あらすじ
切々と愛弟子に訴える最後の訓戒
炎の教師、松蔭の遺書
読みやすい大文字版
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留置まし大和魂
志高く維新を先駆した炎の思想家吉田松陰が安政の大獄に連座し、牢獄で執筆した『留魂録』。
愛弟子へ切々と訴えかける最後の訓戒で、死に直面した人間が悟り得た死生観を書き記した格調高い遺書文学の傑作を味読・精読する。
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吉田松陰
処刑前日に書き終えた遺書「留魂録」
身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも
留め置かまし 大和魂
無念のうちに散ったの思える松陰も
留魂録の中ではこう言っている。
人それぞれの人生には四季がある。
10代で死ぬ者も、その人生の中には四季があると。自分の29年という人生も、実は身を結んでいるのだと。
年数ではなく、その与えられた人生を如何に生きたかにこそ価値があると。
吉田松陰が教育者として当時の中で一線を画していたのは、
身分制度を越えた横の関係で、塾生と繋がっていたことだろう。
身分に関係なく師と生徒が互いに学び合う。
身分制度の束縛が強すぎると藩に松陰が提言したほどの封建制の社会。
西欧の民主主義の概念を吉田松陰が知る前に、既に藩主に提言していたのだから、元からして近代的な思想を持っていたと言える。
横目でアヘン戦争によってズタズタにされているあの大国である清の惨状を見れば、ペリー来航による危機意識をもつのも当然のことと思える。
松陰神社に静かに佇む、松陰の墓を目の前に、
松陰の影響は小さくはなかったと、想いにふけった。
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吉田松陰が処刑前日に書き上げた遺書『留魂録』の原文と現代語訳、解題と史伝です。
安政六年(1859年)10月26日に松陰先生が牢内で書き上げた遺書『留魂録』は2部あり、そのどちらも読まれるべき者の手に渡り現代に残ります。
評定所の姿勢から下される判決が遠島ではなく処刑だと察した松陰先生は生きて日ノ本を良くすることを諦め、死んで日ノ本を良くすることへ考えを改めました。
死を目前に書き留められた遺書には、死生観、自分が死ぬことに不満がないこと、死ぬまでに行った実績、死後に頼るべき人、この瞬間の思い、が綴られています。
解題は『留魂録』が記されることになった経緯、史伝は先生の生涯が詳細に記されています。
この一冊で吉田松陰先生の多くを学ぶことができる良書です。
身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂
二十一回猛士
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吉田松陰が死の前日に書いた遺書であり、自らの魂を受け継がせる塾生に宛てた手紙である。
留魂録を読み、死ぬこととはどういうことか、その日まで自分の命をどう使うか、その死生観を考えさせられ、30歳の若者が死の前日にここまで落ち着いた文章で、自分の人生を総括できるものなのかと驚嘆する。
松陰の死生観と至誠をもっと学んでみたい。
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全訳されているため、意味は現代語で理解できる
自身の誠を持って話せばわかってくれると
最後まで信じていた吉田松陰が死を前に
門下生を焚きつけた文章。
→間部詮勝暗殺計画を自ら口走ってしまった
人には何歳で人生が終わるとしても四季がある
→その中でどんな実を結び、次の種をつくるのか
飛耳長目、外に目を向けることに重きを置いていた
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吉田松陰の残した言葉そのものを知りたく読んでみました。
留魂録は松陰が処刑される前日に書きあげられたもので、松下村塾で共に学んだ弟子に対しての最後のメッセージがかかれています。人間は10歳には10歳の、30歳には30歳の、70歳には70歳のそれぞれの人生の四季があるという死生観は印象的でした。「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂」という留魂録冒頭の句には、松陰の死に対する覚悟と、攘夷を未来に託す志が表れていると思います。
吉田松陰かっこいい~
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「留魂録」は、幕末の長州藩において、維新回天の原動力となった志士を幾人も育てた吉田松陰の遺書です。この訳は大変読みやすく、後半は松陰史伝も載っているのでオススメです。
中身は門下生に宛てた後事を託す内容になっています。刑死するに至る顛末のほか、死前の獄中生活において出会った有志の士の紹介、そして死に臨んでの松陰の辿り着いた人生というものの境地などがまさにありのままに書かれています。
全編松陰の思いが刻み込まれていて感慨深いものがありましたが、特に深く感銘を覚える箇所がありました。その一つが有名な「人生の四季」を述べるところです。
「四季について」は、「どんなことをしようとも、人は生まれてから死ぬまでに種を撒き、苗を植え、育て、収穫し、蓄えているものである」という松陰の人生論です。結果として、人生が大義をなすかどうかは、四季を過ごす自分次第、また、それを受け止める周囲次第なのだと思いました。後者は自分が決めることではないから、自分にできることは他人に左右されることなく、"四季"を「自分の意志で生きること」だと思いました。
松陰は30歳で自身の四季を閉じます。史伝や解説を読むと、そこに無念という思いが皆無だったとは私には思えないのですが、最終的には「生ききった」という思いもあったのではないかと思います。
そして、その後、松陰の教えを受けた門下生たちは維新を成し遂げ、新しい国造りをし、日本の危機を救いました。それぞれの先人の考え、行動において、自分のいまの仕事や行動に考えるべき部分がないか、今一度振り返ってみようと思わせてくれた本です。今後も手元に置いて、迷ったときには開きたいと思っています。
「愚かなる吾れをも友とめづ人はわかとも友とめでよ人々。」留魂録末尾の五句のうちでもっとも好きな句です。
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まず疑問に思ったこと。留魂録は果たして遺書か?それとも遺言か?どちらでとらえるかで、松陰の伝えたかったメッセージの意味が違って見えてくる。著者は遺書ととらえている。死生観を綴っているところは特にその印象が強い。しかし私はこれを遺言ととらえた。なぜなら、松下村塾の門下生はその意思を受け継いだからだ。松陰の攘夷論、教育観、人生観には非常に感銘を受ける。しかし、伝えるのは「生きること」と「教育」の2つであってほしかった。討幕や暗殺といった過激な思想まで伝え、そして自ら大獄に死してしまったがために、死が美化され、門下生の大半も死に至り、代わりに「維新=暗殺」という観念だけが、昭和初期まで生き残ってしまった。そんな気がしてならない。
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『身はたとひ 武蔵の野辺に朽ぬとも 留置まし大和魂』
この歌から始まる「留魂録」は、吉田松陰が江戸小伝馬上町の牢内で書き上げた遺書である。
門下生に宛てた、最後の言葉たちが述べられている。
その中ではやはり、死生観を四季に例えて語った部分が印象的であった。
『今日死を決するの安心は四時(四季)の順環(循環)に於て得る所あり』
自分自身の生き方を考えさせられる一冊であった。
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吉田松陰が死の直前に書いた弟子達への遺言。松陰先生は素晴らしい思想家・人格者・教育者であった。
僕が何を書いても、ただただ恥ずかしいばかり。
感じ取り恐れ入るしかない。
この恥ずかしさが将来いつか行動へと昇華されることを願う。
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松蔭先生、熱い心や激しい気性ながらも、自分を客観的に見る心も持ち合わせたすごい人だなと。
熱くなりすぎて暴走して周りが離れることもあったみたいだけど笑
でも結果その後に続く偉人たちの礎になったのは、素直にすごい。
超勉強熱心で本も何百冊と読んでたとのこと。
遺書ということで、まさに魂を留める録であると感じた。
その文から、冷静ながらも熱い、青い炎を見た。
自分という視点だけでなく、日本という視点を持ち、至誠を持って活動した素晴らしい方だとあらためて思う。
にしても処刑された時は30歳か、、、すげぇ。
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激烈なまでの大和魂で、処刑されるまで疾駆した吉田松陰。本書は死に臨んで同胞達に訓戒した書である。あまりに死を超越したような覚悟をもって大言壮語する様子は痛快だが、現代においてこうまでして激烈な思想信条をもって行動を取る姿勢は、時代の歓迎を受けないだろう。一つに、科学を取り込んで冷静に考察する態度は重要である。とはいえ、科学の思考をもってただ言論を交わしているということでは、科学など取るに足らないと考えてしまうだろうが、科学によって実際に果実を手にすることができると分かれば、気合い一点張りで進めることはやめ、科学の冷静さを認めることになるのではないか。確かに、吉田松陰の熱情は、今触れてみても、痛快である。しかし、現代において現実を動かすには、熱意は必要だが、それに加え、科学によって冷徹に外堀を埋めるということは、かなり重要であると思う次第である。
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吉田松陰 留魂録
松陰が牢獄で弟子に遺した遺書。死に対する覚悟、死後のきめ細やかな配慮に 感動する。
「死して不朽の見込みあらば いつ死んでもよし」とする死生観(大和魂)は 生の否定でも、運命論でもなく、生死を超えた生き方、心構えの到達点と感じた。
儒学だけでなく 詩歌にも長けていることに驚いた。「二十一回猛士」が、吉田松陰のペンネームとは 知らなかった。死ぬまでに全力をあげて21回の行動を起こす誓いをこめているらしい。
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」
「至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり」誠を尽くせば 人は必ず動かされる(孟子)
「此の心 吾れ此の身を惜しむ為めに発するに非ず」
*死して不朽の見込みあるなら いつ死んでもいいし、生きて大業の見込みあるなら いつまでも生きればよい
*人間は 生死を度外視して〜なすべきをなす心構えこそ大切
「今日 死を決するの安心は 四季の循環に於いて得る所あり」
知性と意志力で死を克服しようとした〜到達点は 穀物の四季の循環に例えた死生観
「彼の長技を以って 彼の長技をふせぐ〜以夷攻夷の上策なり」
松陰の攘夷論は 排外思想でなく 先進文明を吸収するためのもの
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かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂
時の日本にとって、吉田松陰を得たことはなんと幸運であったと。日本が結果、独立を保てたのは、松陰が後進に託した大和魂であったと思います。
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吉田松陰が死刑執行の直前に書いたもの。遺書のようであり、松下村塾の塾生に向けた手紙のようなものだった。松陰の史伝についても載せられている。その史伝と、留魂録を照らし合わせて読むと、松陰の為人や考えがより伝わってきた。
常軌を逸するほどの熱量を持ち、自身を顧みない性格や、塾生をはじめとして周りの人々をやさしく、それでいて強く感化していくところから、彼の偉大さを実感し、感銘を受けた。
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吉田松陰が弟子たちに遺した遺書。内容自体は何と言うことはない。解題・本文よりも、本書後半部の訳注者による松蔭の伝記がおもしろい。松蔭をとりまく状況や松蔭の人となりがよくわかる。士籍を失った経緯や幕府の取り調べに対していらぬ自白をしてしまうところなど、松蔭のやや浅はかというか、自ら苦境にはまっていくような面がうかがえる。しかしそれもこれも、結果的には弟子たちに大きなインパクトを与える刑死につながっていくのだ。訳注者が「あとがき」で、松蔭の死とイエスの死を並べて論じているが、なるほどと思った。同じことがソクラテスの死についても言えるだろう。
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松陰先生の遺書。
「死は人生の終末ではない生涯の完成である」
というマルティン・ルターの言葉があるが、
吉田松陰の生涯は「至誠」の二文字をもって完成した。
彼が信奉した儒教の祖である孔子も孟子も
一種のしたたかさを持っていたため天寿を全うしたが、
彼は愚直なまでに至誠を貫き、至誠に殉じた。
その姿はキリストやソクラテスと被る。
そして彼の思想は松下村塾の門下生に受け継がれ、
明治維新という奇跡を生み出す原動力となるが、
その際に多くの塾生達が非業の死を遂げて、
それが原因と言ってしまうのは少々強引だが、
日本全体が無謀な戦争に突入していくと思うと、
手放しに称賛する気になれないのも事実である。
だが、彼の生き方は奇跡を起こした。
口先だけでは無く実際に行動を起こし、
身分が固定されていた江戸時代において、
門下生達を弟子と呼ばずに友と呼び、
身分に捉われず、彼らの可能性を信じた。
繰り返すが、人を導くのにはこの方法が最善である。
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「留魂録」 たった3文字で、凄まじい力が伝わる見事なタイトル…。 「私の魂(想い)を記録として留めておく」という事か。 自身の命を以て仲間達に志を問う事、人生には春夏秋冬がある事、そしてその人なりの四季があり、松陰自身それを知り得た事…。 人生を賭け、覚悟を決める壮絶さが胸を打つ一冊。 自分には何の覚悟が出来て、何をなし得る事が出来るのか?を考えさせられる。
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松陰先生の遺言書とその訳。全十六章のうち最も濃厚なエキスのような第八章だけでも読んでもらいたい一冊。自分のような子孫がいない人間にとって「後来の種子未だ絶えず」の部分は心に沁みた。
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学校の課題で この本を知り 読んだ
吉田松陰のこといえば 松下村塾というのしか 知らなかった
この 留魂録は 吉田松陰が死に直面した時に 自分自身を冷静に見つめ塾生たちにも問うている
これから 生きていく指針になるのではと 再読し 課題に向かいたい
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明治維新の礎を築いた偉人の未来を見つめて記された獄中記。
小伝馬町駅から徒歩1分の現在、公園として親しまれている場所で書かれたもの。
内容は塾生に向けたものであり取っ付き辛い。
しかし、書物として世に広まり、先生の志が後世まで継承されているという事実が、先生の志の熱さを物語っている。
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吉田松陰の教育に対する考え方は、人を育てる普遍解である。
教育の本質は、志を育てること。
そして、学ぶだけでなく、実践することに主眼をおき、自ら行動することでこそ真の成長が得られるとしている。
また、教え子たちの一人ひとりの個性を大切にし、その特性を活かせるように指導していて、その指導方法も画一的な教育を押し付けるのではなく、生徒それぞれの可能性を引き出すことを心がけている。
教え子たちの出身や地位にかかわらず平等に接して、個々の才能を認め、それを磨くための助言を行うという現代社会にも通用するビジネスパーソン教育でもある。
吉田松陰自身は、社会を変革するためには新しい考え方を持つ人材が必要だと考え、これを実現するために命を懸けている。
時代を変える人材の育成を目指し、実際に高杉晋作や伊藤博文、久坂玄瑞など、幕末や明治維新で活躍する猛者をそだてた。
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30歳で処刑された吉田松陰の遺書・遺言書。言わずと知れた幕末の志士である。
彼が逮捕されて処刑されるに至った経緯を知らなかったのだが、知られていると思っていた罪(暗殺の企て)を自白してしまう。その罪で収監され処刑までの期間に仲間に向けてたくさんの書簡を書いた。この本はそれを集めてかれの胸中や状況を分析したものである。
長州藩にあった松下塾の門下生には歴史に名を遺した人がたくさん通って学んでいて、顔ぶれがとても豪華だ。そこで松陰は後輩たちを育てるべく、さまざまな講義を行っていた。獄中から手紙を届けてくれる友人のおかげで彼の志は伝わったようだ。
処刑前は過激な考えと他人を煽るような行動から、周りから距離を置かれていたようだ。彼の正義感が幕末の日本の変革に一石を投じたことは確かだろう。
読みものとしては、面白くてグイグイ読めるという感じではなかった。
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『留魂録』は、吉田松陰が1859年10月27日に死刑判決を受けて即日処刑された、その前日に江戸小伝馬町の牢獄で書き上げた遺書である。本書には、『留魂録』本文のほか、解題、史伝が含まれ、松陰の生涯と時代背景についても詳しく解説されている。
松陰は、同じ遺書を二通書き、一通は萩の高杉晋作、久坂玄瑞らに届けられたが、その後所在不明になり、今日その正確な全文が伝わっているのは、牢名主であった男が自分が出獄した後、1876年に元長州藩士の元に届けた、もう一通によるものである。
『留魂録』の中で最も心に残るのは、穀物の収穫に例えて死生観を語った第8章、「(現代語訳)今日、私が死を目前にして、平静な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環ということを考えたからである。・・・十歳にして死ぬ者には、その十歳の中におのずから四季がある。二十歳にはおのずから二十歳の四季が、三十歳にはおのずから三十歳の四季が、五十、百歳にもおのずからの四季がある。・・・私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なるモミガラなのか、成熟した粟の実であるのかは私の知るところではない。もし同志の諸君に中に、私のささやかな真心を憐み、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになろう。」の件であろう。
また、高杉晋作の「男子の死すべきところは」という問いに対する、「死は好むべきものではなく、また憎むべきものでもない。世の中には生きながらえながら心の死んでいる者がいるかと思えば、その身は滅んでも魂の存する者もいる。・・・人間というものは、生死を度外視して、要するになすべきことをなす心構えこそが大切なのだ」という返信も印象的である。
明治維新の精神的指導者の熱い思いが伝わってくる。
(2010年9月了)
Posted by ブクログ
文章で読んでいるだけでも教育者としての凄さが伝わってくる。諄々と諭すような講義を面と向かって学んだときの感化力は相当大きいのだろうなあと思った。ただ、松陰先生は行動に関しては粗忽なくらいに機を見ずにやっちゃう人だったのか?友人の仇討旅行につきあう約束をしたけど藩からの手形が間に合わなくて脱藩したり、黒船に乗せてもらおうと小舟で近づいたり、門下生に檄文飛ばして皆から諌められて錯乱したり、あげくに幕府が気づいていない計画倒れに終わったことを披露して死罪になった。革命の種子を蒔く人は、キレキレの頭の良さと、同じくらいにキレた行動をする人なのだろうなあ。
Posted by ブクログ
偉人であるとの先入観を持って読んだため、
若干肩すかしに感じた部分があった。
(現在の日本に与えた影響は計り知れないとわかりつつ)
しかし、松陰とのやり取りで、今も昔も、お役所ってこんな感じだったのねと思った。
100年後もおそらく同じなんだろうな。
Posted by ブクログ
吉田松陰の遺書「留魂録」の全訳・解説の本です。以前読んだ「世に住む日々」を深掘りする意味で読みました。「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂」という有名な書き出しで始まる。歴史的な価値のあるものなのだろうが、その内容は死を前にして少し女々しい感じもしてしまう。又幕府につかまり、余計な事までしゃべってさらに刑を重くし遂には死罪となるくだりなど「なぜ」そんなにしゃべってしまうのかと思ってしまう。改革実行者というより師として卓越した先見性と指導力があったのだろうと思う。その後の松下村塾ほとんどの塾生は戦死、自刃しているが、彼らは師の意志をついで幕末から明治維新にかけて、歴史を動かす人々となった。