永井荷風による昭和11年に執筆された小説。私にはこれは玉ノ井についての最も叙情的な叙事詩のように思われた。
この小説の特徴は、東京・玉ノ井の叙情的な描写と私小説が入れ子になったような物語構造にある。
だが私には主人公大江とお雪の慕情がどうしても重要なものと思えなかった。
小説家大江匡と玉ノ井の娼
...続きを読む婦お雪との仄かな慕情が東京の開発から取り残された玉ノ井の一角で展開される。
同時に大江の執筆する小説「失踪」の中でも教師橋本は同じ玉ノ井の街で娼婦すみ子と情を交わす。
さらに読者である私たちは永井荷風が玉ノ井一角を愛し、度々訪れたことを知っている。
この3つの世界が折り重なった時に小説の中に描かれた玉ノ井の季節の空気が匂ってくる風景描写はは一挙に現実のものとして立ち上がり、その中で展開される物語は夢現の間を漂っているように感じられる。
大江は作中でお雪との邂逅に昭和時代には失われた江戸・明治の名残を見出している。永井荷風も玉ノ井の私娼都の逢瀬は同じ心象を抱いていたようである。
彼らにとってこの物語空間で起こった出来事というのは、半ば時間を遡行した非現実の空間で体験した出来事であったのだろう。
お雪と大江の関係は玉ノ井の描写の中に紛れた、回顧のための1つの装置のようにさえ感じられる。
ここで彼らの相似形である橋本の物語「失踪」と「墨東綺譚」の対比を考えてみる。
橋本がすみ子の今後の生活にコミットメントする(第8章)一方で、大江はお雪との将来の具体を柔らかく拒絶し徐々にフェードアウトする。
橋本に用意された結末は破滅的であることが大江の口から述べられているが、大江の将来は葉鶏頭とともに1人朽ちるように思われる。
橋本・大江・執筆当時の永井は皆近い年齢である。この二人の対比はおそらく永井の中にありえた運命のバラエティであったのだろう。
永井荷風のなかでは失われていく東京の残滓とともに自分がどうなるのか、そのことを見定めるための作品のようにも思えるのである。
また、岩波文庫版には連載当時の挿絵であった木村荘八の版画がところどころに散りばめられていて、これもこの作品の持つ回顧の思いを強くしている。