あらすじ
大正六年から昭和三十四年,逝去の前日まで四十一年間,書き継がれた荷風の日記.明治・大正・昭和三代にわたる文豪の畢生の代表作にして近代文学の至宝.詩趣溢れる,鋭利な批評を込めた日本語で綴られる.全文を収載,注解,解説,索引を付した初の文庫版.第一巻は,大正六年から同十四年までを収録.(全九冊)※この電子書籍は「固定レイアウト型」で作成されており,タブレットなど大きなディスプレイを備えた端末で読むことに適しています.また,文字だけを拡大すること,文字列のハイライト,検索,辞書の参照,引用などの機能は使用できません.
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Posted by ブクログ
以下は「断腸亭日乗」マイ読書日記なり。
R06/07/26、炎天。車中温度37度を超える。
荷風の断腸亭日記を紐解く。全9巻の岩波文庫化は初めての由。1巻目は大正6(1917)年39歳より、大正14(1925)年迄。手許にあることに意義を感じ買い求めしが、ざっと読むことを自らに課す。校注は豊富な人名紹介あり。疑問に答えて秀逸。
難漢字多し。努力したが、書き写さなかったのは◯とせし。
大正7年日記については、既にレビュー済み。8月の米騒動勃発から、友人来りて3日間「時事を談じて世間を痛罵」している。何を語ったのか。
R06/07/27、酷暑。朝、室温31度より下がらず。
大正7年11月21日、第一次世界大戦終結の祝日の日、日比谷公園外で労働者のデモに遭遇。
12月26日浅草観音堂にて大吉を引き当て「喜び限りなし」
大正8年正月元旦、9時に目覚めて床の内にて一椀のショコラ(ココア?)を啜り、クロワッサンを齧る。3日にやっと墓参り。
←年末年始、この当時はお節、初詣という習慣はなかったのか。
1月29日、電話を初めて購入。独身生活には必要だったらしい。
2月27日、2代目市川猿之助(1888-1963)がふらっとやってくる仲。現猿之助の先先代。
4月6日、世情は騒がしいが、思えば幕末乱世の際に浮世絵師戯作者輩は兵馬騒然としながら、平然と自分の仕事をしていた。すべからく、倣うべき。という意味のことを書いている。
5月25日、新聞紙連日支那人排日運動の事報ず。要するにわが政府薩長人武断政治の致す所なり。国家主義の弊害、国威を失墜せしめ遂に邦家を危うくするに至らずむば幸なり。
←中国の五・四運動の事。荷風の面目躍如。
7月28日、(有楽座の)帰途驟雨、涼風炎暑を洗去る。←羨ましい。
R06/07/28、炎熱甚だし。車中温度44度、熱で愛車のブレーキストッパ破損。危なかった(@-@;)
大正9年5月23日。この日麻布に移居す。母上下女1人をつれ手伝いに来らる。麻布新築の家ペンキ塗にて一見事務所の如し。名づけて偏奇館といふ。←昭和20年の空襲で焼け落ちる迄、25年間荷風はここ(麻布区市兵衛町1-6)に住んだ。その年に「偏奇館漫録」を著す程に荷風はこの家を愛した。
12月晦日。早朝より雪降る。除夜の鐘鳴る頃雪やみて益々寒し。キュイラツソオひと瓶傾けて臥休に入る。
大正10年正月2日。雨やまず門前年賀の客なく静間喜ぶべし。夜風あり。
←この頃の正月の風景は年始詣りよりも年賀参りにあったようだ。
11月5日、(原敬首相暗殺の報を受けて)余政治に興味なきを以て1大臣の生死は牛馬の死を見るに異ならず。何らの感動をも催さず。人を殺すものは悪人なり。殺さるるものは不用意なり。
←荷風は政治に関心がないのではない。興味を持たないようにしていたのである。
←この日、逢引時にこの報を受け、百合子は偏奇館に泊まっている。暫くは都会女たる田村百合子(9月3日からの付き合い)が恋人だったようだ。百合子は、芸妓ではなく、稽古事に興味があるモダンガールだったようだ。いったい何の思惑で荷風と付き合ったのだろうか?決してハンサムではない。荷風歳も44歳で老年に入りかけ。教養は抜群で、金回りは良い。しかし、偏屈で、暫く付き合えば結婚の意思はない事は明らかだったろうに。でも結婚できると思って付き合ったのだろうか。何処かに研究書があるだろうか?←次年初めに百合子と会う記事があった以降、記事無し。別れたか。大正12年1月の「台湾喫茶店女給仕人百合子」とは誰か。この日色々付き合って8円の出費とつらつら書く。愛情醒めて面倒な女と思っていたのかもしれない。
R06/07/29、炎暑甚だし。
大正11年3月。芥川龍之介と知り合いになるが由。
7月8日、森鴎外の病状を見舞いに団子坂に赴く。
7月9日、早朝より団子坂の邸に往く。森先生は午前7時頃遂に纊(わた)を属せらる(←亡くなった)。悲しい哉。
←その後11日通夜、12日葬儀、16日森遺族と上野精養軒で食事している。8月には墓造営の記事あり。ここまで、人の死について長く詳しく記した事はない。森家にここまで食い込んでいる作家は居なかったのではないか。
11月2日、風月堂にて森鴎外全集の編集会議。その意に同意しかねる所あれども、未亡人の速やかな刊行の意を聴き「余は沈黙して諸家の為すがままに任ずるのみ」。
大正12年5月17日、曇りて寒し。夜森先生の渋江抽斎伝を読み覚えず深更に至る。先生の文この伝記に至り更に一新機軸を出せるものの如し。叙事細密、気魄雄動なるのみに非ず、文致高達蒼古にして一字一句含蓄の味あり。言文一致の文体もここに至って品致自ら具備し、始めて古文と頡頏(←拮抗)することを得べし。
←初めての荷風の渋江抽斎評。最初から絶賛である。言文一致文体の進化系として見ていたとは意外。一方伊藤蘭軒伝については淡白な記事しかない。
5月24日、両3年来神経衰弱症暫時昂進の傾あり。本年に至り読書創作意の如くならず。夜々眠り得ず。
5月25日、昨夜大石君調剤の催眠薬を服用して枕につきしが更に効験なし。
←多分ちょっとした気の病だったのではないか?
6月4日、昨夜より今朝にかけて地震ふこと五、六回なり。
←この頃より地震の記事多くなる。関東大震災の予兆とはこんなにあったのだったら、南海地震の予兆はまだまだということなのかもしれない。反対に言えば、3ヶ月前に1日に5-6回地震があれば2-3ヶ月後に大地震が来ると思った方がいいのかもしれない。
R06/07/30、いよいよ暑し。早朝スマホがブラックアウト。
大正12年9月朔。雨やみしが風猶烈し。空折々かき曇りて細雨烟の来るが如し。日まさに午ならむとする時天地たちまち鳴動す。予書架の下に座し◯◯館遺草を読みいたりしが、架上の書◯頭上に落ち来るに驚き、立って扉を開く。門外塵烟濛々殆ど咫尺(しせき)を弁せず。児女鶏犬の声頻なり。‥‥
←いうまでもなく、関東大震災である。偏奇館は丘の上にあったためか大した被害もなく、火の手も迫らず、荷風は昼食と夕食は近所の山形ホテルでとる。「愛宕山に登り市中の火を観望す。十時過ぎ江戸見阪を上り家に帰らむとするに、赤坂溜池の火は既に葵橋におよべり」と、比較的他人事である。客観的というべきか。この時、「下町」では、阿鼻叫喚の地獄があった事は言うまでもない。
R06/07/31、愈々危険な暑さ。室温1週間続けて一昼夜31度下がらず、加えて柔道とサッカーで寝不足。
大正12年9月3日。微雨。白昼処処に放火するものありとて人心恟恟たり。各戸人を出し交代して警備をなす。
←荷風は未曾有の災害に際し巷の人々を心配する気持ちは更々無い。徹底して個人主義なのである。友人の心配はする、知人を偏奇館に泊める、母上を4日訪ねているぐらい。勿論、「民間警備」にも疑問も何もない。焼け出された「美人」の今村令嬢と17日になって浴場に行き嬉々としている。下心を隠さず。すけべ親爺なのである。このお栄さん(25歳)とは、暫く付き合ったみたい。(10.27偏奇館を去るが、度々逢う)
10月3日、江戸見阪の坂上に上り焦土となった帝都を眺める。されど、荷風は考える。「(明治以降、帝都は)山師の玄関に異ならず」「自業自得天罰覿面(てきめん)といふべきのみ」
←主に焼け出されたのは罪ない庶民なのだが、荷風はそこまで考えない。
大正13年10月29日、この日「酒井晴次氏来談。お栄の事につきてなり」とある。
←この年6月ごろまでは頻繁に逢引きせし恋人であったが、いつのまにか日記に登場せず。11月11日、多病にて養生するため田舎に帰りたいと申出あり。約1年の交情であった。
←先の百合子といい、お栄といい、荷風の恋人は暫くすると離れてゆく。荷風が振るのか?いや、それはあるまい。おそらく荷風は八重次と離婚以降独身主義で貫くことを信条にしており、相手は当然それは翻意出来ないと気がつくからだろう。
11月16日、皇太子襲撃事件の難波大助死刑の報に接し荷風は「さして悪むにも及ばず、又驚くにも当たらざるべし」という。
12月29日、午前中執筆、日課の如し。曇りたれども温暖春の如し。午後川崎の大師堂に賽し、裏門より野径を歩み、細流に沿て塩浜の海辺に出ず。沖の方より海苔をつみたる小舟列をなして帰り来たり。
←東京の電車は中々優秀で、午後に麻布からふらっと川崎大師までお参りしても、そのまま海岸沿いに散歩できたようだ。海苔の舟や海苔の干したる様、ひな鶯を養い卵を売るもの、盆梅を栽培している様などを見物している。即ち大正帝都の年末風景なり。
R06/08/01、猛暑益々続く。雨一滴も降らず。
大正14年、荷風47歳。正月元旦。快晴の空午後に至りて曇る。風なく暖なり。年賀の客は1人も来らず。午下雑司谷墓参。
←47歳だが、既に気持ちは前期高齢者ぐらいの気持ちと思われる。
4月11日、風梢暖なり。桜花忽開く。
←現在より開花時期が20日以上遅い。
7月9日、木曜会という作家仲間の会合で、荷風は「文士山本有三」が自著の映画化に際し内容変えたとして映画興行を差し止め、遂に松竹から3千円の賠償金を得た、との噂聞く。「近時文士の悪風恐るべし」「ゆすりがましき所業」
←ホントか?山本有三良くやった!というのは現代の価値観。
8月朔。午後遠雷の響歇(や)まず。雨を待ちしが来らず。
←99年前の東京の8月1日の天気である。日乗によれば、7月16日ごろ梅雨が明けた模様。その後、炎暑甚だし時もあるが、間に涼しい日もある。3日などは「風涼しきこと彼岸頃の天気の如し」という。昔の夏は「涼し」かったのである。また、この年は9月中頃まで残暑に苦しむが21日にはすっかり彼岸好天になり秋になっている。羨ましい。
9月23日、午前春陽堂主人和田氏来訪。文士菊池寛和田氏を介して予に面会を求むといふ。菊池は性質野卑奸◯、交を訂すべき人物にあらず。
←菊池寛が断腸亭日乗に初めて登場する記述である。菊池は「文藝春秋」に荷風の文を掲載したいという旨を言ってきただけであるが、荷風がここまで嫌うのは珍しい。10月にも菊池を「悪むべきは菊池寛の如き売文専業の徒」と書いている。どうやら昔歌舞伎座、帝国劇場相手に「ゆすり」まがいのことをしたのを嫌ったらしい。ことの真実は何処かに研究書があるはず。
11月27日、6月頃から知り合いになった「お浪」という私娼窟の女(28歳)の十数年に渡る身の上話を紹介。当然荷風もお浪を買っている。「お浪は世に珍しき淫婦にてありながら、田舎に育ちし故か性質善良にて、愚鈍ならず。(略)造化の戯れとも言ふべきにや」
←この頃、1日の日記分量が多くなっている。日記を小説の糧にしようとする心つもりではないか。
12月21日、この秋、荷風はプルーストの「失われた時を求めて」(おそらく6巻迄)を、ずっと仏文のまま読んでいる。その感想「長編小説を読む中、いつしか華胥に遊べり。既にして隣家読経の声に夢寝るや、空晴れわたり、窗(←窓)前の喬木に弦月懸りて、暮霞蒼然、崖下の街を覆いたり。英泉が藍摺の版画を見るが如し」
←よくわからないけど、荷風はプルーストの本質を掴んでいる気がする。
12月22日、慶應義塾旧友井川君の訃報を知る。
←1924年久米秀治。1923年には中学以来の親友井上唖々子を亡くしている。もはや自覚的にはいつ死んでもおかしくはないと荷風は思っている。
12月31日、桜川町の馴染みの「女」と銀座で飲んで、偏奇館に一緒に帰り、除夜の鐘が聞こえた後に帰している(当然寝たのだろう)。
←「淫蕩◯惰の日々」を「心中慚愧に堪えざる」と一応反省している。しかし、真には悔悛してはない。おそらく「これがわたしなのだ」と自分で自分を肯定しているのがありありと見て取れる。
断腸亭日乗は、荷風、助平で自己中だが、近代日本に屹立する知性と自由人たる男を浮き彫りにしている。かつて岩波文庫で「摘録」(全2巻)が出たが、こちらの方がよほど面白い。