あらすじ
強烈なロンドン訛りを持つ花売り娘イライザに、たった6ヵ月で上流階級のお嬢様のような話し方を身につけさせることは可能なのだろうか。言語学者のヒギンズと盟友ピカリング大佐の試みは成功を収めるものの……。英国随一の劇作家ショーのユーモアと辛辣な皮肉がきいた傑作喜劇。(『PYGMALION』改題)
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オードリーヘップバーン主演の映画、マイフェアレディの原作。映画は恋愛ものとして楽しんで観たが、実は奥深い内容だったことを知り原作を読んだ。
イギリスには、アカデミーという、国家に準ずるような機関が発音や文法を統一した過去があり、現在もそのような慣習が存在し、差別につながっている。つまり、正しいとされる発音や文法を使用しないと、階級が低いと見なされているという。
この小説は、花売りが職業という、毎日を生きていくのに必死な身分の低い娘が、上流階級の発音を手に入れ、豊かな暮らしもできるようになったのに、逆に様々なしきたりに縛られ不自由だと感じ、過去の自由だった自分に戻りたいと思う話。だが過去の生活には戻らない。
何も考えずに読み進めていくと、発音を矯正したわがまま独身男のヒギンズ博士に引っ張られ、物語の肝心な部分を見逃してしまうが、作者が意図したのは、上流階級のものが身につけている発音や文法なんて薄っぺらなもので、その気になれば数か月で誰でも身につけられるもの。それを鼻にかけて下層階級のものを馬鹿にする上流階級の人たちへの批判がこのこめられているという。
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オードリー・ヘプバーン主演のマイフェア・レディ、オリジナルが劇であることは知っていたけど、原作(?)を読むのは初めて。こんなタイトルだったのか。
映画とはちょっと違う、イライザたちのその後も興味深い。
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実は映画のマイ・フェア・レディは見ていない状態。映画マイ・フェア・レディとは結末が違うらしいが、本書の流れは納得感あり。こんな扱いでは、求婚してくる青年がいるのにわざわざオジサンと結婚したくはならないだろう。
変身前のイライザなど、かなり汚い?言葉遣いで前半はちょっと読みにくいかも。英語版ではいったいどうなっているのか。話し方の特徴はここまで極端に変わらないし話し方でそんなに運命が変わることなんてなさそうと思ったが、ラジオ、テレビ、動画配信とで正しい発音を自然に聞ける今と19世紀とでは状況も違うのだろう。
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マイフェアレディの原作だが、結末が異なる。映画やミュージカルは見たことが無いが、解説や後日談を読み、こちら(原作)の結末のほうが納得できるなと思った。
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バーナード・ショーの戯曲。
20世紀初頭のイギリス。言語学(音声学)者のヒギンズ教授が賭けをする。強烈な訛りのある貧しい花売り娘、イライザに、6ヶ月で上流階級の話し方を教え込み、貴婦人を作り上げてみせようというのだ。つまり、教授は話し方こそがその人の人となりを作り上げると考えている。このあたりは階級ごとに話し方が異なるイギリスならではという感じもするが、ともかくも教授、そして友人のピカリング大佐は、下品な花売り娘に上流階級にふさわしい言葉遣いとマナーを教え込もうと奮闘し、大成功を収めるが・・・というお話。
ピグマリオンというのはギリシャ神話に登場するキプロスの王の名である。現実の女性に失望していた彼は、理想の女性像を彫刻する。あまりにもよくできたその姿に、服を着ていないことを恥ずかしく思い、服も彫ってやる。そのうち、彼はその像に恋をしてしまう。哀れに思ったアフロディーテがその像に命を吹き込み、めでたく2人は結ばれる。
このエピソードをベースにしてはいるが、ショーの戯曲はなかなかに辛辣である。
このお話は、原題の「ピグマリオン」よりも、ショーの死後、ミュージカル化、後に映画化されたバージョン、「マイ・フェア・レディ」のタイトルでの方がよく知られているだろう。
「踊り明かそう」(I Could Have Danced All Night)、「素敵じゃない?」(Wouldn't It Be Loverly?)、「ほんの少し運が良けりゃ」(With A Little Bit Of Luck)と、何せ名曲揃い。貧しい娘がぐんと垢ぬけていくさまは劇的で見せ場も多い。
きわめて上品な言葉遣いを習得する一方で、つい元の地金が出てしまう可笑しさもある。
コックニー訛りを直そうとヒギンズが考え出したフレーズ("The rain in Spain stays mainly in the plain"(イライザはaiを「エイ」ではなく「アイ」と発音する)、"In Hertford, Hereford, and Hampshire, hurricanes hardly happen"(訛りがあるとhが抜ける))も有名だが、これはミュージカルのオリジナルというのは意外なところだ。
本当のところ、ショーはミュージカル化には否定的だった。ミュージカルでは教授とイライザが結ばれることを匂わせるハッピーエンド的幕切れになっているが、実は、原作戯曲は違う。
厳しい訓練の末、見事、言葉遣いもマナーも習得して貴婦人となったイライザ。しかし、彼女は気づいてしまう。自分が一個の人間として尊重されてはおらず、単に賭けの対象でしかなかったことを。そして中途半端に階級を超えてしまった自分は、もう元の古巣に戻って同じ暮らしはできず、さりとて本当の貴婦人にもなりえないことを。彼女は爆発する。しかし、自分本位のヒギンズは彼女が何を怒っているのか理解できない。掃き溜めから救ってやったのに恩知らずが何を言うのか。
ミュージカル・映画はそれでもイライザが矛を収め、ヒギンズの元に戻るところで終わる。ロマンティックだけれど何だか釈然としない。いやいや、イライザ、その男はあんたを本当に愛することはないよ、と押しとどめたくなる。
ショーは戯曲に対する「後日譚」を書いている。これが載っているのが本書のキモである。この後日譚がなかなか読ませる。そして、ミュージカル版の結末より「ありえる」だろう結末なのだ。
自我に目覚めたイライザは、結局、自らを崇拝する若者と結婚する。けれどもヒギンズと完全に切れることはない。もはやヒギンズ邸は彼女にとっては実家のようなもので、結婚生活を送りながらも、ヒギンズの身の回りの世話もする。
イライザの夫となる青年も、階級社会の中では宙ぶらりんな存在で、一応は上流階級に属するが、父を亡くして金がなく、満足な教育も受けていない。いわば半端ものどうしが結婚をし、教授や大佐の援助で商売などもするが、もちろん、大成功は収めない。どうにかこうにかやっていく形になる。
イライザは夫にも大佐にも優しいが、教授が横柄な態度を見せるときつく反発する。神話ではピグマリオンとガラテアは結ばれるけれども、ショーのお話では、
彫像のガラテアがみずからの創造主であるピグマリオンを本当に好きになることは決してない
はてさて、イライザは見出されて幸せだったのだろうか。それとも花売り娘のままの方がよかったのだろうか。
解説・訳者あとがきを含めて読ませる。
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20世紀初頭のロンドンを舞台に、上流階級で言語学者である男ヒギンズが教養を身に着けていない花売り娘イライザに特訓を施し、上流階級の夫人として通用するような女性に育て上げようとする話。
あらすじだけ見ると谷崎潤一郎『痴人の愛』や田山花袋『蒲団』を連想するのだけど、この物語はこれらの小説のような自らの愛・欲望といったドロドロした感情を掘り下げていく内省的な物語ではなく、階級や女性の立場といった社会的なメッセージを強く持った物語という印象だった。
現代日本においては、「一億総中流」なんて言葉が(たぶん)高度経済成長期に生まれ、今でも意識的には自分を中流だと思っている人が多いようだ(2013年時点で9割近く。Wikipediaより)。私も財政的には中流だと思っている。でも、当時のロンドンはそんなことはなく階級というものが確固として存在し、「中産階級の道徳」(p.100)なんて発言が飛び出すくらい、倫理規範まで異なっていたようだ。
ノブレス・オブリージュなんて言葉もあって、イギリスは日本と比べ階級社会である代わりに、各々の階級が各々の階級を尊重している……なんて上手くできた話は見たことがあるが、実際どうなのだろう。階級によって話し言葉まで大きく変わるだなんて、想像も付かない。
また、階級に加え、女性解放・女性の権利、というテーマでも読むことができる。この作品から遡ること34年、イプセン『人形の家』では、妻であるヒロインの受ける扱いが夫の人形のようだと悟り、険しいながらも尊厳を求める道を進む物語が描かれた。
本戯曲においても、イライザは悪く言えば賭けのネタに使われ、それはまだ良いとしても終わった後の扱いが可哀想なものだった。別に、彼女は「男は仕事、女は家庭」という枠組みに疑問を呈するという、いかにも現代的なことまでを考えているわけではないと思う。彼女は自分の知らない世界を見せてくれるヒギンズに特別な想いを寄せていたし、花売りでなくレディとして扱ってくれたことに、初めて自尊心というものを知ったとまで言っている。そうした一連の経験が、自分とは異なる階級たちの遊びとして終わったらポイな扱いを受けたら、そのダメージはいかばかりか。
劇として行われた際に結末が改変されたということからは、この物語がいかに衝撃の大きいものだったかが窺える。ヒギンズとイライザが結ばれることは、まぁバッドエンドに比べれば観ていて心地良いものなのかもしれない。でも、満足な豚よりも不満足なソクラテスで……、とする立場からすれば、この挑戦的な物語への敬意としては些か欠けるところがあるようにも感じてしまう。
風刺的色合いが強いとはいえ、男女のことが描かれている以上は(というか私が恋愛小説大好物なので)、ヒギンズとイライザの想いとすれ違いに目を向けてもまた楽しい。短い戯曲なので、とりわけヒギンズがどう考えていたかは想像に頼るところが大きい。もし一人称で書かれた小説だったら、彼らの内面はどのように描かれたのだろうか。劇も観てみたいな。
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古典ミュージカル「マイ・フェア・レディ」の原作として名高い戯曲。本書は2013年に石原さとみ主演で上演された舞台の脚本用に翻訳したものをベースにしている。「マイ・フェア・レディ」とはラスト近辺の雰囲気が大分違うものになっている。「マイ・フェア・レディ」のエンディングに以前から強引さや不自然さを感じていたので、「やっぱり元はこういうオチだったか」とスッとした。
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幸か不幸か、舞台も映画も見たことがないので、素直に原作を読めたと思う。音声学者としては天才的なヒギンズが、貧民街に住まい花売りで日銭を稼ぐ、恐ろしく訛りのきついイライザに対して、最後まで彼女の心情に理解を示さない嫌な男として描かれているので、この原作の結末は至極当然だった。
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『マイ・フェア・レディ』を知らずに読み進めていたのだが、とにかく面白かった。古典作品でこんなに笑ったのは初めてかもしれない。話の展開や登場するキャラクターたちの魅力のなせる技か、よく考えると腹立たしく感じそうなことも気にならなかった。終わりはとても現実的でハッピーエンドとは毛色が異なるけれど、大変身を遂げた後にどうしたいのか、ということを考えさせられた。
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ショーが(後日談での弁明を含めて)この話で言いたかったことをざっくりまとめてみると・・・
①女性(イライザ)にとっての創造主(ピグマリオン=ヒギンズ)は絶対的であり、強い関係性を持つ対象としては続くが、恋愛対象とはなりえない。
②ピグマリオン効果(期待による学習・努力は実る)は存在するが、女性(イライザ)を思うがままにしようとする男性(ヒギンズ)はそれをまるで自分の所有物のように永久に自分の手元に置いておけると勘違いすると最終的に破滅する。
ということなんじゃないかと思う。
なので、舞台版、映画「マイ・フェア・レディ」のようなヒギンズ・イライザのハッピーエンドはショーにとっては「あり得ない結末」。後日談で「あんな暴君のマザコンと誰が結婚したいと思うんだ?」と言っているのはやや後付け説明の感があるが、まあ確かにその通りだと思う。
後日談は丁寧な口調で書かれているが、「馬鹿どもが、なんでもハッピーエンドにしようとしやがって!文章ちゃんと読んでりゃわかんだろ」と心の中で読者に悪態をついていたであろうことが容易に想像できる。それを思うとショー自身の性格がヒギンズにもろに投影されているように思えてきて、個人的にはこの本のオモシロさが倍増した。
ちなみに、ショーがもし生きていたら、「アンドリュー・ロイド=ウェバーのミュージカル版オペラ座の怪人こそピグマリオンだ」というかもしれないとふと思った。
Posted by ブクログ
読みやすかった。ピグマリオンってタイトルがしっくりきた。映画見てみたいけどなんでタイトル変えたのかなあわかりづらいからかしら。
イザベラに対する扱いって男性陣の性格とかいうよりもなにか時代背景的なものを感じたんだけどどうなんだろう、少し知りたくなった。お芝居だから表現できる作品かなとも思った(文字で読んだから、よくこんな主題を文字媒体でやろうとしたなーって思ったけど、演劇のための文字なんでした…)
Posted by ブクログ
映画を先に観ていたので、場面を想像するといつもオードリーヘップバーンが出てきてしまう。
物語の結末は意外であった。
私としては映画版のほうが好みである。
台本形式(?)だが、思いのほか読みやすかった。
Posted by ブクログ
お、おもしろかったー!これは良い小説だった!
下町訛りのひどい女性が、二人の学者に美しい言葉遣いを学び淑女になっていく話。1章から4章まではそのようすがコミカルに描かれていて。第5章では淑女となったイライザは…という展開。
そこではイライザが自らの尊厳をかけて、彼女自身の才知をしたたかに駆使して戦うのだけど、その皮肉とひねくれ満載の舌戦がなんとまぁ痺れることか!周りを彩るのは同じく固有の率直さと運で中産階級となった父や、どこまでも紳士な大佐や、優しくも芯の強い母親と、最終的に呵々大笑する学者と、やーな感じの人はまったくいなくて、これで面白くない訳がない!
それだけに後日談はすごく無粋に感じたのが残念。突然三人称記述で言い訳めいた印象もあるのもマイナス。もーそんなのわかってるって!と本を投げ出したくなるような。
あとがきを読むとまぁ背景はわかるけども……。でもやっぱり無粋だと思うなぁ。わかってない輩なんかほっときゃよかったのに。僕は気高く自律した女性であろうとしたイライザが好きでしたよ。
Posted by ブクログ
ミュージカル・映画「マイ・フェア・レディ」の原作である戯曲。バーナード・ショーの作品は初読。
音声学の教授が街の花売りの娘(二十歳位)の発音を矯正して公爵夫人に仕立てられるかを賭けて遊ぶお話。教授はいつの間にやら変な種類の情を抱くが最初の動機がおかしいので素直に愛せるようになどなる筈もなく、娘の方は愛と恩義を感じつつも、結局は男の筋の悪さを感じ取ってか、手酷く振って物語は終わる。(ミュージカル・映画の方では、よりを戻すようなエンディングだそう。)
教授が熱心に指導している場面では、(30年程前の話だけど)小室哲哉が華原朋美に歌唱指導している場面が頭に浮かんだ。男側の心理状態はかなり近いのではないだろうか。周りから眺めた場合の醜悪さも。
訛りが重要なモチーフなので(しかも百年前のお話)、翻訳家にとっては大変な苦労があったようで、訳者あとがきもおもしろい。