取材のため訪れた玉ノ井の私娼窟で、小説家・大江匡はお雪という女に出会う。やがて大江はその女のもとに足しげく通うようになる。
濹東陋巷を舞台に梅雨明けから秋の彼岸までの季節の移り変わりとともに美しくも悲しく、物語は展開する。昭和12年、著者58歳の作品である。
挿絵が多く、平易な文章で淡々とつ
...続きを読むづられている。ページの余白wwも多く、 小難しいタイトル(「濹」の字表示されんやんけw)にも関わらず、存外すらすら読めてしまった。
向島の私娼窟が舞台ということもあって、少し艶かしい、つやっぽい雰囲気。
雨上がりの湿気を含んだ空気に、舗装されていない道のぬかるみ、小汚い溝川、しめっぽさが感じられる。
そんな環境にありながら主人公の相手役であるお雪は、ごくあっさりとした性格で、淡々と日常のもろもろのことをこなし、至って“普通に”暮らしてる様子。娼婦として生きる自分の人生を悲観するでもなく。
そんなお雪さんに、現代の働く独身女性として、共感を感じざるをえなかった。
宇都宮で芸者をしていたというお雪に、大江が東京へでてきた理由を尋ねるシーンが印象的。
「どうしてここへ来たんだ。よくこの土地のことを知っていたね。馴れないうちは驚いたろう。芸者とはやり方がちがうから」
「そうでもないわ。最初ッから承知で来たんだもの。芸者は掛りまけがして、借金の抜けるときがないもの。それに…身を落とすなら稼ぎいい方が結句徳だもの。」
「わたしの年は水商売には向くんだとさ。だけれど行先のことはわからないわ。ネエ」
じっと顔を見詰められたので、わたくしは再び妙に不安な気持ちがした。
こういうやりとりを見ると、昔読んだ泉鏡花の『婦系図』思い出しちゃうね。
身を落とした女性がすがるものは恋愛しかない。その恋愛の神にも見放されてしまうと、絶望しかなくなってしまう。
この作品では、主人公は結局お雪さんを棄てて(?っていうかわざと関係を自然消滅させて)しまうわけだが、このときばかりはお雪さんの心のうちを推して哀しくなってしまった…。
(今も昔も恋愛に奔放な男にふりまわされてしまう女の構図は変わらないものなのかも。なんか哀しいし悔しい。)
ところで「ボク東綺譚」の「ボク」(濹)の字についてなんですが(旧字体だから変換めんどくさい)
これについては作者があとがきで述べていた。
「向島寺島町にある遊里の見聞記をつくって、私はこれを『濹東綺譚』と命名した。
濹の字は林述斎が隅田川を言い現すために濫(みだ)りに作ったもので、その詩集には『濹上漁謡』と題せられたものがある。文化年代のことである。」