「宇宙人」という言葉をじっと見つめていると、次第になんともいえない可笑しみが湧いてくる。
まずなにが可笑しいって「人」である。宇宙の人。いったい誰のことを指すのだろう。地球以外の星に生息している生物のことを指して「宇宙人」と呼んでいることは知っているけど、そもそもの概念の規定のしかたがおかしくないだろうか。なんでヒューマノイド限定なんだろう。
私はSFやファンタジーが好きで、著者の松尾さんと同じくオカルトに多大な興味を持っていた。つのだじろうの「うしろの百太郎」に本気で怯えたり、ムー大陸の謎に胸をときめかせたこともある。心霊写真も、指の隙間から覗き見るくらい興味があるし、「自然界のパワー」とやらにも興味がある。
ただそれは、多くのレビューに見られるように「ロマン」とか「夢」と称するのがふさわしい感情なのである。
そんなのがあったらいいな~、そういうことが本当にあったらどんなに面白いだろう、というスタンスなのだ。だから、次々と例を上げて、「こんなのどう?」「いやこういう感じの方が面白いよ」という雰囲気で話をするのは大好きである。
「きれいな言葉を聴かせると水は綺麗な結晶をつくる」とか、「ナスカの地上絵は宇宙人が書かせた」とか、「数字には不思議な力がある」とか、本書に出てくる不思議話はどれも皆一度は耳にしたことのある言説である。それを、「そういう話」として楽しむ分には全然きらいじゃないし、つかの間夢を見て気分がよくなると思う。
でも、それが完全なる事実かというと、それはどうだろう、と思う。
可能性を言い出せば確かにゼロではないのかもしれないが、それにしては確実な存在を証明するものがいっこうに出現しないのはなぜなんだろう。
本書はそういった疑問を丁寧に考察したすばらしい入門書である。
先日私は、ある漫画家の本をすべて手放した。もともと超常現象に近しい人で、作品もそういった事柄を扱ったものが多かった。時に人間心理の複雑さも絡まって非常に面白い作品だと思っていたのだが、最近、どうやらその漫画家はそれらの事象をすべて真実だと思っているらしいことがわかってきた。
フィクションを構築する要素として扱っているならともかく、本気でそれを信じているとなるとちょっと困ってしまう。ずいぶん迷ったが、フィクションとして成立していないと判断して手放してしまった。
世間でも、またぞろ超常現象を本気で信じる風潮が強まってきている気がする。不安な世情だから、どうしてもそういう不確かなものにすがってしまいたくなるのかもしれない。
不確かと書いたが、そのテの思想はたいていが「断定」の文法を使う。「◯◯では**と言われている」と伝聞なのに断定。見てきたわけでもないし、証明もされてないのに、断定するのである。きっとその「断定」がたいそう頼もしいものに感じられるんだろうなあと思うのだが、それをむやみに他人に押し付けるのだけは勘弁してもらいたいと思う。自分が信じているのは勝手だが、それを他人に広めようとするなら、それなりの裏付けが必要だろう。ただ「見える」「聞こえる」「感じる」「そうなっている」という理由だけではやはり納得しづらいのである。
科学が証明できるものだけがすべてではない、ともいうが、そのことが即座に、科学で証明できないことも存在するということを意味するという論理の飛躍はいただけない。
たぶん、人間が把握できる事象なんて、世界全体からみたらごくわずかなのだろう。ほとんどのことがわからない。その「わからないこと」を処理する方法として、論理的、かつ実証的に追求するか、超常現象に丸投げして、「そういうものがあるんだよ」と十把一絡げにして思考停止するかの違いなのだ。
思考停止はとても楽なのでついそちらへ流れがちだ。しかし、本書のように、ちょっと足を止めて考えると、それだけでも疑問が泉のように湧き出てくる。せめてその疑問にだけでも答えてほしいものだと思う。もし本当に宇宙人がいて、霊が存在して、自然のパワーが石にたまる、というなら。
それにしても、本書を読んでいると過去にどれだけたくさんの、超常現象を扱ったフィクションを読んできたことかと、その数に改めて驚いてしまう。どの話もみな、一度は漫画や小説でお目にかかったことのある謎ばかりだから。私はずっと、「これが本当だったらすごいな」くらいにしか思ってこなかったが、世の中にはこれを真実だと心底信じてしまう人もたくさんいるのだ。信じてすがることは悪くはないけど、そこに常に金銭が絡むからよくない。ファンタジーにとどめて、自分一人で楽しむのがちょうどいいのではないだろうか。