【感想・ネタバレ】断腸亭日乗 四 昭和八―十年のレビュー

あらすじ

永井荷風(一八七九―一九五九)は,三十八歳から死の前日まで四十一年間,日記『断腸亭日乗』を書き続けた.文章の奥から,時代が浮かび上がる.全文収録.(四)は,昭和八年から昭和十年まで,「文芸復興」の風潮の中での孤高の歩みを収める.初めて詳細な注解を付した(注解・解説=中島国彦)(全九冊)※この電子書籍は「固定レイアウト型」で作成されており,タブレットなど大きなディスプレイを備えた端末で読むことに適しています.また,文字だけを拡大すること,文字列のハイライト,検索,辞書の参照,引用などの機能は使用できません.

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荷風の日記である。第4巻。昭和8年から10年。日中戦争は泥沼に嵌りつつあり、街頭では右翼壮士が戦局拡大をあじり、庶民自ら戦争に突き進んでいる。其の中で荷風は、世捨て人として過ごしている。
⸺これは「断腸亭日乗」読書日記である。気に入った箇所を書写し感想を添える。備忘録として記していた為に文字数は約一万一千字となってしまった。これよりのちはスルーしても良し、適当に摘み食いしても良し。お任せ致します。

R08/03/18春寒く雨降る
今日、川本「荷風の昭和」レビュー上梓。やっと日乗4巻目に手をつける。読み終えるはいつの日か。

昭和八年
・正月2日。曇りてさむし。
元旦は墓掃除・参りで終わる。いつも通り訪れる家、訪ねてくる人無し。2日目で、深川の大石医院に指洗浄に行き(開院してる!)、銀座で夕食。
←荷風にとって、正月は一大イベントではないが、世間も正月休みという概念がなかった?

・3月19日 晴。毎朝鶯語綿蛮たり。瑞香花ひらく。
←89年前の3月終わりの天候。漢文素養のある文、其の点だけでなく、東京自然を観察する眼に感心する事頻り。

・4月6日 微雨後に曇る
サロン春の女給所持の日勤簿に書かれている「女給心得書」を書き写し、「その文言滑稽」とする。即ち以下。
「サロン春の私達は
 日常の何事にも人間愛を持ちませう
 仕事の上で公平無私に働きませう
 何人に対しても謙遜いたしませう
 心も気持も正しく爽々しい一日を過しませう
 御互の為に家の為に国の為に貯金しませう」
←この「滑稽」の意味が今ひとつわからない。最後の一文以外は、極めて真っ当なことを書いていて、最後の一文は、振興職業女給の為に経営者の「おせっかい」だろう。「サロン春」は当時有名らしく、既に「銀座細見」に詳しい紹介があり、吉井勇作詞「春の行進曲」の歌詞にも出てくるらしい。

・4月10日 雨はやみしが空くもりて風冷なり
「路傍の電柱又は空地の板塀などに護国大祈禱会または皇道会結盟大会或は又共産党討滅大演説会等大書したるビラ貼りてあり。之(以下三行弱切取)」
←この頃、万が一「日乗」が警察に押収された時の用心が出ている。(以下三行弱切取)どんな文句を書いていたのか気になる。

・5月初5 晴れて既に薄暑を催す
この日、荷風は昭和6年8月より引き取った関根歌の仔犬「只魯(しろ)」を知り合い紹介の「婦人」に引き渡した。婦人の与える菓子を食い懐いたのを見て安堵している。
←まさか1年9ヶ月も荷風が家に犬を飼っていたとは思わなかった(『荷風の昭和』では「半年」と書いていた。川本の思い違いか)。勿論、「去年の秋より心身甚だしく衰弱し」世話は下女に任せていたらしいが、別れる時は「愛惜の念絶ちて」だった。荷風と仔犬、今ひとつぴったり来ない。結局只魯は、その2日後「家出」し行方不明になる。野良犬としてどういう生涯を送ったのか。これも小説題材になりそう。

・5月7日 天気快晴
荷風家に「怪しき葉書」来れり。喫茶店で故人小山内薫のことを語っていたのを盗み聴きし、「故人の噂を公開の場所でなすは不届なり、店主も迷惑に感じ入りているので、この後は同店へのお立ち寄りはご遠慮あるべし」日乗欄外朱書にて、差出人は白鳩銀子(田村百合子)と露見、とある。
←銀子は元荷風愛人。捨てられた愛人が腹いせで出した葉書である。喫茶店出禁も嘘。百合子らしい葉書。この女性は、別れる時もヤクザまがいの情夫が出てきて、弁護士を雇うなど一悶着あった。葉書指摘はまんま現代、一種の炎上騒ぎの原型と見えなくもない。89年前。ホント、人の小根は一つも変わらない。

・8月9日。晴。
始めてつくつく法師の啼くを聞く。
是夜東京全市防空演習のため燈火を消す。
8月10日。晴。
終日飛行機砲声陰々たり。此夜も燈火を点ずる事能はざれば薄暮家を出で銀座風月堂にて晩餐を食し金春新道のキュベル喫茶店に憩ふ。防空演習を見むとて銀座通の表裏いづこも人出おびただしく、在郷軍人青年団其他弥次馬いづれもお祭騒ぎの景気なり。
←初めての防空演習、灯火禁制。お祭り騒ぎの一般大衆に対して、知識人荷風の気持ちは大いに沈む。正に昭和8年の東京風景だろう。


R08/03/21汗掻く程の暖春

・10月7日くもりて南風烈しく溽暑更に甚し
この日、荷風は机中に2年前に書いて出さなかった手紙を発見す。「教科書出版書肆某に答ふる書」自身の小説がたびたび教科書に無断転載されているのを怒る手紙である。これは掲載打診を断る手紙らしいが、荷風の自作についての想いがよく出ている文章である。
「拙著小説の類はもともと慰みに書き候ものにて、女子教育などに使用致候為書き候ものには無御座候、旦又小生の品行思想両ながら男女青年子弟の教育には甚弊害有之候」「小説家輩の文章を編纂して学生に売付利を食る書肆の悪事を憎み候ものに御座候」
要は、「私の作品は慰みに書いたもので、教育上にもよろしくない、こういう文章を編纂し金儲けしようとするのは大嫌い」ということである。
←偏屈親父ここにあり。勿論褒め言葉。

・10月18日 晴又陰
この夜、待合叶家の女主人より私娼状況を詳しく聴いている。
震災後一夜の値段は2、30円だったらしいが、追々下落し只今は15円がまず高い方にて、並みは6、7円より10円。最近は芸者の出入りする待合で頼む。(以下詳細に店の名前、特徴)この道上手6名挙げている。欄外朱書にて、お客に子爵井上匡四郎(井上毅の養嫡子)、男爵前田某と記す。
←明治憲法起草者の故養父・井上毅が聞いたら何と言ったろうか。

・10月25日小春の好き日なり
昭和3年-8年の流行歌題名を書き写しているが、欄外朱書で「昭和7年玩具ヨウヨウ流行」と書く。
←wikiで調べると、「昭和8年に洋行帰りの教員が流行らせた」とあり、これが日本では享保年間第一次ブームの次の第二次ブームだったらしい。荷風の流行への目ざとさかわかる。因みにスケバン刑事でヨーヨーが流行った1980年代は第四次ブーム。

・11月10日
末尾に
「雨止みて風起る。門外の小径落葉狼藉たり」とあり。
←あたかも句の如し。

・11月11日 終日雨ふる
84頁から4頁に渡り「独身論」を記す。
←途中、6行抹消、2行半抹消有り。拘ってないようで、何処か拘っていたのかもしれない。

・11月17日快晴風あり。近鄰岨崖の霜葉甚佳し
「烏森境内の小待合真砂に往き黒沢おきみに逢ふ。去年十二月の初蠣殻町小待合近藤の帳場にて始めて逢ひしなり。年甘五六。閨中秘戯絶妙。而も慾心なく顔廉価なり。元高嶋屋百貨店売娘なりしと云。」
←有名な荷風の「馴染みになった女」一覧表の最後から2番目に現れる黒沢きみ。秋になって月に2-3回ほど逢っている。
←件の表には「昭和9年暮より10年秋まで毎月50円をやり3,4回出会いたる女なり」とあるが、8,9年の記憶違いだろう。先の私娼ランクで言えば、平均の値段ということになる。「砲兵工廠職工の女」と書いている。それ以上の詳しいことはわからないけど、職工元妻で、百貨店売り子から私娼に転落したのだろうか。なんか込み入った事情はありそうだ。解説によると「ひかげの花」(昭和9年発表)モデルらしい。
荷風の私娼通いは確かに買春なのではあるが、単なる遊びではない。女のことを理解しようとし、実際に幾つも作品に昇華している。この時代だからこそできた、作品取材である。

12月16日 陰。
台所の老婆先月より病気なりしがこの日午後荷物を取りまとめ、親類の者をたよりて我家を去りぬ。この老婆大正十四年の秋より選入れしなれば今年
にて十年とはなれるなり。光陰実に矢の如し。
←下女を置いているとは思っていたけど、老婆だったんだ!荷風の生活は財産持ちにしては質素だとは思う。しかも昼食、夕食はほぼ外食だ。ただ、病気のときはどうしたのかと思っていた。独身男にはやはり下女は必要だ。私も下女が欲しい!

12月31日 晴。時々くもる。
村岡千代という女から50円を貸してくれと言ってきて、押問答の末、車代1円を渡して帰らせている。3日前には10円を貸している。10年ほど前知人の紹介であっているが、最近会い、身の上話を聞かされて、その後借金を言い出した。荷風は、寝てもない女に突然の金の無心を言われたことはない、「これも現代の人心悪化せし1例なるべし。実に怖る可きことなり」という。
←いや、荷風さん、昔も今もずっとこの手の人は居ますぜ。大晦日なので、千代さんかなり切羽詰まっていたのだろうが、段階踏んでいるので、荷風さん金持っているし「金づるでいくらでも引き出せる」と踏んだ面もありそう。荷風、こんな女はホントに大嫌いで、完全な千代さんの見込み違いである。

R08/03/24 暴暖初夏のごとし

昭和九年
・正月20日。暗。寒気や、寛なり。
「高橋君来り放送局アナウンサア雇入試験の事を語る。鮨をまぐろとよむも
のあり。金平牛蒡(きんぴらごぼう)の何物たるかを知らざるものあり。小督局をコトクキョクと読むものあり。いずれも私立大学の卒業生なりと云ふ。」
←当時のアナウンサー試験の一端がしれて興味深い。金平牛蒡は当時の最先端料理だった様だ。小督局(こごうのつぼね)は、人の名、清盛の娘。

2月初3。朝八時頃目覚めて窓外を見るに雪ふりしきりて、窓にちかき椎の木の枝雪の重さにたはみて折れむとす。
「千住に往き大橋の欄干に倚りて河上の雪景を見る。時に日は既に没し、暮雲連山の如く棚曳きわたり、黄昏の微光屋上の雪に映じて紫色を呈す。橋上及び人家の窓には燈火早くも輝き出したれど、空と水面との明さに対岸の屋根は却て暗く、その上につもりし雪さへ次第に黒く見ゆるやうになりぬ。夕雲の連りわたるさま見る見る中に変り行くを眺めやる時、ふと雲の切目より思ひもかけぬ富士の影を認め得たり。北斎が描きし三十六景の中にも千住の図あれど、余は大橋の上より富士を見しは始めてなれば、珍しき心地して手帳取出し橋の灯をたよりに見たる処を描きぬ」
←非常に鮮やかな文章描写。次頁に荷風のスケッチあり。文章程鮮やかでは無い。明確な富士の形無し。それが却ってリアル。一枚絵に瓦波上に5本も煙突つき出たり。下町に2階家以上は無いが、工場地帯ということもあり煙突はあるのだ。

・2月11日 晴。寒気きびしからず。
「小説の腹案をなす」この日黒沢きみに逢っている。2月16日、きみから聞いて新富町平林重坊(私娼を斡旋する老人)が5日召し捕えられたと聞く。おきみ馴染みの千束町喫茶店(一人前金10銭)を取材。私娼や芸者の女連れが多いことを確かめる。
←「ひかげの花」に登場する平林らしき男は10章に出てくるらしい。

・2月20日 晴れて風静なり
(欄外朱書)銀座裏通淫具店ノ看板性とかきたるものこの頃俄に衛生器具とかき替えられたり
←いよいよ、危険思想の取り締まりだけでなく、風俗に対しても警察は目を光らせ始めたと云うことなのだろう。これが「戦時」ということなのだろう。

・2月23日 晴れて風寒し
当世青年男女の用語
どうかと思ふね/わしゃァつらいョ/参つたョ/相当のもんだ 相当にうるさい奴だ/のしちゃう/雰囲気に酔った/バックを離れて自分だけとして考へる/わし顔まけした/腐った あいつ腐ってゐたョ/憂鬱だョ/転向/清算する 過去を清算する/しけてゐる/ダンチだ/タイアツプ
←突然出てきた用語集。半分くらいは現代も使われている用語。むしろ東京弁。しかし、当時は新語流行語たったとは意外。

2月27日 晴
午後黒沢より電話あり。私娼に飽きたので暫く茨城の田舎に帰るらしい。荷風は言葉を尽くして止めるが聞かず(この後も3-4回会っている)。「この女稀代の淫婦にて」云々。ここでは書くのを憚れる様な事なので省略。多分、決して貶していない。褒めている。
←もしかしたら、「飽きた」「田舎」等々は別れるための嘘かもしれない。荷風の取材を薄々気がついたか(^^;)。荷風もそのことに気がついている。1週間後、警察署に行き仮名の黒沢きみの戸籍を見ようとするが果たせなかった。2日後、遂にかの岩井三郎探偵にきみの調査を依頼する。3月27日、調査票受け取る(結果の詳細は一言も書かず。どちらにせよ、小説に活かしたに違いない)。

・3月8日 晴れてさむし
「牛肉店松喜にて夕飯を食す(ロース二人前1円30銭)一人の青年乞食の子供二人をつれて突然入り来り、牛鍋を命ず。青年は洋服をき頭髪を乱したる様子雑誌記者ならずば例の似而非社会主義者なるべし。下足番の若衆と何やら高声に押問答をなす中、ぼろ着たる二人の乞食は外へ逃げ出し、やがて洋服の男も今は手持無沙汰の様子にて立去りたり。何の事かわけ分らず。近頃の世の中は何事にかぎらず常識にては解し難きこと多し。」
←わざわざ日記に記していることは、つまりは何らかの「ドラマ」を見ているということだろう。この時荷風は当時の上流階級として店にいる。こういう目の配りようが、私の荷風を好きなところ。

・5月23日。雲の往来おだやかならず南風烈し。
薄暮西銀座の栄湾に食して後表通を歩む。白鉢巻白襷黒紋附に袴をはきたる壮漢十四五名竹刀を打振り街上を練り行く。巡査も見ぬ振りして之を制せず。此夜また街頭にて悲憤慷慨の演舌をなすものあり。宛然幕末の光景なり。
←おそらく、政府の中国侵略の「弱腰」を叱る演説なのだろう。警察は、この類は見て見ぬふりをする。次の日に鶯が例年と違う鳴き方をするのに気がつき「思うに、乱世にありては可憐の小禽も雷鳴を恐れざるものか」と書く。これも昭和9年の光景。4-5月にかけてずっと「ひかげの花」執筆(6月5日脱稿)。

R08/03/28 晴 桜開花せり 遂にクーラーを贖う

・7月11日 午後より晴る。蔵書をさらす。
甘五日雇入れたる下女亭主持にて折々夜ひそかに亭主を引入れるのみならず、四五日御尼介になりたしと虫の好い事を申出でたり。多年召使ひたる者なれば事情によりては許しもすべけれど、まだ半月もたたぬに、のめのめと勝手な事を言出す心底測りがたく、気味悪くなりたれば、解雇す。
←当然だろう。私も気味悪い。

・7月12日 雨ふりつづきて俄に涼しくなりぬ
銀座の百貨店に巣食う「ダニ」が繁殖、店員全員が食われている「噂話」記す。米国産材木にいたという説。
←外来種問題としては、非常に早い時期の指摘ではないか?

・7月13日 雨降りては止む。華氏72、3度(←22、3度)の涼しさなり。
ロンドン万国博覧会の時購入した金時計を潰して金に換え売却を、知り合いの歯医者に依頼。結局132円(40万円?)になった。
←何処にも書いてないが、何処からか政府による金拠出の噂を聞きつけ先手を打ったと思われる。ブルジョワたちは、こんな風に自らの利益だけは確保したのだ(金の国勢調査は昭和14年である。5年も早い)。荷風は株は時々買うわ、こんな事をするわ、自らの財産にはかなり執着している。小説書きでは生活は成り立たないと思い定めているのは殊勝(実際にはそうでもないのだが)だが、金には執着している。悪くないと、私は思う。因みに「ひかげの花」の稿料は1310円(300万円?)だった。

・7月21日 陰。哺下細雨烟の如し。
「喫茶店テラスコロンバン店頭板囲にはりたる紙に「閉店させて頂きます云々」とあり。去年頃より工作という語大いに流行す」
←感想は述べてはないが、「語の乱れには困ったものだ」と思っているのは明らか。やがて「工作」は廃れたが、「させて頂きます」は、80数年後普通に使われているのを見たら、荷風先生はどう言うか。

・8月25日 くもりて俄に涼し
物集芳子という婦人から、「探偵小説を書いたので「序文」を下さい」と紹介書をもって訪ねてくる。荷風は仕方なく序文をその場で書いたようだ。内容は、正にそのまま「仕方なく書いた」事情をそのまま書いている。
←芳子はホントの小説家である(筆名大倉輝子)が、第一小説集には、日記に記した序文は載っていない。流石に藪蛇と思ったか。

・9月18日 終日雨止まず
「この頃銀座夜11時に至れば人通り稀になりてカフェーはいずこも客足途絶えがちなりといふ」
←8月から灯火禁制が敷かれた。

・9月21日。朝来大風雨襲ひ来る。風は正南より来るが如し。正午風勢尤強し。裏庭のプラタヌスー株倒れ屋根瓦四五枚落つ。三時頃より風勢次第に緩かになり六時頃に至り空晴れわたり夕腸・燗たり。既にして明月の昇るを見る。(略)関西地方風害最甚しと云ふ。大阪天王寺の塔、京都建仁寺本堂崩壊せしと云ふ。
←この台風、室戸台風だったらしい。関西地方では死者3千人。先に名古屋に行った際に、おそらく水に浸かったであろう所には、異様なくらいに基礎の高い家が多く連ねていた。爪痕は長い事関西の人たちを苦しめたのだろうと思った。

・10月17日。霧雨歌まず風また烈し。午後銀座尾張町新川洋服店の店員新調の外套を持来る(価金117円)。今日までの経験によれば冬の外套は七八年あまりも着られるなり。五年目位に裏返しをすれば前後を通じて十年間は着られるなるべし。此れを思へばこの度新調したる外套の破れて用をなさいるに至るは十年後にして余は六十六七の齢に達する時なり。病果して其年まで生存するや否や。
←これと全く同じ計算を、私は車に対して行っている。荷風の67,8歳で亡くなるだろうという予想は当たらなかったが、私は長生きしても、多分、次の買い替えが最後だろうと思っている(もう既に12年経ったがまだ乗る積り)。

・10月7日。くもりて風寒けれど雨にはならず。
「是夜銀座通のところどころに私服の刑事立するを見る。街娼を捕へむと欲するなるべし」
←軍靴近づく頃は、風紀の取り締まりもきつくなる。と、私は思っている。

・11月8日 立冬。快晴。
「謡曲蝉丸を歌うこと」禁止の報道を見て、そのうち時代浄瑠璃大半も禁止になるだろう。と書く。2日後には「日蓮宗より発刊された本」の発売禁止の報道を聴き「(1行抹消のあと)武断政治の弊害追々顕著となる、恐るべし恐るべし。」と書く。その後、中国の文章「書九厄」(焚書坑儒など、書物の大半が失われた歴史外観を書いた文章)を写している。26日、洋書の日本に関する本も禁止と書いて「思想上の鎖国はいよいよ実行せらる」と書く。
←この頃はまだ、(これでも)公然とした政府批判を書くまいとしている。もし書いたときは抹消している。一体「抹消部分」はなんと書いていたのだろう。

R08/03/29 桜花悉く開く

昭和十年
・正月5日。くもりて西北の風強し。
哺下渡辺春子来る。(略)春子といふ女年二十三四なるべし。十七八の頃
活動役者岡田利彦の情婦となり一時同居せし事あり。(略)
←このあと、日記をいいことに中々書くも憚れる房中秘事を書いている。また、岡田はその後の研究でどうやら女優岡田茉莉子の父らしい事が判明。その他の客には前田男爵(昭和8年10月の日乗にも記載)、日本画家伊東深水が居ることも暴露している(^^;)。日乗は昭和に全文が公開されたが、昭和では個人情報はあって無きが如し。

・正月25日 快晴。寒気甚しからず
美代子(←新しい恋人?)と寝ていると、頻りに電話あり。大石医師危篤。急ぎ行って小康を得る。大石医師は20年来の弟の同級生にして、荷風主治医。調薬を服することやはり20年。「悲しみに堪えざるなり」
←危篤で呼ばれるとは、単なる主治医や知り合いの関係から大きくずれている。病気以上の付き合いはなかったはずなのではあるが、昔の医師患者の付き合いは今とは違うのか?2日後、死亡。

・2月初3。前夜の微雨いつか雪となる。午後に至つて止む。
三越百貨店に入り目の丸の旗(竹竿付き円60銭)を購ふ。余大久保の家を売りてより今日に至るまでいかなる日にも旗を出せし事なく、また門松立てし事もなし。されど近年世のありさまを見るに〔此間約三字切取、約十字抹消〕祭日に旗出さぬ家には壮士来りて暴行をなす由、耳にする所なり。依つて万一の用意にとて旗を買ふことになせしなり。余はまた二十年来フロツコートを着たることなし。礼服を着用せざる可からざる処へは病と称して赴くことなかりしなり。余は慶応義塾教授の職を辞したる後は公人にあらず、世を捨てたる人なれば、礼服をきる必要はなきわけなり。されどこれも世の有様を見るに、わが思ふところとは全く反対なれば残念ながら世俗に従ふに若かずと思ひ、去月銀座の洋服店にてモーニングコートを新調せしめたり。代金九十余円なり。
←世捨て人荷風が、正月儀式なし、たびたび葬式を欠席していた理由がやっとわかった。また、旗を掲げるのは「壮士防止のため」仕方なく、ということ。反対に言えば、旗を掲げないだけでそういうことがあるのは初めて知った。昭和10年にして、なかなか住みにくい日本になっている。

・2月27日 陰
近年埋め立てられし市中の溝渠(←小川のことか)を28ヶ所も並べている。例えば御徒町忍川、根津藍染川、小石川竹島町人参川、本所区内南北の割下水等々。
←いずれも時代小説の重要な背景となっている川や堀やドブなどが無くなっているようだ。それを全て、ソラでこのように書き記すことのできる荷風も凄い。

・3月12日に平井程一(小泉八雲訳者)に出会って以降、急激に小泉八雲フランス訳や和訳全集などを読み始め、日本印象が自分に似ている事を書き記している。
←最初の頃は代表作ではないのに、直ぐにその日本論に同調するあたりは、読みの深さともに相性の良さがあったのだろう。私が昨年より今年にかけて小泉八雲を連続読んだのも、宜なるかなと思った。

・5月29日 曇りて蒸暑し。隣家の卯木花開く。
ある人の話として、講談社社長野間清治が取引先王子製紙副社長に芸者の裸踊りの如く裸踊りを強要し、副社長仕方なく裸踊りをしたと書く。
←現代でいうパワハラ。多分それを見ていた芸者の証言を聞いたのだと思う。野間清治は、いわゆる講談社を大出版社にした立役者である。当時も現代も尊敬される人物である。現代はこの一事のみを以て引退さされかねない。思えば、異常な時代なのかもしれない。戦中そうはならない事を知っているからこそ、密かに日記に書いて荷風は憂さを晴らしている。思えば可笑しな話。やっていることは全く同じでも、人の進退の理由になる時代とならない時代がある。荷風はこういう話を好む。

R08/03/30 爆暖黄砂街を覆う

・6月16日。晴。日暮銀座に往き不二あいすに食す。
英国外交官アーネストサトウの維新外交史は幕末維新の事を知らむとするもの必一読せざる可らざる良書なり。日本人の著述には見ること能はざる秘事多きのみならず、共観察飽くまで公平にして其の記事極めて率直なれば、読み行く中に時代の変遷するさま、さながら大河の岸に立ちて流れ行く水を見るが如き思ひをなさしむ。これ邦人の著書に就いては決して見ること能はざるものなり。維新の変革を記述したる邦人の著書には必悲憤嫌慨の文字多く挿入せられ、薩長志士の行動を無理無態に称揚し、これを英雄として崇拝せしめむとするに過ぎず。これに反して西洋人の文には偏狭なる道徳的判断少く、事実を其のまま忠実に記載する事を主となすを以て、読後の印象甚鮮明にして、感概も亦却て深刻なるものあるな
り。余は明治維新の史伝に就いて邦人の著したるものにては、岡千仭の尊攘紀事と、田口卯吉の日本開化小史とを以て最公平無私の良書となすなり。
←サトウ著書は「一外交官の見た明治維新」(英語版)、「尊攘紀事」(明治15年竜雲堂刊)は漢文でペリー来航から大政奉還まで描く。「日本開化小史」は岩波文庫で読める。サトウ著書は最も早い時期の的確な評価だと思う。

・6月19日 晴また陰。隣家の卯の花ひらく。溽暑昨の如し。
銀座通り新橋近く。山高帽モーニング姿で帝都美化普及会と書いた布をまき、箒と塵取り持って道路を掃除する男がいたそう。金銭強要なし。荷風は「現代流行の愛国狂なるべし」と評価。
←何となく判る。現代を非常時だと認識した庶民の中から「純粋に社会の潔癖を求める風潮」が台頭することは、現代これからの未来を予測しているかもしれない。

7月3日 晴。溽暑退かず静座するも油汗出るほどなり。
川本三郎「荷風の昭和(前編)」で紹介した通り、食品サンプル事始めを書いている。大阪で、昭和7年から始まった食堂の「革新」。これにより、婦女子も気軽に外食ができるようになった。
←この記述の前には、銀座食堂店先に池を作り鯉緋鯉を放ち通行人の足を止めている様を書いて「金魚屋の如し。現代人の趣味幼稚俗悪なることかくの如し」と貶している。おそらく食品サンプルを「イイね」と言っているのではなく、いわゆる「頑固ジジイ」の「何ちゃらちゃらしたことやってんのか」という気持ちだったのだろう。風俗の変化に敏なることは確かなのだけど、気持ちは基本保守主義なのである。

・10月23日。晴。
哺下のぶ子来訪す。昭和三四年頃まで多年銀座尾張町タイガアといふ酒楼にはたらきるたる女なり。三四年前より伊太利亜大使の婢女となり其邸内に住むなりと云ふ。夏は毎年鎌倉なる大使の別荘に行き乗馬のけいこをもなすとて、ハンドバツクの中より写真数葉を取出して見せたり。タイガの女給数百人の中玉の輿に乗りたるものはこの女と赤組の光子二人なるべし。のぶ子は紫組に属したり。一人は伊太利亜大使の婢、一人は白耳義公使館通訳官の婢となり。大分貯金もできたる様子なり。談話一時間あまりにて去る。
←「タイガー」はこの年秋に閉店したばかり。昭和は女給がいっとき大いに持て囃された時代ではあるが、其の栄華は永くは続いていない。有名店でも「玉の輿」に乗ったのは2人だけだというのが、荷風の見立てである。

・10月30日。晴。
この頃新聞紙上の論文に欧禍といふ新文字を見る。非常時の語は満洲事変の際〔此間三字抹消。以下行間補]軍人の(以上補〕造り出せしもの。この度は欧禍の話となる。〔以下六字抹消)
←「欧禍」は「非常時」ほどは流行らなかった。しかし、第二次世界大戦勃発は、正に「非常時」であり、それを醒めてみる荷風の姿は当時としては少数派だったろう。

・11月7日。晴。微邪。門を出でず。午後降灰あり。屋根瓦の上霜の如し。浅間山噴火のためなりと云ふ。天明のむかしは知らず東京の町に浅間の灰の降り積りしは余の生れてより一たびも見ざりしことなり。
←私も、江戸時代はまだしも、昭和の東京に「降灰」があったことを初めて知った。現代ならば、少し降灰しただけで、やれ機械が止まる等々大騒ぎだろう。しかし、ないことはないのである。

・11月14日 晴れて風静なり
この年創立の「日本ペンクラブ」(初代会長島崎藤村)から加入の誘いがあり、辞退の返書を送った。
←こんな年にペンクラブ創立とは知らなかった。荷風は当然辞退するだろう。現代、作家が公式に政治に発言する唯一の組織になっているのは皮肉というべきか。

※昭和10年は直木賞芥川賞の始まった年ではあるが、菊池寛を嫌悪する荷風の日記からは、芥川のあの字も出てこない。世の文壇から大きく距離をとりながら、戦争前夜の東京を、荷風はこの年も闊歩していた。

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2026年04月12日

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 荷風五十五歳から五十七歳まで、昭和八年から十年までの日記。枯れていない。とことん女好きである。昭和十年十二月廿七日、前月に新聞広告を出して雇ったばかりの三十歳前後の家政婦羽生政江を「下女政江を捕へて倶に入浴す」(p374)。五十七歳の荷風の性欲恐るべし。文壇や出版業界の一部に対して牙をむく姿勢も相変わらずで、昭和十年八月十七日には長年の知り合いであった生田葵山と銀座のきゆうぺるで「激論二三時間に及び余は兎に角葵山氏とは以後友人関係を断つ可きことを声明」(pp320-321)するし、同年十一月十四日には島崎藤村名義で勧誘されたペンクラブへの加入を断ってしまう(p360)。全九巻のうちの折り返し地点である第五巻は二〇二六年前半刊行予定とオビにある。ここまできたら最後まで付き合おうと思う。

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2026年01月01日

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