受けなくても、教えられなくても知っているまとまった知識だ。
人類の文化的学習ともいえ、有用な点もあるが、多くは、特殊な状況で該当する話であリ、多くの誤りを含むので、弊害をもたらすことも多い。
教育や学習についても素朴理論は存在する。
「問題と正解」に関わる素朴理論
「基礎から応用」という素朴理論
「すべて頭の中で」という素朴理論
「教えればできる」という素朴理論
大前提として、練習を通した学習、発達、ひらめき等の認知的変化(これらは「認知的変化」なのである)は、いずれも、複数のリソースが存在し、それらが競合、協調を重ねながら揺らぎ、状況、環境と相互作用しながら、進んでいくものであることを理解しておく必要がある。
マイケル・ポランニーの『暗黙知の次元』を理解する上でも有用だった。
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学びの過程についてよく知ることができる。予備知識なしでも読める。練習、発達、ひらめき、スランプなど納得できる理論と研究結果が紹介されている。芸術の半分は鑑賞者にあることや、自分で考えたことしか定着しないことなど、普段の生活における肌感覚と照合しても違和感なく納得できる。現在学校教育でよく行われる「調べ学習」も、初めに学習者が問題を創発できていないとただの作業(しかも何をすればいいかわからない)になってしまう。多人数で一斉に行われる授業において、はたしてどれほどの子どもたちの「問題の創発」ができているかと考えると、課題が山積であることが分かる。それぞれの創発を支援するのであれば、取り組む項目に多様性をもたせることが必要だが、そうすると同内容を全国民に教育するという学習指導要領と齟齬が出る。教育の平等を保ちながら、個々の創発を支援できる仕組みを検討すべきだろう。
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AIや脳神経科学を視座とする「学び」への探求とは一味違った形での理論や実践が繰り広げられているのは、なるほど教育学的な視点からは斯様な研究が行われて領域横断的に科学の果実が実りを目指しているのだなと。
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学ぶという行為を「練習による上達」や「発達」「ひらめき」というキーワードで解説。身体化、という言葉も分かりやすい。英語やゴルフなど、反復学習により、身体が馴染む。しかし、言葉で理解するのではなく、身体で理解する事が効果が高い。例えば、日本で学ぶ英語は身体化されていない。英語圏で学ぶ子供の英語は自分の経験を構成する様々な感覚と結びつき、身体化されている。従い、修得が早い。
繰り返しにより脳内回路を強化し、型を修正しながら身につけていく。マルコム・グラッドウェルの1万時間の法則は、やはりある意味では正しい。それは反復により身体化すると言うことで、ある意味では人間がロボットのように自己プログラミングと自己教示をする行為。身体化はつまり機械化であり期待される機能を果たすための生産性を上げるという事だ。しかし、何故だろう、そこには「努力が報われる」という意味での希望や優しさが存在している気がする。そしてその希望こそ、学習のモチベーションにおける源泉となる。
勘違いしてはいけないのは、人間は自らを機械化することに喜びを感じているのではない。社会性動物として、集団に貢献できることに喜びを感じるのであって、結果的に自らを機械化することがその期待に応える事と同義に重なるという事だ。期待に応えることで賞賛され、承認欲求が満たされる。社会構造における自己保存こそ、学びの根源だと、改めて。
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いわゆる認知科学に関する本を初めて読んだ。
能力は虚構だとか、知識はモノではなく、コト的なものだとか、発達段階論の否定、ひらめきのしくみなど、自分がなんとなくこうだろうと思っていたものについて、思い直させたり、深く考えさせられるきっかけとなる本であった。
私のレベルでは理解するのに難しいところや、すぐに理解できないようなところもあったが、読み応えがある本でもあった。これ、本当に中高生向けか?
おそるべし、ちくまプリマー新書。
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なぜ、そのような学校教育が行われてきたのか、というところまで踏み込まないと現場は改善されない。ここで書かれていることは、実は教師は経験的に知っている。それを変えられないところが本当の問題なのだ。
「能力は安定性を持っており、基本的にはいつでも同じように働くというイメージが強いと思うが、ここで見てきたように、人間に関して言えばそうしたことは期待できない。それはブンミャクに応じて働いたり、働かなかったりするものなのだ。これが私が人の知性を『能力』、『力』というメタファーで捉えることが危険だという理由の一つだ。」(p32)
「コトバは、全体性を持つような場面や対象、また直感的な理解を表現するには適していない。」(p60)
「発達は段階的に進むとされている。しかし、発達による変化にはうねりがあり、階段状に発達が進むわけではない。」(p109)
「・問題は出される。(既にある)・正解がある。・正解を知っている人がいる。(先生)というようなものを典型的な教育・学習場面だと考えるのではないだろうか。」(p176)
「国際化が進んだから英語、国際理解、人工知能の時代だからプログラミング教育、18歳で選挙に参加できるようになったので主権者(シチズンシップ)教育、心が荒んでいるから道徳(政治家に言われたから)等々。これらの変化があると、『では学校で教えよう』、『学校での授業時間数を増やそう』ということになる。つまり何かが必要になると、それを教育するということになる。これらは『教えればできる』という信念に支えられている。」(p184)
「教育とは知っていることを整理して伝えることではないのだ。」(p211)
能力の発現は文脈に依存する(テスト評価の限界)、細分化しても包括的に理解することはできない(スモールステップ指導の限界)
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最終章、教育
近接項としての兆候、遠隔項としての原因
-盲人の杖の例
手の感覚と、その先に触れてるものということでイメージしやすかった。
今接しているものがどっちか?とみる目線もあってもよいよかな。
コルブ学習理論の、経験と、省察の部分
具体と、抽象とつながるか?!とも思った。ちょっとズレてる?
全体的には、実践的な内容てまはないので、この内容から、また自分の課題に落とし込んでみて、何をどう捉えられるか考えてみる作業がいりそう
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はじめの部分はよくある問題であった。面白くなるのは後半である。佐伯のゼミの発表での眠っていることからのダメ出しやスモールステップの効果のなさ、などの話が面白いので、これだけの話でもいい。
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第2章の「知識は構築される」が特に面白かった。3章の上達と5章のひらめきを読むと、これからの学習もがんばろうという気になる。
6章にあるさまざまな教育批判に対する、「それらにはまったく共感を覚えないが、一定の理屈があることには同意する」という著者のスタンスが好きだ。
Posted by ブクログ
巷でよく聞く〇〇力、とかなんちゃらスキルっていうのは表面だけを見ていてあれでは意味がない、とバーンと言い切っている面白い本。
答えがある前提の教育って、基本はうまくいかないよね、強いて言えば徒弟制度がいいかなあ、という結論で、むむむ、という感想ではある。
面白い視点ではあって、私たちは五感で学んでいて、学んでいると思っていること以外も学んでいるんだ、とそう理解できると、自分の学習の仕方を変えるきっかけにはなるように思う。
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創発というメガネで物事を見る、そしてそこから自分自身の問題を見つけ出し、解決を創発していくことが大切だと理解した。
学ぶことはどういうことなのかという理論の拠り所になるような本だと思った。
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学ぶ事によって身になる、というのはどういうことと考えられるか、ということについて論理的にまとめられている。一度読んだだけだとまだ腹落ちしてない部分や、読み返して理解を深めたくなる箇所が多く、長く味わえる。
Posted by ブクログ
自分は学べない人間なんじゃないかという不安がある。そこで、こういう本はちょっと読み通せないかもと思いながらもワラにもすがる思いで読んでみた。そうしたら思ったより読みやすかったという印象。
知識とは、上達するとは、ひらめきとはといったことを根拠立てて解説してくれる。確かに安易に知識や技術の習得なんて言ってしまうけど、この本によれば知識はモノではなくコトなのだと。だから知識というモノが身に着くのではなく、学んだり解釈したりすることによって知識化していくような順で知識にしていくわけ。ひらめきにしたって、突然神が降りてくるんじゃなくて、やっぱり試行錯誤の積み重ねがあってのものらしい。こういうことをちゃんと意識していれば、何だか学びがモノになりそうな気がする。
Posted by ブクログ
「学び」についてなんとなく知っていることを言語化して書かれている本。あまり新たな知見はないが、裏付けとなる研究が紹介されているので納得させられる。
近年流行っているマニュアル化・チェックリスト化について苦言が呈されていたのが印象的。学びには質と量が必要で、その質が落ちているということなのだろう。