三浦俊彦のレビュー一覧
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前半は記号論理学の基本の説明、後半は論理学の人間原理への応用である。高校生の時に一度読んだが再読。今回は後半のみ。
人間原理は元々宇宙物理学の文脈において提唱された。その一般化した主張は、簡単に述べれば次のようなものである。つまり、「私が『私』であること(今が『今』であること、ここが『ここ』であること)は尤もらしい」つまり、「私たちは平凡だ」ということである(平凡の原理)。
この、ごく常識的な、少なくともコペルニクス以来の脱人間中心主義・近代科学的世界観の延長線上にある考え方を認めれば、論理学の推論から、例えば
・地球外知性は存在しそうにない。
・銀河クラブはありそうにない。
・地球文明の寿命は残り1000年以内の確率が95%以上。
といった、非常にショッキングな結論が従うのだ!前二つはともかくとして、文明の寿命に関する議論には、初めて読んだとき、かなり衝撃を受けたことを覚えている(もっとも、あくまで確率付きの結論であることには留意する必要がある)。また、強い人間原理から多宇宙説という考えが自然に生じるが、(他の宇宙というのは定義からして観測できないはずだが)この宇宙に掛かっている「現に人間を生み出した」という制約がどれほど厳しいものかを計算することで多宇宙説の尤もらしさが求められるという。その他にも、人間原理のよくある誤解がまとめられていて、僕自身理解が不十分だった種々の点に気付かされた。
以下、僕なりに考えたことをメモしておく(頓珍漢なことを言っていると思いますが)。
・文明の寿命に関する議論は現在地球の人口が増加中であることが前提だったが、ある瞬間だけを見れば人口が減少している瞬間がある筈で、もしその瞬間毎の情報しか与えられなければ結論は瞬間毎に違うものになるのだろうか?また、日本の人口は減少しているが、そうなると、日本の寿命が人間文明の寿命より長いという奇妙なことにならないだろうか?
・宇宙の制約から多宇宙説の尤もらしさを導く議論について、その制約の厳しさの程度というのは結局他の宇宙との比較によってしか分からないのでは無いだろうか?ある制約がとても厳しいものであるように見えても、実は隠れた因子があって、考えうる宇宙に対し必然である(若しくは、そのような宇宙が多数派である)という状況が考えられるのではないだろうか?
・永井独在論に対する筆者の批判について。筆者の批判は、一言でいえば「この「私」(自意識的存在)が〈私〉(世界が開ける原点)であることが、永井が言うように「還元できない奇跡」だと思えるのは選択効果を忘れているからで、その問いを問うているのがまさにこの「私」である以上、必然である」ということで合っているだろうか?「世界がこのままであって、にもかかわらず〈私〉が永井均以外の人間であることができたというのは永井の錯覚である。永井均以外の問わぬ者たちは「私」でありうるだけだ。永井の疑問そのものが〈私〉が誰であるかを決める選択条件なのだから。(略)字面上永井と同じ疑問に到達した者も、永井に論理的に賛成することはできないというわけだ。言語ゲームによってただ「永井の知らない別の驚き」へと誘われただけなのである。」(p.230)この点については、三浦の指摘が批判になっているのかどうかも含めて、また考える必要がありそうだ。
Ⅰ 記号論理学の基礎—ゲームの規則
1 論理学的思考へ 意味論と語用論
2 真と偽 命題の特性を探る
3 トートロジー 偽となりえない命題
4 「ならば」の論理 条件文の構造
5 「妥当な推論」とは何か 推論規則と定理
6 推論の冒険 演繹定理から仮説演繹法へ
7 地球外知性は存在するか? 背理法的推論
8 述語論理学 命題の内部構造を探る
9 多重量化と同一性 日常言語の曖昧さを解きほぐす
10 存在をめぐる謎 哲学と論理学の交差点
11 「何もない世界」 存在論への論理学的アプローチ
12 前提明示化のテクニック 意味論的前提と語用論的前提
13 演繹と帰納 「健全な推論」の導きかた
14 事実と価値をつなぐ論理 「である」から「べし」を導けるか
15 なぜ、人を殺してはいけないのか? 論理学からの回答
16 嘘つきのパラドクス 背理法の盲点
Ⅱ 人間原理の論理学 論理における「私」の位置
17 「10^40」というミステリー 巨大数仮説と観測選択効果
18 反コペルニクス主義? 人間原理と宇宙原理
19 宇宙は人間を必要としていたか? 目的因という錯覚
20 因果と認識 「証拠」は「原因」ではない
21 名指される宇宙 文法的再定義
22 地球は特別か? 「平凡の原理」による推論
23 さびしい地球人 平凡のパラドクス
24 私たちは多数派である 確率から見た地球外知性
25 文明の寿命を探る デルタt論法
26 必然論から偶然論へ 終末論法の衝撃
27 世界の選択 多宇宙説は予言する
28 「私」の論理
ブックガイド -
Posted by ブクログ
本当は同じシリーズの『高校の数学を〜』を買いに行ったんだが、こっちの方が気になって先に読み切ってしまった。来週、ロンドン・ナショナル・ギャラリー展に行くしな。
アートとデザインの違い、アートの世界のパラダイム転換(『13歳からのアート思考』にも似たような話があった)も勉強になった。
しかし一番刺さったのは、何かゴールを求めて能率本位になるのではなく、「私はいまここにいる。私はこういう経験をしている」と意識を自分に向けてあげることが大事というメッセージ。これは禅や瞑想の姿勢に近い。スムーズにアウトプットを続けるだけの人生は果たして「生きた」と言えるのか…?
これが結果として、自分の知らない世界に趣味を向け、備えもった範囲から出て、新しい発想に繋がっていく…でも、これを目的としてしまうとまた能率本位に戻るという矛盾。。
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Posted by ブクログ
・不思議なことに、企業が自己の人格と区別して赤の他人として消費者を扱ったとたん、本来は同人格であるはずの消費者は近くて遠い存在に豹変してしまう。
・SNSでの発言をフォローするため、企業の中には、リサーチ部門、後方部門、事業部門などに専門のスタッフを置いている。
・マーケティングリサーチやSNSといった手段そのものが、間違っているのではなく、表面に現れている消費者の「意見や要望」を手掛かりにしている限り、それは同じ商品やサービスの開発につながってしまい、市場が同質化してしまうのではないか。
・人間の脳には顔を認識する特定の部位が存在し、顔のようなものが目に入ると敏感に反応するという。
・コカコーラはスーパーボウルのCMを決定するため、候補となる10本のCMを脳波調査で事前検証し、放映するCMを選定したという。
・ブランドは進行と似ている。
敬虔なクリスチャンがキリスト教のシンボルを見たときと、熱烈なアップルファンがアップル社のロゴを見たときの脳反応は非常に似通っている
・「ブランドマネジメント」により、ブランドの固定化、ルール化に過度に力点を置かれ、結果としてそれ自体が目的化してしまった。そのため、創造性や柔軟性を抑制してしまう「ブランドポリス」のような副作用も生んでしまう。目に見えない抽象的なものであるブランドを見える化することは悲劇につながる
・無店舗販売のパソコンを最安値で購買することはできるが、五感感覚を起動せずに論理だけで購買の判断をしている時、脳は重要な入力情報の欠落を感じているのではないだろうか。
・現代のマーケティングはどれだけ顧客の深層心理に迫れるか。マーケティング部門は数字をいじり回しているだけでは存在価値はありません。
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Posted by ブクログ
論理力つまりロジックを鍛えるための問題集という内容のものです。聞いたことのあるような内容から、こんな風に考えるのだと驚くような回答が出てきたりして、頭を結構使いながら読ませていただきました。答えというのは、直感や経験からではなく、粛々とした論理の結果であるということを冷徹に突きつけられたような感覚を持つことを求められます。考えるとはどういうものなのかを知らせれた、ある意味読むのがきつい内容でした。その問いに意味があるとか無いとか、感覚的に受け付けないとか、そういう身体的なもので物事を考えがちなのだと、責められているような気がしました。しかしそれを克服した先に何があるのか。それをおぼろげながら教えていただけたのではないかと感じています。
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Posted by ブクログ
パソコンの登場により
『勘と経験のアートの世界』から『統計と論理の戦略の世界』へ。
広告会社の仕事とは、デザインや音楽、雰囲気や世界観と言った
必ずしも デジタルな数字では割り切れない、
感覚的で抽象的なものを扱う仕事でもある。
そのデジタルの隙間から、人間の感性にかかわる重要な何かが
こぼれ落ちている。
『なんとなく』の正体と仕組みを追って行くうちに、
たどり着いたのは 『脳』 だった。
ニューロマーケティング。
①商品の名前を覚えてもらうことが、コミュニケーションの最低条件。
②商品を魅力的に表現するメッセージが顧客の購入意向を刺激するのか?
③商品の選択はオンラインへ。体験はリアルからヴァーチャルへ向かうのか?
④不都合や不満点を最小化した商品は満足度がもっとも高い商品なのか?
⑤国の文化や習慣を考慮しない商品やサービスは受け入れられるか?
1 消費者は本当に欲しいものを知らない。
『食べたいものは?』と尋ねても。
差別化が 同質化を生む 奇妙な現象。
ソーシャルメディアは、本当のことを伝えられるか?
心の動きへの インサイト。
無意識に働きかける 広告。
2 『なんとなく』への探求
脳科学は 軍事的な追求と企業の追求がある。
アメリカは 実利 をもとめ 日本は 原理 をもとめる。
3 脳が反応するのを測定する
口では本音を言えないが 脳は本音を言う。
脳が 欲しいという。
4 ブランドとは
ブランドアイデンティティ。
ブランドは 人間関係である。絆をつくる。
1)ブランド認知優先の法則;
商品の名前を覚えてもらうことが、コミュニケーションの最低条件である。
2)メッセージ訴求力の法則;
商品を魅力的に表現するメッセージが顧客の購入意向を刺激する。
3)バーチャル化の法則;
商品の選択はオンラインへ。体験はリアルからバーチャルへ向かう。
4)満足総量普遍の法則;
不都合や不満点を最小化した商品は満足度がもっとも高い商品である。
5)アダプテーションの法則;
国の文化や習慣を考慮しない商品やサービスは受け入れられない。
この本は 『心脳マーケティング』と 似通っている。
でも『心脳マーケティング』のほうが 深味がある。 -
Posted by ブクログ
このシリーズで私が一番好きなのは本書なのですが、4冊ある内でどれか読んでみたいということであれば『心理パラドクス』をお勧めしますし、そちらの方のレビューで私が考えるこのシリーズの全体的な評価や評価基準についても触れています。
この本を「論理的思考力を鍛えるテキスト」として使うとするならば、おそらく半分ぐらいの方が1問目の問題に対する自分なりの答えが出てこず、先に進めない。運良く先に進めた半分の方も、次の問題で引っかかって半分が脱落する・・・とこれを108問繰り返していれば2分の1の108乗だから・・・最後の問題まで投げ出さずにたどり着ける人は限りなくゼロに近い。「論理的思考力を鍛えるテキスト」なのに論理学が鍛えられない。これはパラドクスである。
しかしこの考えには疑問を差し挟む余地がいくらでもある。(そもそもパラドクスではないはず)
この理屈のおかしな所を10ヶ所指摘してみて下さい。
1.この本を読めば論理学を鍛えられるという前提がウソ 2.最後の問題までたどり着けた=論理学が鍛えられたという定義は間違っている ・・・などなど。私が今でっち上げたお話なので叩けば叩くほど埃が出てくると思いますが、パラドクスシリーズのノリは概ねこのような感じで、もう少し捻くれていて難しいです。「そもそも半分が脱落するというのは大袈裟に見積もり過ぎじゃないのか」とか細かい所が気になって仕方が無い方は読んでると居心地の悪い気分になるかもしれません。(蛇足ながら「半分が脱落する」というのは決して大袈裟な見積もりではないと思います)
私自身はこの本は読み物として普通に楽しむために使っていて、解説なんて5秒考えてわからなそうだったら読んじゃいます。丁度、推理小説を読む感覚です。
こういう読み方をする場合は『論理サバイバル』が最もストーリー仕立ての想像力を掻き立てられる問題が多くて楽しめるのではないかと思います。というか、私は楽しかったのですが。扱っている命題の中には「何故シリーズ一冊目に収録されていないんだろう?」と思いたくなるような古典的なものも多く、一般教養書としての意義もあるかと思います。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ[ 内容 ]
「なぜ、人を殺してはいけないの?」「地球外知的生命は実在するだろうか?」―論理的に考えると、どのような回答がもたらされるか。
演繹、帰納、背理法など、推論のテクニックを豊富な例題とともに紹介しながら、現代論理学の基礎をわかりやすく解説。
明晰な思考のためのトレーニングであるのみならず、宇宙物理学などの科学と論理学の接点をも探る、知的興奮に誘う一冊。
[ 目次 ]
1 記号論理学の基礎―ゲームの規則(論理学的思考へ―意味論と語用論;真と偽―命題の特性を探る;トートロジー―偽となりえない命題;「ならば」の論理―条件文の構造 ほか)
2 人間原理の論理学―論理における「私」の位置(「10の40乗」というミステリー―巨大数仮説と観測選択効果;反コペルニクス主義?―人間原理と宇宙原理;宇宙は人間を必要としていたか?―目的因という錯覚;因果と認識―「証拠」は「原因」ではない ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
「原爆投下は正当だったか?」という問いをめぐる、もんのすごい頭を使い、そして勉強になる本である。正直、僕の頭では今回は著者の議論に圧倒されてしまい、批判的に考える余裕があまりなかった。「要・再チャレンジ認定」の本。
僕がこの本を手にとった動機は、原爆投下50年の1995年に起きたスミソニアン博物館原爆展の展示問題に関心があったから。僕自身は「原爆投下は不当である」という立場であり、どちらかというと「明らかに不当なはずの原爆投下をそれでも肯定するアメリカ人の心理と論理」に興味があって、その読書の延長で何となくこの本をとった。しかし、どつぼにはまってしまったのである。
著者は、「原爆投下の正当性」について、純粋に論理のみで考えていく。そして、否定派からの論題を一つ一つとりあげ、それに対して一つ一つ答えて行き、論理的には原爆投下は正当であるという結論を導いていく。これが、僕にはなかなか反論しがたい。史料的根拠に乏しいので歴史の事実認定問題では争えると思うのだが、仮にここに提出された資料が全て妥当なものだとすれば、「原爆投下は正当であった」ことを認めざるを得なくなってくる。それくらい、反論が次々と砕かれていくのだ。
誤解を招かないように書いておくと、この本は原爆投下というトピックを材料に「論理的に考える」ことを実践する「論トレ本」であって、決して筆者が「原爆投下は正当だった」という結論ありきで書いている本ではないと思う。どちらかというと、「原爆投下肯定論」という読者の感情的反発を招きやすいスタンスをあえてとりあげることで、読者が必死に反論を考えるような仕掛けにしているのだ。
そして、本書の中でも、特に面白いのは後半だ。ここでは、「仮に原爆投下が正当だったとしても、そう発言することは効用の点から言って正当ではないのではないか?」という現代社会における効用の問題を取り上げたり、「被爆して死んだ人の悲惨な写真を見ても、あなたは原爆が正当だったと言えるのか。それは人間への冒涜だ」という感情的な反発をとりあげ、これに対してどう論理的に答えるべきか、という問題を追及しているからだ。ここらへんはなかなかスリリングで、原爆投下の正当性という問題を超えて、論理とは何かという問いにまで片足をつっこんでいる。
というのも、筆者はここでこんな感じの議論を展開するのだ。
「原爆の死者数は、すでにわかっている。したがって、新たに死者の写真を見たところで、その写真によって美的情報が付加されただけのことであり、実質的な意味情報は写真を見る前と何も変わっていないはずだ。写真を見ることで判断を変えるような姿勢は、知的な論理構造を備えていない姿勢であり、かえって危険をもたらす」(大意)
・・・わからんでもないんだけど、本当にそうなのだろうか?僕はここで、「論理って一体何なのだろう?」ということを考えざるをえなかった。たしかに、感情に流されて論理的に思考できないことは危険だ。でも、論理的に思考できることは、常に最優先されるべき「正しい」ことなのだろうか? 僕は功利主義者の議論を読むと、「この人の議論はとても頭が良くって論理的で、反論できないんだけど、でも感情的に受け入れがたい」という感想を抱くことが多い。この著者もけっこう功利主義的で、すごく論理的なんだけど、「本当にこれでいいんだろうか」というモヤモヤを、読後の今、とても感じてしまうのだ。
というわけで、現状、僕の手には余る一冊ではあるが、この本が極めて刺激的な本であることは間違いないと思う。僕が社会科の教員なら、いつかこれをベースに歴史ディベートやロールプレイの授業を作ってみたくなるところ。ぜひ読んでみて下さい。お薦めです。