小笠原豊樹のレビュー一覧
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軽薄純情な青年アリョーシャと清純ヒステリックなナターシャの恋物語を中心とした人間ドラマ。冒頭から出てくる老人と犬(アゾルカ)がけっこう重要な役回りだったり、ネリーの意外な素性だったりと構成が巧みなように思う。語り手がドストエフスキー的な人物(デビュー作は当たってその後はうまくいっていない状態)というのも面白い。
人間に対する観察力というか洞察力が深いのか虐げる側と虐げられる側はあっても単純な善悪の話はない。公爵の考え方(ゲスなところはあるが)も現代人には同調できる面もあるのではあるまいか。どちらかというと悪意なく天使のように悪魔的所業を行うアリーシャのほうがゲス野郎な気もする。自分の知人でホストに嵌った女性がいたが状況的に似ていて時代を超えた普遍性が感じ取れる。
577ページからのナターシャの愛情に対する自己分析が印象的。
個人的には本当の主人公はネリーだと思うし、そのためか読み終わったときに何ともいえない深い余韻を覚えた。
恋愛・親子関係が上手くいっていない人にもお勧めしたい傑作。 -
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目次
・霧笛
・歩行者
・四月の魔女
・荒野
・鉢の底の果物
・目に見えぬ少年
・空飛ぶ機械
・人殺し
・金の凧、銀の風
・二度とみえない
・ぬいとり
・黒白対抗戦
・サウンド・オブ・サンダー(雷のような音)
・山のあなたに
・発電所
・夜の出来事
・日と影
・草地
・ごみ屋
・大火事
・歓迎と別離
・太陽の黄金の林檎
レイ・ブラッドベリと言えば、SF作家でありながら抒情的、ノスタルジックでメランコリーな作風というのがイメージだったし、そういう作品が多いのはもちろんなんだけど、それだけではないことに気づく。
ただ後ろ向きのノスタルジーではない。
かなりはっきりと、行き過ぎた科学至上主義などを批判している。
”無線車で外出していると、連絡は、ひっきりなしです。ああ、連絡か!実に体裁のいい言葉じゃありませんか。連絡とはつまり、いつも摑まえられているってことです。抑えられていると言うべきかな。”(人殺し)
似たようなことは森博嗣も作品の中で「携帯電話は使われている人が持つものでしょう。私は持ちません」と西之園萌絵に言わせていたなあ。
主人公はラジオ、電話、しゃべる家電を壊して回り、刑務所の独房で静かに過ごす。
黒人対白人の野球の試合。
特に記述はないけれど、1960年代のアメリカ南部が舞台でしょうか。
日々体を使った生活をし身体能力の高い黒人と、普段体を動かすことのない白人の試合。
けれども大人はみんな、当然白人が勝つと思っている。
審判はアイルランド人。
案の定白人は審判にも食ってかかる。
試合は黒人が勝ち、観客はそそくさと家に帰る。
「お家に帰りましょう。黒人はカミソリを持ってるかもしれないわ!おお、こわい!」
元の皇帝は、空飛ぶ機械を発明した男を殺す。
その男に悪意がないことはわかっているが、いつか誰かがその機械を大量殺人のための兵器として悪用するかもしれないので、その芽を摘むために。
ごみ屋は仕事をやめようかと妻に相談する。
原爆が落ちたらごみ収集よりも死体の回収を優先するようにと市長に言われて、そんなことはできないと思った。
しかし妻は言う。「家族のこと、生活のことを考えて」と。
ただ時流に流されていけば、何も考えなければ、楽に生きられるのかもしれない。
けれども、その後に悪夢のような日々が来るかもしれないことを、そのツケを子孫に残していくことを想像できないのなら、人間という生き物は何なのだ?
そんなブラッドベリの怒りを過剰に感じてしまったのは、過日に観た映画『マイ・ブックショップ』の影響かもしれない。 -
Posted by ブクログ
日曜の午後、急にドストエフスキー読みたい!気分になって一気読み。今まで読んだ彼の作品のどれよりも読みやすかった。それに、主人公(語り手)を素直にかっこいい!と思ってしまった。今まで読んだ彼の作品は、どれも、「自分にもこういう弱い部分がある」と共感しつつ、親しみは持ちたくなかった。(持てない、ではない。笑)けど、ワーニャ。彼は本当に素敵だったので、驚いてしまった。ナターシャと父の関係性には、舌を巻くリアリティがあった。家族って近すぎて全体像が見えない分、すごく難しい。どの人物も重厚で複雑なドラマを持っていて、読み返したらまた違う人の気持ちにフォーカスするだろうな。けど…なんといったらいいか。これだけ濃いドラマが書けるドストたんやっぱり偉大
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素晴らしい。
何という美しさ、何という陰鬱さ。
収録作品の中でも圧倒的に知られていると思われる「霧笛」。声高に作品テーマを語ることのないブラッドベリにしては珍しい、込められた寓意を明確に文章で説明している、ある意味「わかりやすい」作品です。が、だからと言って物語が陳腐化しないのがブラッドベリの底力。最後まで静かな余韻を残す、短いけれど心に残る作品です。
「サウンド・オブ・サンダー(雷のような音)」も印象的でしたね。フツーのSF作家であれば、タイム・パラドックスが起こった後にどう収拾を付けるのか?という点を前面に押し出して一大スペクタクル巨編を書くぞ!ぐらい考えてもおかしくはないのに、ブラッドベリはタイム・パラドックスの起因となった男の愚かしさ、そして彼を取り巻く状況の不穏さを丁寧に執拗に描き出すことによって、一つの作品を紡ぎ上げます。ブラッドベリにとって重要なのは、論理的な落とし前の付け方ではなく、その瞬間の印象深さや肌触りといったものなんでしょうね。
E・A・ポーを彷彿とさせる心理ホラー「鉢の底の果物」、思春期の少女特有の底知れぬ残酷さを描き出して余りある「四月の魔女」、人間がここまで愚かになれることを端的に表現した「山のあなたに」・・・どれもこれも美しく、艶やかで、そして残酷な作品ばかりです。最後に収められた表題作の、ウィットに富んだオチも素晴らしいですね。 -
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一つの長大なメロドラマである。小説を読むことの――ここしばらく味わっていたのとは別の種類の――楽しさを、思い起こさせてくれた。これまで読んできたようなロシア文学に特有の退屈さ・冗長さ(地主階級や小役人による殆ど無内容としか思えぬ埒の開かないお喋りの如き)は些かも感じられず、物語が実に力動的に展開する。或る意味で、娯楽小説といえる部分もあるかもしれない(冒頭に於ける老人の死に始まり、少女ネリーの死によって物語は閉じらるが、この少女の物語が小説にミステリ的な趣さえ与えている)。
アリョーシャは、徹底的に主体性が無く意志薄弱な男として描かれている。更に、彼は自分の思っていることを相手に話さないではいられない。こうした、外面(仮面)と区別される内面がない=自我の分裂がない=裏表がない=幼児的でさえある彼の性質が、ナターシャやカーチャの母性的な愛情を惹きつけるのか・・・?
一方、マスロボーエフの役回り――俗物的でありながら虐げる側には立たない――は、「解説」にある通り、確かに興味深い。
そして狡猾な俗物たるワルコフスキー。彼はニヒリズムを通過してしまった人間の一つの雛型であろう。理想や美徳に一切の価値を見出さず、それを信奉する者を徹底して貶め、自らの富・権力・快楽を i.e. 即物的な価値を徹底的に追求するべく、仮面を被り悪を為す――しかも悪に対して確信的な自覚を持って。ここにはニーチェやフロイトの先駆けを見出し得る。
"すべての人間の美徳の根元にはきわめて深いエゴイズムがある・・・。"
"なぜならば道徳というやつは、本質的には快適さと同じことであって、つまり、快適な生活のためにのみ発明されたものだからです。"
"世界のすべてが滅びようとも、われわれだけは決して滅びない。世界が存在し始めたとき以来、われわれはずっと存在し続けてきたのです。・・・つまり自然そのものがわれわれを保護してくれるんです・・・。"
僕自身は、ニヒリズム後の人間には、「露悪的即物主義」の他にも可能性が在り得るのではないかと思っている。がしかし、ともかくも我々人間はついにニヒリズムを経験してしまっている訳で、時計の針は戻らない。よって、ドストエフスキーがニヒリズムの中の人間を描いたとするならば、彼の作品が今後永遠に読まれ続けるのも、宜なるかな。哲学がニーチェ以前に戻れないように、文学もドストエフスキー以前には帰れないのだろう。
最後に、ナターシャとワーニャの幸福が暗示されているところが、嬉しい。