永井荷風のレビュー一覧
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購入済み
昔の街が見える
今まで読んだことのない、永井荷風。
墨東綺譚を読んでから、昔の言葉使い、漢字が何とも新鮮な‼️嬉しくなる街の描写。
この頃の地図が有れば、いいのですけど。取り敢えず、現代の地図を開きながら読んでいます。
益々、街歩きが愉しくなりますね🎵
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永井荷風ブーム続行中につき、初期の代表作を読んでみました。
永井荷風は明治36年(1903年)〜明治40年(1907年)、24歳から28歳まで、アメリカ遊学しています。
解説と年表によると、タコマ、セント・ルイス、ミシガン州、ニューヨークと渡り、カレッジの聴講生ののちワシントンの日本公使館、正金銀行ニューヨーク支店に勤務しているようですが、基本的には親の金での外遊です。
『あめりか物語』というタイトルから想像されるようなアメリカ賞賛の外遊記かと思いきや、親の金で留学するのにも飽きて純情な日本人女学生をもて遊ぶ男の話とか、富豪の夫人のヒモになっている男とか、一攫千金を夢見てやってきたのに身を持ち崩して裏町に暮らしている男とか、「アメリカの日本人」(しかも堕落した日本人)の話ばかり出てきます。
また、ちゃいなたうんとか、シアトルの日本人街とか、ブロードウェイとか、裏町を歩き回り、色街の女たちを描いているあたりは、アメリカまで来て何をしているのかというか、三つ子の魂というか。
おそらく一番有名なのが『牧場の道』のタコマの癲狂院に収容された日本人の話。
この癲狂院、「ウェスタン・ステート・ホスピタル」として現存するそうです。当時の精神病院といえば、病気が悪化するような治療しかしていなかったんじゃないかと想像してしまいます。
親の金でフラフラと遊学する日本人学生がいる一方で、アメリカの最下層で働く日本人の出稼ぎ労働者の存在。この対比が『あめりか物語』の全編にわたってさらっと描かれています。
当然ながら荷風は遊学している上層の側なので、下層の労働者たちに思いは馳せても彼らを救済しようとするわけでもなく、社会を批判するわけでもなく、そんな距離感も感じます。
(21ページ)
彼等は人間としてよりは寧荷物の如くに取扱われ狭い汚い船底に満載せられていた。天気の好い折を見計って彼等はむくむく甲板へ上って来て茫々たる空と水とを眺める、と云って心弱い我等の如く別に感慨に打たるる様子もない。三人四人、五人六人と一緒になって、何やら高声に話し合って居る中、日本から持って来た煙管で煙草をのみ、吸殻を甲板に捨て、通り過ぎる船員に叱責せられるかと思うと、やがて月の夜なぞには、各自の生国を知らせる地方の流行唄を歌い出す。私は彼等の中に声自慢らしい白髪の老人の交って居た事を忘れない。
シアトルの日本人街が気になって調べてみました。1930年代頃には8000人が住んでいた日本町ですが、開戦後、住民は強制収容所に送られ日本町は消滅。現在ではパナマ・ホテルなど一部が歴史的建造物として保存されているそうです。
アメリカ外遊記にふさわしい『夏の海』、『市俄古の二日』、イギリス人女性とのつかの間の恋を描いた『六月の夜の夢』なども印象的。
講談社文芸文庫版は2000年発行なので、漢字やかなづかいが改められているのですが、それでも今はあまり使われないだろう文字やかなづかいが多用されていて、読むのに時間はかかりますが、なんとも趣きがあります。
おそらく声に出して読んだときの響きも考えて書かれた文章のリズムの美しさ。
(197ページ)
此の晴渡った明い夏の日、爽快な海の風吹く水村は世の夢を見尽した老人の隠場では無く、青春の男女が青春の娯楽青春の安逸青春の痴夢に酔い狂すべき温柔郷である。
科学者ならぬ無邪気の少女(おとめ)は野に咲く花を唯だ美しいとばかり毒艸なるや否やを知らぬと等しく道学者警察官ならぬ自分は、幸にして肉体の奥に隠された人の心の善悪を洞察する力を持たぬので美しい男美しい女の歩む処、笑う処、楽しむ処は、凡て理想の天国であるが如く思われる。ましてや、此の夏の海辺は冬の都の劇場舞蹈場の如く、衣服と宝石の花咲く温室では無く、赤裸々たる雪の肌の薫る里であるをや。
以下、引用。
8
唯だ行かんが為めに行かんとするものこそ、真個との旅人なれ。心は気球の如くに軽く、身は悪運の手より逃れ得ず、如何なる故とも知らずして、常に唯だ、行かん哉、行かん哉と叫ぶ。
(旅──ボードレール)
13
「ねえ、君。自分の身体が安全だと云うことを信じて居ると、外を吹いて居る暴風雨(ストーム)と云うものは、何となしに趣味のあるように聞えるですな。」
「何事に寄らず皆然うですよ。一方で愉快を感ずるものがあれば、其の為めに一方では屹度苦痛を感ずるものが起るです。火事なんぞは焼かれるものこそ災難だが、外のものには三国一の見物だからね。」
20
「帰り道に此の山の上の癲狂院を案内しよう。ワシントン州の州立癲狂院(スタートアサイラム)だから、此の辺では一寸有名だよ。」
21
彼等は人間としてよりは寧荷物の如くに取扱われ狭い汚い船底に満載せられていた。天気の好い折を見計って彼等はむくむく甲板へ上って来て茫々たる空と水とを眺める、と云って心弱い我等の如く別に感慨に打たるる様子もない。三人四人、五人六人と一緒になって、何やら高声に話し合って居る中、日本から持って来た煙管で煙草をのみ、吸殻を甲板に捨て、通り過ぎる船員に叱責せられるかと思うと、やがて月の夜なぞには、各自の生国を知らせる地方の流行唄を歌い出す。私は彼等の中に声自慢らしい白髪の老人の交って居た事を忘れない。
32
午後の四時を過ぎたのみであるが太陽は早くも見渡す地平線下に没し去り、灰色の空の間に低く一条の力なき紅色の光を残すばかり。
56
「モデルになる様なのがありますかね。」
「滅多に有るものじゃ無い。然しモデルにはならないまでも、兎に角肉付の可い若い女を見るのは非常に愉快なものだ。此の愉快は我々が神様から授与った大特権の一つなんだから、我々男性は一生を女の研究に委ねる義務があるです。」
67
読書する事よりは遊ぶ事が好き──遊ぶと云うよりは寧ろ安逸無為に時間を消費する事が好きな男である。私は日頃彼が其の居室の長椅子もしくは木蔭の青芝の上に身を安楽に横たえ葉巻(シガー)の烟をゆったり燻しながら、何を考えるともなく、何を為すともなく、悠然空行く雲を眺めて居るのを見る時、ああ、此の世に此様怠惰な人間があろうかと思う事が度々でした。
72
「併し、私には一時でも関わ無い。其の一時が苦しい事なら兎も角、スイートな事である以上には五分間でも一分間でも関いませんよ。つまり愉快な夢を見ただけ徳じゃありませんか。」
97
「一遍紐育の風に吹かれたら最後、例え往来へ行倒れになるまでも、此の土地から離れられなくなるのが紐育です。若いものにゃア泣くも笑うも皆な紐育でさ。」
98
日沈んで半時間あまり燃る夕栄の色は次第に薄らいで、大空に漂う白い浮雲の縁にのみ幽な薔薇色の影を残すと、草生茂る広い野の面は青い狭霧の海となり、遠い地平線の彼方は何れが空何れが地とも見分けられぬようになる。其れに反して、遠い彼方此方の真白な農家の壁や、四五人連で野を越して行く牛追らしい女の白い裾、又は処々に黄葉して居る木の梢、名も知れぬ草の花なぞそう云う白いものの色のみは光線の作用で、四辺の薄暗く黄昏れて行くに従い却て浮出す如く鮮明になって、暫く見詰めて居ると不思議にも次第々々に自分の方に向って動き近いて来るように思われる。
103
無論、自分は恋と云う事よりも長く此の国に存在する黒白両人種の問題をば今更らしく考え出すのである。一体黒人と云うものは何故白人種から軽侮又嫌悪されるのであろう。其の容貌が醜いから黒いからであろうか。単に五十年前は奴隷であったと云うのに過ぬのであろうか。人種なるものは一個の政治的団体を作らぬ限りは如何しても迫害を免がれないのであろうか。永久に国家や軍隊の存在が必要なのであろうか……
111
何処へ行っても子供が吾々日本人の顔を見ると「スケベイ」と云って囃す。この言葉は日本の醜業婦の口を経て或る特別の意味を作り、広く米国の下層社会に流布して居るのである。
127
彼女はハドソン河に近いアッパートメントに住んで居ると云うので、ブロードウエーを北へ小半時間、市内目抜の場所を離れると、直ぐ様真夜中過ぎの淋しさは物凄いばかり、我を運ぶ馬の蹄の空遠く反響し、車の窓から射込む夜の空明りは白粉した女の顔をば蒼く朧ろに照す。
決して美人と云うのでは無い。大きな油画のモデルでは無いが、一筆ペンシルを振った漫画の風情。人は時として、「完成」よりも「未成」の風致に却て強く魅せられる事がある。
146
「其ればかりじゃない、良人は恁う云いますの……お前は髪を綺麗に梳上たり、衣服をキチンと着たりするよりも寝起のままの姿が一番美人に見えますッて……ほほほほほ。私は人を馬鹿にするって怒りましたら、良人は真面目らしく、お前は亜米利加の女見たように働く為めに出来たのじゃ無い。土耳古か波斯の美人のように薄い霞のような衣服を着て大きな家の中で泉水へ落る水の音に昼の中もうっとりと夢をみて居る女だって、そう申すんでした。」
158
私は春の野辺へ散策に出て大きなサンドウィッチや林檎を皮ごと横かじりして居る娘を見ても、或はオペラや芝居の帰り夜深の料理屋でシャンパンを呑み、良人や男連には眼もくれず饒舌って居る人の妻を見ても、よしや最小し極端な例に接しても、私は寧ろ喜びます。
185
一家母親を合せて食事した後、若い二人は自分の請に応じて、彼の「夢の曲」を演奏したのである。花形の笠着た朦朧たる電燈の光に、男は肩幅の広い背を此方にして洋琴(ピアノ)に向うと、女は胡弓(バイオリン)を取って倚りかかるように男の傍に佇立む。長椅子に白髪の母親、鼻眼鏡を掛けた大きな禿頭の老判事、硝子窓の外には幽に湿けた三月の夜を急いで歩いて行く人の靴音。
187
アメリカには日本のように女学生に限って小説を禁ずるような無慙な規則はないと見える。
190
ジェームスは前面のミシガン大通(アベニユー)に聳えた建物を指して、あれはアンネキスと云う旅館(ホテル)、その隣がオージトリヤムと云う劇場、遠くの彼れは卸売の註文を取引する会社の塔である。あれは何、これは何、と一つ一つ説明してくれた末、まだ少し時間もあるからマーシャル、フヒールドと云う大商店へ案内しようと云った。
194
自分は今まで此の様な威儀犯すべからざる銅像を見た事は無い。覚えず知らず身を其の足下に抛って拝伏したいような気がするのである。この深い感動は全く銅像建設の第一義とも云うべき其の位置の宜しきが故に外ならぬ。何れの美術にしても所謂アクセッソリーなるものを無視しては美術の効果を全からしむる事は出来ないが殊に銅像記念碑等について自分は此の感を深くする。人は木の葉に等しい船よりして、彼方に民主国の大都府を臨みつつ大西洋上に此の巨像を仰いだなら、誰とて一種の感慨に打れざる得まい。この銅像は新大陸の代表者、新思想の説明者であると同時に、金城鉄壁の要塞よりも更に強力な米国精神の保護者である。自分は此の銅像が仏蘭西より寄贈されたものである事を聞いて居るが、其の建設者なる一美術家の力を思えば、神にも等しいではないか。
去年自分は落機(ロッキー)山を越え、またナイヤガラ瀑布を過ぎた折、この世界の奇勝も予想した程には自分の心を動さなかったが、それに反してミゾリ州の落葉の村、ミシガン州の果樹園の夕暮に忘れられぬ詩興を催され漫ろに感じたことがある──およそ造化の巧を集めたそれ等の名山霊水は久しい間世の人に驚かれ敬われて居る事、若しミルトンが失楽園ダンテの神曲にも譬え得べくば、彼の名も無き村落の夕暮の景色は正に無名詩人が失恋の詩とも云うべき歟。トルストイはベトーヴェンの音楽よりも農奴(ムージック)が夕の歌に動され、ジョージ、エリオットは古代の名画よりも小さな和蘭(オランダ)画を愛したと云えば、自分が常に博士や学者が考究の玩弄物になって居るクラシックの雄篇大作よりも、ツルゲネフ、モーパッサンの小篇に幾多の興を覚ゆる事、独り浅学の故とのみ限られはせまい。
197
此の晴渡った明い夏の日、爽快な海の風吹く水村は世の夢を見尽した老人の隠場では無く、青春の男女が青春の娯楽青春の安逸青春の痴夢に酔い狂すべき温柔郷である。
自分は走行く電車の上から幾人と数え尽くされぬ程多くの美人多くの美男子を見た。自分は美人美男子を見る時程、現世に対する愛着の念と、我と我存在を嬉しく思う事はない。
科学者ならぬ無邪気の少女(おとめ)は野に咲く花を唯だ美しいとばかり毒艸なるや否やを知らぬと等しく道学者警察官ならぬ自分は、幸にして肉体の奥に隠された人の心の善悪を洞察する力を持たぬので美しい男美しい女の歩む処、笑う処、楽しむ処は、凡て理想の天国であるが如く思われる。ましてや、此の夏の海辺は冬の都の劇場舞蹈場の如く、衣服と宝石の花咲く温室では無く、赤裸々たる雪の肌の薫る里であるをや。
自分は西洋婦人の肉体美を賞讃する一人である。その曲線美の著しい腰、表情に富んだ眼、彫像のような滑な肩、豊な腕、広い胸から、踵の高い小な靴を穿いた足までを愛するばかりか、彼等の化粧法の巧妙なる流行の選択の機敏なるに、無上の敬意を払って居る一人である。彼等は其の毛髪の色合、顔立、身体付によって、各(おのおの)巧に衣服の色合や形を選び、十人並の容貌も、能くその以上に男の眼を引くようにする。
239
何うかすると、私は単なる晴渡った青空の色を見た丈でも自分ながら可笑しいほど無量の幸福を感ずる事があるが、その反動としては何の理由もないのに、忽如として闇の様な絶望に打沈む事がある。
265
「私は決して独身主義ではない。けれども、屹度独身で了らなければならないと思って居る。それも決して償却的の結果ではないから絶望した悲惨な憂鬱なフランスの寡婦のようなものにもならず、そうかと云って米国の褊狭な冷酷な老嬢(オールドメイド)にもなりはしない。
イギリス人は斃れるまでも笑って戦う。だからもしや一生独身で暮すような事になっても、私は死ぬまで此の通り何時までも此の通りのお転婆娘でしょう。」
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Posted by ブクログ
荷風五十五歳から五十七歳まで、昭和八年から十年までの日記。枯れていない。とことん女好きである。昭和十年十二月廿七日、前月に新聞広告を出して雇ったばかりの三十歳前後の家政婦羽生政江を「下女政江を捕へて倶に入浴す」(p374)。五十七歳の荷風の性欲恐るべし。文壇や出版業界の一部に対して牙をむく姿勢も相変わらずで、昭和十年八月十七日には長年の知り合いであった生田葵山と銀座のきゆうぺるで「激論二三時間に及び余は兎に角葵山氏とは以後友人関係を断つ可きことを声明」(pp320-321)するし、同年十一月十四日には島崎藤村名義で勧誘されたペンクラブへの加入を断ってしまう(p360)。全九巻のうちの折り返し地点である第五巻は二〇二六年前半刊行予定とオビにある。ここまできたら最後まで付き合おうと思う。
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Posted by ブクログ
『つゆのあとさき』が予想外に良かったので、永井荷風の代表作といわれるこちらを。
1937年(昭和12年)の作品。
初老の作家が玉の井の私娼窟で若い女と出会い、彼女に過去の幻影を見る、という「男の妄想」みたいな物語。
銀座のカフェーの女給と比較して、お雪はまだ純朴であると言っているあたり、さんざんカフェーで遊んできたお前が言うなという感じですね。
芸者を見受けしたこともある荷風が、それを彼女たちのせいにして「失敗だった」というのもまた。
(126ページ)
わたくしは若い時から脂粉の巷に入り込み、今にその非を悟らない。或時は事情に捉われて、彼女たちの望むがまま家に納れて箕帚を把らせたこともあったが、しかしそれは皆失敗に終った。彼女たちは一たびその境遇を替え、その身を卑しいものではないと思うようになれば、一変して教うべからざる懶婦となるか、しからざれば制御しがたい悍婦になってしまうからであった。
ただ、作家が過去の幻影を見ているのは、お雪だけでなく、銀座あたりでは失われてしまった江戸の風情を玉の井の私娼窟に投影しているんですよね。汚いドブ川が流れる売春宿にこそ、心を救われる美しさがあるという情景が描かれています。
(118ページ)
いつもの溝際に、いつもの無花果と、いつもの葡萄、しかしその葉の茂りはすこし薄くなって、いくら暑くとも、いくら世間から見捨てられたこの路地にも、秋は知らず知らず夜ごとに深くなって行く事を知らせていた。
岩波文庫版では新聞連載時の木村荘八の挿絵が掲載されているんですが、これを見ると当時の向島界隈、人通りも少ないし、めちゃくちゃ暗い。「ラビラント」に迷いこむような、橋を渡ると異世界みたいな感じだったのかなと。
「あとがき」にあたる「作後贅言」に、帚葉翁(校正家・神代種亮のことだそうです)とともに銀座をうろついた日々のことが書かれているのが個人的には本文以上に興味深かった。
特に、酔った男たちが他党を組んで銀座を歩く「無遠慮な実例」として早慶戦の後の慶應の学生とOBをあげているのはおもしろい。
荷風は慶應の教授となり『三田文学』を創刊してるんですが、「早く辞めてよかった」とまで言っている。
(165ページ)
その実例によって考察すれば、昭和二年初めて三田の書生及三田出身の紳士が野球見物の帰り群をなし隊をつくって銀座通を襲った事を看過するわけには行かない。
(166ページ)
そのころ、わたくしは経営者中の一人から、三田の文学も稲門に負けないように尽力していただきたいと言われて、その愚劣なるに眉を顰めたこともあった。彼等は文学芸術を以て野球と同一に視ていたのであった。
また、「銀座のカフェーは夏になると暑い紅茶と珈琲を出さない」、これは「紅茶と珈琲本来の香気を失ってしまうものである」と書かれているのも、カフェの日本史を追っている私としては気になるところ。
戦争をはさんで一度全て焼失しているんですけれど、昭和のはじめの銀座がすでにここまでモダンだったことに驚きますし、現在まで残っているもの、消えてしまったものに心惹かれます。
『荷風の昭和』という本も出ているので読んでみたいです。
以下、引用。
8
何でもその頃非常に評判の好いものであったというが、見ればモオパッサンの短篇小説を脚色したものであったので、わたくしはあれなら写真を看るにも及ばない。原作をよめばいい。その方がもっと面白いと言ったことがあった。
29
小説をつくる時、わたくしの最も興を催すのは、作中人物の生活及び事件が開展する場所の選択と、その描写とである。わたくしはしばしば人物の性格よりも背景の描写に重きを置き過るような誤に陥ったこともあった。
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このような辺鄙な新開町に在ってすら、時勢に伴う盛衰の変は免れないのであった。いわんや人の一生においてをや。
一体この盛場では、組合の規則で女が窓に坐る午後四時から蓄音機やラディオを禁じ、また三味線をも弾かせないという事で。雨のしとしとと降る晩など、ふけるにつれて、ちょいとちょいとの声も途絶えがちになると、家の内外に群り鳴く蚊の声が耳立って、いかにも場末の裏町らしい侘しさが感じられて来る。それも昭和現代の陋巷ではなくして、鶴屋南北の狂言などから感じられる過去の世の裏淋しい情味である。
75
そのころには男を「彼氏」といい、女を「彼女」とよび、二人の侘住居を「愛の巣」などという言葉はまだ作り出されていなかった。馴染の女は「君」でも、「あんた」でもなく、ただ「お前」といえばよかった。亭主は女房を「おッかア」女房は亭主を「ちゃん」と呼ぶものもあった。
溝の蚊の唸る声は今日にあっても隅田川を東に渡って行けば、どうやら三十年前のむかしと変りなく、場末の町のわびしさを歌っているのに、東京の言葉はこの十年の間に変れば実に変ったものである。
103
女子がアッパッパと称する下着一枚で戸外に出歩く奇風については、友人佐藤慵斎君の文集に載っているその論に譲って、ここには言うまい。
104
この道の片側に並んだ商店の後一帯の路地はいわゆる第一部と名付けられたラビラントで。
106
言葉には少しも地方の訛りがないが、その顔立と全身の皮膚の綺麗なことは、東京もしくは東京近在の女でない事を証明しているので、わたくしは遠い地方から東京に移住した人たちの間に生れた娘と見ている。性質は快活で、現在の境涯をも深く悲しんではいない。むしろこの境遇から得た経験を資本にして、どうにか身の振方をつけようと考えているだけの元気もあれば才智もあるらしい。男に対する感情も、わたくしの口から出まかせに言う事すら、そのまま疑わずに聴き取るところを見ても、まだ全く荒みきってしまわない事は確かである。わたくしをして、そう思わせるだけでも、銀座や上野辺の広いカフエーに長年働いている女給などに比較したなら、お雪の如きは正直とも醇朴とも言える。まだまだ真面目な処があるとも言えるであろう。
117
残暑の日盛り蔵書を曝すのと、風のない初冬の午後庭の落葉を焚く事とは、わたくしが独居の生涯の最も娯しみとしている処である。
118
いつもの溝際に、いつもの無花果と、いつもの葡萄、しかしその葉の茂りはすこし薄くなって、いくら暑くとも、いくら世間から見捨てられたこの路地にも、秋は知らず知らず夜ごとに深くなって行く事を知らせていた。
126
わたくしは若い時から脂粉の巷に入り込み、今にその非を悟らない。或時は事情に捉われて、彼女たちの望むがまま家に納れて箕帚を把らせたこともあったが、しかしそれは皆失敗に終った。彼女たちは一たびその境遇を替え、その身を卑しいものではないと思うようになれば、一変して教うべからざる懶婦となるか、しからざれば制御しがたい悍婦になってしまうからであった。
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溝の角の無花果と葡萄の葉は、廃屋のかげになった闇の中にがさがさと、既に枯れたような響を立てている。表通りへ出ると、俄に広く打仰がれる空には銀河の影のみならず、星という星の光のいかにも森然として冴渡っているのが、言知れぬさびしさを思わせる折も折、人家のうしろを走り過る電車の音と警笛の響とが烈風にかすれて、更にこの寂しさを深くさせる。
136
わたくしはとにかくもう一度お雪をたずねて、旅行をするからとか何とか言って別れよう。その方が鼬の道を切ったような事をするよりは、どうせ行かないものなら、お雪の方でも後々の心持がわるくないであろう。
わたくしは散歩したいにもその処がない。尋ねたいと思う人は皆先に死んでしまった。風流絃歌の巷も今では音楽家と舞踊家との名を争う処で、年寄が茶を啜ってむかしを語る処ではない。わたくしは図らずもこのラビラントの一隅に於いて浮世半日の閑を偸む事を知った。
140
四五日過ると季節は彼岸に入った。空模様は俄に変って、南風に追われる暗雲の低く空を行き過る時、大粒の雨は礫を打つように降りそそいでは忽ち歇む。夜を徹して小息みもなく降りつづくこともあった。わたくしが庭の葉雞頭は根もとから倒れた。萩の花は葉と共に振り落され、既に実を結んだ秋海堂の紅い茎は大きな葉を剝がれて、痛ましく色が褪せてしまった。濡れた木の葉と枯枝とに狼藉としている庭のさまを生き残った法師蟬と蟋蟀とが雨の霽れま霽れまに嘆き弔うばかり。
156
またしても乗換の車を待つため、白木屋の店頭に佇立むと、店の窓には、黄色の荒原の処々に火の手の上っている背景を飾り、毛衣で包んだ兵士の人形を幾個となく立て並べてあったのが、これまたわたくしの眼を驚した。
157
銀座通に柳の苗木が植えつけられ、両側の歩道に朱骨の雪洞が造り花の間に連ねともされ、銀座の町が宛ら田舎芝居の仲の町の場というような光景を呈し出したのは、次の年の四月ごろであった。
158
霞ヶ関の義挙が世を震動させたのは柳まつりの翌月であった。
銀座通の裏表に処を択ばず蔓衍したカフエーが最も繁昌し、また最も淫卑に流れたのは、今日から回顧すると、この年昭和七年の夏から翌年にかけてのことであった。
いずこのカフエーでも女給を二、三人店口に立たせて通行の人を呼び込ませる。裏通のバアに働いている女たちは必ず二人ずつ一組になって、表通を歩み、散歩の人の袖を引いたり目まぜで誘ったりする。商店の飾付を見る振りをして立留り、男一人の客と見れば呼びかけて寄添い、一緒にお茶を飲みに行こうと云う怪し気な女もあった。
百貨店でも売子の外に大勢の女を雇入れ、海水浴衣を着せて、女の肌身を衆人の目前に曝させるようにしたのも、たしかこの年から初まったのである。裏通の角々にはヨウヨウとか呼ぶ玩具を売る小娘の姿を見ぬ事はなかった。
わたくしは若い女達が、その雇主の命令に従って、その顔とその姿とを、あるいは店先、あるいは街上に曝すことを恥とも思わず、中には往々得意らしいのを見て、公娼の張店が復興したような思をなした。そして、いつの世になっても、女を使役するには変らない一定の方法がある事を知ったような気がした。
159
月島小学校の女教師が夜になると銀座一丁目裏のラバサンというカフエーに女給となって現れ、売春の傍枕さがしをして捕えられた事が新聞の紙上を賑した。それはやはりこの年昭和七年の冬であった。
162
アイスクリームの如きは帰朝以来今日まで一度も口にした事がないので、もし銀座を歩く人の中で銀座のアイスクリームを知らない人があるとしたなら、それは恐らくわたくし一人のみであろう。
銀座通のカフエーで夏になって熱い茶と珈琲とをつくる店は殆ど無い。西洋料理店の中でも熱い珈琲をつくらない店さえある。紅茶と珈琲とはその味の半は香気にあるので、もし氷で冷却すれば香気は全く消失せてしまう。しかるに現代の東京人は冷却して香気のないものでなければこれを口にしない。
163
紅茶も珈琲も共に洋人の持ち来ったもので、洋人は今日といえどもその冷却せられたものを飲まない。これを以て見れば紅茶珈琲の本来の特性は暖きにあるや明である。今これを邦俗に従って冷却するのは本来の特性を破損するもので、それはあたかも外国の小説演劇を邦語に訳す時土地人物の名を邦化するものと相似ている。わたくしは何事によらず物の本性を傷けることを悲しむ傾があるから、外国の文学は外国のものとしてこれを鑑賞したいと思うように、その飲食物の如きもまた邦人の手によって塩梅せられたものを好まないのである。
万茶亭は多年南米の殖民地に働いていた九州人が珈琲を売るために開いた店だという事で、夏でも暖い珈琲を売っていた。
165
飲食店の硝子窓に飲食物の模型を並べ、これに価格をつけて置くようになったのも、けだし已むことを得ざる結果で、これまたその範を大阪に則ったものだという事である。
165
わたくしはこの不体裁にして甚だ無遠慮な行動の原因するところを詳にしないのであるが、その実例によって考察すれば、昭和二年初めて三田の書生及三田出身の紳士が野球見物の帰り群をなし隊をつくって銀座通を襲った事を看過するわけには行かない。
166
かつてわたくしも明治大正の交、乏を承けて三田に教鞭を把った事もあったが、早く辞して去ったのは幸であった。そのころ、わたくしは経営者中の一人から、三田の文学も稲門に負けないように尽力していただきたいと言われて、その愚劣なるに眉を顰めたこともあった。彼等は文学芸術を以て野球と同一に視ていたのであった。
169
「そうかね、しかし肉体を露出する事から見れば、浴衣の方があぶないじゃないですか。女の洋装は胸の方が露出されているが腰から下は大丈夫だ。浴衣はこれとは反対なものですぜ。」
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「そういえば女の洋服は震災時分にはまだ珍らしい方だったね。今では、こうして往来を見ていると、通る女の半分は洋服になったね。カフエー、タイガーの女給も二、三年前から夏は洋服が多くなったようですね。」
170
「踊も浴衣ならいいという流儀なら、洋装ははやらなくなるかも知れませんね。しかし今の女は洋装をよしたからといって、日本服を着こなすようにはならないと思いますよ。一度崩れてしまったら、二度好くなることはないですからね。芝居でも遊芸でもそうでしょう。文章だってそうじゃないですか。勝手次第にくずしてしまったら、直そうと思ったって、もう直りはしないですよ。」
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この附近の酒場でわたくしがその名を記憶しているのは、万茶亭の向側にはオデッサ、スカール、サイセリヤ、こなたの側にはムウランルージュ、シルバースリッパ、ラインゴルトなど。また万茶亭と素人屋との間の路地裏にはルパン、スリイシスタ、シラムレンなど名づけられたものがあった。今もなお在るかも知れない。
179
今まで、どうかすると、一筋二筋と糸のように残って聞えた虫の音も全く絶えてしまった。耳にひびく物音は悉く昨日のものとは変って、今年の秋は名残りもなく過ぎ去ってしまったのだと思うと、寝苦しかった残暑の夜の夢も涼しい月の夜に眺めた景色も、何やら遠いむかしの事であったような気がして来る……年々見るところの景物に変りはない。年々変らない景物に対して、心に思うところの感懐もまた変りはないのである。
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Posted by ブクログ
単純に4名の文豪の吉原をテーマの作品を揃えただけかと思いきや、これはこの文庫を企画編集された人のアイディアが面白い。
まず最初に荷風の「里の今昔」という随筆を持ってきて、その中で江戸の情緒が残る明治期の吉原の思い出を語らせます。
そしてその随筆内で荷風が推す「当時の吉原が上手く作品に描かれている」として、樋口一葉の「たけくらべ」、広津柳浪「今戸心中」、泉鏡花「註文帳」の3作品を挙げており、それを続けて掲載した一冊という体裁になっています。
ですので、読み方によっては「永井荷風セレクト吉原アンソロジー」って感じで楽しめる仕上がりです。
巻末解説(川本さん)に詳しく述べられていますが、3作品それぞれ視点の置き所が違いつつ、それぞれその作家らしい作品でどれも面白かった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ向島を舞台にした小説の中で、向島を舞台にしようと取材している老小説家が、やはり若い女性と交流する筋の小説を書いているという、作中作のような構造を持っている。というより、登場するあらゆる人物はやはり作者荷風自身の像なのであって、正直なところ小説というより、随筆に近いといっていいのではないかと思う。「小説」とする必要性はよくわからないようにも思ったが、それはともかくとして、品格があってすらすらと余裕のある文体は、やはり当時の一流の作家の力量のなせるものだと感じた。恥ずかしいことに荷風先生の作品は他に読んでいないが、おそらく、私が内田百けん先生に対して抱いている感想と同様、この方に関しては小説よりも随筆を得意としているのではないかと感じた。
また、物語の筋などより、舞台とする場所の選択やその描写にこそ力を入れることによって、劇的な展開に匹敵する感興を読者に起こさせることのできるという、荷風の理論も面白く感じた(理解が間違っているのかもしれないが)。