中務哲郎のレビュー一覧
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ネタバレ「人生の折り返し地点」という言葉も在るが、キケローはカトーにこう語らせる。「自然の道は一本で、しかも折り返しがない。そして人生の各部分にはそれぞれその時にふさわしい性質が与えられている」、と。
この作品では「老い」は十分に耐えうる価値あるものとして扱われる。私はカトーの語る考え方を気に入った。古代ローマには在ったかどうか知らないが、老いを退化に見立てる考え方を耳にしたことがある。人は、赤ん坊で生まれ、成長し、二十年ほどで人に成り、人生を全うするにせよしないにせよ、末期には心身共に衰えて目も耳も感じる力を失い、最低の状態に戻ってゆき死ぬ、その様が赤子に戻ってゆくようである、と言うのだ。寂しい発想ではあるが、これには言い当てているところが在るように感じる。人生の最高のときと聞いて、私には幼年も老年も早一番即座には想起されない。キケローの生きた当時も、老年を扱った作品にはその発想同様、老年を暗く捉えたものが多かったそうだ。人間の最大の関心ごとのひとつは死であり、老いには常に死の影が付きまとうのだから、老いを人が気がかりにするのは当然だ。青年の死と老年の死の対比でカトーは老年の死をある種の善いものと捉えた。その〈71〉の下りも大変気に入った。
論理展開も整っていて、読みやすかった。
訳者による解説も読み応え在った。アッティクスの死に様をおもう。 -
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ギリシャ神話に由来する用語は、現代の日本社会においてすら日常的に良く耳にする機会があります。
様々なメディアでもギリシャ神話をモチーフにした作品が絶えることなく生産されています
しかしながら、ギリシャ神話という体系的な本が存在するわけではないので、その内容を実際知っている人は少ないと思いますし、
ギリシャ神話についてできればその代表的なエピソードだけでもきちんと把握しておきたいという人には、この本はお勧めです。
この本では、いくつかのテーマ(”神々”や”英雄”、”愛”等)を取り上げ、それに関連するギリシャ神話のエピソードを分かりやすく解説していく体裁となっています。
各テーマを読み進めていくうちにギリシャ神話の登場人物たちの姿を通し、古代ギリシャ人たちの人生観や世界観、愛憎が感じられるような気がしました。
また、ギリシャ神話の神々がギリシャ起源の神々ではなく、他の文化圏の神々が多く形を変えて取り込まれている事が分かり非常に興味深かった。
所々に神話学者ジョゼフ・キャンベルの著作からと思われる神話のモチーフの類型に関する用語が記載されていたが、この本の読者となる年齢層には馴染みのないものではないかと思われましたので、それに関する説明もあると良かった気がしました。
(それにジョゼフ・キャンベルの神話に関する話は、とても面白くもあるので是非、神話などに興味のある若い人には知ってもらいたいと思いましたので) -
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キケローが直近の著名な人物に仮借し、その人物に語らせたタイプの著作のひとつ。
スピーキオーという友人を持ち、そしてその友を亡くしたラエリウスが、婿ふたりに対して友情というテーマについて語る。
ラエリウスは、友情に関して「正しい」事を述べるばかりでなく、誤った解釈が世間に広まっている事に苦言を述べ、あるいは人が陥りがちな過ちについて語る部分もたびたびある。
その内容は「友情とは実利に対する見返りがある時に与えられるべきだ」という説であるとか、「友情とは与えすぎてはならない、等価でなくてはならない」だとか、「いつか敵になりうるのであるから友情に重きを置いてはならない」という考えとかであるのだが、
当時流布した思想に関する知識として得るものもあるし、こうした考え方が現代でも一定の価値観として存在している事に思いを馳せるのも面白い。
一つのテーマについて、人間の考え方は相当に出尽くしているものだという事が理解出来る。 -
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イソップ寓話が実は紀元前にできた話、というのを聞いて興味がわいて読んでみた。
が、正直私には難しかった。
以下メモ
現在イソップ寓話と呼ばれているものが本当にイソップ(人名)が作ったという証拠はなく、何世紀もかけてイソップの名のもとに形成されてきたと考えられている。
イソップ(ギリシア語ではアイソーポス):紀元前630年ごろの人物。
サモス島(ギリシャへの奴隷供給地として有名な島)出身。
聖物窃盗の濡れ衣を着せられて断崖から突き落とされ非業の死をとげた奴隷。
口が達者という記録もある。
「イソップの戦略の基本は、言葉を字義通りに取る。そして、言葉とそれが表すものとの対応が実はきわめて曖昧なものであることを顕わにすることにより、曖昧な常識とそれに安住する支配階級を撃つというものであった」
例えば、「お前はどこから(来たか)→「肉から(肉でできた人間)」
「そうではなくて、どこで生まれたのだ」→「母の胎内で」
「豆を煮ておけ」→豆を一粒だけ煮る。
「風呂上がりの飲み物をくれ」→ふろの湯を椀に入れて渡す。
嘘と嘘つきにまつわる諺の最古とされるのが以下
嘘をつけ、(然るのち)真実を言え。それは嘘と思われるだろう
これを寓話化したものが、「羊飼いのいたずら」
オオカミが来たぞ~と嘘をついていた。本当にオオカミが来た時に信じてもらえなかった話。
ただ、この手の話は東洋にも存在する(褒娰の笑い・司馬遷の史記)
イソップ寓話だけがこの諺の寓話化でもなく、世界中で寓話化されているかもしれないという研究。
日本では、1593年に「伊曾保物語」が成立。イエズス会の宣教師により伝えられた。
が、イソップ寓話と同様の話は、これ以前から日本にもあり(例:金の斧・ごましお頭と二人妻・三本の矢の教え)それより前に伝わってきたものか、それとも日本でも、たまたま同様の話が生まれてきたのか色々な説がある、らしい。
※ごましお頭と二人妻
二人の妻を持つ男、老婦からは友白髪になれと言われて黒髪を抜き、若い妻からは白髪を抜いて若作りせよと言われて白髪まで抜き捨てた上に、白粉を面に塗り青黛(主に 青い眉墨)を眉に描いて瓢箪に絵をかいたような姿になる。こうして両方から嫌われて捨てられるのが第一弾。
第二弾では、男は農耕で世を渡ろうとするものの、雨降れば山に登って田を開き、日照れば谷に下って田を作りするうち、山の田を日照り、谷の田を洪水で失ってしまう。
第三弾は、男は死後畜生の報いを受け犬になって、食を求めて東の里、西の里を行きつ戻りつするうちに大河の中で力尽きてしまう。
この話のパターンは色々な年代、地域にみられて、ここから導かれる教訓も様々らしい。 -
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1.この本を一言で表すと?
老いは惨めではないと言うことを主張した本。
2.よかった点を3~5つ
・老年には体力が欠けているか?いや、老年に体力は要求もされない。だからわしらの年輩は法律と制度によって、体力なしでは支えきれない義務からは免れているし、できない事はもとより、できるほどのことでも強制はされないのだ。(p38)
→必要とされる役割を意識して、その役割を果たして活躍すべきということだと思う。
・わしがこの談話全体をとおして褒めているのは、青年期の基礎の上に打ち建てられた老年だということだ。そこからまた、これは以前にも述べて大いに皆人の賛同を得たことだが、言葉で自己弁護をしなければならぬような老年は惨めだ、ということになる。白髪も皺もにわかに権威に摑みかかることはできぬ。まっとうに生きた前半生は、最期に至って権威という果実を摘むのだ。(p60)
→幸せな老後は、青年期を真面目にしっかり生きることによって成り立っていると言うことだと思う。
・農業の楽しみについての記載(p51〜)
→若い頃からのコツコツとした積み重ねが老後を豊かにしてくれると言うことだと思う。
・青年が死ぬのは盛んな炎が多量の水で沈められるようなもの、一方老人が死ぬのは燃え尽きた火が何の力も加えずともひとりでに消えていくようなもの(p66)
→的確な表現だと思う。人間誰もがいつかは死ぬと言うことだと思う。
2.参考にならなかった所(つっこみ所)
・自分は立派な生き方をしてきたんだと言う著者の自慢のようにも聞こえる。
3.実践してみようとおもうこと
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5.全体の感想・その他
・著書は一応論理的な説明をしているが、なんとなく自己弁護しているような印象を得た。 -
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演劇作品で始めて素直に面白いと感じ、すんなり没頭することができた。アンティゴネーが単純に正しい側のヒロインなのかと思いきや、しばしば不穏な発言をするから面白い。
"私は憎しみを共にするのではなく、愛を共にするよう生まれついているのです。"という感動的な言葉も、大きな説得力がありながら、どこか言行不一致の気配がうっすら感ぜられ、それが余計に味わい深い。
アンティゴネーがなぜこのような不幸な結末を迎える必要があったのかという理由は、出自そのものの不幸によるのではという解説の説明に一応納得。しかし、近親相姦がなぜこれほどまでにタブー視されているのか、オイディプスが自ら両目を刳り取り、アンティゴネーを自死に追い込むほど罪の意識をもたらすのか、現代に生きる私には不思議でしょうがない。 -
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キケロは、シーザーと同時代のローマに生きた政治家ですが、ラテン文化を代表する名文家としての誉れも高いことを知りました。
友情についての深い洞察が、親友であるスキーピオを喪ったラエリウスにより語られる、という設定になっています。
以下の言葉がとても印象に残りました。
「確かな友は、不確かな状況で確かめられる」
真の友情というのは、その人物の徳を敬愛することであり、それに接することにより自身も行いを正すことが出来る、と言います。
お互いに高め合うことができるような関係、それは国籍、年齢や性別を超えて成り立つのではないでしょうか。そう思いました。