篠森ゆりこのレビュー一覧
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ネタバレ題名から家のお掃除とか、家政婦とかメイドとか想像した人、まったく違います、この小説は。
ストーリーを単純に言うと、
「両親を失った少女が、ちょっと変わった叔母と同居することになった」
こんな感じ。
つまり、大ざっぱに言うと『違国日記』みたいなモンだ。
ただし、プロットはブチブチ切れて辻褄が合わず、きちんとした小説を読みたい人には苦痛だろう。
主人公は一人称の語り手ルース、
ただし真の主人公は叔母シルヴィだ。
妹ルシールはコントラスト見せるための普通の人、モブキャラクターだ。
ここでシルヴィが波瀾万丈の活躍するなら、よくあるエンタメなのだが、そうはならない。
渡り労働者シルヴィは、町の人から偏見で見られる。
これはAI にきくと、
「白人の国内渡り労働者が激しい差別と偏見に晒された時代があった。それが1930年代の大恐慌と大干ばつ(ダストボウル)の時期」
これが反映してるのかもしれない。
小説は1980年刊行だが、舞台は1950年代だ。白人渡り労働者オーキーの大多数は第2次世界大戦の軍需労働者に吸収され消滅したが、偏見はまだ色濃く残っている時期だろう。
ただ、オーキーは余儀なく、渡り労働者になった人たちだが、シルヴィは自分の意志で、そうしている自由人だ。
ラストは、町の人のお節介な干渉「シルヴィとルースを引き離す」に嫌気がさして、家に火を付けて燃やし、鉄道橋を歩いて逃げる。
いやいや、放火はアメリカでも大罪やろ。
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既読の「理由のない場所」は長男が自死した後の本だったが、なんと2024年に次男も自死してしまったとのことでこの本が書かれたそう。次男のジェームズ君は内向的で無口な性格だったらしく、この本は対話形式ではない。二人の死を受けて母である著者が考えたこと、思い出などが混ざりあってつづられている。
自分の経験を書いていながら文章はどこか客観的で、感情と対応を論理で解析するような内容になっている。それは解離というよりは性格に由来するのだろう。奈落の底で、言葉にならない思いが、周辺をぐるぐる回るように叙述されていくのに胸がギュッとなる。
この人の本はいつもそうだが、中国人の著者が英語で書いたものを日本語訳で読むというまどろっこしさのせいか、なんだか頭に入ってきにくい感じがしてもどかしかった。いっそ英語の方が読みやすいのかもしれない。 -
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翻訳小説が苦手なこともあって、なかなか没頭するのが大変だったが、他の方のレビューを読んで、あとがきを先に読んでみたら、初めて読む彼女の世界観の根底にあるものに触れることができ、グッと読みやすくなった。「目に見えないところに、心をかき乱すやっかいな何かが本質的に存在しているという確信があります。その部分を覆い隠すよりも、発見するために書きたいのです」「悲しみと不幸は大きくちがうとも考えています。不幸と喜びは両立しない場合が多いのです。不幸というのはむしろつらい状態に似ていて、それはよくないことです。そして、私は不幸だとは感じていません。悲しいのです。とても悲しいとは言えます。悲しい過去があるのです。でも不幸ではありません。なぜなら悲しみと喜びは両立しうるからです」。11の短編の中で、刺さる作品は人によって大きく異なるだろう。私は「かくまわれた女」「非の打ちどころのない沈黙」「すべてはうまくいく」が好きだ。
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自殺した息子とその母親が言葉だけで繋がろうとする話。二人の会話を中心に進むけれど、結局は母親の頭の中で繰り広げられているので、「」はなくて、母が思っていることは筒抜けで、過去と現在がシームレスに移り変わっていく。
初イーユン・リー。
登場する親子は揃って言葉の正確さやそれらが孕む意味に鋭敏で、繊細で、彼らの話は比喩が多くて文そのもの私には共感できないというか分からないところも多かった。ただその中でやっぱり母親の愛情や、その裏側にある悲しみの深さにどきっとさせられたし、この物語そのものが安易な答えに辿りつくものじゃないんだろうなってことは分かる。本当に悲しいことは言葉にできないから、その他の部分を触れることでどう悲しいのか、どれだけ悲しいのかを表してる感じ。
訳者あとがきに書かれてたエッセイ読みたくなったけど邦訳されてないのか……
⚫︎あらすじ
母親の「私」と自殺してまもない16歳の息子との会話で進められる物語。著者の実体験をもとに書かれた本書からは、母親の深い悲しみが伝わり、強く心を打つ。他に類をみない秀逸な一冊。
(河出書房HPより引用) -
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著者、イーユン・リーは北京生まれ。北京大学で生物学を専攻し、アメリカに留学して大学院で研究を続けていたが、進路を変更して創作の道に入ったという、なかなか変わった経歴。
創作は中国語ではなく英語で行っている。
中国を舞台にした作品が多いが、本作はフランスに住む少女たちを主人公とする。
訳者のあとがきによれば、著者はこう語っている。
人々は“中国について書けないか”と言います。ええ、中国について書けますけれども、中国だけが私のテーマではありません。私は友情についても書けますし、フランスの少女の友情について書くこともできるのです
作家たるもの、それはそうだろう。
主人公はアニエス。愚かではないが、才気煥発というわけではない。ある意味、普通の女の子である。
彼女の友達のファビエンヌは感性豊かで感情の起伏も激しい。
2人はフランスの片田舎に住む。性格の違う2人だが、結びつきは強く、お互いの間にしか通じない絆がある。2人には独自のルールの「遊び」があって、その延長線で「小説」を書くことにする。アイディアを出すのはもっぱらファビエンヌ。アニエスはそれを言葉にする役だ。2人は村の大人の助けも借り、「作品」を作り上げる。
それだけなら「遊び」で終わりだった。
だがそのちょっと風変わりな「作品」が都会の大人たちの興味を引く。
村の純真な少女がどこか暗さのある先鋭的な作品を書くとは。
大人たちは少女を都会に連れ出し、教育を施そうとする。原石を磨け、というわけだ。
だが、彼らは誤解していた。この作品を作っているのが1人の少女だと。
ファビエンヌは自身が都会に行くことを拒否し、アニエスに1人で行けという。それもまた、彼らの「遊び」の延長だったのだ。
そうして2人の人生の歯車は少しずつ食い違い、2人の友情も形を変えていく。
「神童」と(勝手に)言われた少女は、イギリスのフィニッシング・スクールに入れられる。そこで型にはめようとする教育を受けるのだが、アニエスにそれは合うはずもない。
村に残ったファビエンヌとは文通を続けるのだが、それすらも学校の先生のお眼鏡にはかなわない。
イギリスとフランスに隔てられた2人の間の物理的な距離。しかしそれ以上に、心の距離は開いていくのだ。
そして時は流れ。
ファビエンヌはもういない。お産の際に死んでしまった。
アニエスは流れ流れて今はアメリカにいる。そして家でガチョウを飼っている。
ガチョウはばかだと人は言う。でもガチョウが見る夢を人は誰も知らない。
アニエスは自身をガチョウになぞらえる。
彼女は真の作家になるだろうか。ガチョウの見る夢を描き切ることはできるだろうか。 -
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ネタバレ一人の女の子の死(服毒自殺?他殺?)が、それに関わった三人の少年少女のその後の人生をまさに毒のように蝕む様子を書いた小説。三人とも自分を罰するように家庭を築くことに失敗し、他人との深いかかわりを避けて都市の中で漂流して孤独に暮らしている。
天安門事件あたりの北京の暮らしの様子が生き生きと描かれているのは面白い。
最後に明かされる死の真相は奇をてらわず順当にという感じだけど、よく泊陽は如玉をぶん殴らないで我慢できたね!泊陽のやれやれ系スカしたおっさんっぷりははっきり言って嫌いなんだけど、白々しく犯行について弁解して「で?殴れば満足するならそうすれば(笑)」という態度の如玉の不快度はそれをはるかに上回ったため読後感があんまりよくなかった。
彼女ははっきりした罰を受けるべき!と言いたいわけではないのだが、ラストにその不快感以上に感じられるものが私にはなかった。
私は思考の枠組みは言語によってある程度規定されているというのを信じている。中国人の作者が英語で書いたものを日本語で読むという複雑さのせいか、(私には)若干読みづらいというか、頭に入ってきにくい。昔読んだ「ワイルド・スワン」なんかも同じように苦労した覚えがある。
そういうこともあって物語のひだの部分を全然読み取れていないのではないかという気がする。登場人物の冷笑的態度と孤独の感傷を超えて見るべきものが何なのか分からなかった。 -
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『ティエンイの物語』にもあった、共産主義社会下での諦めの境地。
ティエンイは男性目線、本作はたいへん女性目線。
愛とか夢とか語ってられる幸せを実感する。
優しさ (Kindness 2010)
彼みたいな男 (A Man Like Him 2008)
獄 (Prison 2006)
女店主 (The Proprietress 2005)
火宅 (House Fire 2007)
花園路三号 (Number Three,Garden Road 2009)
流れゆく時 (Sweeping Past 2007)
記念 (Souvenir 2006)
黄金の少年、エメラルドの少女 (Golden boy,Emerald Girl 2008)