九鬼周造のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
「偶然」の様々な様態を、本書ではひたすら分類する。偶然は必然と対であろうと、必然の分類に基づいて、その反照として偶然を区分してゆく。
九鬼周造は西洋哲学においてこれまであまり注目されてこなかった「偶然」をしっかりと知的に定位したかったのだろう。この作業によって哲学史の隙間は埋まり、西洋的知が看過してきた部分が浮かび上がってくる。そう自負していたに違いない。
もっとも、本書の大半は偶然の分類に明け暮れており、偶然なる物への凝視がもつ知的意味については、最後の方でわずかに取り上げられる。特に芸術・文学において偶然性がいかに重要なファクターであるかを指摘している箇所はなかなか面白い。このような考 -
Posted by ブクログ
「いき」とは「媚態」を根本として、それに「意気地」と「諦め」が加わった様子のことをいう。
日本独特の美意識を、哲学の言葉で明快に書き表している。
とはいえ、どんな言葉を使っても、こういう美意識をニュアンスまで完全に言い表すことはできない。このことを筆者自らはっきりと言っているところに、九鬼周造の哲学者としての覚悟のようなものが感じられる。
残念ながら現代人の私には、現実で「いき」な人やものに出会う機会がないが、これを読むとなんとなく分かる気がするのは日本人だからなのか。
ただ、本当に「いき」を理解するには、やはり自分には人生経験が全然足りていない。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ「いき」とは江戸時代の江戸を中心に始まった日本特有の美学である。江戸時代は身分差を持つ恋愛が頻繁にあったと考えられる。そのため身分差を超えないための一種の禁欲的行為として「いき」が機能し、浸透したのだと考えられる。
江戸時代では身分差があった場合に恋愛関係にはなることは不可能であった。そこで、「いき」が機能してくるのである。媚態の状態では、異性との距離を出来得る限り接近せしめつつその極限に達しないことが大切ある。そして、媚態は異性の征服を仮想目的とし、目的の実現とともに消滅の運命にある。目的の実現から生まれるのは倦怠・絶望・嫌悪と言った感情である。
しかし、だからと言って媚態の状態を持続させる -
Posted by ブクログ
表題作は、東京生まれの哲学者で、西田幾多郎と同時期に京都帝国大学で講壇に立っていた(が、西田や田辺元を中心とした所謂「京都学派」にあっては飽くまで傍流であったとされる)九鬼周造(1888-1941)が、我々の文化に於いて「いき」と称されている独特な美意識の在りようを、西洋哲学の手法を援用しながら概念的かつ具体的に闡明した彼の代表的著作、1930年。その他「風流に関する一考察」「情緒の系図」所収。九鬼は東京帝国大学哲学科卒業後に独仏へ留学、ベルクソンの「生の哲学」に影響を受け、またハイデガーに師事し現象学を学んでいる。
「「いき」の構造」の序に曰く、「生きた哲学は現実を理解し得るものでなくて -
Posted by ブクログ
はっきり言えば、この本で「いき(粋、意気)」というものを理解するのは「現代では」難しい、の一言ですし、この本の解説を「いき」に感じるのであれば、「現代では」感性がズレていることになるでしょう。
でも、それこそが九鬼周造が「いき」を通じて見つけた真髄だという一点において読んで面白く感じました。
つまり、「いき」とは何かを解説することはできる、だが、その構造の1つ1つからは「いき」に到達せず、帰納的な説明しかできず、事実を積み上げての演繹的な解法にならないことを明らかにしています。そして、それは確かにその通りだと思いました。
そして、それが哲学が持つ普遍性の追求にはなり得ないことにも言及している点 -
Posted by ブクログ
いきという言葉の意味は、結局時代や見る人の立場によって、様々だということだと思います。
あと、「媚態」「意気地」「諦め」の3要素だけで語るのは、無理があるように感じました。
1.この本を一言で表すと?
・「いき」という日本独特の文化を分析した本
2.よかった点を3〜5つ
・いきな衣装
→湯上りの浴衣姿は媚態、つかず離れず、をよく表していると思う
・九鬼周造の生涯と思想
→「いき」を哲学的に追及する背景をぼんやりだがわかった気がする
2.参考にならなかった所(つっこみ所)
・邦楽における「いき」
→音楽のことは、文章で説明されてもイメージができない。
・「いき」な言葉づかい
→こ -
Posted by ブクログ
先日読んだ論文集『人間と実存』が面白かったので早速これを買ってみた。
九鬼周造の「時間論」をテーマとした4編が収められている。最初のものはごくごく初期のもので、あまりおもしろくはなかった(「時間の観念と東洋における時間の反復」)。これは言語が仏語で、フランス留学中にパリで行った講演。
しかし時間論に関する基本線はこの最初期の頃からあまり変わっていない。横に一直線に、不可逆的に流れる西洋的時間に対して、東洋の輪廻説に見られるような時間軸の垂直方向への思考。ここに九鬼は東洋的「永遠」の契機を見る。
それはその後「永遠回帰」と呼称することになるが、九鬼周造のこの概念は「同一性」の永遠をうたうものであ