古川薫のレビュー一覧
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吉田松陰が処刑前日に書き上げた遺書『留魂録』の原文と現代語訳、解題と史伝です。
安政六年(1859年)10月26日に松陰先生が牢内で書き上げた遺書『留魂録』は2部あり、そのどちらも読まれるべき者の手に渡り現代に残ります。
評定所の姿勢から下される判決が遠島ではなく処刑だと察した松陰先生は生きて日ノ本を良くすることを諦め、死んで日ノ本を良くすることへ考えを改めました。
死を目前に書き留められた遺書には、死生観、自分が死ぬことに不満がないこと、死ぬまでに行った実績、死後に頼るべき人、この瞬間の思い、が綴られています。
解題は『留魂録』が記されることになった経緯、史伝は先生の生涯が詳細に記されています。
この一冊で吉田松陰先生の多くを学ぶことができる良書です。
身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂
二十一回猛士 -
購入済み
あまりに不平等な人生
ドキュメンタリー風の小説。作者自身の体験がベースになっている。自分が最後に整備し、
メッセージを残した練習機が特攻に使われたことを知り、本作がなかばライフワークの
ような存在になったというが、たしかに行間に作者の気迫のようなものがが感じられた。
ちょっとした偶然や行き違いがもとで、運命的な出会いや別れを体験するというのは
よくある話。まして戦時中ともなれば、ワンタッチの差で生死が分かれてしまうことだ
ってざらにある。生き残れるかどうかはまさに運次第。
前途ある若者が、上層部の理不尽な命令一本で出撃を命じられ、あっけなく散っていく。
一方で無謀な作戦を立案し、大勢の若者を死なせた指揮官がなんの責任もとらずに戦後も
のうのうと生き残り、天寿を全うする、というのは全く合点がいかない。どうして人生は
かくも不平等なのか。いざというとき、本来なら責任をとるべき人間が、全く責任をとら
ず、全くお咎めなしというのは日本人の特性なのか?
太平洋戦争しかり、原発事故しかり、そして今回のコロナ禍しかり。一部の人間のエゴや
保身のために無実の国民が犠牲になるのはもういい加減にしてほしい。
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購入済み
炸裂!大森流居合術
腕の立つ旅姿の浪人が、行く先々でバッタバッタと悪人退治。主人公の深田清兵衛に思わず三船敏郎を連想してしまった。剣戟シーンの描写が巧みで、臨場感満載。三日で読了。
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吉田松陰
処刑前日に書き終えた遺書「留魂録」
身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも
留め置かまし 大和魂
無念のうちに散ったの思える松陰も
留魂録の中ではこう言っている。
人それぞれの人生には四季がある。
10代で死ぬ者も、その人生の中には四季があると。自分の29年という人生も、実は身を結んでいるのだと。
年数ではなく、その与えられた人生を如何に生きたかにこそ価値があると。
吉田松陰が教育者として当時の中で一線を画していたのは、
身分制度を越えた横の関係で、塾生と繋がっていたことだろう。
身分に関係なく師と生徒が互いに学び合う。
身分制度の束縛が強すぎると藩に松陰が提言したほどの封建制の社会。
西欧の民主主義の概念を吉田松陰が知る前に、既に藩主に提言していたのだから、元からして近代的な思想を持っていたと言える。
横目でアヘン戦争によってズタズタにされているあの大国である清の惨状を見れば、ペリー来航による危機意識をもつのも当然のことと思える。
松陰神社に静かに佇む、松陰の墓を目の前に、
松陰の影響は小さくはなかったと、想いにふけった。
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幕末と言えば!な本を久しぶりに読んでみた
なんかビジネス書とか神格化されがちだな~と
前からちょっと毛嫌いしていた久坂玄瑞。
だけど読んでみたらスッキリ。
こういう人間臭さがとても良い(良くも悪くも)
幕末の世に25年の生涯を華々しく散ったといえば聞こえはいいが
吉田松陰とのやりとりが一番面白かった
でも見込まれたから結果的に、吉田松陰の妹と結婚したしとかも思うけど…
それはさておき。
今の吉田松陰の神格化も、たぶん久坂玄瑞がいなかったらここまでなかったと思う
そして最後まで意思を受け継いで行ったのであろうとも。
相当なキレ者だと思うし、これは久坂玄瑞様様じゃないかと
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」は全く見ていなかったけど
むしろ久坂玄瑞主役で大河ドラマ作った方がよいのでは、なんて。 -
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「留魂録」は、幕末の長州藩において、維新回天の原動力となった志士を幾人も育てた吉田松陰の遺書です。この訳は大変読みやすく、後半は松陰史伝も載っているのでオススメです。
中身は門下生に宛てた後事を託す内容になっています。刑死するに至る顛末のほか、死前の獄中生活において出会った有志の士の紹介、そして死に臨んでの松陰の辿り着いた人生というものの境地などがまさにありのままに書かれています。
全編松陰の思いが刻み込まれていて感慨深いものがありましたが、特に深く感銘を覚える箇所がありました。その一つが有名な「人生の四季」を述べるところです。
「四季について」は、「どんなことをしようとも、人は生まれてから死ぬまでに種を撒き、苗を植え、育て、収穫し、蓄えているものである」という松陰の人生論です。結果として、人生が大義をなすかどうかは、四季を過ごす自分次第、また、それを受け止める周囲次第なのだと思いました。後者は自分が決めることではないから、自分にできることは他人に左右されることなく、"四季"を「自分の意志で生きること」だと思いました。
松陰は30歳で自身の四季を閉じます。史伝や解説を読むと、そこに無念という思いが皆無だったとは私には思えないのですが、最終的には「生ききった」という思いもあったのではないかと思います。
そして、その後、松陰の教えを受けた門下生たちは維新を成し遂げ、新しい国造りをし、日本の危機を救いました。それぞれの先人の考え、行動において、自分のいまの仕事や行動に考えるべき部分がないか、今一度振り返ってみようと思わせてくれた本です。今後も手元に置いて、迷ったときには開きたいと思っています。
「愚かなる吾れをも友とめづ人はわかとも友とめでよ人々。」留魂録末尾の五句のうちでもっとも好きな句です。 -
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まず疑問に思ったこと。留魂録は果たして遺書か?それとも遺言か?どちらでとらえるかで、松陰の伝えたかったメッセージの意味が違って見えてくる。著者は遺書ととらえている。死生観を綴っているところは特にその印象が強い。しかし私はこれを遺言ととらえた。なぜなら、松下村塾の門下生はその意思を受け継いだからだ。松陰の攘夷論、教育観、人生観には非常に感銘を受ける。しかし、伝えるのは「生きること」と「教育」の2つであってほしかった。討幕や暗殺といった過激な思想まで伝え、そして自ら大獄に死してしまったがために、死が美化され、門下生の大半も死に至り、代わりに「維新=暗殺」という観念だけが、昭和初期まで生き残ってしまった。そんな気がしてならない。
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桂小五郎・・・はどんな人だったのかというと、 いわゆる伝奇小説に描かれているような“怜悧さ” “俊敏さ” “先見の明” は、・・まぁ あるにはあった。 が
現実の桂さんってもっと失敗もしたし、周囲の人がドン引きするようなこともやったりしていたし後世の人々からみて批判されるようなことだってしてた。(維新後の、キリシタン弾圧とか)
それに、多くの作品で知られるような 攘夷運動(幕府に対するテロル行為等)はほとんどやってなかった。ていうか、そーゆうことやってたのは若手長州人たちで、桂さんはというと彼ら後輩の暴発行為を兄貴然としてたしなめたり、説教したり、説教しすぎて高杉晋作や伊藤俊輔からちょっと敬遠されるようなフシが無きにしも非ずだった。(悲しい)
作者・古川薫先生は、長州出身の政治家・軍人を扱った小説を多く著している(もはや長州専門小説家と言って良いレベル)。
時代小説界では高名な作家であり、長州関係の豊富な歴史史料を活用した小説を数多く手掛けておられる。その潤沢な史料から分析し得た歴史上人物の行動・および内面をじつにリアルに、じつに生き生きと描写している。
本書における主人公・桂小五郎にしても、いわゆるヒーローとしてでなく、フツーの青年だった桂小五郎くんとして描いている。
『ペリー来航』という社会的ショックを受けとめ、桂さんがどのような思想を抱き、どのように行動を起こしていったか、また、その思想の変遷を、素朴な人間臭さを交えて見事に描写し切った。
ようするに、上巻の桂さんは、なんかふつうに健康的でイイよね~。ふつうに剣術に熱中してる、ちょっと裕福な家庭の、ちょっとプレイボーイの、すごい普通の人間だったよね。。。 -
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「自敬に徹したこの最後のサムライにとって、世上の毀誉褒貶は無縁のざわめきでしかなかった。」
古川さんの昨年出版された最近刊。
乃木希典を描いた小説かと思い読み始めましたが、評伝のような作品でした。
明治を生きた性格と境遇の対照的な二人の軍人、乃木希典と児玉源太郎を多くの史資料を参考にして読み解いています。
乃木希典を描いた『軍神』、児玉源太郎を描いた『天辺の椅子』の著書をもつ古川さんにとっては得意分野です。
司馬遼太郎氏の『殉死』を読み
―これでは乃木さんがあまりにも可哀そうだ。
という衝動から出発し、乃木に関する記事の誤謬をただそうとこの作品を書き上げられたそうです。
「長州ぎらい」といわれる司馬さんと長州に生まれ育った「長州びいき」の古川さんは
生前交流があり、直接そのことを聞いたりもしたそうです。
このあたりのやりとりも面白かったのですが、端的にいえば山縣に代表される長州閥主導で作り上げられた陸軍嫌いから始まっているようでした。
乃木「愚将論」に対し史料を駆使して反駁する古川さん。
特に日露戦争での二○三高地の戦いに紙面をさいており、当時の陸海軍の対立や薩長派閥の反目などの影響がとてもよくわかりました。
全国に「乃木神社」があるのに、なんで「愚将」?と思うことはありましたが、これまた歴史でよく見られるようにスケープ・ゴートにされていたのですね。
その時々の国の政策方針に利用するため、その主義主張を捻じ曲げて上げたり下げたりうまいこと使われるのは他の偉人でもよくあることです。
そして繰り返し書かれている、『殉死』ではこれらの史料が無視されている点。
古川さんでなくとも、やはり底辺には「長州嫌い」があるのかと疑ってしまいたくなります。
「小説だから」と言ってしまえばそれまでですが。
作中に引用されている福田恆存氏の『乃木将軍と旅順攻略戦』より。
「歴史家が最も自戒せねばならぬ事は過去に対する現在の優位である。
我々は二つの道を同時に辿ることは出来ない。
それを現在の見える目で裁いてはならぬ。
歴史家は当事者と同じ見えぬ目を先ず持たねばならない」
古川さんの作品が好きなのは、まさにこの目を通して作品が描かれているからです。
「愚将の烙印を押された乃木希典の復権が、この作品と取り組む動機の一つだった」
冒頭に引用したむすびのことばと共に、深く感銘を受けた作品でした。 -
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直木賞作家、古川薫さんの中山忠光暗殺について書かれた作品です。
来月、このあたりに行くかもしれないので再読してみましたが、つくづく、歴史って面白い!ということを再確認しました。
中山忠光は明治天皇の叔父にあたり、攘夷過激派の公卿として知られ、尊攘派の志士と交わり活動していました。
後に天誅組の首領となり文久三年(1863)大和で挙兵しますが、戦いに敗れ長州藩へ亡命。
しかし、八・一八の政変で長州を頭とする尊攘過激派が京より一掃されると長州藩内でも俗論党が台頭してくるにおよび、もてあました長府藩により暗殺されてしまいました。
ちなみに、潜伏中に側女として仕えた恩地登美子との間にできた女児が後に嵯峨宮に嫁いだ仲子。その孫娘にあたる、嵯峨浩は愛新覚羅溥傑に嫁いでいます。
その後、高杉晋作の挙兵の成功などにより藩をあげて倒幕へ突き進んでいったため、この事件は長府藩の汚点となり、長く、公には病死とされていました。
そして昭和10年。下関市にある中山神社の祭典行事に嵯峨野仲子が参拝にきたことを発端として、この事件に疑問をもったのが地元の新聞社主・野見庄太郎。
悪漢新聞を発行していた彼は地元の名士たちの間では蛇蝎のごとく嫌われていました。調査を始めた目的も、毛利家を脅すためでしたが、調査していくうちに義憤を抱くようになります。
事件からは70年たち、藩などはあとかたもありませんがそれでも現れる障害。
史料を駆使し、真実に迫っていく部分も読み応え充分ですが、無頼漢・野見庄の心の変遷もまた魅力の一つです。
この史料たちはわたしの知識ではどれが現存するものやら判別つきませんが、さすが古川さんだけあって非常に説得力がありました。
ラストの余韻も大好きです。 -
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「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂」
『留魂録』は、冒頭にこの辞世の句を掲げ、吉田松陰が死に臨んで書き記した遺書であり、後世への訓戒でもある。本書は全16章から成り、前半では処刑を目前に控えた松陰の心境や、取り調べの経緯が克明に綴られ、後半では彼の深い死生観や獄中での交友が語られる。
私の心に深く残ったのは、松陰の死生観である。彼は、人生に短いも長いもなく、十年の人生には十年の、三十年の人生には三十年の四季があると説く。三十歳で死ぬ自分にも、すでに春夏秋冬があり、花を咲かせ、実を結んでいるはずだという。夏蝉を霊木に、霊椿を蝉にしようとすることは、それぞれの生を認めないことになる。このたとえに、思わず頷いた。私自身も、人生を単純に長短で測ることに違和感を覚える。自らの人生を「これで一つの人生なのだ」と受け入れる松陰の姿に強く共感した。
松陰は、自らの生き方の是非を後世に委ねるような言葉を残した。私はその言葉を受け、彼の生き方が後世に何を残したのかを考えた。当時の東アジアでは、清が列強の圧力を受け、日本もまた外国の脅威に直面していた。松陰の「攘夷」の思想には、外国勢力を退け、自国の独立を守ろうとする強い危機意識があったのだと思う。そのために鎖国を継続するのか、開国して西洋の技術を導入するのか、日本は国防の在り方をめぐって大きな決断を迫られた。そうした中で松陰が残した志は、高杉晋作や伊藤博文ら門下生へと受け継がれ、やがて明治維新へとつながっていった。そう考えると、松陰が蒔いた種は、確かに後世に大きな実を結んだのだと思う。
松陰の身は武蔵の野に朽ちた。冒頭に掲げられた「留置まし大和魂」という言葉の通り、彼の肉体は失われても、その魂は確かに後世へと受け継がれていったのである。