九鬼周造の一覧
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ユーザーレビュー
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「和の心」というテーマで展示を作成するにあたり、その核となる書籍として選んでみました。
「粋だねえ」などと言われ、ある種の誉め言葉として使われる「いき」という概念は、はたしてどのようなモノであるのか、読み終えて、ひとつの定義を知ることができたように思います。
原著を現代語で読みやすく書き改めてあるの
...続きを読むで、本論もストレスなく読むことができましたし、著者の主張もわかりやすかったです。
実体験として、また実生活の中で自分が「いき」に生きることはなかなかハードルが高いのですが、だからこそ(そして「いき」がどのようなものであるかわかったからこそ)「いき」である人やその仕草にあこがれ、尊いものだと認識できるのだとあらためて思います。
「いき」の核となる「媚態」は出せずとも、「意気地」くらいはしっかりともって生きてゆきたいものです。
p.31
「いき」な意識を構成する三要素として、媚態、意気地、諦めをあげ、……「いき」の本質とは、つまるところ、媚態すなわち男女がたがいに相手をひきつけようとする駆け引きに発する美意識にほかならないと九鬼は意味づけます。
p.34~
媚態とは、恋愛において、自分と異性の間に、どう転ぶかわからないような不安定な関係を持ち込むことである。「いき」のうちにみられる「なまめかしさ」「つやっぽさ」「色気」などは、すべて、この自他の不安定な関係から生まれる緊張のあらわれにほかならない。……この不安定な関係こそは媚態の根本的要素であり、異性同士が完全に相思相愛の仲となって、不安定な緊張感がなくなってしまえば、媚態はおのずと消滅してしまうことになる。……それ故に、自他の緊張した関係を持続させること、すなわち、どうなるかわかならいという不安定さを維持することが媚態の本領であり、恋の醍醐味なのである。
p.38
「いき」の第二の要素は「意気」すなわち「意気地」である。……「いき」は相手の気をひこうとする媚態でありながらも、なお異性に対し突き放してみせる強さをも兼ね備えた意識なのである。
p.41
「いき」の三番めの要素は、「諦め」である。運命というものを心得て執着心を捨て、無関心に徹するありかたである。「いき」であるためには垢抜けていなければならない。あっさり、すっきり、スマートでなければならない。……「いき」のうちには運命に対する「諦め」と、その「諦め」に基づく淡々とした境地とが含まれている……。
p.45
以上をまとめれば、「いき」の構造は「媚態」と「意気地」と「諦め」の三要素から成り立っているのである。……「媚態」の本質は、自分と相手の間柄がどうなるかわからないという不安定性にあるが、第二の要素である「意気地」は、相手の言いなりにならず、自己の独立を誇り高く堅持しようとする理想主義に支えられることによって、こうした「媚態」の不安定性に一層の緊張と持久力をもたらすのである。……第三の要素である「諦め」も、また、決して媚態と相容れないものではない。媚態は、その目的である恋愛がぎりぎりのところで成就しないところに真骨頂があるのであり、そうであるなら、「諦め」こそは、媚態と相容れないどころか、逆に、媚態の本質を示しているといえるのである。
Posted by ブクログ
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いき という抽象的で個人的な感覚をここまで概念化させることができる九鬼の手腕に脱帽。感覚的なものを言語化してくれると理解が深まったような気になる。そして、そのことについてもっと知りたくなる。
いきを本当に理解するためには、人がどう感じているかという、いきな行動の奥に潜む意識を感じようとしなけれ
...続きを読むばならない…という旨のくだりはとても心に残った。
相手の全てを知ることは出来ないと心得た上で、相手を慮る姿勢に、優しさを感じる。
本書最後の「九鬼の生涯と思想」も内容理解の助けとなった。良書。
Posted by ブクログ
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いき、とは何かについてが知れるとともにその研究姿勢に関しての学びも多い本。
二元的態度、という決して交わらない平行線のような緊張感を保つ媚態と、理想主義に基づく意気地、そして最後に非現実性をふまえた諦めを経ていきという美的感覚が、浮かび上がる。
それを絶妙な、筆者の言葉を借りると、「意識現象のも
...続きを読むとに存在する」いきの描写とともに概念の解釈がなされていく。
筆者の研究態度としての真髄が「意味体験を概念自覚に導くところに知的存在者の全意義が懸っている」という一説に表されているだろう。
Posted by ブクログ
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・九鬼周造は、江戸の美意識であった「粋(いき)」の意味を哲学的に探り、恋愛にある緊張感や儚さ、近松や西鶴の描く、心の交情。その本質的なところに「いき」があると云っています。
「いきの第一の徴表は、相手に対する媚態である。
関係が、いきの原本的存在を形成していることは、いきごとが、いろごと、
...続きを読むを意味するのでも分かる。
媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が、極限に達せざることである。
いきは媚態でありながら、なお相手に対して、一種の反抗を示す強みを持った意識である」
(九鬼周造)
まず第一に、「いき」には「媚態」があり、相手を惹き付けようとする色気こそが、いきの大前提なのだそうです。
そして、恋愛には、緊張感が大切で、いざ深い仲になってしまうと、その媚態は消え去り、いきではなくなってしまうのだそうです。
近づきたいから生まれるのが、いき。しかし、近づきすぎてもだめ……。この微妙な距離感でないと、いきにはなりません。そこで、生まれたのが、意気地(いきじ)という反抗的な態度です。たとえば、武士は食わねど高楊枝、宵越しの金は持たぬ、というどこか突き放したやり方も、いきといわれる所以です。
また、運命を受け入れる、諦めの気持ちもいきには必要といいます。
恋愛においては、相手を好きになっても構わないけれど、そのことで束縛や、未練があるなら、それは断つ(諦める)のだそうです。好きだとしても、相手に縛られるということは、「いき」ではなくなってしまう。好きでありながらも、その支配下には入らない、のが良いそうです。
この、媚態、意気地、諦観、の三位一体がいきの定義としていて、成る程と興味深いのですが、ここで、九鬼自身が実例として挙げているのを見ると、いき特有の複雑さが分かります。
(九鬼の女性観に対するいき)
「只、まっすぐ立っているのではなく、
少し姿勢を崩し、姿はほっそり柳腰。丸顔よりも、細面が宜しい。
目は、流し目。過去の憂いを感じさせる光沢。軽やかな諦めと、凛とした張りがあること。
口は、緊張と緩みの絶妙なところが好い。憂いを感じさせて、厚化粧は野暮である。
髪形は、きちっとさせないつぶし島田など、少し崩したものがいきである。
着物は揺れる物で、襟足を見せるように引き下げた抜衣紋(ぬきえもん)が色っぽい。
湯上がりのような上気した肌に浴衣を羽織って解れ髪。こういうのがいきである……」
個人的に思うのは、アメリカなどでは、胸が大きければ大きいほど良いというのがアメリカ人のエロスの考え方ですが、うなじがなんとなく、見えたり見えなかったりするのが色っぽい、エロスだ、というのは、アメリカ人の感覚にはないです。
「いいな」「いきだな」、と思う日本人の振るまい、生き方に蓄積されていったものを知れると同時に、国際的な第三者の考えでいうと、あまり意味のない「一体なにしているんだろう」、とも思ってしまいます。
直接的すぎてはいけないし、直接的じゃなくてもいけない。
かっこいいだけではなくて、けれどかっこ悪くてもいけない。そのあいだの微妙なところを歩いていくのが、「いき」であり、日本人の美徳だと九鬼は述べています。
江戸時代、江戸っ子が蕎麦の汁をちょっとしか浸けないで食べるのは、いきなことだと云われていましたが、それは確かにかっこよくもあり、また変な人だとおかしくもあります。
つまり、江戸時代の人たちのメンタリティは、外からの敵がいない状況のなか、かっこよさとおかしさが、複雑に、そして独特に絡み合い、しかもその絡み合いの概念が、「いき」と人々の間で共有されてしまっていました。それは、異分子(諸外国)から見ると、考えられない光景でした。
九鬼は、いきをさらに明らかにしようと、他のさまざまな言葉と、どんな関係にあるのかを探り続けました。
「この時のいきは何かである」と言わないで、その「何か」というのは、常に他のものとの関係性で、はじめて出てくるいきであり、曖昧なものでも、曖昧なもののまま、追求はできるのだということを、一手に引き受けて論じてくれました。
好む、や好奇心を持つなどの、「好き」は、髪を梳く、紙を漉く、土を鋤く、風がすく、透き通る、ということの「数寄」に由来していますが、この「いき」も、何となく曖昧に揺れ動く「好き」に近いです。
現代のいきは、決して日本人だけのものではなくて、色々なところに伝わって語っていける、いきな、恋心であり、いきな、かっこよさになっていけたらいいなと思いました。
Posted by ブクログ
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「いき」の核にあるのは、見た目でもなく振る舞いでもなく二元性。
江戸のいきな人たちと同じような生活はできないけれど、現代の日本人の中にも「いき」の精神は生き続けることができる
いきでありたい
Posted by ブクログ
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