友情の結びつきはとても緊密であり、二人の間に生まれるものであるということ、不特定多数を結びつけるものではないということ。そして何より友情は、実益を得る為の目的‐手段連関の一部分には決して貶め得ない、それ自体として価値のあるものであること。友情を功利主義に隷属させようとする即物的な(無)思想は、二千年前から批判されており、それが今なお必要な批判であるという事実に、人間の変わらぬ卑しさを思う。ところで、或る相手に友情を抱くべきか否か(友情を抱くに値する「徳」を備えているか否か)を、その人と友情関係に入る前に判断せよ、という意見には首肯しかねる。人間的な情動というものは、もっと非合理的な如何ともし難い何かであるはずだから。
"・・・、好意への返礼以上に、思いやりと奉仕の応酬以上に、喜ばしいものがあろうか。"
本筋からは外れるが、本書の最後のほうに面白い記述がある。
"何しろそいつ[狡猾で陰険な追従者]は、逆らうと見せて追従するようなことさえよくやるし、言い争うふりをしつつおだてるし、最後には、降参だと手を上げ負けを認めても、それは、こうして愚弄されている者の方が賢くてよく分っていると思わせるための手だ、という具合で、見抜くのが容易ではないからだ。こんな風に愚弄されるほど恥ずかしいことがあろうか。"
これを読むと、私には「テレビと視聴者との共犯関係」則ち「くだらないテレビと、テレビをくだらないと蔑む視聴者との間の、相互依存関係」が想起された。
「くだらないくだらない」と日々テレビ番組に呆れながら、なおテレビを見続ける者たちがいる。恐らく、テレビを観て「くだらない」と蔑みながら、さも自分が高見に立ってるように錯覚して優越感を満たしたいだけなのだろう。
然しテレビを観ている連中なんて、大概は冷笑しながら観ている。制作者も、多くの視聴者がテレビを馬鹿にしながら観ていることは知っている。制作者は、そういう連中に向けて(意識的にか無意識的にかは知らず)道化を演じて、視聴者に優越感を抱かせるような番組を作っている。テレビは、それを「くだらない」と嘲笑う連中の優越感に奉仕する為に存在する。
視聴者は、その道化を高見から嘲笑っているつもりでいながら(超越)、まさにその道化たちの思惑通りに踊らされている(内在)。
視聴者が心底「くだらない」と思っているテレビというのは、まさにそういう連中の視線によって支えられている。こうして、「くだらない番組」は再生産され続ける。