九鬼周造のレビュー一覧
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九鬼周造についてはこれまで『「いき」の構造』『偶然性の問題』を読んだが、なんだか思想の全体像が掴めずにいたので、このちくま学芸文庫のアンソロジーを読んでみた。
前記の2書は抜粋が入っている。
『「いき」の構造』(1930〈昭和5〉年)は名著として読み継がれているものだが、私にはやはり、「何故こういうテーマを書いたのか」という疑問が残る。記述はなかなか厳格な哲学なのだが、西洋文化に対する日本文化の特色としての「いき」を浮き彫りにしようというテーマは哲学と言うより文化論である。その概念を深く追究するプロセスはじゅうぶんに哲学ではあるが、テーマは哲学的でない。
一方、『偶然性の問題』(1935〈昭和10〉年)はもっと深い哲学的主題を哲学的に論じる完全な哲学書である。『いき』との関連性は全く無い。だから私は九鬼の哲学の全体イメージが持てなかったのだった。
実は岩波文庫の九鬼周造としてはもう一つ『人間と実存』(1933〈昭和8〉年)というのがあって私は未読なのだが、現在絶版で入手しがたい。その片鱗を覗かせる抜粋が本アンソロジーには含まれている。
九鬼周造は英語・ドイツ語・フランス語に習熟しており留学してベルクソンやハイデガーと直接会って会談している。本書にもこの2人の海外の、時代を画した超大物哲学者たちの強い影響が見られる。そうした西欧の哲学の文脈に沿いつつ、それを咀嚼し、自らの思考を追求したというのが、九鬼周造哲学のプロセスであったようだ。著作の主題は多様で、全体として大きな体系を構築することは無かったように思われ、そうした「しなやかさ」の点ではメルロ=ポンティに似ている気がする。
本書に収録された論文の内では「文学の形而上学」(1940〈昭和15〉年)が私には一番面白かった。『「いき」の構造』などもそうであるように、九鬼周造には日本文学への心的傾斜が見られ、私は彼にとっては芸術論が得意分野だったのではないかという気すらしている。この論文はベルクソン・ハイデガーを参照した「時間」という哲学問題に沿って文学を論じ、音楽や美術にも言及している。ここでの「時間」論の援用の仕方が私にはすこぶる興味深く、更に考えてみたくなる問題であった。 -
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「偶然」の様々な様態を、本書ではひたすら分類する。偶然は必然と対であろうと、必然の分類に基づいて、その反照として偶然を区分してゆく。
九鬼周造は西洋哲学においてこれまであまり注目されてこなかった「偶然」をしっかりと知的に定位したかったのだろう。この作業によって哲学史の隙間は埋まり、西洋的知が看過してきた部分が浮かび上がってくる。そう自負していたに違いない。
もっとも、本書の大半は偶然の分類に明け暮れており、偶然なる物への凝視がもつ知的意味については、最後の方でわずかに取り上げられる。特に芸術・文学において偶然性がいかに重要なファクターであるかを指摘している箇所はなかなか面白い。このような考察を深めて、もう1章付け加えてほしかったと思う。偶然性をテーマとした他の九鬼周造の小論を合わせ読むことが必要だ。
それでも、本書がたいへんな労作であることは確かだ。この努力がいかなる価値を持つのか、九鬼が切り拓いた知の領域は閉じていない。 -
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「いき」とは「媚態」を根本として、それに「意気地」と「諦め」が加わった様子のことをいう。
日本独特の美意識を、哲学の言葉で明快に書き表している。
とはいえ、どんな言葉を使っても、こういう美意識をニュアンスまで完全に言い表すことはできない。このことを筆者自らはっきりと言っているところに、九鬼周造の哲学者としての覚悟のようなものが感じられる。
残念ながら現代人の私には、現実で「いき」な人やものに出会う機会がないが、これを読むとなんとなく分かる気がするのは日本人だからなのか。
ただ、本当に「いき」を理解するには、やはり自分には人生経験が全然足りていない。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ「いき」とは江戸時代の江戸を中心に始まった日本特有の美学である。江戸時代は身分差を持つ恋愛が頻繁にあったと考えられる。そのため身分差を超えないための一種の禁欲的行為として「いき」が機能し、浸透したのだと考えられる。
江戸時代では身分差があった場合に恋愛関係にはなることは不可能であった。そこで、「いき」が機能してくるのである。媚態の状態では、異性との距離を出来得る限り接近せしめつつその極限に達しないことが大切ある。そして、媚態は異性の征服を仮想目的とし、目的の実現とともに消滅の運命にある。目的の実現から生まれるのは倦怠・絶望・嫌悪と言った感情である。
しかし、だからと言って媚態の状態を持続させるのは難しいことである。そこで、媚態を保つ手段として意気地が出てくるのである。自己の欲求とは逆の行動を取ることによって目的の実現を防ぐのである。この状態を貫いた場合には、最終的には心中へと行き着いてしまう。 -
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そういえば昔読みかけてやめたなー。
と読み始めてから思い出した。
うん、まだ私の理解できる内容ではないかも…
昔の文体や哲学に慣れていない方は、解説を先に読むことをおすすめします。
「いき」「風流」「情緒」といった日本ならではの感覚を、論理的に分析している点は当時も今も新しいと感じるポイントなのだろう。
ただ、図形で示すのはいまいち納得できない。
図式化することで何か抜け落ちていそうだと感じた。
読みながら、あるものに対する高評価・低評価を表す日本語の変遷を調べてみたら面白そうだと思った。
古典、文豪、、みたいな感じで括りがちだけど、時代に縛られずにかき集めてみたら面白いのでは。
そういう本あるかな? -
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いきな江戸っ子。
落語などで江戸文化に触れると、「いき」という言葉を耳にすることがある。
この「いき」とはどういうものなのか。本書は、「いき」について論じた哲学書である。
本書に書かれている、「いき」の3大要素は下記のとおりだ。
1.媚態
2.意気地(いきじ)
3.諦め
そして、「いき」を理解するための重要なキーワードは、「つかず離れずの二元性」である。
「いき」に対して抱いていたイメージとは、だいぶ違うのではないだろか。私は「いき」を「スマートでカッコいい」くらいにしか思っていなかったので、全く違っていた。第一要素として媚態が挙げられているが、特に異性という概念は抜け落ちていた。
3要素のポイントを引用してみたい。
●媚態について。
完全な媚態とは、異性同士の関係において、常に、その関係がどうなるかわからないという不安定さを絶対的な条件とするものなのである。(p37)
●意気地について。
「いき」には江戸前らしい張りきり、勇ましさがなければならない。 (中略) 「いき」は相手の気をひこうとする媚態でありながらも、なお異性に対して突き放して見せる強さをも兼ね備えた意識なのである。(p38)
●諦めについて。
運命というものを心得て執着心を捨て、無関心に徹するありかたである。「いき」であるためには垢抜けていなければならない。あっさり、すっきり、スマートでなければならない。
以上の心構えが根本要素だが、二次的な要素として、外面に現れる「いき」についても考察している。第5章では、模様、建築、音楽などの芸術的表現にあらわれる「いき」について書かれている。ここでは一例として模様を挙げよう。
「いき」な模様は、つかず離れずの二元性をあらわしている縞模様である。横縞より縦縞が良い。
「いき」であるためには、縞が適当に粗く、単純で、二元性がはっきり見てとれることが大切(p112)
ここでもやはり、「二元性」がキーワードとなっている。
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「いき」は民族性と歴史を反映したものである。
著者の九鬼周造は、「いき」は体験しない限り、理解できないという。『いきの構造』が刊行された昭和5年ごろは、文化的にまだ江戸時代後期の名残があっただろう。服装は洋服ではなく和服だったし、音楽は長唄・清元・常磐津などの邦楽で、吉原などの遊廓もあった。体験して理解することは可能だったのだろう。一方、これらが身近に感じられない現代の日本人では、「いき」を体験的に理解することは不可能といえる。したがって、本書を読んでも「いき」を真の意味では理解することはできない。だが、ある程度は理解できるようになる。
最後に、本のヴァリエーションついて述べておこう。『いきの構造』は、岩波文庫、講談社学術文庫から出ている。本書は原典版ではなく現代訳なので、内容文章ともに読みやすい。いや、より正確に言うなら、読みづらくはない。哲学書なので、意味が分かりづらいところもある。しかし、原典版を読むよりは遥かに読みやすいだろうということは容易に想像がつく。
各章の前には解説が付いており、理解を助けるのに役立っている。巻末には、「九鬼周造の生涯と思想」と題された、24ページに渡る小伝がある。ここを最初に読むと、ドイツ・フランスに7年間留学したなかで学び取ったことが反映されていることがわかる。九鬼周造の生き方と、日本と西欧の比較文化論という枠組みを念頭において読むと、より理解が進むだろう。 -
Posted by ブクログ
はっきり言えば、この本で「いき(粋、意気)」というものを理解するのは「現代では」難しい、の一言ですし、この本の解説を「いき」に感じるのであれば、「現代では」感性がズレていることになるでしょう。
でも、それこそが九鬼周造が「いき」を通じて見つけた真髄だという一点において読んで面白く感じました。
つまり、「いき」とは何かを解説することはできる、だが、その構造の1つ1つからは「いき」に到達せず、帰納的な説明しかできず、事実を積み上げての演繹的な解法にならないことを明らかにしています。そして、それは確かにその通りだと思いました。
そして、それが哲学が持つ普遍性の追求にはなり得ないことにも言及している点も良かった。しかしながら、哲学は物事に対して知識の道筋を世に提供するものであるというもう一つの道筋を明確にし、触れる事(経験)で知り得ない知識が存在することを「いき」を通じて知らしめており、それが故に現代では消滅しつつある「いき」を未来に運ぶ舟になっている本でした。