小田島恒志のレビュー一覧
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一癖も二癖も三癖もあるバーナード・ショー。戯曲「ピグマリオン」本体だけで終わるわけがない。案の定、「序文」が11ページ、「後日譚」がなんと27ページ。
「序文」は英語の発音の音声学的考察。もちろん、戯曲中に登場するコクニー(ロンドン訛り)の解説が中心。
「後日譚」はイライザのその後。シンデレラ・ストーリーのように誤解されているが(とくに映画『マイ・フェア・レディ』を見た人はそう誤解しているかもしれない)、まったくそうではない。ここだけでも、読む価値あり。
英語の発音がいかに不規則か。そのジョーク風の例がghoti。どう発音するかというと、fishと同じ。これを言い出したのはショーとされる(本書の「訳者あとがき」でもそう紹介している)。けれど、ショーはこれを否定していたらしい。三癖もあるショーのこと、その否定も噓かもしれないな。 -
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オードリーヘップバーン主演の映画、マイフェアレディの原作。映画は恋愛ものとして楽しんで観たが、実は奥深い内容だったことを知り原作を読んだ。
イギリスには、アカデミーという、国家に準ずるような機関が発音や文法を統一した過去があり、現在もそのような慣習が存在し、差別につながっている。つまり、正しいとされる発音や文法を使用しないと、階級が低いと見なされているという。
この小説は、花売りが職業という、毎日を生きていくのに必死な身分の低い娘が、上流階級の発音を手に入れ、豊かな暮らしもできるようになったのに、逆に様々なしきたりに縛られ不自由だと感じ、過去の自由だった自分に戻りたいと思う話。だが過去の生活には戻らない。
何も考えずに読み進めていくと、発音を矯正したわがまま独身男のヒギンズ博士に引っ張られ、物語の肝心な部分を見逃してしまうが、作者が意図したのは、上流階級のものが身につけている発音や文法なんて薄っぺらなもので、その気になれば数か月で誰でも身につけられるもの。それを鼻にかけて下層階級のものを馬鹿にする上流階級の人たちへの批判がこのこめられているという。 -
ささやかながら信じる心があれば
- カート
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試し読み
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ささやかながら信じる心があれば
- カート
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しばらく宗教から距離を置いてきた著者「ミッチ・アルボム」。
幼い頃よく通っていたユダヤ教会のラビ(宗教的指導者)から
ある日突然「自分の葬式で君に弔辞を読んで欲しい」と頼まれる。
信仰心を忘れかけていた自分にラビはどうしてそんな大役を頼んできたのか?
断る事もできず、仕方無く弔辞の題材を見つけるために取材を始めた。
その取材を通して著者は、ラビのこれまでの行いを知り、信仰についても考えはじめる。
この本はユダヤ教の素晴らしさを謳ったり、勧誘しているものでは無く、むしろ信仰から離れていた著者が客観的に感じた事を書いている。
指導者ラビの生き方や、人への思いやりの心は、
宗教に興味が無い人でも「なるほど」と納得させれらる。
特に、宗教というものに対して拒絶感のある人が読んでもためになる本という気がする。
「置かれた場所で咲きなさい」という本が今大ヒットしているが、
「ささやかながら信じる心があれば」も何かハッと気付かされる部分が沢山ある。
例えばラビの説教でこんな話がある・・・
農場主は「嵐の中で眠れる人」という推薦状を持った男を雇った。
ある日台風がやってきて、農場主は雇った男を呼びましたが、男はぐっすり眠って返事をしません。
そこで農場主が自ら納屋へ駆けつけるとびっくり。
ありとあらゆる台風への備えが全て準備万端にされていたのです・・・
そこで農場主は「嵐の中で眠れる人」の意味が分かったのです。
人生で大切にしていることに日頃から気を配っていれば。
愛する人に誠実で、信仰に沿った行いをしていれば、
後で悔恨に苦しむ事はありません。
「できたはずだ、やればよかった。」と苦悩してもがく事もありません。
嵐が来ても眠っていられるのです。
このような説教もいくつか入っています。
是非お勧めですよ~。 -
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バーナード・ショーの戯曲。
20世紀初頭のイギリス。言語学(音声学)者のヒギンズ教授が賭けをする。強烈な訛りのある貧しい花売り娘、イライザに、6ヶ月で上流階級の話し方を教え込み、貴婦人を作り上げてみせようというのだ。つまり、教授は話し方こそがその人の人となりを作り上げると考えている。このあたりは階級ごとに話し方が異なるイギリスならではという感じもするが、ともかくも教授、そして友人のピカリング大佐は、下品な花売り娘に上流階級にふさわしい言葉遣いとマナーを教え込もうと奮闘し、大成功を収めるが・・・というお話。
ピグマリオンというのはギリシャ神話に登場するキプロスの王の名である。現実の女性に失望していた彼は、理想の女性像を彫刻する。あまりにもよくできたその姿に、服を着ていないことを恥ずかしく思い、服も彫ってやる。そのうち、彼はその像に恋をしてしまう。哀れに思ったアフロディーテがその像に命を吹き込み、めでたく2人は結ばれる。
このエピソードをベースにしてはいるが、ショーの戯曲はなかなかに辛辣である。
このお話は、原題の「ピグマリオン」よりも、ショーの死後、ミュージカル化、後に映画化されたバージョン、「マイ・フェア・レディ」のタイトルでの方がよく知られているだろう。
「踊り明かそう」(I Could Have Danced All Night)、「素敵じゃない?」(Wouldn't It Be Loverly?)、「ほんの少し運が良けりゃ」(With A Little Bit Of Luck)と、何せ名曲揃い。貧しい娘がぐんと垢ぬけていくさまは劇的で見せ場も多い。
きわめて上品な言葉遣いを習得する一方で、つい元の地金が出てしまう可笑しさもある。
コックニー訛りを直そうとヒギンズが考え出したフレーズ("The rain in Spain stays mainly in the plain"(イライザはaiを「エイ」ではなく「アイ」と発音する)、"In Hertford, Hereford, and Hampshire, hurricanes hardly happen"(訛りがあるとhが抜ける))も有名だが、これはミュージカルのオリジナルというのは意外なところだ。
本当のところ、ショーはミュージカル化には否定的だった。ミュージカルでは教授とイライザが結ばれることを匂わせるハッピーエンド的幕切れになっているが、実は、原作戯曲は違う。
厳しい訓練の末、見事、言葉遣いもマナーも習得して貴婦人となったイライザ。しかし、彼女は気づいてしまう。自分が一個の人間として尊重されてはおらず、単に賭けの対象でしかなかったことを。そして中途半端に階級を超えてしまった自分は、もう元の古巣に戻って同じ暮らしはできず、さりとて本当の貴婦人にもなりえないことを。彼女は爆発する。しかし、自分本位のヒギンズは彼女が何を怒っているのか理解できない。掃き溜めから救ってやったのに恩知らずが何を言うのか。
ミュージカル・映画はそれでもイライザが矛を収め、ヒギンズの元に戻るところで終わる。ロマンティックだけれど何だか釈然としない。いやいや、イライザ、その男はあんたを本当に愛することはないよ、と押しとどめたくなる。
ショーは戯曲に対する「後日譚」を書いている。これが載っているのが本書のキモである。この後日譚がなかなか読ませる。そして、ミュージカル版の結末より「ありえる」だろう結末なのだ。
自我に目覚めたイライザは、結局、自らを崇拝する若者と結婚する。けれどもヒギンズと完全に切れることはない。もはやヒギンズ邸は彼女にとっては実家のようなもので、結婚生活を送りながらも、ヒギンズの身の回りの世話もする。
イライザの夫となる青年も、階級社会の中では宙ぶらりんな存在で、一応は上流階級に属するが、父を亡くして金がなく、満足な教育も受けていない。いわば半端ものどうしが結婚をし、教授や大佐の援助で商売などもするが、もちろん、大成功は収めない。どうにかこうにかやっていく形になる。
イライザは夫にも大佐にも優しいが、教授が横柄な態度を見せるときつく反発する。神話ではピグマリオンとガラテアは結ばれるけれども、ショーのお話では、
彫像のガラテアがみずからの創造主であるピグマリオンを本当に好きになることは決してない
はてさて、イライザは見出されて幸せだったのだろうか。それとも花売り娘のままの方がよかったのだろうか。
解説・訳者あとがきを含めて読ませる。 -
Posted by ブクログ
20世紀初頭のロンドンを舞台に、上流階級で言語学者である男ヒギンズが教養を身に着けていない花売り娘イライザに特訓を施し、上流階級の夫人として通用するような女性に育て上げようとする話。
あらすじだけ見ると谷崎潤一郎『痴人の愛』や田山花袋『蒲団』を連想するのだけど、この物語はこれらの小説のような自らの愛・欲望といったドロドロした感情を掘り下げていく内省的な物語ではなく、階級や女性の立場といった社会的なメッセージを強く持った物語という印象だった。
現代日本においては、「一億総中流」なんて言葉が(たぶん)高度経済成長期に生まれ、今でも意識的には自分を中流だと思っている人が多いようだ(2013年時点で9割近く。Wikipediaより)。私も財政的には中流だと思っている。でも、当時のロンドンはそんなことはなく階級というものが確固として存在し、「中産階級の道徳」(p.100)なんて発言が飛び出すくらい、倫理規範まで異なっていたようだ。
ノブレス・オブリージュなんて言葉もあって、イギリスは日本と比べ階級社会である代わりに、各々の階級が各々の階級を尊重している……なんて上手くできた話は見たことがあるが、実際どうなのだろう。階級によって話し言葉まで大きく変わるだなんて、想像も付かない。
また、階級に加え、女性解放・女性の権利、というテーマでも読むことができる。この作品から遡ること34年、イプセン『人形の家』では、妻であるヒロインの受ける扱いが夫の人形のようだと悟り、険しいながらも尊厳を求める道を進む物語が描かれた。
本戯曲においても、イライザは悪く言えば賭けのネタに使われ、それはまだ良いとしても終わった後の扱いが可哀想なものだった。別に、彼女は「男は仕事、女は家庭」という枠組みに疑問を呈するという、いかにも現代的なことまでを考えているわけではないと思う。彼女は自分の知らない世界を見せてくれるヒギンズに特別な想いを寄せていたし、花売りでなくレディとして扱ってくれたことに、初めて自尊心というものを知ったとまで言っている。そうした一連の経験が、自分とは異なる階級たちの遊びとして終わったらポイな扱いを受けたら、そのダメージはいかばかりか。
劇として行われた際に結末が改変されたということからは、この物語がいかに衝撃の大きいものだったかが窺える。ヒギンズとイライザが結ばれることは、まぁバッドエンドに比べれば観ていて心地良いものなのかもしれない。でも、満足な豚よりも不満足なソクラテスで……、とする立場からすれば、この挑戦的な物語への敬意としては些か欠けるところがあるようにも感じてしまう。
風刺的色合いが強いとはいえ、男女のことが描かれている以上は(というか私が恋愛小説大好物なので)、ヒギンズとイライザの想いとすれ違いに目を向けてもまた楽しい。短い戯曲なので、とりわけヒギンズがどう考えていたかは想像に頼るところが大きい。もし一人称で書かれた小説だったら、彼らの内面はどのように描かれたのだろうか。劇も観てみたいな。 -
Posted by ブクログ
きっかけは、本屋さんで平積みしているのを見つけたとき。面白そうだと思いながらも、「積読が他にも溜まっているから」と言い聞かせていたけど、結局ガマン出来ずに、いそいそと購入。
買ったは良いけど、ネックなのは「翻訳物」ってところだなあ…。と思いながらも、最近の翻訳物は読みやすいようにも感じるし、買う前にパラ読みした時も問題なさそうだったから、大丈夫なはず! と思い、他の積読ほったらかしで、早速読み始めました。
まず目次を見て思ったことは、「大学ごとでも、学部ごとでも、分野ごとでもなくランダムに問題を並べてあるなあ」ということ。そういえば、森博嗣の「つぶやきシリーズ」も、ジャンル関係なく、徒然なるままに書いていました。入試と日常じゃ一緒くたに出来ないかもしれないけど…と一瞬思ったけど、両者とも「多角的に考える」ことをさりげに伝えたいのかもしれない・・伝わらなくても、そういう構成にしとけば、自然にそうせざるを得なくなるし(気になったとこだけ読む、なんてことをしない限りは)、と勝手に解釈。
そして各質問も、面接のときに聞かれたら、「うっ…」と答えに詰まって、しどろもどろになりそうだと思いました。「世界一考えさせられる問題」とは、まあもちろんそうなんですけど、同時に、「自分の知識の無さ、教養の無さを自覚させられる問題」とも認識させられた次第です…。だって、建築物が犯罪を減らせる、なんて思いつきもしなかった…。牛一頭が世界中の水の何パーセントか、なんてそもそも世界中の水がどれぐらいあるかも想像出来ないのに。「ハムレットの上演時間が長いと思いませんか?」って聞かれても、ハムレットの演劇見たことないし! と、自分の知識不足を棚に挙げて、下手したら逆ギレしてしまいそう。でも、著者の方が広分野に渡って博識なので、面白く読みました。ただ、残念なのは、キンドルのレビューにも書いてあったけど、その質問に答えて合格した人たちの回答が載っていないので、そっちも取り上げて欲しいなあとは思いました。