三浦俊彦(みうら・としひこ)
1959年長野県生まれ。東京大学名誉教授・和洋女子大学名誉教授。博士(文学)。1983年東京大学文学部美学芸術学科卒業、1989年東京大学大学院総合文化研究科博士課程満期退学。和洋女子大学教授、東京大学文学部教授を経て現在に至る。
著書に、『虚構世界の存在論』(勁草書房)、『可能世界の哲学――「存在」と「自己」を考える』(改訂版 二見文庫)、『多宇宙と輪廻転生――人間原理のパラドクス』(青土社)、『エンドレスエイトの驚愕――ハルヒ@人間原理を考える』(春秋社)など多数。
「なるほど。ひとことで言うなら、アートは「常識をブチ壊す工夫」です。え……? 「美しい」とか「感動する ~」じゃなく?はい。本来、「いまある概念を壊す工夫」ですよ。アートの役割は。だから、別に美しい必要はないワケです。エロでもグロでも、不快なものでもいい。驚きを与えて、人の価値観を揺さぶるものであれば、アートとしての価値は高い。マジっすか。西洋美術だとか観て「美しいな ~! この絵」なんて感心することではなく、「な、な、なんだ?ここに描かれているものは?」と驚きが深いほうが、よりアートだと。そうそう。ふえ ~~。いきなりビックリしました。話の続きが楽しみなんですが……。私、はじめて先生とお会いしたときに強い驚きがあったんですけど……、もしかして先生のその紫色の髪の毛もアート……???(ゴクリ)」
—『東大の先生! 超わかりやすくビジネスに効くアートを教えてください!』三浦俊彦著
AIの台頭やテクノロジーの進化で、世の中が大きく変わっているいま、「新しいことを仕掛けないと、存在価値がなくなるかも……」という危機感を抱く人に、アートの持つクリエイティブな側面が刺さっているのではないでしょうか。 ああ、たしかに。閉塞感があるいまなら、先生のおっしゃった「常識の破壊」も意味を持ちそうですね。 まぁ、長い目で見ると、アートの流行も周期的なものかなぁと思います。というのも、科学の世界にはトーマス・クーンが提唱した「パラダイム理論」というものがあってね……(満面の笑み)。 ちょ…先生、先生! これ、東大生向けの授業じゃないので、お手柔らかにお願いします……。 パラダイムというのは「固定化された枠組み」のこと。「その時代の常識」と言ったらいいかな。 ああ、「その時代に、当たり前とされていること」って意味ですね。 そうそう。どんな科学にもある「枠組み」があって、そのなかで「やり方」をバージョンアップしていく「改善期」と、枠組み自体を飛び出して新しいやり方を見つける「革命期」の2段階があって、それを交互に繰り返しているんですよ。それが「パラダイム理論」。で、枠組みが変わるタイミングを「パラダイムシフト」と言います。 あ、聞いたことあるかも! 天動説では天空が動いている考えが当たり前だったのに、地動説になってからは「地球のほうが回っている」が常識になったとか……? そう! まさにそれが「パラダイムシフト」。 いままでの「王道」が通じなくなってきたビジネス 科学ではなく、ビジネスの話で「パラダイムシフト」を考えてみましょう。経営学というジャンルのなかで「こうやれば利益が出て、会社を存続させられる」というやり方(パラダイム)がいろいろと確立されてきました。
ですよね(笑)。だからいまビジネスの世界って明らかに「革命期」に入っているワケです。AIやロボットがこれだけ進化してきているうえに、5Gで超高速通信が可能になる社会になるわけですから、生活も、ビジネスの前提も、ガラッと変わる。 私たちも「いままでの常識」を捨てないといけない……。 「価値観」「スタイル」「発想の仕方」「勝ちパターン」なんでもいいのですが、新しいパライダムにシフトしないといけなくなるでしょうね。 捨てるのはいいとしても、「新しい時代の常識」を創り出すのって超むずかしそう……(汗)。 そのとおり! だから、革命期はどうしても試行錯誤の連続。混沌とした時代になるのは避けられません。 もしかして、「イノベーション」も、同じ意味ですか? アップルのスティーブ・ジョブズが成し遂げた偉業は「イノベーション」なんて言われていますけど……。 はい、「機能不全を起こしている古い常識をぶっ壊して、新しい常識を確立しましょう」という意味なので、同じです。ただ、何が正解なのかわからないのでイノベーションを起こすのは簡単ではない。 「次の王道」がハッキリするまでは、私みたいな凡人は右往左往せざるを得ないんですね……ううう。 「パラダイムシフト」「イノベーション」はビジネスに限らず、政治でも教育でも必要になってきています。その打開策のヒントが「アート」にあると思うんです。
「大きな発想の転換」をするために、アートの果たす役割は、決して小さくないと思うんですよね。 それって、「アートそのもの」というより「自分の知らない世界を知っていこう」という姿勢が大事だということですか? アートじゃなくてもいい? もちろんアート単体の価値もあるんですけど、いまの時代の「ビジネスとアートの関係」という文脈では、マインドセットというか、気持ちの持ちようの面が大きい。 考え方を変えていかなきゃ! ってことですね。 そうなんです。でね、改善期の「アート」の場合、大衆向けに洗練された、わかりやすい小説や映画といった「娯楽芸術」が増えるんですよ。大衆向けのほうがリフレッシュにもなるし、仕事の成果に直結することが多いんです。
ここでひとつ重要な概念を言っておくと、アートは基本的に「違和感を内包するもの」なんです。それが本の販売戦略にうまくハマればいいんですが、下手をすると違和感だけが先に出てしまって売れないかもしれない。 はい。 でもね。アートの領域では、アーティストにとっても鑑賞者にとっても「作品自体が目的」なんです。だからいくらでも個性を爆発させていい。でも、デザインの領域では「目的が別にある」んですね。 目的が別? ……あ、本やお皿のような、「生活で使う実用的なもの」が目的ということですか? そう。デザインの世界では常に対象物があって、デザインはそれをより魅力的にするための機能のひとつ。言うなれば、デザイナーは「職人」なんです。 たとえば、すごい腕を持った職人が、細部に至るまで快適さを追求して、どんな地震がきても絶対に壊れない家をつくった。それはアート作品ではないですよね。
一方で、アーティストがつくった家は、実用を離れて「その家独自の価値観」に人を引き寄せることができます。そこでは「快適に住めるか」は重要ではなくて、「建築とは何か?」「家とは何か?」という問いを人々に強制するところはありますね。 は、はぁ……(めんどくさっ!!!)。 外から丸見えの家とか、「住むにはちょっと……」と思うようなコンセプト先行型の家ってあるじゃないですか。そういう建築は「アーティスト寄りの建築家」が手がけたもの、と言えるでしょうね。
ではアートというのは、基本的に自己主張が強いものと理解すればいいんですか? そうです。万人受けしようという前提ではなく、アーティスト独自の価値観に基づいてつくられますから。 好きな人は好きだし、嫌いな人は嫌い。反応が分かれますよね。 ……アーティスト気質は、生活に必要ないんですかねぇ。 そんなことないですよ。だって、「天才的な建築家」と「腕の確かな職人」がコラボをして、お互いのよさを発揮したら理想的な家ができそうな気がしません? ……あっ、そうか! ビジネスにおけるデザインは、ユーザーを喜ばせるという意味では必要不可欠だけど、新しいパラダイムを着想したり、企業独自の世界観を訴えかけたりするときは、アートの要素も必要だということですか??? そうそう、対立関係で考える必要はないんです。
そう、日常で使う「お皿の用途」に溶け込んじゃう。だから、もしそのお皿を本当にアートの対象にしたいなら、使わないで飾ればいい。壺や絵画を飾るのと一緒で、実用性から遠ざけるほどアートらしくなるんです。 おおぉ、それは考えたことがなかった! 「何してんのよ!」と、妻には怒られそうですが(笑)。 茶器などの陶芸(工芸)などはよい例ですが、「アート」と「デザイン」の境界線は平気で揺れ動くんですよねぇ。ただ、純粋に「目的ありきのデザイン」という話を深掘りしていくと、どうしてもテクニック論になってしまうんです。職人技の世界なので。
ここで問題です。クリエイティブな人とクリエイティブでない人の違いはなんでしょう? えっ……。オシャレ度? そこじゃない(笑)。違いは、「ある情報が脳に入ってきたときの脳の反応の仕方」と言われています。クリエイティブな人ほど脳神経が拡散的に反応し、クリエイティブでない人は毎回決まった狭い範囲が反応する。 反応の範囲が違う……具体的にはどんなことですか? 目の前に透明なコップがあったとしたら、どんなことを考えますか? あー、ビール注いで飲み干してぇ。 ……ですよね(笑)。 クリエイティブな人は「楽器として使ったらいい音がするかも」とか、「メダカの水槽になりそう」とか、「透明だとつまんないから装飾しちゃおう」とか、「ひっくり返したら台になるかな」とか、いろんなことを考えられるんです。 そんなことまで思いつくんですか……! 「発想の引き出し」がいっぱいある!!!
文学もそうか! 大衆文学と純文学がありますね。 まさに。大衆文学は友だちづきあいの感覚で読めますが、純文学や詩になると言葉遣いからして日常生活と違うし、意識的に自分を別の境地において読まないと理解ができない。 ただ最近は、直木賞(大衆文学)と芥川賞(純文学)の区別がつかない気もするなぁ。 おっしゃる通りで、「現実から遠いアートらしい作品」をつくるはずの純文学陣営がスタンスの見直しをしていて、どんどん現実世界に近い作品が増えています。 ただね、創作過程は違うんですよ。 創作過程が違う? 見たんですか……? あ…えっと、私も小説家なので(汗)。 大衆文学のつくり手はとにかく「読者にウケる」ことだけを考えます。「ファンに喜んでもらえるか?」「どうやったら映画化してもらえるか?」なんかを目標に据えて作品をつくる。 デザイナーの話と同じだ! 職人ですねぇ。 そう、一緒。ところが純文学のつくり手は、自分はアーティストであり、「みんなと違うものをつくろう」とか「新しいものをつくってみよう」という自覚がある。だけどあまり露骨にやるのも「純文学の常識にとらわれている」ことになるから、それもイヤだと(笑)。
最後の純粋芸術と合成芸術という分類ですが、アートの世界では「純粋芸術」と言われるもののほうが、より「アートらしい」と評価されます。 では、ここで問題です! クラシック音楽と歌謡曲があったらどちらがアートらしいでしょうか? ふふふふ、クラシックです。現実から遠いから! 正解! じゃあ、ピアノ曲とオペラなら? ぐっ、難しい……。オペラ……?(小声) 残念! 答えは、ピアノ曲です。なぜならピアノ曲は「純粋に音楽だけで勝負をしている」から。オペラは「歌」と「文学」が合成されていますよね。
その作品がカテゴライズされるメディアの特性をよく示している、かつできるだけ合成的ではないもののほうが、純粋芸術としてエラい! とされているんですねぇ。 より情報が足されていない「純粋なもの」ほど「アートらしい」って感じかぁ。 そうそう、絵画だったら抽象画のほうが「アートらしい」。なぜなら具体的にリンゴを描いてしまったら、「リンゴ」という情報を足してしまうから。 映画や演劇がアートとしていまいち尊敬されないのも、総合芸術だからです。彫刻にしても色を塗らずに木や大理石、ブロンズがむき出しのほうが「アートらしい」。質感だけで勝負するので。 言われてみるとハデな仏像って、神々しさが失われる気がします(笑)。 彫刻に色を塗ると「絵画」の要素が足されちゃう。まぁ、その分、親近感が湧くというメリットもあるワケですけど。 じゃあ、写真と動画だと写真のほうが、モノクロとカラーだと、モノクロのほうが「アートらしい」ということ? そう。これも「現実からの距離感」といった話につながるんですけど。ただこの「純度」って話はイデオロギーに近いもので、アーティストの間にある暗黙の階層と言ってもいい。
いま古典と言われる作品も昔は当然「現代アート」だったワケで、その時代においては新しさがあったはずです。 同じように、いままでアートにあまり接したことがない人が、昔のアートに触れて「斬新!」と思えるなら、刺激になります。いずれにしても、少なくとも名画を生で見る体験は得難いものがあると思うので、ぜひ美術館に足を運んでみてくださいね。
アルタミラ洞窟の絵が描かれたのは「モテ」のため!? あ、じゃあもしかして人間も……。 はい。ご想像の通り、モテるためにアートが生まれたというのが定説です。 やっぱり……!(笑) 人類最古の絵画というと、約2万年前の旧石器時代に描かれたというスペインのアルタミラ洞窟の壁画が有名です。牛や馬などの絵が描かれています。 当時の男性たちは昼間、草原に出て狩りをして、女性たちは子どもを連れて森などに行き、木の実や小動物を捕まえていたと考えられているんです。これってつまり、狩りをしなくても最低限の食料は確保できるということなんです。 えええっ? なんでわざわざケガや死のリスクを冒してまで、狩りをしたんですかね……(汗)。 英雄になるためですよ。そういう意味ではスポーツとも言えるし、ギャンブルとも言える。確実に捕まえられる獲物を捕ったところで英雄になれないので、ほとんどは手ぶらで帰ってくる。 だから大型の獲物が捕れればその男性は「英雄」になれますが、仮に獲物が取れなかったとしても、「こんな危険な目に遭ってさぁ~」とか、「こんなふうに動物の群れを追い込んだんだよね~」とか、狩りの様子を上手な絵で再現して女性たちに語ることができる男がいたら、それはそれで人気者になれる。
男性が演じ、女性がそれを厳しく鑑賞するという構図は、どの時代、どの文化圏に行ってもほぼ同じ。たとえば言語能力なんて基本的に女性のほうが高いんですよ。それにもかかわらず、名だたる小説家を並べたら男性だらけ。 男はアピールしたくてしようがない(笑)。 その構図は、現代アートでも変わらない? だんだん変わっていくと思うんですけど、相変わらずですよね。ただ、付け加えたほうがいいと思うのが、「ユーザー目線でものをつくる」ことについてです。 ユーザー目線……。進化論に従えば、女性のほうが有利なんじゃないか……? という気がしてきました。
人の遺伝子は5000年ぽっちでは変わらない ただ人文科学や社会科学の世界では、なるべくこの「進化論は使わない」というのが暗黙の掟になっているんですよ。 え……? すんなりわかる気がしましたけど。 理想論を語りたがるから、「人間も結局は動物だよね~」と言ってしまうといろいろ不都合なんです。 「人間は理性的で、動物的本性は小さいから、社会を改革すれば人間もどんどん変わっていけるよね!」と考えたほうが、社会改革の動機になりやすい。 ……ううむ、ちょっとイデオロギーのにおいが……。 大学の講義で、進化美学のところに差しかかると、学生から必ず「男女差別だ」という苦情がきてしまう。 文科系ってそのあたりちょっと面倒なところがあるんです。特に社会学者は、進化論に対して、強い拒絶反応がある気がするなぁ。 はあ……。 でも、アートの世界はそこまで政治色が強くないので、「配偶者獲得説」でもなんでも面白ければ受け入れてもらえます。まあ、科学的に見ても、「人間が動物的本能に従って動いている部分」を認めないと、あらゆることが説明つきませんからね。 そもそも500万年の人類史のうち、都市文明なんてたかが5000年。人間の遺伝子が変わるには全然足りません。本能の部分はそうそう変わらないですよ。環境の変化はめまぐるしいスピードで起きていますけど、そこにまだ人間は適応しきっていないんです。 たとえば、たまに公園とかでおじいちゃんが1人で風景画を描いていたりすると、いい趣味だなぁ、なんてのんきに見ていたんですけど……実は、「めっちゃモテたい!」と思っている?(笑) 意識的には感じていないかもしれないけれど、無意識で遺伝子の作用に従っていることはありえますよ。大昔なら有利に働いていたけど、それが役に立たなくなったいまの時代でも受け継いでしまうことを「前適応」と言います。 へえ。 話をまとめると、現代においてアートは実用性を失っていますけど、元をたどれば、アートは「子孫繁栄」という「これ以上ないくらい実用的」なところから始まったということですね。
そうです。でも、16〜17世紀にコペルニクス(1473〜1543年)やガリレオ(1564〜1642年)が出てきて、科学の影響力と比例して宗教の力が弱まると、「アートって神様と無関係でもよくね?」という人が増えてきた。その結果、自画像のような形で時代の権力者がアートを利用したり、もしくは何げない風景を描いたりするアーティストが出てくるんです。アートの幅が広がった、という意味で大きな転換期になっています。
そう。彼は天才的に絵がうまいんです。内容は写実的ではないし、ワケのわからない絵を描いているけれど、抜群にうまい。 だけど、うまい絵を描くだけで「表面的に人の目を引きつけるだけのつまらない絵」という解釈が成り立ってしまうのが現代なんです。 じゃあ、上手に絵を描ける人でも「あえて崩して描く」のがトレンドなんですか? いわゆる「ヘタうま」みたいな……? そう。ベースの技量は必要だけど、「技量をアピール材料にしたら負け」みたいなところがあるんです。 むしろいまは理屈の時代ですから批評家の言説をどれだけ集めるかの勝負。となると、「写実的でわかりやすい絵画とはなるべく離れたもの」をつくるアーティストのほうが批評家の言説を集めやすい。 パッと見ただけでは心地よくない。パッと見て女の子にキャーキャー騒がれるようなものでもない。だからアートがどんどん抽象的、哲学的になっていっているワケですね。 抽象化に舵を切ったきっかけはなんですか? 科学技術の進歩です。テクノロジーがいままでアートが果たしてきた機能を代替するようになったからですよ。特に大きな変化がカメラの出現ですね。カメラは19世紀に出てきましたけど、先ほどの私なりのアートの区分で言うと、「表現主義」の時代なんですね。実物を忠実に再現することに関しては絵画が写真にかなわないので、感情面にフォーカスしようと。写真を撮ればいいし、肖像画家なんてお呼びじゃないと。
じゃあ、現代人が昔の人の肖像画を美術館で見る価値はあまりないんですか? 絵画には絵画ならではの迫力がありますし、「こんな人がいたんだぁ」「本当はハゲてたんじゃないの?」と想像するだけで異空間を体験できるので、まったく価値がなくなるワケではありません。
だから最近「多様性」という言葉がよく使われますけど、文化交流というものは、実は難しい問題で。 自分たちの文化を多様化しようとすると、ほかの文化との差がなくなっていく。 つまり、多様性を目指すほど、世界全体で見れば多様ではなくなっていく……なんて矛盾が生まれる。 アートというのは本来「自由」な世界であるはずなのに、「自由」が逆に制約をもたらしてしまう場面はどうしてもありますよ。まあ、ある程度均一化していくのは避けられないでしょうね。
ほぼ無音の名作「4分33秒」 先生が「コレ、すごいな~」と思った作品ってありますか? 1952年にジョン・ケージ(※)が作曲した「4分33秒」ですかね。コンサート会場にピアノが置いてあって、そこにピアニストが出てきて、ピアノのふたを閉める。 これから演奏するのに、ふたを閉める……??? そう。何もしないで座り続けて、またピアノのふたを開けて去っていく……という作品なので。 (絶句)……それ、演奏なんですか??? ちゃんと楽譜があるんです。第1楽章、第2楽章、第3楽章とあって、それぞれに「休止」を意味するタチェット記号が書かれていますので。 想像以上にすげえな……(笑)。 本当はどんな楽器で演奏してもいいんですけど、たまたま初演で「演奏」を担当したのがピアニストで、彼が4分33秒で演奏を終えたので、「4分33秒」という名前がついた。4分33秒は273秒なので絶対零度(マイナス273度。それ以上は温度が下がらない)にかけたという説もあれば、当時のレコードの標準的な時間が4分30秒だったからという説もあります。
たしかに。でも自分の世界観を広げたいならアート以外にもいろんな人と話すとか、海外を放浪するとか手段はいろいろありますよね。そのなかでなぜアートがいいんですか? 簡単です。アートはリスクがないから。 リスク? はい。アートは現実社会から切り離されたフィクションの世界ですけど、食べ物とか人間関係とか旅行といったことは現実そのものですよね。お腹を壊すかもしれないし、人間関係がこじれて喧嘩になるかもしれないし、旅先で強盗にあうかもしれない。アートはそういうリスクが一切ありませんから。 なるほど。 だからアートの世界ではよく「無関心性」という言葉がキーワードになります。無関心というと悪い言葉に響きますけど、「実利的な関心から自由」という意味です。
実利的な関心……「フィクションだから、なんでもありだよね!」って意味ですか? そうです。たとえば、現実社会で犯罪をするワケにはいきませんよね。ところが犯罪者を主人公とした小説を読んだら、犯罪の追体験はできる。捕まるリスクもありません。 倫理的にマズい、差別、不愉快といった現実世界の価値観から離れて、新しい経験ができるんです。 たしかに。フィクションならではの体験ですよね。 新しい芸術に触れる意味は、俗っぽく言えば「手軽に新しい経験ができる」ということ。命に関わるようなことはありませんし。だからせっかくアートに興味を持ってもらえたら、1つのジャンルにこだわらず、先入観も捨てて、いろんなアートに触れていくことをおすすめしたいなぁ。
芸術は基本的に許容性が高いんです。少しくらい迷惑になっても「芸術だから」と言えば許容されるはずで。こういう「無駄なものを楽しもう」という姿勢がアート鑑賞の根幹にあると思います。
たしかに。アート好きの人に「視野が狭い」というイメージはないなぁ。 でしょう? アートが好きな人は基本的にオープンマインド。それは「心に余裕がある」ということですよ。 でも、どんな人でもアートを楽しむ本能はある。 だから現実世界では視野を狭めざるを得ないときに、アートに意識的に触れるというのは重要なことだと思いますね。
ん~~。まず、身近なところで文学でしょうね。それも特定のジャンルに限定しないで、いろんな国、いろんな時代設定、いろんなテーマの文学を読む。年配の男性はやたらと司馬遼太郎が好きだったりするけど、たまには異国の恋愛小説を読むとかね。 自分を高める効用をアートに求めるのであれば、1つの結論としては「いろんなジャンルの小説を読んでまずは視野を広げましょう」と言ってしまってもいいかもしれない。
男も女も「何かをつくりたい!」 ところで、人間って、基本的に何かを創作したいものなんですか? ベースにあるのは「自己表現欲求」です。 男性の場合はそれが「権力欲」であったり、女性の場合はコミュニティのなかで「いい評判を得る」という「承認欲求」であったりするワケですが、「何かをつくりたい!」「表現したい!」気持ちは男女変わりません。 男女差がないんですね。 いずれにせよ昔は作品1つ世の中に出すにもお金がかかった。でも、いまはコストをかけなくても、誰でも自己表現ができる時代ですからね。 たしかに。文章もブログや電子書籍があるし、画家だってきっとInstagramを使っているだろうし。 そうなんですよ。カルチャーセンターで講師をしたときなど痛感しますが……高齢男性の表現欲求、なかなかすごいものがありますよ。講座の内容とはまったく関係のない質問をして、自分の知識を語り出したり……(苦笑)。 そういう人はYouTubeの使い方を学んだほうがいいかもしれませんねぇ(笑)。 冗談じゃなくそう思ったりしますよね。人生の大先輩の知見に触れたい若い人もいるでしょうから。そういう方にはやっぱりエッセイや自伝みたいな創作を勧めたいんですけどね。文章は、誰でもある程度は書けるので。
たしかに! Instagramとか、若い人に大人気のTikTokなんてまさに自分を表現した「アート」ですもんね。素顔も誰だかわからないくらい、フィルターをバンバンかけて、演出にこだわって。そういう意味では、デジタルネイティブの若い人のほうが創作意欲が高いかもしれないなぁ。 テクノロジーを使えば誰でもアーティストになれる最高の時代なんですよ。Twitterだってアートですからね。 Twitterがアートかぁ。そう思ってやっている人は少ないだろうな(笑)。 投稿者としては完全にアーティストの気分で、しかも自分の正体がわかってもらえなくてもいい。ネットの世界で「ネット上の私」が流通していれば満足できる。自分のアバター(分身)をつくって、一生関わることのない人達の賞賛を浴び、もてはやされることがうれしいわけでしょう。これはすごく新しい現象ですよね。
いまSNSで表現している人たちも、実質的には「自分が書いたつぶやきが人の目にどう映るのか?」「どういう反応をもらえるか?」という気持ちでしょうから、本人が意識していないだけで、アーティストが創作活動をするときと同じ気持ちでやっていますよね。 やはりインターネットの影響は大きいですか? 大きいですよ。21世紀からはインターネットの発達によって人間の活動全般のなかからアートが創発していくようになりましたよね。トップダウンでつくってきたのがいままでのアートだけど、21世紀の芸術はそうではない気がするんです。 ……というと? たとえばYouTubeを見ていても、何気なくスマホで撮ったようなものがパッと拡散するようなことがよく起きますよね。本人は工夫していないかもしれないけど、数ある投稿のなかに偶然にできたアート的にすばらしいものがあったりする。それは映画でもないし、アートと認定するかという問題もあるけれども、少なくとも「従来型のアート」によく似たものがそこでできるということですね。