NHK「欲望の資本主義」制作班のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
貨幣とは何か? の問いに発し、それが欲望というエンジンを得て永久機関的に増殖サイクルを続けていくその本質に迫った平易なおカネの解説書。
端的に言えば、「貨幣とは貨幣であるから貨幣である」が著者の答えである。こんな循環論法でしか支えられていない存在に、現代人は例外なくからめとられている。
貨幣に関しては、古くから以下の典型的な2説間でせめぎあっていた。一つ目は貨幣商品説。貨幣それ自体に「モノ」としての価値があるから人々はそれを欲しがり、受け取ってくれるゆえ貨幣となる、という説がそれだ。貨幣が貴重な金銀で鋳造されていた時代ならさておき、ただの卑金属片や紙切れに過ぎない物体そのものをありがたがる人は現代ならまずいない。だとすれば、「モノ」としての価値がおカネの本質とは言えない。
もう一つは貨幣法制説(貨幣法定説)。国家権力や王の権威、あるいは共同体の取り決めなどによっておカネがおカネとしての価値を持つと定めたのだとする説だ。現代ではこれが通説とされている。
しかし、貨幣は必ずしも王の権威や法定の力だけを源泉とするものではない。本書ではマリア・テレジア銀貨が帝国滅亡後も一部地域で1970年代まで使われていた事例を挙げている。また、囚人間ではタバコが貨幣のように扱われてきた事例にみられる通り、貨幣となる契機が法定に限られないことはよく知られている。だとすれば何か。人は自分の次の相手が受け取ってくれるという信頼を持っているからこそ、そのおカネをおカネとして受け取る。つまり社会が貨幣としての価値を与えるのだ。それが貨幣であるから受け取り、貨幣として使われていく。貨幣だから貨幣である。循環論法に帰結するゆえんである。
とすれば、究極のところ、貨幣となるものは何でもよく、物質である必要すらなくなるのだ。その行きつく先が各種電子マネーであり仮想通貨であり、ビット・コインである。もっとも著者は、ビット・コインが貨幣になることは今後まずありえないと明言する。それは、貨幣の基本定理に反するからだ。その定理とは「おカネのおカネとしての価値>おカネのモノとしての価値」という図式にあらわされる。ビット・コインは今や投機商品の最たるものだ。商品に成り下がったものを貨幣として使用するバカはいない。持っていれば値上がり確実な商品を手放そうとする人がいないという道理だ。「モノとしての価値」が高まった時点で、それは貨幣になる資格を半永久的に失う。
ビット・コインの背景には、一つの夢があったと想定される。それは、中央銀行も政府も排し、自由競争原理の下、市場参加者だけで貨幣の発行もニセ金チェックも行えるはずという壮大な夢だ。ハイエクも『貨幣発行自由化論』にて、発行権を広く民間にも開放し、貨幣間の自由競争によって最も効率的かつ安定した資本主義社会が実現すると説いた。しかし著者はそれを百害あって一利なしと一刀両断する。
資本主義には2つの対立する見方がある。アダム・スミスの新古典派経済学の見方と、ケインズの不均衡動学派だ。前者は「神の見えざる手」に全幅の信頼を寄せ、規制や監督、慣習といった「不純物」を取り除いて資本主義を純粋にしていけばいくほど、効率性も安定性も実現される「理想状態」に近づくと主張する。対してケインズは、資本主義に理想状態なぞあるはずもなく、効率性と安定性は背反する関係にあると説く。規制を取り払って効率化を目指せば目指すほど大恐慌の恐れが爆上がりし、不安定極まりないことになる。だからといって安定性にばかり傾きすぎれば、効率性が阻害され、円滑な経済発展が望めなくなる。それゆえ政府や中央銀行の適切な介入が必要だと説くわけだ。
新古典派の代表格フリードマンは、投機は市場を安定化させる、と主張する。得をするプロの投機家ばかりが市場に残り、損をする投機家は徐々に退場していくから安定化していく、というわけだ。しかしケインズは「美人コンテスト」の理論によって、それに反駁する。得票数最多の美人に投票した人に多額の賞金を与えるというコンテストがあったとする。人々は、自分が思う美人ではなく、皆が美人だと選ぶと予想すると皆が予想するから皆が美人として選んでしまう人に投票する。つまり勝ち馬に乗るのが必勝法というわけだ。そこに主観的な根拠も客観的な基準もない。日々変わりゆく要因に左右され、不安定極まりないことこの上ない。投機こそが市場の不安定化の元凶というわけだ。フリードマンv.sケインズの投機理論に関しては、後者に軍配が上がるのは明白だろう。金融派生商品が大半を占める現代の市場はプロの投機家の独壇場だ。彼らが合理的に行動すればするほど「美人コンテスト」の様相を帯び、実体経済と乖離したあやふやな要因によって市場価格が乱高下する「不安定」極まりないものになるからだ。
だがそれはあくまでプロ同士の世界線の話であって、一般人たる我々には関係ない、と思われるかもしれない。しかし著者は、我々も投機と無関係ではないという。なぜならおカネは純粋な投機であるからだ。投機とは、「自分がモノとして使うためではなく、将来ほかの人に売るために何かを買うこと」。この定理に当てはめれば、会社に勤務して月給をもらうということは、自己の労働と引き換えに「おカネを買っている」。そのおカネ自体をモノとして使うためでなく、それで自分の欲しいものと交換するためだ。言い換えればほかの人に「おカネを売って」自分の欲求を満たすのである。おカネを使うことは、それ自体何の使い道もないおカネをおカネとして流通させる点において、最も純粋な投機と言えよう。
資本主義社会はこのおカネに全面的に依拠した社会だ。そのおカネを使うことが投機だとすると、資本主義社会は本質的に不安定性を抱え込んだ社会ということになる。なぜなら投機は必ずバブルを生み出し、膨れ上がりすぎたバブルは必ずパニックに陥るからだ。おカネのバブルとは、おカネの価値がどんどん上がり物価が下がり続けること、すなわちデフレーションであり、その行き着く先は不況、企業倒産、大量失業を招く恐慌にいたる。対しておカネのパニックとは、おカネの価値がどんどん下がり物価高騰し続けること、すなわちインフレーションであり、人々は持っているだけで損するおカネをできるだけ早く手放そうと加速していく。するとハイパーインフレーションが巻き起こり、最終的には誰もおカネをおカネとして受け取らなくなってしまう。さながら物々交換の悪夢到来だ。
それゆえ経済の安定化という公共の目的を担う存在が求められる。中央銀行や政府の役割がそれだ。自由放任主義は全く自由のためにならない。
古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、本質を突いた貨幣論を展開した貨幣の思想家だ。「貨幣が交換の出発点であり、終極目的でもある」と説き、近代以降の資本主義にも通ずる経済活動を論じている。彼は他者とより善く生きる「最高の共同体」としてポリスを挙げたが、そのポリスの維持のために不可欠なのが貨幣であるという。貨幣は善く生きる目的のための手段に他ならなかったが、貨幣交換が高じたところでそれが逆転し目的化してしまっていると警鐘を鳴らす。貨幣を得る動機は目的充足だけではない。人はそこに、何でも好きな時に好きなものを得られるという「可能性」それ自体を欲望する契機を見出す。そして欲望は無限だ。だから、出発点の貨幣量よりも終極点の貨幣量を大きくしたい。「貨幣の無限の増殖」が始まってしまう。まさに資本主義だ。
近代では「無限」をどちらかと言えばポジティブに捉える。だが古代ギリシャにとって無限とは永遠に充足・完成を見ない「悪」だと考える。だから貨幣そしてその帰結たる経済活動=資本主義は悪となる。すなわち、ポリスと資本主義は全面対立しているはず。なのに両システム間に必然的に存在する逆説的な相互依存関係を彼は見出した。貨幣はポリス維持に不可欠だが、それが無限増殖を求める資本主義を必然的に生み出し、ポリスそれ自体を崩壊させる可能性を生み出してしまうという逆説。彼はこの根源的な逆説を直視した稀代の思想家と言えよう。
貨幣は人々の紐帯を切り離し、「孤独」化させる。貨幣があれば、共同体的な絆を必要としない「個人」でいられるからだ。ポリスの貨幣化が個人の独立を促し、民主制を促した。資本主義と民主性は密接関連下にあると言えよう。そして現代、グローバル資本主義の下、それまで資本主義に対抗してきた共同体的な慣習や規範、社会的紐帯、国家や中央銀行による規制や介入が弱体化されつつある。まさに自由放任主義的な資本主義が地球規模で覆い尽くされつつあるのだ。その結果、金融危機、巨大格差拡大、地球温暖化など資本主義が内包する不安定性や不平等性が顕在化している。資本主義を存立させる貨幣それ自体が資本主義を崩壊させる可能性を作り出してしまうというあの逆説に、またもや人類は直面しているのである。
ここにおいて、アリストテレスの言うところの「他者との関係における善」を再考する必要がある。カントの道徳律「他のすべての人間が同時に採用することを自分も願う行動原理によってのみ、行動せよ」を吟味することは有益であると思われる。
おカネが個人の独立を可能にし、自由を与えた一方で、旧来の社会的紐帯を代償として人々に支払わせた。それは、自分さえよければ、という安易な欲望に絡めとられてしまう罠を意味する。結果として、バラバラにされた個人は人間疎外の虚しさに病んでゆき、それゆえますます欲望に従って生きていかざるを得なくなる。それは社会の解体、社会の内部崩壊だ。現代社会は地球規模でその災厄の終局場面を見せられている感がある。社会の解体をとどめ、人々の間に社会的紐帯を取り戻させるカギとしてアリストテレスの「他者との関係における善」を挙げた本書は、振り切った振り子が原点回帰を目指すように共同社会化への模索が重要な手掛かりになるのだなと再考させられた。貨幣をわかりやすく説くだけにとどまらず、個人化された現代人が立ち戻る地点を改めて考えさせる点で本書は秀逸である。 -
Posted by ブクログ
現代の社会、特に資本主義について、知の巨人との対話の話。
対話が抽象的だったりしてわからない部分もあったが、全体的にそこはかとなく面白かった。
資本主義が、高度に複雑化し、いろんな歪みも生じている現代だが、この資本主義の進化能力で全てを飲み込んでいっている様子が書かれている。
特に
- 「ショウ」と化した資本主義
- 常に創造性を求められる息苦しさ
- 社会主義という敵がいなくなった今、内部にアウトサイダーを見つけ出している
- 全てを合理化、数値化する資本主義
- ダークサイドのパワー
という話が面白かった。
新たなパラダイムは生まれてくるのだろうか。 -
Posted by ブクログ
『貨幣論』、『二十一世紀の資本主義論』と続けて読んで、今回、著者の最新の本書を読んだ。上記2冊はいずれも今から30年近く前に刊行されたが、これらで展開された「貨幣」の本質は、たとえその姿形を変えたとしても、その実態は変わらないとわかる。その一方で、これらの本には存在しなかったビットコイン等の仮想通貨や昨今話題であるMMT(現代貨幣理論)に対する見解を述べており、これまでの著書ではカバーされていなかった部分を本書で補足されている。
本書全体を読んで、アリストテレスとカントの2人の哲学者の偉大さがよくわかる。著者曰く、アリストテレスは資本主義以前の世界で、貨幣の本質を見抜いたり、共同体のあり方の鋭い見方をしてるという。一方、カントは近年台頭したグローバル経済を克服するための対抗策として、その思想は今でも有効だと見なす。
グローバル化によって、アダム・スミスを祖とする新古典派の影響力が強まったが、これらの学派は非効率、不合理な要素を排除し、効率性、合理性を徹底的に追求する。その結果、市場が不安定化する状態となり、資本主義社会がますます不安定となる。今後、資本主義社会がそう簡単に終わる気配がしないが、その中でも、人間が人間として生きていくには、他者のために生きていかなければならない、と著者は2人の哲学者の思想からそのように結論付ける。 -
Posted by ブクログ
経済学や貨幣について独学していくなかで、「これからの正義の話をしよう」「ビットコインスタンダード」を読んだ後にこの本を読んだ。
貨幣や経済を学ぶに連れ、学問は隔たりなく体系的に学ぶことの重要性と楽しさを覚えている。
また著者の思考をまずは読み取り、その上で対岸の思想を学ぶことも自分の思考を枠の中に留めないためにも柔軟体操として必要である。
前置きが長くなったが、アリストテレスのいうポリスを維持するための貨幣の必要性と、貨幣によるポリスの崩壊リスクというパラドックスについて共感したと同時に、そこに「欲望の貨幣論」の本質があることを理解した。
経済や貨幣を勉強する中で、自分自身これからの未来を生き抜くための手段を見つけたいという「未来の可能性に対する根拠」を欲求していたと感じたが、これは際限のない無限ループだと気づいた。
世の中に完全なものはなく、存在しているものが形を変え、時間軸とともに流転していくだけなのである。
なので我々は歴史から学び、その時にその瞬間に自分のエネルギーを注げる何かを考え続けることでしかないと私は思う。 -
Posted by ブクログ
本当の問題はマイナス金利ではなく、中小企業が資金を調達できないことにある。
日本経済低迷の要因は、人口減少
高齢化が進む日本は、医療機器の分野で世界をリードできるかもしれない
豊作の年は、収穫したものを全て消費するのではなく、貯めておくことです
民主資本主義の本質的な意義は、「自由」にある
日本の資本主義は終着点に到達している。もう全て手に入れた。誰も欲しがらないものを作っても意味がないから、そんなに働かなくてもいい。一度きりの人生なのに、誰も欲しがらない物を作るラットレースを走り続けるのは馬鹿げたことです
経済ではなく、他の分野で成長すれば良いのです。芸術、友情、精神面など
本来、仕事は人生に意味を与えるものです
欲望は充たされない、欲望が望むのは増殖である。
消費者もハッピーになり、企業も稼ぐことができる。それがテクノロジーの利点です。
投資銀行は助言、銀行は貸付、ベンチャーキャピタルは投資です
シリコンバレーにいる人達は、
イノベーションをスローダウンさせそうな政府の規制に対しては、力を結集させます
もっと面白いのは、シリコンバレーにいる人達は、できることはすぐやるという精神に溢れていることです
自分のためだけに仕事をしている人なんてほとんどいないと思います。それに気づくのが大事だと思います。
変化のスピードを緩めることはできませんし、緩めるべきでもない。認めて受け入れて、その上で行動しなければなりません
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Posted by ブクログ
「資本主義」を考える月間2冊目。NHKスペシャル「欲望の資本主義」のインタビューを書籍化したもので、世界の知性と呼ばれる人たちの主張がじっくり読める。第1巻では、ノーベル経済学賞受賞のスティグリッツ、チェコのエコノミストであるセドラチェク、Uberを見出した投資家であるスタンフォードの3氏。スティグリッツは「総貯蓄が市場最高になってるのに、長期的投資が行われない。必要なのは温暖化対策など、結果に時間がかかる長期的な投資であり、それがあたらしい需要を産む」と説く。セドラチェクは「需要をお増やすのではなく、供給をコントロールすべき。成長に取り憑かれるのは誤りだ。金利3%で借金をして1%しか成長しない政策はおかしいと気づくべき」。スタンフォードは「投資家として、テクノロジーは社会を底上げすると信じている」と無邪気に語る。このシリーズ、大事なこと(切り口や方向性は多様)をとてもよくまとめてくれていてとても勉強になる。
ハッとさせられた一文。天動説の時代に、ロジカルに説明できないことがあっても、それは例外だとして無理矢理誤差の範囲に収め、改善と称してつぎはぎで対応してきた。古びた理論を手放せないあまり、世代交代・新時代に移行できなくなる罠。 -
Posted by ブクログ
「貨幣は、本来人間を匿名にするんです。これが貨幣のもっとも重要なところなんですね。匿名ということは、人間が、ほかの人に評価されない領域を自分でちゃんともっているということ。これが重要なんですよ。」
例えば、住まいを間借りしているとする。するとその家のルールに従わないとダメだし、突然出て行けと言われても抗うことができない。
でも、家賃を払っていれば借家の中は自分の私的空間になる。借家よりも持ち家の方がより私的空間になる。つながりの希求は貨幣化の次のステップであり、村などの地域共同体への後退ではない。
ジェイン・ジェイコブスは市場での商習慣の中で「契約」という概念が生まれ、それが法に組み入れられたと述べていた。このような商習慣の先行は、本書に書かれていた、カネの下の平等が法の下の平等を生み出したのと共通している。個人(法人)という人格単位による社会の形成は商習慣やカネによって作りだされたものである。
人権は法によってではなく経済によって維持されている事実を左翼はどう受け止めるんだろうか。
自由を獲得するための手段としてのカネだったはずなのに、いつからかカネ自体が目的化してしまったことは、人間は自由に耐えられないし求めてもいないということでもある。自由は最終目的にはならない。自由があったところで目的や役割がないと幸福を感じられないというのは、福田恒存の言う「劇的な人間」そのもので滑稽である。 -
Posted by ブクログ
1)「貨幣とは何か」という問いに対する考察。金銀など「貨幣は価値が高いものだから貨幣である」とする「貨幣商品説」は、かならず[カネの価値]>[カネのモノとしての価値]となるところから棄却される。究極のところ「貨幣は他の人が貨幣として受け取ってくれるから貨幣である」ということになる。
2)ビットコインは投機商品となって[貨幣としての価値]よりも[投機対象の商品としての価値]のほうが上回ってしまったので、貨幣に対する基本定理に沿わなくなってしまった。カネの価値がモノの価値より低くなってしまっては誰も手放さない、交換しない、つまり流通しないから、カネとしては機能しない。
3)しかしさらに突き詰めて言えば、カネが価値を失わないことを信じて使いつづけるということがすなわち「投機」に他ならない。投機はバブルと恐慌を生む。そのコントロールのために中央銀行がいる。貨幣は「自由」を与えてくれるが、貨幣を基礎とする資本主義社会は本質的に不安定だ。自由を守るためには、自由放任主義思想とは決別しなくてはならない。
4)貨幣は人々を共同体的なきずなから解き放ち、「個人」を「市民」にし、人々に自由を与えた。しかしグローバル資本主義=自由放任主義的な資本主義が、不安定・不平等を顕在化させつつある。この逆説に立ち向かうには、アリストテレスが言う「他者との関係における善」にもう一度立ち返って考えてみる必要がある。それにはカントの道徳律が手がかりになる。
1)2)のところは、考え方の整理としても気持ちいい。3)のところもこの人の経済観がよく表れていると思う。4)はかなり駆け足。こういう展開もあるぞというか、もっと根っこのところの考え方なのかもしれない。