『つゆのあとさき』が予想外に良かったので、永井荷風の代表作といわれるこちらを。
1937年(昭和12年)の作品。
初老の作家が玉の井の私娼窟で若い女と出会い、彼女に過去の幻影を見る、という「男の妄想」みたいな物語。
銀座のカフェーの女給と比較して、お雪はまだ純朴であると言っているあたり、さんざんカフェーで遊んできたお前が言うなという感じですね。
芸者を見受けしたこともある荷風が、それを彼女たちのせいにして「失敗だった」というのもまた。
(126ページ)
わたくしは若い時から脂粉の巷に入り込み、今にその非を悟らない。或時は事情に捉われて、彼女たちの望むがまま家に納れて箕帚を把らせたこともあったが、しかしそれは皆失敗に終った。彼女たちは一たびその境遇を替え、その身を卑しいものではないと思うようになれば、一変して教うべからざる懶婦となるか、しからざれば制御しがたい悍婦になってしまうからであった。
ただ、作家が過去の幻影を見ているのは、お雪だけでなく、銀座あたりでは失われてしまった江戸の風情を玉の井の私娼窟に投影しているんですよね。汚いドブ川が流れる売春宿にこそ、心を救われる美しさがあるという情景が描かれています。
(118ページ)
いつもの溝際に、いつもの無花果と、いつもの葡萄、しかしその葉の茂りはすこし薄くなって、いくら暑くとも、いくら世間から見捨てられたこの路地にも、秋は知らず知らず夜ごとに深くなって行く事を知らせていた。
岩波文庫版では新聞連載時の木村荘八の挿絵が掲載されているんですが、これを見ると当時の向島界隈、人通りも少ないし、めちゃくちゃ暗い。「ラビラント」に迷いこむような、橋を渡ると異世界みたいな感じだったのかなと。
「あとがき」にあたる「作後贅言」に、帚葉翁(校正家・神代種亮のことだそうです)とともに銀座をうろついた日々のことが書かれているのが個人的には本文以上に興味深かった。
特に、酔った男たちが他党を組んで銀座を歩く「無遠慮な実例」として早慶戦の後の慶應の学生とOBをあげているのはおもしろい。
荷風は慶應の教授となり『三田文学』を創刊してるんですが、「早く辞めてよかった」とまで言っている。
(165ページ)
その実例によって考察すれば、昭和二年初めて三田の書生及三田出身の紳士が野球見物の帰り群をなし隊をつくって銀座通を襲った事を看過するわけには行かない。
(166ページ)
そのころ、わたくしは経営者中の一人から、三田の文学も稲門に負けないように尽力していただきたいと言われて、その愚劣なるに眉を顰めたこともあった。彼等は文学芸術を以て野球と同一に視ていたのであった。
また、「銀座のカフェーは夏になると暑い紅茶と珈琲を出さない」、これは「紅茶と珈琲本来の香気を失ってしまうものである」と書かれているのも、カフェの日本史を追っている私としては気になるところ。
戦争をはさんで一度全て焼失しているんですけれど、昭和のはじめの銀座がすでにここまでモダンだったことに驚きますし、現在まで残っているもの、消えてしまったものに心惹かれます。
『荷風の昭和』という本も出ているので読んでみたいです。
以下、引用。
8
何でもその頃非常に評判の好いものであったというが、見ればモオパッサンの短篇小説を脚色したものであったので、わたくしはあれなら写真を看るにも及ばない。原作をよめばいい。その方がもっと面白いと言ったことがあった。
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小説をつくる時、わたくしの最も興を催すのは、作中人物の生活及び事件が開展する場所の選択と、その描写とである。わたくしはしばしば人物の性格よりも背景の描写に重きを置き過るような誤に陥ったこともあった。
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このような辺鄙な新開町に在ってすら、時勢に伴う盛衰の変は免れないのであった。いわんや人の一生においてをや。
一体この盛場では、組合の規則で女が窓に坐る午後四時から蓄音機やラディオを禁じ、また三味線をも弾かせないという事で。雨のしとしとと降る晩など、ふけるにつれて、ちょいとちょいとの声も途絶えがちになると、家の内外に群り鳴く蚊の声が耳立って、いかにも場末の裏町らしい侘しさが感じられて来る。それも昭和現代の陋巷ではなくして、鶴屋南北の狂言などから感じられる過去の世の裏淋しい情味である。
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そのころには男を「彼氏」といい、女を「彼女」とよび、二人の侘住居を「愛の巣」などという言葉はまだ作り出されていなかった。馴染の女は「君」でも、「あんた」でもなく、ただ「お前」といえばよかった。亭主は女房を「おッかア」女房は亭主を「ちゃん」と呼ぶものもあった。
溝の蚊の唸る声は今日にあっても隅田川を東に渡って行けば、どうやら三十年前のむかしと変りなく、場末の町のわびしさを歌っているのに、東京の言葉はこの十年の間に変れば実に変ったものである。
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女子がアッパッパと称する下着一枚で戸外に出歩く奇風については、友人佐藤慵斎君の文集に載っているその論に譲って、ここには言うまい。
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この道の片側に並んだ商店の後一帯の路地はいわゆる第一部と名付けられたラビラントで。
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言葉には少しも地方の訛りがないが、その顔立と全身の皮膚の綺麗なことは、東京もしくは東京近在の女でない事を証明しているので、わたくしは遠い地方から東京に移住した人たちの間に生れた娘と見ている。性質は快活で、現在の境涯をも深く悲しんではいない。むしろこの境遇から得た経験を資本にして、どうにか身の振方をつけようと考えているだけの元気もあれば才智もあるらしい。男に対する感情も、わたくしの口から出まかせに言う事すら、そのまま疑わずに聴き取るところを見ても、まだ全く荒みきってしまわない事は確かである。わたくしをして、そう思わせるだけでも、銀座や上野辺の広いカフエーに長年働いている女給などに比較したなら、お雪の如きは正直とも醇朴とも言える。まだまだ真面目な処があるとも言えるであろう。
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残暑の日盛り蔵書を曝すのと、風のない初冬の午後庭の落葉を焚く事とは、わたくしが独居の生涯の最も娯しみとしている処である。
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いつもの溝際に、いつもの無花果と、いつもの葡萄、しかしその葉の茂りはすこし薄くなって、いくら暑くとも、いくら世間から見捨てられたこの路地にも、秋は知らず知らず夜ごとに深くなって行く事を知らせていた。
126
わたくしは若い時から脂粉の巷に入り込み、今にその非を悟らない。或時は事情に捉われて、彼女たちの望むがまま家に納れて箕帚を把らせたこともあったが、しかしそれは皆失敗に終った。彼女たちは一たびその境遇を替え、その身を卑しいものではないと思うようになれば、一変して教うべからざる懶婦となるか、しからざれば制御しがたい悍婦になってしまうからであった。
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溝の角の無花果と葡萄の葉は、廃屋のかげになった闇の中にがさがさと、既に枯れたような響を立てている。表通りへ出ると、俄に広く打仰がれる空には銀河の影のみならず、星という星の光のいかにも森然として冴渡っているのが、言知れぬさびしさを思わせる折も折、人家のうしろを走り過る電車の音と警笛の響とが烈風にかすれて、更にこの寂しさを深くさせる。
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わたくしはとにかくもう一度お雪をたずねて、旅行をするからとか何とか言って別れよう。その方が鼬の道を切ったような事をするよりは、どうせ行かないものなら、お雪の方でも後々の心持がわるくないであろう。
わたくしは散歩したいにもその処がない。尋ねたいと思う人は皆先に死んでしまった。風流絃歌の巷も今では音楽家と舞踊家との名を争う処で、年寄が茶を啜ってむかしを語る処ではない。わたくしは図らずもこのラビラントの一隅に於いて浮世半日の閑を偸む事を知った。
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四五日過ると季節は彼岸に入った。空模様は俄に変って、南風に追われる暗雲の低く空を行き過る時、大粒の雨は礫を打つように降りそそいでは忽ち歇む。夜を徹して小息みもなく降りつづくこともあった。わたくしが庭の葉雞頭は根もとから倒れた。萩の花は葉と共に振り落され、既に実を結んだ秋海堂の紅い茎は大きな葉を剝がれて、痛ましく色が褪せてしまった。濡れた木の葉と枯枝とに狼藉としている庭のさまを生き残った法師蟬と蟋蟀とが雨の霽れま霽れまに嘆き弔うばかり。
156
またしても乗換の車を待つため、白木屋の店頭に佇立むと、店の窓には、黄色の荒原の処々に火の手の上っている背景を飾り、毛衣で包んだ兵士の人形を幾個となく立て並べてあったのが、これまたわたくしの眼を驚した。
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銀座通に柳の苗木が植えつけられ、両側の歩道に朱骨の雪洞が造り花の間に連ねともされ、銀座の町が宛ら田舎芝居の仲の町の場というような光景を呈し出したのは、次の年の四月ごろであった。
158
霞ヶ関の義挙が世を震動させたのは柳まつりの翌月であった。
銀座通の裏表に処を択ばず蔓衍したカフエーが最も繁昌し、また最も淫卑に流れたのは、今日から回顧すると、この年昭和七年の夏から翌年にかけてのことであった。
いずこのカフエーでも女給を二、三人店口に立たせて通行の人を呼び込ませる。裏通のバアに働いている女たちは必ず二人ずつ一組になって、表通を歩み、散歩の人の袖を引いたり目まぜで誘ったりする。商店の飾付を見る振りをして立留り、男一人の客と見れば呼びかけて寄添い、一緒にお茶を飲みに行こうと云う怪し気な女もあった。
百貨店でも売子の外に大勢の女を雇入れ、海水浴衣を着せて、女の肌身を衆人の目前に曝させるようにしたのも、たしかこの年から初まったのである。裏通の角々にはヨウヨウとか呼ぶ玩具を売る小娘の姿を見ぬ事はなかった。
わたくしは若い女達が、その雇主の命令に従って、その顔とその姿とを、あるいは店先、あるいは街上に曝すことを恥とも思わず、中には往々得意らしいのを見て、公娼の張店が復興したような思をなした。そして、いつの世になっても、女を使役するには変らない一定の方法がある事を知ったような気がした。
159
月島小学校の女教師が夜になると銀座一丁目裏のラバサンというカフエーに女給となって現れ、売春の傍枕さがしをして捕えられた事が新聞の紙上を賑した。それはやはりこの年昭和七年の冬であった。
162
アイスクリームの如きは帰朝以来今日まで一度も口にした事がないので、もし銀座を歩く人の中で銀座のアイスクリームを知らない人があるとしたなら、それは恐らくわたくし一人のみであろう。
銀座通のカフエーで夏になって熱い茶と珈琲とをつくる店は殆ど無い。西洋料理店の中でも熱い珈琲をつくらない店さえある。紅茶と珈琲とはその味の半は香気にあるので、もし氷で冷却すれば香気は全く消失せてしまう。しかるに現代の東京人は冷却して香気のないものでなければこれを口にしない。
163
紅茶も珈琲も共に洋人の持ち来ったもので、洋人は今日といえどもその冷却せられたものを飲まない。これを以て見れば紅茶珈琲の本来の特性は暖きにあるや明である。今これを邦俗に従って冷却するのは本来の特性を破損するもので、それはあたかも外国の小説演劇を邦語に訳す時土地人物の名を邦化するものと相似ている。わたくしは何事によらず物の本性を傷けることを悲しむ傾があるから、外国の文学は外国のものとしてこれを鑑賞したいと思うように、その飲食物の如きもまた邦人の手によって塩梅せられたものを好まないのである。
万茶亭は多年南米の殖民地に働いていた九州人が珈琲を売るために開いた店だという事で、夏でも暖い珈琲を売っていた。
165
飲食店の硝子窓に飲食物の模型を並べ、これに価格をつけて置くようになったのも、けだし已むことを得ざる結果で、これまたその範を大阪に則ったものだという事である。
165
わたくしはこの不体裁にして甚だ無遠慮な行動の原因するところを詳にしないのであるが、その実例によって考察すれば、昭和二年初めて三田の書生及三田出身の紳士が野球見物の帰り群をなし隊をつくって銀座通を襲った事を看過するわけには行かない。
166
かつてわたくしも明治大正の交、乏を承けて三田に教鞭を把った事もあったが、早く辞して去ったのは幸であった。そのころ、わたくしは経営者中の一人から、三田の文学も稲門に負けないように尽力していただきたいと言われて、その愚劣なるに眉を顰めたこともあった。彼等は文学芸術を以て野球と同一に視ていたのであった。
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「そうかね、しかし肉体を露出する事から見れば、浴衣の方があぶないじゃないですか。女の洋装は胸の方が露出されているが腰から下は大丈夫だ。浴衣はこれとは反対なものですぜ。」
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「そういえば女の洋服は震災時分にはまだ珍らしい方だったね。今では、こうして往来を見ていると、通る女の半分は洋服になったね。カフエー、タイガーの女給も二、三年前から夏は洋服が多くなったようですね。」
170
「踊も浴衣ならいいという流儀なら、洋装ははやらなくなるかも知れませんね。しかし今の女は洋装をよしたからといって、日本服を着こなすようにはならないと思いますよ。一度崩れてしまったら、二度好くなることはないですからね。芝居でも遊芸でもそうでしょう。文章だってそうじゃないですか。勝手次第にくずしてしまったら、直そうと思ったって、もう直りはしないですよ。」
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この附近の酒場でわたくしがその名を記憶しているのは、万茶亭の向側にはオデッサ、スカール、サイセリヤ、こなたの側にはムウランルージュ、シルバースリッパ、ラインゴルトなど。また万茶亭と素人屋との間の路地裏にはルパン、スリイシスタ、シラムレンなど名づけられたものがあった。今もなお在るかも知れない。
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今まで、どうかすると、一筋二筋と糸のように残って聞えた虫の音も全く絶えてしまった。耳にひびく物音は悉く昨日のものとは変って、今年の秋は名残りもなく過ぎ去ってしまったのだと思うと、寝苦しかった残暑の夜の夢も涼しい月の夜に眺めた景色も、何やら遠いむかしの事であったような気がして来る……年々見るところの景物に変りはない。年々変らない景物に対して、心に思うところの感懐もまた変りはないのである。