あらすじ
『老年について』の姉妹篇として書かれた対話篇。古代ローマの政治家で賢者の誉れ高いラエリウスが、無二の親友小スキーピーの死後まもなく、二人の女婿を前にして、友情について語る。キケローにとってラエリウスは、単なる過去の賢人ではなく、修業時代に親しく噂話を聞くことのできた人物であった。友情論の古典。新訳。
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人生の最大の優先事項とは“友情”である。
良い友情を得る為には自分も“良い人”である必要がある。良い人の定義は誠実であることと約束を守ること。そして何より徳を持っていること。そうやって良い人でいれば自然と周りに良い仲間が集まってくる。私たちは足りないので補い合う必要がある。キケロのこの著書はいつの時代でも友情が大事なことを教えてくれます。そうして得た良い友達との思い出が、大事な時に私の背中を押す。
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友情とは、依存ではなく自立から生まれる。
友情は実益から成るのではなく、本性から惹かれ合うことで成る。
友情が実益を追うのではなく、実益が友情を追う。
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「真の友人を見つめる者は、自分の似姿を見つめることになる...」
「さて、われわれが友情の中に求める不動の堅固さの基盤は、信義である。なぜなら、信頼できないものは不動ではないから。」
社会人になり始めると、人との出会いが増えたり、また今やネットで人と繋がれる時代なので、人間関係に関する悩みは尽きない。なので本当に信頼できる人との関係性はすごく大事だったりするし、なんとなく友達という風に処理してはダメな気がしてきた。
真の友情関係には、利害関係を持たずに、相手をリスペクトし、心から信頼できるという信義が必要。
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「秀れた人々の中にしか友情はありえない」。まずは自分が善い人間になり、それから自分に似た人間を求める。一人で人格を高めるには限界があるから、人格の面で競い合えるような、かつ実益ではなく愛を与え合えるような友人関係を、と解釈。概ね同感。
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古代ローマの政治家で賢者の誉れ高いラエリウスが,無二の親友小スキーピーの死後まもなく,二人の女婿を前にして,友情について語る.キケローにとってラエリウスは,単なる過去の賢人ではなく,修業時代に親しく噂話を聞くことのできた人物であった.友情論の古典.新訳.
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キケローが直近の著名な人物に仮借し、その人物に語らせたタイプの著作のひとつ。
スピーキオーという友人を持ち、そしてその友を亡くしたラエリウスが、婿ふたりに対して友情というテーマについて語る。
ラエリウスは、友情に関して「正しい」事を述べるばかりでなく、誤った解釈が世間に広まっている事に苦言を述べ、あるいは人が陥りがちな過ちについて語る部分もたびたびある。
その内容は「友情とは実利に対する見返りがある時に与えられるべきだ」という説であるとか、「友情とは与えすぎてはならない、等価でなくてはならない」だとか、「いつか敵になりうるのであるから友情に重きを置いてはならない」という考えとかであるのだが、
当時流布した思想に関する知識として得るものもあるし、こうした考え方が現代でも一定の価値観として存在している事に思いを馳せるのも面白い。
一つのテーマについて、人間の考え方は相当に出尽くしているものだという事が理解出来る。
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キケロは、シーザーと同時代のローマに生きた政治家ですが、ラテン文化を代表する名文家としての誉れも高いことを知りました。
友情についての深い洞察が、親友であるスキーピオを喪ったラエリウスにより語られる、という設定になっています。
以下の言葉がとても印象に残りました。
「確かな友は、不確かな状況で確かめられる」
真の友情というのは、その人物の徳を敬愛することであり、それに接することにより自身も行いを正すことが出来る、と言います。
お互いに高め合うことができるような関係、それは国籍、年齢や性別を超えて成り立つのではないでしょうか。そう思いました。
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友情と徳に深い関係があるらしい!
徳を高めることで、深い友情を築ける。
徳を高めるために、友情を築く。
友人が亡くなっても友情は不滅。
という理解です。
自分に徳がないのに、自分を磨かず、徳のある人との友情ばかり求めようとするといった内容が耳に痛かった。
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友情はその人の弱さと欠如のゆえに必要とされるものなのか、それとも人間の本性をのものに由来する原因があるのかという問いや、友とのどういう付き合い方が望ましいか、徳と友情の関係についてなど。
友人関係においてはギブアンドテイクが必要だという人も居ますが、私はそれについてはずっと疑問だったのでキケロに共感するところはありました。
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友情の結びつきはとても緊密であり、二人の間に生まれるものであるということ、不特定多数を結びつけるものではないということ。そして何より友情は、実益を得る為の目的‐手段連関の一部分には決して貶め得ない、それ自体として価値のあるものであること。友情を功利主義に隷属させようとする即物的な(無)思想は、二千年前から批判されており、それが今なお必要な批判であるという事実に、人間の変わらぬ卑しさを思う。ところで、或る相手に友情を抱くべきか否か(友情を抱くに値する「徳」を備えているか否か)を、その人と友情関係に入る前に判断せよ、という意見には首肯しかねる。人間的な情動というものは、もっと非合理的な如何ともし難い何かであるはずだから。
"・・・、好意への返礼以上に、思いやりと奉仕の応酬以上に、喜ばしいものがあろうか。"
本筋からは外れるが、本書の最後のほうに面白い記述がある。
"何しろそいつ[狡猾で陰険な追従者]は、逆らうと見せて追従するようなことさえよくやるし、言い争うふりをしつつおだてるし、最後には、降参だと手を上げ負けを認めても、それは、こうして愚弄されている者の方が賢くてよく分っていると思わせるための手だ、という具合で、見抜くのが容易ではないからだ。こんな風に愚弄されるほど恥ずかしいことがあろうか。"
これを読むと、私には「テレビと視聴者との共犯関係」則ち「くだらないテレビと、テレビをくだらないと蔑む視聴者との間の、相互依存関係」が想起された。
「くだらないくだらない」と日々テレビ番組に呆れながら、なおテレビを見続ける者たちがいる。恐らく、テレビを観て「くだらない」と蔑みながら、さも自分が高見に立ってるように錯覚して優越感を満たしたいだけなのだろう。
然しテレビを観ている連中なんて、大概は冷笑しながら観ている。制作者も、多くの視聴者がテレビを馬鹿にしながら観ていることは知っている。制作者は、そういう連中に向けて(意識的にか無意識的にかは知らず)道化を演じて、視聴者に優越感を抱かせるような番組を作っている。テレビは、それを「くだらない」と嘲笑う連中の優越感に奉仕する為に存在する。
視聴者は、その道化を高見から嘲笑っているつもりでいながら(超越)、まさにその道化たちの思惑通りに踊らされている(内在)。
視聴者が心底「くだらない」と思っているテレビというのは、まさにそういう連中の視線によって支えられている。こうして、「くだらない番組」は再生産され続ける。